ううむ、息子よ。すまぬがその机の上にある桐の箱を取ってくれぬか。なに、見当らないだと。そんなはずはなかろう。 一昨日、確かに黒檀の机の上に、絹をかぶせて置いたはずだ。いや、しまったわい。その後、用心のために猪遂良殿 からもらった扁額の裏にしまっておいたのだった。早くその裏から出してくれ。そうだ、その箱だ。
 なに、どうした、その顔は。なに、今にも死にそうな病人がどうしてそのようなものにこだわるかだと。
 ふうむ、そうだな。今日のわしは特別に気分がいい。まあ、どうせわしの命など、もってあと数日だから話しておくとし ようか。
 お前も知っての通りだが、わしは書が好きでな。若いころから宮中に出入りする、いくたもの大家と付き合いを続けて いたのだよ。残念ながらわし自身の書はたいして認められなかったが、欧陽詢、虞世南という連中とも付き合いがあっ たのだ。猪遂良殿と並んでいわゆる三大家と呼ばれた連中だな。なんだ、お前はそんなことも知らんのか。まったく、こ の死にいく父を喜ばせることもできぬ愚かな奴め。
 むう、まあ、そんな困った顔をするな。ちと言い過ぎたわい。話を元に戻すぞ。わしは官位は低かったが、宰相の猪遂 良殿とも付き合いがあったから、始終宮廷に出入りしておった。おかげでわしは皇帝の李世民様とも親しくなれたのだ ぞ。
 なに、どうしてそんなわしが低い官位のままで一生を終えるのかだと。そんなことは決まっておる。わしは官位より、李 世民様の持っている書をねだっていたからの。官位など、わしは必要なかった。すばらしい書をいくつもいただいたぞ。 王羲之の息子である王献之の書も、わしが李世民さまから頂戴したものだ。
 なんだ、また不服そうな顔をしおって。わしはよかったんだ。家は貧乏しようとも、書さえ眺めていれば幸せだったのだ からな。李世民様も書が好きな方で、様々な書を集めていらっしゃったわ。よく、宰相の猪遂良殿とわしを囲んで、様々 な書について語り合ったものだ。
 それでな、その箱は李世民様に関係があるものなのだ。李世民様は亡くなられる最後までこの箱のことを気にしてい らっしゃったからな。
 なに、この中身だと。ふん、お前みたいな無学な息子は見てもわかるまいな。まあ、よい。敢えて教えてやるとしよう。 これは南北朝の南、晋の時代に書かれたすばらしいものなのだ。
 いくら無学なお前といえども、蘭亭集のことは知っているだろうが。なに、それも知らぬだと。困った馬鹿息子め。いい か、蘭亭集というのは、晋の穆帝の永和九年、当時の名士四十二人が集まって執り行った宴の記録じゃ。曲水宴と言 ってな、杯を川に流し、詩が出来上がったものからそれを飲んでいくという風流な宴のことだ。
 その時に詠まれた詩を集めたのが蘭亭集じゃ。その、序文を王羲之が書いてな。これが有名な蘭亭序じゃ。
 長い間、これは真筆が無いと言われておったがな。実はある男が持っていることがわかったのだ。僧の王冕という、 都の近くに庵を構える奴が持っておってな。李世民様は王羲之の真筆を強く望まれたのだ。
 この僧の所に最初は猪遂良殿が出向いたのだ。「書聖王羲之の蘭亭序を帝がお望みだ」ということでな。
 ところがこの僧、おもいきり空とぼけおった。「そんなものは当方は持ち合わせていない」とぬかしてな。猪遂良殿はす ごすごと引き下がるしかなかった。何しろ証拠もなにもない。まさか天下の宰相が一介の僧の庵に法を破って踏み込む こともできまい。
 これは後で解ったことじゃが、実はその僧は猪遂良殿に秘蔵の書を見られるのが嫌だったそうだ。何しろ猪遂良殿と いえば、当代随一の書道家でもあり、鑑定家でもある。もし、鑑定されて、万が一贋作だった場合に悲しい思いをする のが嫌だったそうじゃ。
 とにかく、猪遂良殿は引き下がるしかなかった。そこでわしの出番となるわけじゃ。わしは李世民様に申し出た。「私 が必ず王羲之の真筆を手に入れてきましょう」とな。その代わり、李世民様が持っていた王献之の掛け軸を頂戴すると いう約束だ。
 さて、それからわしは暫らく一つの作品を作ることに日々を費やした。わしはたいした作品は残せなかったが、これだ けはわしの大傑作だと自負してもよいだろう。何、そんな書など見たことがなかっただと?ふふふ、当たり前だ。わしが 書いたのは、蘭亭序だ。なに、どういうことかだと。簡単な話だ。わしは王羲之の蘭亭序を真似て、いかにも真筆のよう に作り上げたのだぞ。
 その出来栄えは本当に見事であった。何しろ最初はあの猪遂良殿さえ騙されたのだぞ。これがわしの最高傑作だ。 本当のことを教えてやったら、猪遂良殿も青ざめおった。「あやうく間違いをしでかすところだった」とな。あの扁額はそ の時の教え賃として頂戴したものだ。それだけ良い出来だったのだぞ。わしはその完璧な贋作書を持って、坊主の居 る寺に向かったのだ。
 わしは官位の低い役人だったから、僧はさして怪しまずにわしを通してくれた。頼むと、奴はすぐに奥から蘭亭序を取 り出して見せてくれたわい。
 蘭亭序を見た時のわしの感動はお前みたいな奴にはわかるまいて。あの優美な線と墨の色がわしの心を捉えてしま った。わしはもう、これはなんとしても持ち帰らなければと思ったのだ。
 しばらくそうして蘭亭序に見入っていると、奴は小便のために雪隠に立ちおった。わしはこの時を待っていた。なに、 何をしたかだと。もちろん決まっておろうが。わしは懐中から自身の傑作を取り出して、王羲之の蘭亭序と交換したのじ ゃ。
 無論、見つかるはずなどない。わしの作品は本当に完璧だったからな。便所から帰ってきた坊主は少しも怪しまなか った。わしはその後、何食わぬ顔で庵を辞した。こうしてわしは王羲之の真筆を手に入れたのだ。
 宮廷に顔を出して李世民様にこれを見せると、とても喜んでくださって、わしに王献之の掛け軸をくださった。持ち帰っ た蘭亭序を念のために猪遂良殿に鑑定してもらったが、やはり本物であったよ。
 わしは得意満面だったね。こんなわしのくだらん書でも、李世民様のためになったのだからな。その後もわしの書いた ものはまるで奮わなかったが、わしと李世民様は相変わらずいい友人であったのだよ。
 なに、親父がそんな調子だから、我が家はいつまで経っても貧乏のどん底から抜け出せないのだと。馬鹿を申すな。 お前が無学で才覚がないからいつまでも貧乏暮しが続いているだけだ。わしはこの贋作だけで李世民様を喜ばせたの だぞ。お前にそのような才がないのがいかんのだ。
 おい、そんなに力をこめてその箱にしがみつくな。それは大切なものなのだぞ。
 なに、この箱が何かいい加減に教えろだと。ふん、まあ、もう少しわしの話の続きを聞け。それから何十年か経って李 世民様は亡くなられたが、臨終の床にわしと猪遂良殿を呼ばれてこう遺言されたのだ。「朕と一緒にこの王羲之の蘭亭 序を葬ってくれ」とな。そして、その蘭亭序をいとおしそうに何度も見つめられて、そのまま亡くなられたのだ。そして蘭 亭序は李世民様と一緒に地の底だ。
 おい、そんなにその箱を手荒く扱うな。その箱には王羲之の真筆、蘭亭序が入っているのだぞ。
 何、蘭亭序は李世民様と一緒に埋葬されたのではないかだと。ふふ、そこでまたわしの出番というわけだ。王羲子の 真筆を李世民様と一緒に埋めてしまうなど勿体ないとわしは思った。李世民様の容体が危ないと聞いた時から、わしは もう一度蘭亭序の贋作を作り始めたのだ。
 心血を注いで創っただけあって、今度もほとんど本物と変わらぬ出来栄えだった。やはり、猪遂良殿も騙されてくれ た。いや、この時ばかりはそれが贋作とは教えていない。なにしろわしはこの贋作を、李世民様の持つ本物とすり替え たのだからな。
 ふはは、そう驚くな。このことはわし以外は誰も知らぬ。猪遂良殿も騙されたのだ。李世民様は自身の持っている贋 作が本物だと信じて死んでいかれた。それでいいのじゃ。そして本物はわしの手元に残ったというわけじゃ。
 書道家としては大成できなかったわしだが、おかげでこうして存分に蘭亭序を眺めて暮らすことができた。蘭亭序さえ あれば、わしは幸せなのだ。いくら貧乏しようが別に少しも苦痛などではなかった。
 しかし、わしの人生ももうこれで終わりのようだ。さあ、その蘭亭序をわしに渡せ。わしはこれを抱いて死ぬ。わしの遺 骸と一緒にこの蘭亭序も埋めてくれ。わしは李世民様の気持ちが今になってよく解る。こんなすばらしい書は自分だけ で独り占めにしておきたいからな。お前もわしの忠実な息子ならば、わしが死んだら必ずこの蘭亭序をわしと一緒に埋 めるのだぞ。
 どうした、そんなに赤い顔をして。早くその箱をわしに渡さんか。なに、なぜその箱を渡さぬ。ああ、こら、お前みたい な奴が箱から出してはいかん。丁寧に大切に扱わぬと、おい、その書を広げてどうするつもりだ。それはお前になど… ああ、やめろ。火など近付けるな。そんなことをしては蘭亭序が燃えてしまう。それはわしの創った贋作などではなく、本 物の蘭亭序なのだぞ。世に二つとない価値のある…
 ああ、もういかん、燃える燃える…