
唐の宣宗陛下の太和年間のお話でございます。その頃、唐は各地に戦乱が起こり、たいへん世の中は乱れておりまし
た。
三代の乱れの後、ようやく宣宗陛下が御即位なされました。もう四十にも近いお方で、御分別も十分わきまえられた
大人の大君でしいらっしゃいました。俗に小太宗とも呼ばれる陛下でございます。
さて、その時代の陛下の宮廷に、李徳裕殿という宰相様がございまして、切れ者という評判をとっておりました。首席
の大臣の位だけでなく、この人は刑部尚書をも兼ねていまして、天下の法令を一手に引き受ける身分なのでした。
李徳裕殿はたいへんな秀才で、またたいへん良い家柄の人でした。父、祖父が両方とも宰相にまでなっており、その
政治的な基盤を受け継いだこの人の名声は確固たるものがあったのです。
この人がどれほどの才覚を発揮したかといいますと、刑部尚書に着任してまもなくのことですが、長安に郭純という評
判の孝子がおりました。この男は毎日死んだ両親の墓に詣ってその前で泣くのですが、その度に都中の鳥が彼の頭上
に集まってくるのでした。
このことを伝え聞いた宮中では、郭純を召し抱えようとしました。宣宗陛下は人材を広く求めていらっしゃいましたの
で、そのような奇異の男でも欲しく思し召したのでしょう。
しかし、この登用に李徳裕殿は難色を示したのです。その男にはなにか裏があると彼は思いました。そして郭純のこ
とを詳しく調べました。
その結果、郭純の行いはまったくまやかしであることがわかりました。この男は自分が泣き声を上げているときに、い
つも庭に鳥の餌をまいていたのです。
何度もそのようなことが繰り返されているうちに鳥は郭純の泣き声が聞こえると、餌が貰えるものだと思い込んでしま
ったのです。これが孝子の正体でしたので、お上を謀った罪として、郭純は死刑に処されました。人々はさすがと李徳
裕殿のことを褒めたたえました。しかし、得ようとした人材を手に入れられなかった宣宗陛下はご不満の様子でしたが。
さて、その少し後のことです。刑部というのは一つの省庁ですので、そこは役所として多くの人々を抱えております。そ
の刑部の下級役人に丁義という人がおりまして、捕吏の長のような役割を受け持っておりました。この人のところにあ
る訴えが持ち込まれてきたのです。それは長安の富豪の柳氏某で、兄嫁が家奴と共謀して夫を謀殺したとの訴えでし
た。
丁義はもちろん役目であるのでそれを詳しく調べました。色々と関係のある人々に聞くに当たると、どうやらその訴え
は本当らしいのでした。兄嫁という女は随分前からその家の奴隷と密通していたらしく、そのことを夫は知っていたふし
がありました。
動機がはっきりしたのですから後は証拠です。丁義は大勢の人を引き連れて柳氏の墓を暴きました。そして死体を掘
り出してじっくりと検分を行ないました。
しかし、確証を掴むことはできませんでした。死体には何の傷も見当らず、さりとて医者にみせても、毒殺したという雰
囲気は見当らないというのです。
丁義はすっかり困ってしまいました。柳氏の兄が殺されたらしいというのは確かですが、なにしろ証拠がないのでどう
しようもありません。彼は真面目でしたが、たいして賢くない男なので、その謎を掴む事ができませんでした。
彼は日々を煩悶して暮らしました。訴えの内容は確かなので、ここで証拠を見付けることができないのは自分の無能
を証明しているようなものでした。彼は悩みました。しかし何の方策も見つかりませんでした。心労のあまり、彼はだん
だんと痩せ細ってきてしまいました。
ところで、この丁義には年上の妻がおりまして、賢夫人として知られておりました。それほど美しい人でもなく、歳ももう
三十路を幾つか越えていたのですが、貞淑で夫思いの良い妻として皆に評判がよかったのです。
妻には夫が苦しんでいるのが分かりました。とうとう彼女は夫のことを見かねて、差し出がましいとは思いながら、夫
に訊ねたのです。
「何を貴方はそんなに苦しんでいらっしゃるのですか」
丁義はこうなってはと藁をもすがる思いで妻に話しました。夫人は暫らく慎重に考えておりましたが、やがて口を開き
ました。
「では、死骸の脳天を改めてご覧なさい。釘が打ち込んであるやもしれません」
なるほど、と丁義は思いました。そして妻の言うとおりに死体の脳天を改めてみると、確かに太い釘が打ち込んである
のでした。そしてその上から墨を塗って分からないようにしてあるのです。これが殺された動かぬ証拠となりました。
丁義はようやく証拠を掴み、柳氏の兄嫁を訴えました。こうして丁義はその任務を全うしたのです。
ところが、それもつかの間でした。今度もまた、似たような事件が持ち込まれてきました。都の張某という商人が、妻
によって殺されたらしいというのがその内容でした。
またもや殺された証拠が見つからないというので、丁義が駆り出されたのです。やはり死体には毒殺の後も危害を加
えられたような後も見当りませんでした。
「では、脳天を改めよ」
丁義は自信満々で捕吏の役人達に命令しました。しかし、死体の脳天からは何も見当りませんでした。丁義はまたす
っかり困ってしまいました。賢くなく、愚直なだけが取り柄の彼が悩む日々がまた続きました。
「今度はどうしたというのです」
また、妻が彼の様子を不審に思って訊ねました。丁義は包み隠さずに正直に話しました。死体の脳天に釘が見つか
らなかったことも全て語りました。
夫人はまた。しばらく考えておりました。そしてようやく思いついたように口を開きました。
「耳の穴を調べてごらんなさい」
丁義は言われた通りにするしかありませんでした。しかし彼が妻の言葉どおり、死体の耳の穴を改めると、そこには
一本の細く長い針が脳中へ向かって突き刺してあったのです。
丁義は今度もなんとか面目を果たして事件を解決しました。彼は妻の頭のよさにただ感心するばかりでした。役所の
同僚たちも皆彼の妻のことを誉めました。
そうこうしているうちに、また事件が起こりました。都の下吏が妻に殺されたらしいとのことでした。
「今度は間違えないぞ。お前に色々教えてもらったからな」
今度こそはと思って丁義は出掛けました。やはり今度の死体も傷一つありませんでした。
「では、頭だ」
丁義は先例に倣って死体の脳天を詳しく調べました。ですが、何の異常も見当りませんでした。
「なら、耳だ」
彼は必死になって死体の耳の穴も改めてみました。こっちの方にもおかしなところはみあたりませんでした。
今度こそ駄目だと丁義は思いましたが、駄目ならどうとでもなれと考え、妻にまた相談しました。夫人は深い憂慮の表
情を浮かべておりましたが、ついに思いついたらしく口を開きました。
「では、目です。目に針を差し込んで奥まで通せば後は目蓋が隠してくれるでしょう」
丁義は妻の言葉どおりにしました。するとその通りで、目から脳にかけて針がさしこんであり、閉じた死体の目蓋がそ
れを巧みに隠しているのでした。
こうして丁義は三つの手柄をたてました。彼は人々に自分の妻の話をしました。そして人々は丁義の妻の知恵に驚
き、感慨の態度を明らかにしました。この話は回り回って、刑部の宰相である李徳裕殿の所まで届きました。
「丁義の妻が賢夫人だと?」
その話を聞いたとき、李徳裕殿は少し顔をしかめられました。そして暫らく考えているようすでしたが、やがて顔をあ
げると丁義を呼び付けました。すぐに丁義は呼び付けられて、李徳裕殿の前に平伏しました。
「お前の妻はなかなか賢いな。ところで、その妻は初婚か」
「いえ、何度か夫に死に別れておりまして、再婚です。ですから私よりは年上です」
「先夫は三人か?」
「はい」
「なら、全員の墓を暴いてみることにするから覚悟しておけ」
李徳裕殿は人夫を雇い、もう十年から五年も経っている丁義の妻の先の夫達の墓を掘り起こしました。そして一々そ
の死体を改めていきました。
すると一番始めの夫の脳天には釘が打ち込んでありました。二番目の夫の耳の穴には針が。三番目の夫の目にも
針が打ち込んでありました。
「ふむ、思った通りだ」
こうして李徳裕殿はすっかり証拠を掴みました。皆は李徳裕殿の才知に驚きました。こうまでこの人は賢くあったので
す。普通の人ならば、このような隠れた悪事には気付かないものです。それを暴いたのですから、都では李徳裕殿の
名声は否でも高まりました。
李徳裕殿は丁義の夫人を呼び出すと素早く捕らえて縛り上げました。急いで裁判を行なって死刑の判決を下すと、そ
の日のうちに刑部省の庭先で処刑を行なおうとしたのでした。首切役人は刀を振り上げ、夫人の頚にその鋭い刃を降
り下ろそうとしていました。
「まあ、待て待て」
その時、突然お出ましになったのが宣宗陛下です。陛下は少し不機嫌な面持ちでいらっしゃいました。李徳裕殿や他
の役人はかしこまって平伏しました。宣宗陛下はどっかりと刑部の建物の縁に腰をかけられました。
「丁義の夫人を捕まえたそうだな」
「はっ、これにございます。これより処刑を行なうつもりでございます」
「君はつまらん男だな」
陛下は侮蔑の目を李徳裕殿に向けられました。てっきりお褒めの言葉を貰えるものだと思っていた李徳裕殿は驚き、
そして慄きました。
「君はたしかに勝れている。薮を突いて蛇を出すような才覚にはな」
強烈な皮肉を宣宗陛下はおっしゃいました。李徳裕殿は震えて口もロクに聞けませんでした。どうして自分が責めら
れるのか、全く解らない様相でした。
「陛下、どういうことでございましょう」
狼狽し、李徳裕殿の言葉は震えておりました。陛下はまあ待てというように手で李徳裕殿の行動を制させました。そし
て陛下は夫人の方を向かれたのです。
「李徳裕の言うことは解る。しかし、この人は本当にそれほどの悪人であったのかね。夫人。少し訊ねるが、貴女が三
人もの夫を殺したのには、何か理由があったのかね」
宣宗陛下は庭に降り立たれると、手ずから夫人の縄と猿轡を解かれました。夫人は涙を流して平伏しました。それほ
どの悪人とは思えない様子でした。
「はい。私の結婚は全て失敗でした。三人の夫はいずれも酷い悪人で、人殺しの酒乱でございました。その都度、私は
勇気を振り絞りました。思えば、よくもまあ今まで生きてこれたものだと不思議に思います」
「貴女が丁義に夫殺しの知恵を吹き込まなかったなら、貴女が捕まることもなかったのだが」
「その通りでございます。しかし丁義は良い人でございました。私は四人目でようやく彼のような人に巡り合ったのです。
あの人が悩み苦しんでいる姿を見ると、どうしてもそのことを教えてあげられずにはおれませんでした。このような事態
になる恐れがあろうとも、私は彼のために言わずにはおれなかったのです…」
夫人は全て語ると地面に顔を伏せて号泣しました。嗚咽の激しい声が響いておりました。宣宗陛下は難しい顔をして
李徳裕殿の方を向きました。
「李徳裕殿、聞いたか。君は余計な才覚を発揮したおかげで、収まるものもうまくおさまらなくなった。先ほどの郭純の
件にしてもそうだ。確かに奴は我々を謀ったが、逆に言えばそれだけの才覚はもっていたということだ。おとなしく登用
しておけばよかったものの、君は余計な事をしてあたら人材を一人失った」
李徳裕殿はただがたがたと震えておりました。宣宗陛下の声は一層厳しいものとなりました。
「蟄居して引きこもりたまえ。君は世間で言われているほどの知恵者ではないのだ」
その一言で李徳裕殿は全ての官を解かれてしまいました。彼はがっくりと肩を落して立ち去るより他はありませんでし
た。本来ならば栄光と栄誉に包まれるはずの彼は、その地位をすっかり失ってしまったのです。その後李徳裕殿は閉
門の屈辱に耐えたものの、三年後に煩悶の内に亡くなりました。
宣宗陛下は丁義夫人の罪を許しました。丁義その人は妻が殺人者であったということが分かると、やはり病を経て悶
死したということです。
そして丁義夫人がどうなったかというと、美しくもなく若くもない夫人でしたが、宣宗陛下はこの人をお側におかれて、
困ったことが起こるとしばしばこの人に下問されました。それは誤りは少なく、宣宗陛下もその言葉の中から必要と思
われることだけを選んで聞き入れられたので、宣宗陛下が御在世の間、唐の国はとてもよく治まったということでござい
ます。本当の知恵とはどのようなものを言うのでしょうか。私は宣宗陛下の御知恵が一番勝れていらっしゃったと思うの
ですが、皆様はいかが御思いですか?
(終)