「ええと、土地の名前は長沙とかいうところでしたかな。そこに姓や年齢はもう忘れてしまいましたが、章蘭という名の娘がいました」
「どんな娘だったのですか?」
子柳先生はまあまあというように私を押しとどめると、
「ええ、とにかく美人でしたな。目鼻立ちが整っていて、それで流れる髪の美しさとその洗練された立ち居振る舞いは誰もが見惚れてしまいましたよ。もちろん私だって例外じゃあなかったんです。
これが現代だったら第弐の楊貴妃とかで大いに国を傾けたりするんでしょうがね。残念ながらこれは遥かに昔のお話でして」
「見惚れてしまったとは、見たことがおありで?」
「始めにそういったじゃありませんか」
私は不審の目でこの老人を見やった。現代は契丹の耶律隆緒帝の代だから、逆算するともう五百年もの昔になる。
不可解な点が露出したところで、私はここで一つこの子柳先生なる人物について記述をしなくてはなるまい。
子柳先生は燕京郊外の基宣という村に住む老いた道者で、人々から「虚飾隠者」の異名を冠せられたあまりありがたくない仙人さまだった。いつから生きていたのか解らない定評はあったが、まあ見たところ八十位の、どこでも見られる隠者である。
私としては本来ならこのような人間とはあまり顔を会わせたくないのであるが、何分にも古談収拾を生業とする身であるので、わざわざ臨興の都から子柳先生の話を拝聴するためこの地を訪ねてきたのである。
子柳先生は大梁の生まれで鬼谷で学んだ思想家の一人と自称していたがその真偽はここではどうでもよいことである。それも嘘であるかもしれぬし、本当であるかもしれぬが、話の筋においてはなんの役割ももたらさぬであろう。
その外見の特徴を述べるとすれば、眉毛は白鷺のように覆い下がり、目までも隠して、眠っているか起きているかを解らせない、つまりは異様な風体であった。身体には道士の衣をまとい、白髪一面に染まった頭には巾を被っている。
「いや、詮索はそのくらいにしておきなさい。それよりこの話をすすめようじゃありませんか」
子柳先生の言葉で私は竹管と筆を持ち直した。
「で、その章蘭という娘ですがね、これがひどく気だてがよい娘で、人がなにかしてほしいと思うと、さっとそれをやってのけてしまう。というわけで評判がとても良かったんですな。
美人で、気だてが良くて。これでこの娘を放って置く男が居たら、そいつは衆道に片足を突っ込んでいるようなものです」
「はあ」
「ところがこの娘、人の評判をやたら気にする質でしてね。自分が誰からもよく思われなければならないと思い込んでいたんですよ。
なにしろ道端の子どもが『章蘭さんの右の眉がちょっと歪んでいた』なんて言うと、もうそれだけで家へ飛んで帰っていつまでも眉いじりをしているくらいですからな。まあ、ちょうど貴方がたが詩なんてものを書き直すくらいにとにかくいじり回すという次第なんですよ」
「それは奇特な」
「そんなものですめばいいんですが、とにかく四六時の間に人の目を気にしていてしょうがない。そんな生活を何年もしているのだから本人もまいってきましてね。だんだんやせ衰えて病気にもなってしまった」
「それで死んだんですか」
「それでは奇談にもなんにもなりません。
まあ、それで暫く寝込んでいたんですが、その時に知り合いの医者からこんなことを聞いたそうです。医者が言うには『人があなたのことを悪く言うのはあなたに[良くない]部分があるからだ』と。
それで章蘭は自分の悪い部分を取り除こうとしたんですよ。それも、全ての悪い部分をね」
「そんなこと不可能に決まってますよ」
私がそう言うと、子柳先生はこっちの方をちょっと睨んでから視線を上げてまた口を開いた。
「ところが章蘭はそう思わなかったから始末が悪いんですよ。
それで彼女は自分から悪い部分を取り除こうとして必死に努力をしたんです。
その努力とは、煙で自分をいぶして悪い部分を追い出してみようともしたし、若い娘が恥を忍んで、家の天井から逆さ吊りになってみもしたんです。まったく涙ぐましい行動ですよ。そこまでして全ての人からよく思われようとしたんですな」
「それはその通りで。しかし、そんなことで悪いところを追い出す事なんて出来るわけありませんね」
「もちろん、と言いたいところですが、昔の人間は今よりずっと迷信深かったものでしてね。こんなことでも十分効果が期待できると思っていたんですよ。
しかし残念ながら効果はまったくなかったんです」
「それはそうでしょうね」
「それで章蘭はがっかりしてまた寝ついてしまったのです。その時の病はひどくて、どの医者も直せなかったんですな。これで出来ると一途に思い込んでいたものが打ち砕かれたのだから衝撃も並じゃぁなかったのですよ。もうそれで起きあがれなくなってしまいましてね。食物さえもロクに受け付けようとしない。
それで衰弱は日増しに激しくなる。だが、段々と弱っていく章蘭を誰もどうすることも出来ませんでした。
そんなときに章蘭の家の前に仙人が立ったのですよ」
「まさか貴方じゃないでしょうね」
私の冗談に子柳先生は一言も応えずに話を先に進めた。
「それでその仙人が章蘭の枕元に立って言うには『お前が悪い所を追い出せないのはその悪い部分がお前という人間に付着して融和してしまっているからだ。それを追い出すにはお前という人間を二人に切り放さなければならぬ』と言うんです。これが実にもっともらしく聞こえまして、章蘭はその仙人に自分を二つにわける方法を聞いたのです」
「そんなことが出来るのですか」
「まあ、出来るということにしておきなさい。どうも貴方がた学者という人たちは不条理なことに出逢うとなんでも頭から否定してしまうのでいけない。いや、これは失礼。
そうすると、その仙人は自分の所で一年修行すればいいという」
「で、章蘭とやらは出かけたんですか」
「そりゃそうですよ。これがほとんど最後の望みみたいなものでしたからね。そして、これなら出来ると思い込んだ途端に章蘭の病はすっかりよくなってしまいました。それで数日後には章蘭はその仙人のところに出かけて行ったんです」
子柳先生は思い出すように言葉を一度切り、暫く指で数えてからまた話し始めた。
「その仙人の元で章蘭は修行をつむことになったのです。
貴方もご存知だと思うのですが、そういった仙人のほとんどは偽物でして、修行という名目にかこつけて弟子にいろいろな難題を押しつけたりするんですな。あと、自分の身の回りの雑用とかもさせるのです。いや、これはどの時代もおなじようなんですが、まあ、とにかくその仙人も散々に章蘭を使い使ってしまったんです。
章蘭の方といえば、いくら辛くてもこの修行に耐えきれれば、自分の悪いところが融解して分離できると吹き込まれているのですから始末が悪い。とにかく自分可愛さのためで、それでもって一心不乱に雑用、まあ水汲みとか薪割りなどが主なのですが、中には夜の伽までさせる堕落した仙人もいたようですが、まあ、章蘭はそんなことはなく耐えきって無事に一年を過ごしたというわけなんです。
この間に何が起こったかはただ無意味に時間を喰うだけですから別に言わなくていいでしょうね。それでなにはともあれ章蘭がその望みを叶えてもらえる日がやってきた」
「それで叶えてもらえたんですか」
「そうでなくては私としても話を語る楽しみがありません。まあ、その晩に仙人が章蘭を呼んで言うんです。『よくこの一年を耐えた。よって私はお前の望みを叶えてやろう』そう言って一つの壷を取り出したんです。それで言うには『ここまでくればこの壷の中にお前の悪い部分を封じ込めるのは簡単だ。それをするのも拒むのもお前の自由だ。ただ、これが最後のチャンスだがな』と言うんです。仙人は、実は警告していたんですね」
「警告ですか?」
「警告ですよ。しかし章蘭にはその意味が解らなかった。それでとにかくその壷の中に悪いところを封じ込めてくれと言ったんです。
すると仙人はなにやら緑色の薬を出してきてこれを飲めというんです。
そして章蘭がその薬を飲むとなにやら気分が悪くなってその場に倒れ込んでしまった。
するとその身体が二つに分かれだして、そっくり、同じ形の章蘭が二人できたんです。
と、仙人はそのうちの一人を素早く捕まえると壷の中に放り込んでガッチリフタをしてしまったのです。
それで章蘭は悪いところ一つない綺麗な人形になったんです」
「人形?」
「ええ。まあ、その意味は順を追って話しましょう。そして暫くして章蘭は起き上がったんです。起き上がって気が付いてみるとなにかむやみに身体が軽くなっている。それで章蘭は自分から悪い部分が抜け落ちたことを知って、仙人に礼を言って村へと帰ったと言うわけです。
まあ、こんなところですか」
「いやいや、これだけで終わりませんよ。まだ続きがあるんですよ。まあ、少しお休みになってから続きを聞かれた方がいいですかな?」
私は待たされるのも待つのもこの場では好まなかったのでそれを婉曲に断った。すると子柳先生は再び語り始めたのである。
「章蘭はそれで村に戻ったと言う訳なんですが、するとなぜか誰も自分に関心を持ってくれないんです。ええ、確かに悪く言う者は一人も居なくなりました。しかし良く言う者も一人残らず消えてしまったんです。
いや、それどころか、彼女の家族さえも彼女を相手にしないんです。無視と言うよりも、まるでそこにいないかの様に振る舞うんですよ。まあ、当然の事なのですが」
「はあ?なぜです」
「当たり前じゃないですか。人間というのはですね、良い部分と悪い部分を両方持っていて始めて人間になるんですよ。
ところが章蘭はその一方を自分の所から永久に消し去ってしまったんですね。つまりは人間でなくなってしまった。だから誰も彼女の存在を感じなくなってしまったんです。
そして無視されているだけでなく、今度は章蘭はすさまじい勢いで歳を取りはじめたんです。これも当然の事なんです。悪い部分が持っていた人間としての寿命も封印したものだから、寿命も半分に減ってしまったのです」
そこで子柳先生は私の後ろの棚に目をやって、
「それで日々が経っていくと、とうとう彼女はなにも考えられなくなって、人形のようになって行きはじめてしまいました。そうなってしまっても、誰も彼女を顧みず、悪くも言われず、良くも言われず、完璧に無視され続けていた訳です。そしてとうとう完全な白痴になってしまったんです。ただ息をしているだけの人形、肉の塊というものです。しかし、そうなっても誰もが相手にしなかった」
「……」
「村の人たちが特別に冷たかったとかいうわけではないんです。ただ、彼らには人間としての章蘭が見えていなかった。そして人間としての彼女の声も聞こえなかったし、彼女が誰かにさわっても、それさえ感じられなかった。当たり前です。彼女は半分の人間に成り下がっていたんですから」
子柳先生は私に諭すように言い続けた。
「人間は悪い面も持ち、良い面も持っているんです。それをまとめたのが人間としての価値なんです。
しかし彼女はそれを捨ててしまったんです。だから誰にも相手にされず、人間としての考えや意識も失ってしまったんです」
「それで、その章蘭という人はどうなりました?」
「ええ、良い所の部分は山を降りてから二年位で死んでしまいました。それですがね、その死体が腐って骨だけになっても、誰も見向きをしなかったそうですよ」
「そうですか。いや、珍しい話をどうもありがとうございました」
一語一語を一抱えもある竹管にしっかりと刻んでから私はそそくさと立ち上がった。たいへん珍しい話を聞いた。これ以上留まるのは無意味だし留まりたくもない。
「おや、もう帰られますかな。それでは、何もないが土産でも進呈しましょう」
子柳先生は私が座っていた場所の後ろにあった棚から一つの壷を降ろして私の目の前に置いた。壷の口には硬い封が施されている。
先生が封を切ると煙とともに一人の美しい女が飛び出してくる。着ているのは南北朝時代の服装。そして白痴のような濁った目つき
………章蘭………
「これが章蘭の悪い部分でしてね。この通りきちんと保存してあるんで、五百年たっても綺麗な人形のままです。処理がしてあるんで老いもしませんし、なにをやっても反応しません。いい飾りになりますよ。どうです、ひとつ話のタネに連れて帰っては?」
「い、いえ。結構です」
私はあわてて逃げ出した。
(完)