
寝殿造りの一室で、二人の男は互いを見つめた。部屋の外では静かに水の流れる音が聞こえていた。釣殿の傍に
作られた樋を伝って水が落ちていく旋律の響きが二人の周囲を取り巻いた。死の声にも似た静寂を支配する空気を水
音が引き裂き、張り詰めた空気に彩を添えていた。
二人の間には明らかな殺気が走っていた。一人は若い青年であり、粗末な狩り衣と立て烏帽子の下級貴族の姿をし
ていた。もう一人は若者というにしては年配に見えたが、それでもまだ青年の歳を幾らも越えていないように思える。こ
ちらの方は整然とした直衣姿に身を包み、威儀を正して眼前の若い男を睨み据えていた。
「歌を見せろ」
直衣姿の男が口を開くと、向かい合った男の若い方、六条清輔は恭しく短冊を差出し、目の前の男にそれを捧げた。
「これにござります、父上」
直衣姿の男はひったくるようにそれを奪い取った。明らかに殺気と思えるほどの景色だった。彼が清輔の父の顕輔だ
った。動作により破られた沈黙が再び場を支配する凛とした空気の中で清輔は父の表情を見守った。顕輔の手には清
輔の詠んだ一片の和歌がある。顕輔の表情は憂かった。少しも時間をおかず、彼は眉間に皺を寄せた。
「お前の歌はつまらんな」
顕輔は不意に言った。その声には張りと艶があった。まだ彼は若い。息子の清輔は二十歳の青年だが、彼自身もよ
うやく三十の半ばにさしかかった程度であった。若者の幼さを残した顔がようやく消え去り、而立を越えた者の偉容が
表れ始めた風貌に変容しつつある。一流の歌人として、そして一人の男として一番気力が充実した時期にある彼は、
忌々しそうにこの、さして年の離れていない息子を見つめた。
「つまらない、と申されますか」
顕輔の対面で向かい合っていた青年の顔にやや強い怒気が浮かんだ。眉間に皺がはっきりと浮かんだ。明らかにま
だ幼く若い感情が激して表情に出た。場所は六条邸の対の館である。そこでこの父子は向かい合っていた。張り詰め
た空気は一層激しいものとなった。癇声が高く響く。緊張の中に次々と生まれる語気の激しさが、戦いの荒々しさを予
感させていた。
「つまらぬものはつまらぬのだ」
「何がつまらないか、はっきりさせていただきたい。この歌は私が心を込めて詠んだものだ。それを一言で片付けられ
ては話にならない」
「しつこいぞ清輔。この私がそう言っているではないか。それともお前は六条家元の私の言葉が間違いと言うのか」
前よりも一層語気を強めて顕輔は息子を睨んだ。たいていの男なら父親にこれほどの事を言われれば引き下がるも
のだが、清輔は持ち前の負けん気の強さでそこに留まり続けていた。不退転の決意だった。父の理不尽な言葉など、
認めないという強い意志が表れていた。
六条家は和歌の家元だった。平安の後期において和歌は次第に家元制度に移行しつつあり、崇徳天皇の御代には
流派として世の中に認知される時勢にあったのである。その一つが顕輔の率いる六条家の一派だった。
まだ三十を過ぎたばかりの顕輔は野心に燃えていた。藤原の一族と雖も、六条家はそれほど高い家格ではない。摂
関家とも縁は薄く、政治の表舞台で活躍する家柄ではなかった。そのため顕輔は和歌によって自身の勢力を広げよう
としていた。彼は叙景歌に長じ、風景を詠むことを大の得意としていた。
和歌はやり取りの手段から、一つの芸術として世に広まりつつあった。そんな時に生まれた顕輔は、六条家元の看板
を売り物にして歌道を都の世界に作り上げていた。歌の世界においては、さしもの摂関の藤原宗家さえ、六条家には
一目置かざるを得なかった。
清輔はその顕輔の嫡男だった。若き天才として世間に讃えられた顕輔は同時に早熟でもあった。まだ十三、四にしか
ならぬのに、優れた歌才で世間の女達を篭絡し、たちまちの内に男女の関係を結んだ。その結果、彼は十五にもなら
ぬうちに父親となり、その欲望の産物としての息子が目の前にいた。
清輔の母親が誰だったのか。もはやそれさえも顕輔はよく覚えていない。別に愛した女の子でないのは確かだった。
愛があったわけではないから、その息子に対する愛情も自然と薄いものとなった。いや、愛するよりも彼は息子を強く
憎んだ。親子というにはあまりにも歳が違わないことも一つの問題であった。三十路を過ぎたばかりということもあっ
て、顕輔は外見と同じくらいに、息子の事を思いやり受け入れるほどには成熟していない。
「つまらぬと口で言うだけでは私にはわかりませぬ。私の歌のどこがつまらぬというのです。答えていただこう。それを
聞かぬ限り、私はこの場から去りませぬぞ」
清輔は荒い語気と呼吸と共に、じわりと父との間合いを詰めた。にじり寄るようにその距離が縮まる。少しずつ二人
の間合いが小さくなっていく。近付いてくる息子に対して顕輔は悪寒を覚えた。彼は扇を取り出し、その影に清輔の憎
悪の視線を隠した。
歌よりも何より、その顔が顕輔には気に入らなかった。年の離れた兄弟に見紛うほど、二人の相貌は酷似していた。
気の強い所も、怒った時に起こす行動のやり口も、どこからどこまで清輔は父親に似ていた。ただ一つ違うのは、清輔
には顕輔のように輝くばかりの才能はなかった。顕輔は出来る者の思い上がりで、自分にできることが息子はできない
ことが大きな不満であった。そのため芸術家にありがちな奔放で無愛想な態度が息子に対して直で表れた。師匠、とい
うにはあまりにも感情が入りすぎた二人は、師弟という以前にやはり親子であり、それは憎悪という汚い感情によって
深く繋がれていた。
「お前の歌には風情がない」
横を向いて言い捨てるように顕輔は言った。彼は右手を放り投げるようにして前へと突き出した。手からはらりと短冊
が落ちた。それは即座に舞い落ち、板張の床の上、二人の間合いを遮るようにして紙片は床に音もなく落下した。
「風情がない、ですと?」
怒気を含んだ、納得のいかない表情で清輔は父に詰め寄った。
「そうだ。叙景の歌に付き物の風情が欠片も見あたらん。まあ、それはお前には歌の才能がないという証でもあるが
な」
顕輔の今度の声には明らかに嫌味が含まれていた。罵倒という寸前でその批判は留まっていた。
清輔は唇を噛みながら短冊を拾い上げた。そこには彼が昨晩を費やして思いついた歌が書かれてあった。
「苦労して詠んだ歌だったのですが…」
清輔の視線は顕輔の持つ扇の下から睨み付けていた。いい気味だと顕輔は感じていた。所詮彼にとってこの息子は
その程度の存在だった。清輔の何もかもが気にくわなかった。彼がこの世に存在していることも、こうして向かい合って
いることも全てが顕輔にとっての不快であった。
父の、つまり清輔の祖父に当たる顕季が輔の一文字を清輔に与えたのも気に喰わなかったし、次の家督を譲るのが
顕季の命令でこの息子に既に決まっていたのも全てが腹立たしかった。清輔は彼にとってまさに憎むべき存在だった。
息子の全部がこの父親には気に入らなかった。
「苦吟だと?歌を詠むのに苦労するなど、既にお前の才の限界を表しているのだぞ。まあ、その程度の歌では来月の
歌合わせへの参加などさせられないな。解ったならばこれ以上居ても無駄なことだ。とっと引き下がれ」
再び冷たく顕輔は言い放った。清輔の放った嫌な視線は、もう一度顕輔を舐め回した。息子がそういう顔をしている
のが顕輔には気に食わなかった。
「ならば失礼する、父上」
扇の向こうからはもはや敬意の欠片もない声が聞こえた。顕輔とよく似た声だった。荒々しく立ち上がり、床を踏み鳴
らして清輔は去っていった。
清輔が去ると顕輔は扇をようやくその顔から離した。一度にこの場の風通しが良くなったような気がして、彼はにやり
と意地悪く笑った。
六条清輔という人は、歌人としてにしろ官吏にしろ世間でそれほど認められていたわけではなかった。確かにその和
歌には輝くほどの才覚が見られたわけではない。彼は苦吟の人だった。苦労して、絞り出すように和歌を詠んだ。天才
肌の顕輔はすらすらと思いつくままに歌を詠んだが、清輔は毎度悩み、長い時間を費やして歌を詠んだ。そのところが
父の顕輔と違うところで、彼がどうしても一流と呼ばれるに遠い一点だった。時間をかけるためにどうしても寡作になり
がちであるのも、多作を求められる歌人としては大きな難点であった。
清輔は怒りを顕にしながら寝殿の渡り廊下を走った。ただ怒りだけが込み上げていた。あまりの言い草だと思った。
だが、どうしてもそれに対して強く言い放つことが出来ないのは、彼自身も自分という者の持つ限界というものに薄々気
が付いていたからに他ならなかった。彼はどう見ても天才ではなかった。ただ日々の努力により、辛うじて自身の地位
を保っているに過ぎなかった。
ふと、彼は花曇りの空を見上げた。春を迎えるというには余りにも欝とした薄暗い空が広がっている。ぼんやりと雲の
光が照らす濁った風景の中で、六条邸の桜が開くのを間近にしていた。
「春は近いのだが…」
ぽつりと彼は言葉を漏らした。いくら春が近付いていようとも、自身の心が晴れるわけはなかった。どんよりと曇る春
の空は気怠く、陰欝な気分と合わさって彼の心に波紋を投げ掛けていた。
清輔は歩みを止めた。そしてぼんやりとそこで立ち止まった。ふと頭の中を何かが過ぎった。思いついたままの歌が
詠めるかもしれないと彼は思った。
時間はただ流れた。生温い空気が吹き抜けていく中で清輔は一つの塔のように立った。そして苦悩し、そこに身を沈
めた。しかし無駄であった。幾ら藻掻こうとも、頭の中からは何も出て来はしなかった。
悔しそうに彼は歯を噛み締めた。しかしそれ以外は出来なかった。清輔は大きく嘆息すると、再び足を踏み鳴らした。
怒りはまたもや胸によみがえってきた。父に対するもの、歌の詠めなかった自分。その全てに対する強いものだった。
板張の廊下が強く軋んだ。何もできない惨めな自分に対する怒りを込めて、彼は足取りも荒々しく、その場を後にした
のである。
「父の言い草は酷過ぎる。私は別に人に咎められるようなことなどしていない。これでも努力はしているのだ。しかし、父
は一向にそれを認めてくれない」
父の元を辞した後、清輔は六条邸西の間に下がった。怒り、悲しみの感情がせめぎあい、そして渦のように彼の心の
中で回り続けていた。激して過ぎた感情は次々と口をついて飛び出していく。その言葉を一人の女房がにこやかに首
肯きながら聞いていた。
源大夫俊頼という人の娘が六条家に女房として仕えており、父の官職から左京と呼ばれていた。その左京が清輔の
前で、その愚痴の聞き役となっていたのである。左京は特別美しいという女ではなく、歳も清輔よりは四つほども上で、
当時としては年増の部類であった。
この女の良いところはその優しさであると清輔は思った。彼に必要なものは常に慰めだった。いつも、清輔はそれを
求めていた。そしてこの日もそれに違わず、不快な思いを払うために、思いを彼女にぶつけていた。
「大殿様はお気が強くていらっしゃいますからね」
あふれ出る感情のままにまくしたてる清輔を宥めるように左京は言った。清輔の怒りを沈めるのはいつも彼女の役目
だった。恋人というより、愚痴を聞いてやる母親のような存在。それが左京という女の価値だった。
「気が強いというだけではすまされない。父は私のことをまるで無能者のように罵るのだ。私は一時でも学問を怠った覚
えはないというのに。いったい、この私にどうしろというのだ。これ以上のことをまだしろとでも言うのか」
「若殿は努力家だと誰もが言っておりますわよ」
「日々、私は精勤しているつもりだ」
清輔という男を識る人は、だれも口を揃えて彼のことを努力家であると称賛した。父の顕輔のように天賦の才はなか
ったが、勉学を常に怠らず、こつこつと学問を修めた。顕輔のように世間に轟くだけの能力はなかったが、生真面目な
男として宮廷の同僚にも評判は悪くなかった。
「しかし、父は私を認めてはくれん」
それだけだ、と清輔は言い捨てた。どうしてこれほどまでに父が自分の事を嫌うか理解が出来なかった。
祖父の顕季によって六条家の後継ぎと決められた時から、その名に恥じないようにと清輔は日々精進を続けてきた。
学問は自分を高める手段に過ぎなかった。自分を高めるため、六条家の後継ぎとしてふさわしい人間になるため、二
十歳のこの年まで女に触れることもなく過ごしてきたのも、生真面目すぎる彼の性格の裏返しだった。
清輔がもう少し砕けた人間ならば、管弦や色恋の遊びでその不平を誤魔化すことが出来たかもしれない。しかしそれ
は無理だった。愚痴は自然と口をついて出た。それを聞く役目が左京だった。
「もう少し、御辛抱なさいな。そのうち、きっと良いこともございますわ」
年上の気やすさで左京は清輔を押さえるための言葉を発した。父と同じで気が強く、ともすれば激情もする清輔を左
京は押さえることが出来た。
「辛抱とは言うが…」
「愚痴ならば、いつでも聞いて差し上げますよ」
左京は笑った。子供を宥めるような柔らかい笑みだった。そうなると清輔は今までの激した自分がすうっと遠退いてい
くように感じていた。
左京は不思議な女だった。十六の時に一度結婚したらしいが、すぐに夫と死別してその後は独り身を貫いている。清
輔が十六、顕輔が三十の時に彼女は六条家に仕えることとなった。一時は女好きの顕輔が目をつけて囲いものにする
ため雇ったのだとも言われたが、四年の間そのような浮いた噂もなく、日々を過ごしている。
「こういう時こそ、お詠みなさいな」
左京は言った。清輔は怪訝に感じた。左京は立ち上がると部屋の角から硯と短冊を出してきた。そしてそれらを一ま
とめにすると、静かに清輔の傍らに置いた。
「何をしろというのだ」
不思議、動揺の心を抱えて清輔は左京を見上げた。左京は再び清輔の傍らに座ると、またあの柔らかい微笑みを彼
に投げた。
「歌を詠めばいいのですわ。今の若殿のお気持ちの思うままに、心のままに。少しも苦しまなくてもよいのですよ。た
だ、今の心のありのままを」
「しかし、私は…歌が…」
そこで彼は一度言葉を呑んだ。駄目だという言葉を留めて、清輔は口の中の唾をゆっくりと飲み下した。気やすく詠
むことなど出来はしないと彼は思った。
苦吟ぶりを顕輔に嘲笑われるほど、その詠み方は苦労と推敲の上に成り立つものであった。筆を握り締め、幾度も
朱を引いてようやく成り立つ苦心の結果。それをするなと左京は言った。心のままに、赴くままに詠めと清輔は勧めら
れた。彼は酷く気恥ずかしく、そして困ったような顔つきで左京の方を向いて続けた。
「歌を詠むのが遅いのだよ」
「それは、いつも悩まれて書かれるからですわ。今、思いつかれたものをどうぞ」
「そうは言うがね」
「躊躇されるのはよろしくありませんわ。どうぞ、何かを書き付けてくださいな」
「うむ…」
意を決して清輔は筆を取った。筆を短冊に落とし、彼は思うままに墨を落した。いつもの彼とは違い、筆をすらすらと
書き付ける。なぜだかこの時はおかしなまでに言葉が溢れだして筆が進んだ。不思議なことだと思った。こんなことでよ
く書けるものだなと自分でも思った。いつもは一刻程度は要するはずだが、ものの一呼吸もせぬうちにそれは終わっ
た。薄紙の上に文字が刻まれ、そして一つの歌が綴られた。
「この程度だがね」
「『しばしこそ濡れる袂も絞りしか涙に今は任せてぞみる』…ですか」
「私の気持ちといったら、こんなものだ」
左京は再び眼前の清輔を見た。そして彼女は驚きの表情を隠すことが出来なかった。気の強い清輔の双眸から一筋
の涙がこぼれ落ちているのを見た。
今の気持ちかと左京は思った。この殿はここまで思い詰めていたのかとも思った。清輔は真摯な顔で左京を見つめ
ていた。
「良い歌ではないですか」
それは清輔にしては珍しく秀作と言えるべき出来栄えのものに違いなかった。左京は優しく清輔に微笑を投げた。清
輔はそんな左京が好きだった。彼は身体を躙り寄せると身を女に任せた。男にしては華奢な清輔の身体が左京に重な
った。
「左京…私がお前の袖で涙を絞らせてくれと言ったら…拒むか?それとも、女々しい男として軽蔑するのか?」
清輔は涙に潤んだ目で女を見上げた。今にも泣き出しそうな顔をしているらしいことは自分でも分かった。左京は柔
らかな指でそっと清輔の頬を撫でた。手で清輔の顔を引き寄せると静かに自分の胸に埋めさせた。
「どうぞ、御存分に…」
左京の言葉に清輔は安堵した。彼は女の胸で涙を拭った。それがはたして正しいことなのか解らなかった。ゆっくりと
彼は女の身体の内に身体を倒した。懐に篭もった甘い香の匂いが仄かに鼻孔を突いた。艶かしいその行為と歌で、彼
の傷ついた自尊心は次第に癒されて傷口を塞いでいった。
「涙に今は任せてぞみる…」
左京とそんな事のあった後、清輔は何度もその歌を口ずさんでみた。
一昨日、左京に後朝の歌を送ったはずだが、それがどの程度のものかはもうすっかり忘れてしまっていた。ただ、自
身が涙ながらに左京に訴えた、あの時の心の寂しさとあの時の歌がどこまでも付きまとってきていた。涙に任せたあの
時の心の虚ろさは一時の情事によって癒された。しかしその一時の慰めは、明らかに清輔に大きな変化を与えてい
た。
彼は毎日を役所で過ごした。父の顕輔の官位がそれほど高くないので、清輔の官位もせいぜい従五位下図書頭とい
う、貴族として下級の地位にしかない清輔であったが、それでも彼は日々に充足を得はじめていた。
何かが違ってきたと彼は思った。ひょっとすると、彼は自分の感情に気が付いていないのかもしれなかった。
それが恋だとわかるには彼はあまりにも純情過ぎて、そしてあまりにも寂しすぎた。彼は父の顕輔と違って奥手だっ
た。二十歳にならんとするのに側女の一人も囲えない、苦悩に身を任せるだけの青年だった。快楽に身を任せる貴族
の若者とは違い、悩み苦しむのが彼という人間の青春であったのだ。
大内裏にある図書寮の一室で執務のための書類に目を通していても、清輔の精神はどこかうわの空だった。どこか
明るい気分になって、政務にはとても手が付かなかった。
「涙に今は任せてぞみる…」
もう一度彼はその歌を口ずさんだ。いい歌を詠めたと自身でも思った。春の日差しは爛々と降り注いでいた。穏やか
な光の中に遠くから花の香が漂う。それは寂しさ等とはまるで無縁の様相だった。
春だ、と彼は思った。何となく物憂げに彼は肩肘をついた。ぼんやりと図書寮の縁から外を見回すと、青い空がぽっ
かりと天空を突き抜けていた。
まだ、そんなに晴れていないだろうと彼は感じたが、またどこかでそのような空を望んでいる自分がいることを感じて
いた。不気味だ、ともまた思った。
「なにを薄笑いしている」
聞き慣れた、嫌な声で清輔は振り返った。傍らにいつのまにか父の顕輔がやってきていた。美しい華麗な姿がそこに
あった。まだ三十そこらでしかないのだから当然なのだが、この男は相変わらず凛々しくて若々しかった。顕輔は春らし
く萌黄色の直衣に薄紅色の扇を持ち、すっくりと内裏の地上の上に立ち尽くしていた。
「これは、父上。何の御用ですか」
「図書頭殿に会いに来たのだがね。しかしその図書頭はおかしな笑いを浮かべていて、私が取りつく島もないというて
いたらくだ」
美しい春の男はその秀麗な容貌とはうらはらに、きつい一言を清輔に投げ付けた。少し身体を引いて彼は息子を睨
み付けた。優雅な動作だった。座り込んで机に向かっている清輔とは似た容貌でも天地ほどの開きがそこにあった。
「図書寮にいかがな御用件ですか」
「紙をよこせ。ここはそのためにあるのだろうが」
当たり前のことを言うなとばかりに顕輔は言うと扇を閉じてその先を裏手の庫の方へ向けた。そこには沢山の短冊が
所蔵されているのであった。図書寮は紙や硯を管理するための役所で、清輔は従五位下図書頭としてその役目に当
たっていた。歌人の顕輔は、気が進まなくともしばしばここに通うことになった。それがまた、顕輔の息子に対する悪感
情を一層つのらせるのである。
「お待ちください」
清輔は奥の庫に行くと、恭しく重ねられた短冊をいくつも取り出してきた。また、これを使うのだなと思った。紙と筆。そ
れを以て書き付けられる歌。ただそれだけで六条家の生活は成り立っていた。貴族として決して高い身分ではない六
条家。しかし顕輔が歌人として君臨しているかぎり、六条家は安泰といえた。そしてその分だけ清輔の不幸は続いてい
た。
幾種もの短冊を清輔は重ね、そしてまとめた。目の前では顕輔が苛々した様相で、その作業が終わるのを待ち望ん
でいる。
ふと、清輔は悪戯を思いついた。それはほんの些細に思いついたことだった。彼は短冊の一片を取った。そしてそれ
に何事かとすらすらと書き付けた。彼が以前左京に見せたあの歌だった。
墨が乾くのももどかしく、彼は全ての短冊を一纏にして、その一番上に先程書き付けた短冊を乗せた。
「お待たせいたしました」
やたらかしこまって清輔は恭しくそれをかかげた。顕輔はそれを一瞥して素早く受け取った。胸にそれを抱え、立ち去
ろうとした彼の目に、何事か書き付けられた文句の短冊が映った。
「なんだ、これは」
「私の歌でございます」
「ふん」
鼻で括ったような声を顕輔は出した。やおら風が内裏の内を抜けた。顕輔の声とともに、春が巻きおこしたかのような
風だった。
「どうぞ、お納めください」
「お前の歌をか」
じろじろと舐め回すように顕輔は短冊を見つめた。不意に彼は手で短冊の一番上の部分を払った。歌の書き付けら
れた紙片が春風に舞った。ひらひらと音が聞こえるように光の中を落ちていく。
「誰かに恋をしたな。ふん、笑わせるな」
「なんとおっしゃる」
「これはお前の恋歌だな。違うとでもいうのか?」
「い…いえ…」
「まともに今まで恋も駆け引きもしたことのないお前の歌だ。笑止としか言えんわ。さてはめそめそして、どこぞの女にで
も慰めてもらったのか」
顕輔の言葉は正鵠を射て清輔の胸に突きささった。まったくその通りであった。清輔は自分の心を慰めてもらいたか
った。寂しい涙を女の胸で絞りたかった。その為の歌であった。父の言葉は寸分違わなかった。怒りを通り越して清輔
は恐ろしくなった。人目も憚らず大きく彼は身震いをした。図星を得て、顕輔は意地悪い言葉を継いだ。
「お前にまことの恋歌など詠めるわけがない。こんなものはただの泣き言だ。そんなことを女に求めた歌が恋歌のはず
がない。本当の恋歌はもっと苦しみの心の上から生まれるものだ」
「父上にはそれができるのですか」
「私はお前とは違う」
その後の言葉を顕輔は続けなかったが、清輔には父の言いたい意味がはっきりと解っていた。お前とは才能が違う。
この未だ青年の域を抜け出さない父の前では、どうしても清輔は自分の才覚を存分に発揮できなかった。清輔は深い
絶望の沈黙に捉われて深く頭を落した。こんな日々がいつまで続くのかと彼は思った。
その後数日、清輔は左京のことでふとおかしな噂を聞いた。左京がどこかの男と情事を楽しんでいるという噂であっ
た。
恋愛に関するかぎりでは、宮廷人は実に口がさない。それぞれが互いの色事の談を語り、退屈な宮仕えの合間の一
時を楽しむ。
清輔はそのような輪からいつも外れていた。この男は色恋沙汰という点では驚くほどに初心で、そして奥手であった。
彼は常に優しさを求めていた。それが女性に対する憧れだった。
左京と関係を持っても、清輔はそのことを誰にも洩らしはしなかった。そのことは秘密にされるはずだった。知ってい
る人間というはまず居るはずがなかった。
しかし、その日から何かが違ってきていた。まず、他の人たちが清輔を見る目が変わってきていた。彼らは一様に清
輔を見ると笑った。少しもはばかる事無く、扇で口元を隠して失笑するのである。清輔は始めは左京と自分の関係が笑
われているのかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。貴族の男が女房と関係するのは別段おかしなことではな
い。しかし、確かに話題は左京と清輔の間柄に及んでいるようであった。宮廷人の囁きに、左京という呟きがしばしば
交じることでそれは推測できた。
こんなことが数日の間に立て続けに起こっので、とうとう清輔は意を決して問いただして尋ねてみることにした。なぜ
自分がここまで笑われものにされているのか。それがどうしても知りたかった。
「橘様、巷では私は女のことで笑われているようです。これはいったいいかなる仕業が原因でございましょうか」
ある日彼は朝議が終わって退出していく貴族の一人を捉まえて問いただした。
「おや、御存じなかったのですか。てっきり私は貴方も知っているばかりと思っていたのですが」
橘参議と呼ばれているその男は扇の向こうに脂ぎった中年の嫌らしい笑みを浮かべて清輔を笑った。
「いえ、知りません。橘様、どうか御教えください。なぜ私はかくほどまでに皆から笑われているのですか」
扇の向こうからまた笑い声が起こった。骨の間から軽侮した視線がちらりと覗いたが、清輔の態度があまりにも怒気
を孕んでいたのを悟ったらしく、橘参議は扇を下ろした。
「いや…果たして申し上げて良いものかどうか」
「どうぞ、御教授願いたく存じます」
「むう、ならば教えましょうか。貴方は最近左京という女房と親交を結んでいるそうですな」
「どこからそれを」
「まあ、艶事というものはすぐに知れ渡るものです。それはそうと、どうも貴方の御父上の顕輔殿が、その左京と通じて
いるという噂があるのですがね」
「まさか…」
「いえ、本当ですとも。六条邸を訪れた客の前で、顕輔殿と左京が憚りなく睦んでいたという話ですからな」
それだけ言い捨てると橘参議はそそくさと立ち去っていった。清輔は顔面蒼白のままで絶句した。しかしそれで全てが
合点がいった。明らかに清輔は笑われものにされていたのだ。恋人を寝取られたことにも気付かない哀れな男として皆
の嘲笑を買っていたののだ。しかもその間男の相手が実の父ということで、よけいに彼は人々の笑いを誘っていたの
だった。
まさか、と彼は思った。しかしありえない話ではなかった。あの顕輔ならばやりかねないことだとも思った。晩春の陽だ
まりの中を一陣の涼風が吹き荒んだ。烏帽子が飛び、内裏の床に転々と転がっていったが、清輔にはそれを拾うだけ
の心の余裕はなかった。
清潔に童貞を守り続けていた清輔と違い、顕輔の漁色は宮廷人の噂の種だった。しかも顕輔はことさらに見せ付け
るように全ての事を行なった。あの男のやり方らしいと清輔は思った。しかし、どうしても不審の念は晴れなかった。橘
参議の言葉はすぐには受け入れ難かった。
自分にあそこまで優しくしてくれた左京を信じたかった。左京は清輔の唯一の心の拠り所だった。それだけを支えにし
て、彼はどうにか今日まで自分を保ち続けていた。それを一度に壊されては、清輔という人間の心の行き場は無くなる
も同然だった。
自分はどうすればよいのかと清輔は思った。普通ならばその現場を押さえ、男の面目にかけてでも汚名を晴らさねば
ならなかった。しかし、この場合はどうにもならなかった。なぜなら、顕輔は彼の父であるからだ。
茫然と清輔はその場に立ち尽くした。まるで岩のように彼は身動き一つしなかった。そしてできなかった。大いなる葛
藤は彼の心の中でけたたましく騒ぎ立てていた。どうしようもなかった。清輔は中春の晴れ渡った天を仰ぐと大きく一つ
息を継いだ。
清輔は暗い気持ちのままで図書寮に戻った。歌合わせで使われる硯の手配をする仕事が残っていたから、その仕事
を終えないわけにはいかなかった。しかし、そうやって嫌々ながら仕事をしていても、どうしても父のことが頭に浮かんで
仕方がなかった。
彼は噂の真偽を確かめたかった。望むならばそれが嘘であって欲しかった。しかしここまで宮廷人の間に話が露骨に
広まっているということは、確かに二人の間に何かの関係があると見なくてはならなかった。
清輔は足取りも重く図書寮の蔵に向かった。明日までに来月の歌合わせに使う硯を十ほど手配し、大歌所へと納め
なくてはならなかったのである。蔵の扉を開けて中へと進み、手にした書き付けを確認しながら、彼は必要なだけの硯
を手配した。あとはこれを決められた場所に納めるだけであった。
「なるほど、左京は今宵も忍んでくれというのだな」
硯を抱え、その場から立ち去ろうとした清輔の耳にそんな言葉が飛び込んできた。彼は思わず硯の箱を取り落とし
た。鈍い音がして硯のいくつかが床に散らばり、破片となって不様に砕けた。
清輔には声の主が誰であるかはっきりと分かっていた。その声が解らないほうがおかしかった。父の顕輔のものだっ
た。声は図書寮の蔵の外から聞こえていた。壁の上の方に換気と明かり取りを兼ねた小さな窓があって、そこから顕
輔の声がしている。清輔は急いで高窓に手をかけ、顔を半分ずらして外を覗き込んだ。
蔵の前には宴の松原と呼ばれる広場が広がっていた。その宴の松原のほぼ中央に、暖かく照る春の日差しの中に
顕輔が立っていた。年令を少しも感じさせず、春の王のように艶やかに装った貴公子がそこにいた。清輔は素直に、我
が父ながら美しい男だと思った。その顕輔は文の書かれているらしい扇を持ち、眼前でかしこまっている童子を見下ろ
して優雅に秀麗に立ち尽くしていた。童子には見覚えがあった。左京が雑用に使っている童だった。
「これを左京に返してくれ」
顕輔は懐中から筆を取り出すと扇に何事か手早く書き付けた。それが何と書かれているかまでは清輔には解らなか
ったが、それが左京への返し歌らしいことは容易に想像がついた。
恭しく童子は頭を下げると素早く走りだしていった。顕輔は満足気にそれを眺めていた。自信に満ちた男の顔であっ
た。清輔は全身の力が一度に萎えていくのを感じた。あまりにも衝撃的な事実を彼は受けていた。もう駄目だと思っ
た。所詮、顕輔に勝つことなどできなかった。
震えながら彼が窓枠から手を離そうとした時だった。顕輔はやおら図書寮の蔵の方を向いた。そして彼は笑った。春
の貴公子は一瞬だが人間に戻り、眉間を広げ、口元を少し上げ、歯を見せてはしたなく彼は笑った。
顕輔が笑ったのはその瞬間だけで、その後にはもう彼は歩きだしてしまっていたのだが、その顔は清輔の心に最後
の一撃を食らわせていた。
「うっ…ぐう…」
誇りも何も切り裂かれた清輔は蔵の床に突っ伏した。彼は一つ小さなうめき声をあげた。清輔の周囲には砕けた硯
の破片が四散していた。この硯のように清輔の心も打ちのめされていた。
どこまで自分に辱めを与えれば父は済むのか。清輔は蹲ったままで拳を握り、強く唇を噛み締めた。そこまで馬鹿に
するならばと彼は思った。
「う…今に見ておれ、顕輔め…」
もはや相手が父であることも忘れて清輔は呟いた。彼は親子の情、肉親の関係等も全て忘れた。しばらくして立ち上
がったとき、彼はもはや不思議なほど平静でいた。そしてその目には明らかな殺意の色が浮かんでいたのであった。
やがて日が没し、大内裏の内には人の姿も疎らとなった。まだ内裏の方では幾人かの人の声がするものの、門を守
る衛士以外にはさしたる人影も見えなかった。
清輔はまだ図書寮の一室でぼんやりとしていた。日が暮れるまで彼は何もできなかった。屋敷に帰ることはできなか
った。今、顕輔の姿を見れば、左京との証拠を掴まない内に事を起こしてしまいかねなかった。
夕闇が訪れる頃になってから、清輔は近従の舎人に命じて酒を瓶子に入れてもってこさせ、一人孤独に酒を呷り始
めた。
清輔は酒を飲まない男だった。生来がそれほど強くないためでもあったが、彼の生真面目な性格もそれに加わってい
た。酒で濁った頭では歌など詠めぬと彼は言い続けていた。清輔のそんな所も父の顕輔の馬鹿にするところだった。し
かしこの日ばかりは酒を飲んだ。美味い酒ではなかった。ただ度胸を付けるためだけに彼は飲んだ。苦しみながら清
輔はその液体を肺腑に流し込んだ。そうして三合ほども飲み干すと、全身を回ってきた酔いともつかぬ怒りを抱えて彼
は帰途についた。
その夜は月が雲に隠されて姿を見せず、月明かりの無い暗い天だったが、替わりに幾つかの星が小さな雲間で瞬い
ていた。月までもが砕けて星に成ったのかと彼は思った。そんな打ちのめされた心だった。何を見ても彼の心は破滅を
連想してしまうのであった。
西大宮大路を南に下がり、彼は自邸である六条館へと戻った。四条まで下った時に子ノ刻の鐘が鳴るのが聞こえ
た。もし左京との間に情事があるならばそろそろ終わっている頃だと彼は想像した。
そして、そのことを思うと彼はまた新たな憎悪を父に抱いた。あの男と左京が肉体を合わせているのかと思うと、燃え
盛る嫉妬の炎が沸き上がってきた。清輔はあまりにも笑われものに成り過ぎていた。そしてそれを企んだのは全て顕
輔であった。
清輔は足元の石を拾うと大路に沿って並んでいる家々の土塀の一つにそれを投げ付けた。鈍い音がして僅かに石が
跳ねた。
子ノ刻を告げる鐘が鳴ってからほどなく清輔は六条邸に帰り着いた。大内裏を辞した時には月影は雲に隠されてい
たが、今はぼんやりと雲間から臥し待ちの欠けた月がその姿を顕していた。
清輔は館の内に入ると顕輔のいる対の間の中庭へと足をすすめた。そこには父の趣味で前栽として多くの躑躅が植
わり、春を過ごして赤い花を散らせ、今は多くの緑葉を繁らせていた。植込の影に姿を潜めて清輔は対の間の濡れ縁
の様子をうかがった。
庭に向けて開け放たれた部屋には床が敷かれていた。縁に近いところに位置して一対の几帳が置かれていたが、そ
れでも部屋の様子は明らかに見えた。
「見よ、月が出てきたな。まるで秋月のような美しさだ」
床から顕輔が起き上がり、裸の半身を月明かりに晒してその光源の方を見やった。夜にしてはあまりにも明るい輝き
の中に顕輔はいた。
「何か、詠まれるのですか」
女の声がした。左京の声であった。不意に心をかき乱されて、僅かに清輔は身を乗り出した。几帳に半身は隠されて
いるが、はだけた着物の間から艶かしい膚となだらかな肩の線が見えていた。顕輔は笑いながら女の肩に手をかけ、
自分の方に寄せると強くそれを抱いた。
「そうだな。『秋風にたなびく雲の絶え間より漏れ出づる月の影のさやけさ』などはどうだな。月が雲間から顕れた風景
を詠んでみたがな」
「今は秋ではございませんが」
とがめる語調の女に対して顕輔は笑った。笑って女の唇を接吻で塞いだ。
「清輔のような事を申すな。今が秋になったように感ずればそれで良い。いちいち目くじらを立てていては何も詠めん
わ」
「そんなことを仰っては若殿が可哀想ですわ。懸命に殿に近付こうとされていますのに」「なに、構うものか。幾ら励もう
とも、あの阿呆には歌の才はない。努めても無駄なことだ。加えて色恋の才もないときている。こうしてこの私に恋人を
奪われても何一つできん愚か者だ」
言って顕輔はもう一度左京に接吻をした。女の裸身を顕輔は抱いた。
「…おやめ下さい…もうこれ以上は…」
「ふふ、かまわんさ」
「あっ…」
女は男の腕に抱き締められて官能めいた艶な声をあげた。しなやかな身体が男の上に重なった。蠢いた大きな影は
婬奔の匂いを孕んで魅惑の官能の香を辺りに放っていた。
そこで清輔は植え込みの影から身体を踊らせて中庭に飛び降りた。あまりにも酷い屈辱であった。彼の右手には懐
剣が握り締められていた。これで顕輔を刺すつもりだった。そして惨めな自分の人生にも清算をつける心積もりであっ
た。
「顕輔っ」
憎悪、嫉み、嫉妬、恨み、さまざまな感情を入り混ぜて清輔は叫んだ。もはや父に対しての敬意もなかった。向かい
合った一人の人間として、清輔は父の名前を呼んだ。
「なんだ…貴様か…」
女と重なった体を起こして顕輔はその哀れな息子を見た。不思議と顕輔にはさして驚いた表情はなかった。その替わ
りにあった顔は薄気味悪い笑いと、歪んだ口元に浮かんだ侮蔑の表情であった。まるで汚いものを見るかのような顔
つきであった。その顔に清輔は怯えた。相手が全く動じないのがあまりにも意外だった。途端、懐剣を握っていた彼の
手は小刻みに恐怖で震えはじめた。
「どうして震えているのだ。貴様はその小刀で私を刺すつもりではなかったのか」
平然と、薄ら笑いさえ浮かべながら顕輔は息子を嘲笑った。清輔は何も言えなかった。うつむいてただ視線を逸らす
より他がなかった。
「どうした、私を刺すのではないのか。しかしそれでもお前は所詮世間からの笑われ者だ。私を刺してもお前は笑われ
続けるぞ。恋人を寝取られて痴情に狂った馬鹿な男の所業というものをな」
顕輔の嘲笑の言葉はさらに続いた。清輔は全身が硬直して何もできなかった。もはや指一つもまともに動かすことが
かなわなかった。何もかもが叶わなかった。最後の望みさえも今まさに絶えようとしていた。
「いいか、お前は何もできんのだな。お前が左京を抱いたのもただの偶然なのだろうな。私を見ろ。お前と違い、私は
欲しい女を好きに抱くことができるのだ」
顕輔は几帳の影で震えていた左京を再度抱き寄せた。女は始めそれに抗う様子を見せていた。しかし色香を放つ女
の濡れた唇を顕輔は強く吸った。そしてその後、強く腕の内に彼女の裸身を寄せた。
「止めてください…若殿の御前で…」
「なに、奴は何もできん」
左京の抵抗はあったが、それがほんの形だけのものに過ぎないことは明らかだった。女はもはや色事師の手中に落
ちていた。艶かしい吐息が女の口から漏れた。父の言葉どおり、清輔は何もできずにかつての恋人の痴態を眺めるし
かなかった。
「これが色事だ。左京に何を教えてもらったというのか?女々しい歌を送ったものだ。何が涙を絞らせてくれだ。笑わせ
るな。お前はそんな男だ。歌もできない、色事もできないうじうじとした駄目な男だ」
最後に一際高く顕輔は笑った。呵呵という言葉がふさわしいほどに大笑をした。その瞬間、清輔の身体を縛っていた
硬直は解けた。高らかな笑い声が耳朶を刺して、清輔はようやく呪縛から解き放たれた。彼はようやくにして足を踏み
出した。だが、その足取りは動揺の為に酷く覚束なかった。
「あ…あ…」
喉の奥から絞り出すような声を発すると、彼はそのまま前にのろのろと二、三歩ほど足を進めた。そて彼は自分の右
手をもう一度見つめた。そこにはすっかりその存在を失念していた懐剣が握られていた。
またこれ以上恥をさらすのかと彼は思った。もはやそれは堪え難いほどの恥辱であった。顕輔は相変わらず口元に
笑いを浮かべて息子を凝視していた。耐えられない視線だった。これ以上この場にいることは清輔には我慢できなかっ
た。
「うっ…うわ」
醜い、淀んだ叫び声をあげて清輔は懐剣を地面に叩きつけた。中庭の土の上に懐剣の切っ先はめり込んだ。清輔
はたちまちの内に踵を返した。まるで脱兎のごとく彼はその場から逃げ出した。後を振り返りもせずに、彼は門を走り
出て、六条の屋敷の内から姿を消した。
「ふん、清輔め…死ぬ気か?」
意地の悪い笑いを浮かべて顕輔はその言葉を口にした。あそこまで清輔を打ちのめしたのだから、それは十分に考
えられた。
「ならば、仕方がないというものだ」
それを目論んでいた、というように彼は言い捨てた。実際、そうであっとしかいいようがなかった。顕輔の言葉の前に
清輔の精神は一瞬のうちに殺された。それは顕輔がこの邪魔な息子を葬ろうとして思いついた策に違いなかった。
「果たして奴は帰って来るのか…それとも…やはりあのまま死ぬか?まあ、どちらでもいいことだがな」
顕輔はいくつかの想像を軽く浮かべたが、それはほんの束の間に過ぎなかった。彼が完全な勝利者であることには
疑いが無かった。「奴こそ、本物の大馬鹿者というわけだな」 侮蔑の言葉を言い捨てると顕輔は再度左京の体を抱き
寄せた。彼は再び色事に戻り、濃密な女との交情にその身を再び沈めて行ったのである。
清輔はほとんど身一つで屋敷を逃げ出した。どこに行くでも行けるでもなかった。もはやこの世のどこにも自分の身
の置場がないような気がしていた。清輔に死を連想したという顕輔の言葉は的中していた。清輔はもはや全ての自身
を失ってしまっていた。ただ苦しみ、悲しみ、辛さだけが彼を強く縛っていた。こんなものを背負い続けては、到底生きる
ことができないと清輔は思った。
六条邸から五条の大路へと上り、彼は足を東に向けた。粟田口から六波羅を越えて山科へと入り、夜明け近くには
逢坂山を越える所まで彼は辿り着いていた。もはや都のある山城を出でている。逢坂を越えれば、そこは近江の湖が
広がる別の地域となる。
疲れた足取りを無理遣りに引きずりながら、彼は近江の湖を目指した。それは狂喜の行軍であった。どこまでも広が
る広大な湖が逢坂山の下ある。そこで彼は身を投げるつもりだった。六条清輔とは識られない場所で、誰にも笑われ
ずにひっそりと死ぬつもりであった。嘲笑われる呪縛から逃れるためには、もはやそしか無いと感じていた。
逢坂山の下り坂を歩いている時、黎明の微かな光が湖水の向こうから指しているのが見えた。清輔は重い足取りで
坂を降りて打出の浜に辿り着いた。眼前には雄大に広がる遥かな湖水が展開していた。水面は闇を受けてまがまがし
く澱み、打ち寄せる波はどんよりと濁ってしきりに浜辺へと押し寄せていた。
砂浜に座り、清輔はぼんやりと広大な湖を見つめた。ここで身を投げれば誰も自分の事など気付かないはずであっ
た。
(これで私のくだらない人生も終わりだ)
自棄になって清輔はうつむいた。夜明けを迎えたとはいえ、周囲はまだ薄暗い。闇が辺りに留まり続けていた。ほの
暗い、冷たい空気が取り巻く浜に清輔はしゃがみこんでいた。彼は何となく砂を掴んで目の前に掲げた。音もなく砂は
はらはらと落ちた。
(私など、こんなものだ)
最後になるはずの言葉を彼は胸のうちにしまった。これで終わりになるのだと彼は思った。もはや時世の句さえもい
らなかった。歌などもはや詠めはしなかった。後は水の中に体を横たえれば、全ての苦しみは去っていく。それだけを
最後の力として、清輔は立ち上がって体を起こした。
「うん?」
そこで彼は驚きの声を挙げた。ほんの少し前、まだ自分がその場に腰を置いた時、まだ辺りは闇に包まれていて、視
界も明らかではなかったのた。だが、僅かの間にそこは闇から光へ変わっていた。閉ざされた空間は一度に開放され
ていた。あれほど絡み付いていた闇の衣は一度に取れ去り、空気は朝の清々しさを持って一度に晴れ渡っていた。
近江は今、朝を迎えようとしていた。陽の光がうっすらと水面に映り、きらめくばかりの輝きを落としていた。それは
徐々に晴れていく霧の中に吸い込まれていく。澄んだ空気の中に舞う粒子、大気に浮かぶ小さな水の雫に朝日が当た
り、浜一面が輝かしいほどの光に包まれていた。
「美しい…」
それを今更のように呟き、清輔は立ち上がった。今から彼は身を投げようとしていたのだが、ふとそこで自分がまだ
生きていることに気が付いた。
「ああ…」
彼は大きく嘆息した。全てに絶望して死のうと思ったのに、まだそこにはこの美しい風景に感動して歌を詠もうとしてい
た自分がいた。それはあまりにも滑稽な姿であった。あれほど嘲笑われ、人生の価値を失わせるに一役演じたはずの
歌なのに、彼はそれを口ずさもうとしていた。死ねないのだな、と彼は思った。彼は大きく嘆息すると、もう一度重い腰を
浜辺にと下ろした。
彼は身動き一つせずに湖面に昇る朝日を見つめていた。この風景もいつか懐かしく思える日がくるかもしれない。そ
う思い彼は朝をひたすらに感じ続けた。
ふと、彼の頭に一つの歌が浮かんだ。それは普段の彼からはそうないことであった。いつも苦吟する彼は歌が自然に
頭に浮かぶことなどなく、毎度言葉を捻り、推敲を重ねるのが常であったのだから。
「長らえば またこの頃や忍ばれん 憂しと見し世ぞ今は恋しき…」
清輔は歌を口ずさんだ。ごく自然な調べであった。
長生きをしていれば、またいつか、この辛い時期の事も恋しく思い出されることであろうよ。そう思い、彼は歌を詠ん
だ。
「今は恋しき…」
もう一度清輔はその言葉を口にしてみた。死ねないならば生きていくしかないのだと彼は悟った。湖岸の朝の涼しい
風が水面の上を渡り、清輔に激しく吹き付けていた。この激しい風の中を清輔は渡っていくより術がなかった。
清輔は思い決したように烏帽子を外すと水際に近寄った。先程まで澱んでいたように見えたそれは、都にあるどんな
水よりも澄んで透き通っていた。清輔は両手で水を汲み、汚れた自身の顔を手早く洗った。冷たい水で疲れは癒され、
こびり付いた汗や泥、混濁した想いも全てが水に流されていった。清輔は立ち上がって伸びをすると大きく息を吸い込
んだ。そして彼は少しだけ笑った。
(終)