高長恭といえば、北済帝国の数ある将軍の中でも一、二を争う勇将であった。
現行皇帝たる武成帝の甥として、その威勢は帝国内に類を見なかった。軍人として優れた剣戟の才を有し、性は豪
胆にして勇猛。皇族として戦乱の時代の北済帝国を支える屋台骨の役目を果たしていたのである。
それでいて年若く秀麗であり、その美しさは道行く人々を思わず振り返らせるだけのものがあった。痩身にして端正な
顔立ちは、これでも軍人かと思えるほどの優しい容貌であった。
これだけの天分を与えられた彼は、北済でも随一の果報者と称され、人々の口の端にのぼる言葉といえば、「かの君
に全てあやかりたし」であった。彼は正に現世の絶頂にいたのである。
しかしそんな彼の心は晴れていなかった。彼はつい近ごろまで、自身が果報者であると信じて疑わなかった。宰相で
あった父高澄の残してくれた財は家に山積みとなり、贅沢の限りを彼は尽くすことができた。身分は北方節度史として
権力は皇帝に迫る。若死した父の高澄は武成帝高湛の兄に当り、高長恭自身は皇帝の甥にあたる。高長恭に寄せる
皇帝の信頼は篤く、皇帝が政治の下問を下すことも多々あり、政界に及ぼす影響は多大である。美貌はもって当代一
と讃えられ、彼になびかぬ女などいない。
こんな彼がやや傲慢となり、自分に対して自身をもっていたとしても、それはそれほどに責められるべき事実ではない
であろう。選ばれた人間には、それに付随した威勢が必要なのは当然であり、彼は正にその条件に合致していた。
しかし、彼の心は今揺れ動いていた。そのために彼はその日朝から酒を喰らい、政務も執らずに机上に突っ伏して、
揺れる心に己れを任せていたのである。
(まさかあのような小娘に、この俺が心を奪われるとは)
高長恭の頭に、またその少女の清楚な美しい顔立ちが浮かんだ。すぐに頭を振ってその妄想を振り払おうとするが、
少女の姿は彼の双瞼から去ろうとしなかった。
思わず、彼は手を伸ばしてその少女の幻影を掴もうとした。刹那、少女は横を向いて、高長恭から顔を背けた。気が
付けば高長恭は杯を重ね、脚を机の上に投げ出してだらしのない醜態をさらしていた。
(幻か…)
そうとは解っていても、また高長恭の目の前には少女の姿が浮かんできた。少女はにこやかに微笑んでいた。しかし
その微笑みは高長恭に向けられたものではなかった。別の誰かに向けられたものであった。
それが誰であるか高長恭は知っていた。いや、十分過ぎるほど知っていた。しかしそれだからこそ、高長恭は余計に
自分の心に対して素直に成り切れなかったのだ。 少女の名前は章蘭といった。年はまだ十四。高長恭と並び称され
る国軍の重鎮である斛律光将軍の娘であった。
北済軍の事実上の総帥である斛律光は名将として知られ、高長恭が尊敬して止まぬ軍人の鑑であった。謙譲にして
忠義の士である斛律光。その娘に彼は恋をしていた。
本来ならば、章蘭を手に入れるのは望みのままであった。身分的にも相応し、父斛律光とも親交は深い。財力、権力
とも何不自由ない身分の高長恭はが自身の望みを叶えるのは、別に難しいことではなかった。
しかしそれができないのは、章蘭がその幼さで、既に人妻であるということであった。 高長恭の従弟に高百年と呼ば
れる、まだ十六にしかならない若者がいた。章蘭はその者の妻となっているのだ。
現皇帝である武成帝は、皇帝であった兄孝昭帝の死後、皇太子であった高百年を廃して、自らその地位を奪って即
位した人物であった。暴力によって奪った地位は、常に細心の慎重さをもってその保持に努めなければならない。皇帝
は廃太子高百年の存在に怯え、官職にも付かせず都の片隅にその存在を放り出した。そして宮廷一切との関連を断
ち切らせたのである。
高百年はその落ちぶれた身をひっそりと鎮めていた。しかし、今年の春になって、そんな彼の身辺を揺るがせる事態
が起こった。
国軍の主である斛律光が、先帝との約束に従って、自身の娘を高百年に嫁がせたのである。このことによって彼の
身辺は急に騒がしくなり、人々から忘れられていた高百年の存在は、再び日の目を浴びたのである。
名将斛律光は国軍を率い、皇帝もその権力に対しては頭を低くするよりなかった。廃太子高百年がその斛律光の婿
となったということは、言い換えれば武成帝の地位を脅かす存在に再び成ったということである。
斛律光の娘を高百年に嫁がせることについては多々の反対意見があった。しかし硬骨の士である斛律光は、「先帝
陛下との約束である」として断固とした態度を取った。
そして今春、斛律光の屋敷でささやかな婚礼の儀式が行なわれた。当然、高長恭も招かれ、宴には姿を見せた。
その時に初めて高長恭は章蘭を見たのだが、式が進み、章蘭を見続けるごとに、高長恭はその清楚さと美しさに魅
せられる自分を感じていた。
思えば、二十六のこの年になるまで、これほど激しい恋に身を灼かせた自分は存在しなかった。彼がそのことを感
じ、酷い動揺と興奮の中に自身を見いだしたときには、式はすっかり終わっていて、章蘭は既に他人のものとなってい
たのである。
十六と十四の少年少女は、まるで人形のように可愛らしく、その場に居た人々に微笑と少しだけ野暮な笑いを起こさ
せたのだが、高長恭はそんな少年にさえ嫉妬を感じていた。 やがて床入りの儀式の前と成ったとき、人々は微かな笑
いで艶めいた想像を表したのだが、高長恭の頭の中は憎しみと嫉妬で一杯であった。
彼は早足に家に戻ると、片端から妾を押し倒して狂ったように欲望を遂げた。そうしていれば、翌朝にはこの目も醒
めてくれるだろうと期待した。
しかし、朝になっても目は醒めてくれなかった。ぼんやりとしたやるせない思いがどこかにあった。
それから数か月。高長恭は軍の努めは相変わらず無難にこなしていた。しかし、彼は時折おかしくなった。高百年と
章蘭の睦まじい話を聞くたびに、彼の心は妖しく乱された。 高長恭は低いうなり声をあげると酒の入った壷を手に取っ
た。そしてそれを口に当てると、一滴のこらず、底に溜まった全ての酒を飲み干してしまった。後には泥酔のいびきが
部屋に響いていた。
高長恭が礼物一式を携えて、高百年の元を訪ねたのはその数日後のことである。口実はなんでもよかった。同じ従
兄弟として親交をあたためるでもよかったし、また、斛律光に繋がる縁者としての訪問、とにかくいくらでも口実はつい
た。
なぜ彼がそんなことをしたのかといえば、自分の心に我慢がならなかったからである。眼前の幻は日に日に酷くなり、
それに対して彼は自分の心を押さえることができなくなっていた。
せめて実物を一目でも見たい。そんな陳腐な、この男には似合わない恋心が、彼の心中奥深くを蝕んでいたのであ
る。
「殿下、このような賎家によくおいでくださいました。突然の訪問に何ももてなしは出来ませぬがご容赦くださいませ」
高百年がそういって頭を下げたとき、高長恭は少し自身に対して後ろめたいものを感じた。目の前の少年はかつての
皇太子であったのだ。その少年が、一介の皇族である高長恭に対して「殿下」と跪いている。それを考えると哀れみの
感情が少しだけ高長恭に湧いてきた。
「いやいや、気にせずともいいのだ。貴殿も斛律光将軍の婿となったなら、近いうちに軍に籍を置くことになるだろう」
「はい。私は殿下を軍人の手本にしていきたいと思っております」
「ほう?この俺をか?」
「民は皆こう言います。『高長恭様には及びもつかぬが、せめて成りたし王侯貴族』と。殿下は皆の憧れなのです」
「ははっ、世辞を言われなくともよい」
「いえ、先年、殿下は北周帝国との戦いで大勝を修められました。あの時より、私は殿下のことを尊敬しておりました」
何やら面映ゆい気持ちになって高長恭は顔をしかめた。そしてこれは何か裏があってこういうことを言っているのかと
も思った。しかし高百年の目は輝いていた。少年が自分の上のものに対して感じる憧れ。その時の目を高百年はして
いたのである。
「時に…どうだね?夫婦仲の方は?」
慎重に、臆病さを持って彼はその話題を切り出した。知りたい、そして姿を一目でも見たい。そんな思いが頭を渦巻
いた。
「はい。おかげさまで」
「円満かな?」
「幸せなことです。何もない私のたった一つの幸せです」
ああ、と心の中で叫びがあがった。この世の栄華を享受した高長恭だが、ただ一つそれがなかったのだ。高百年の
言葉に対して、彼は全身の血が煮えて、どこかに失せてしまいそうになるのを感じていた。
「おお、これは失礼しました。章蘭、長恭殿下がいらしている。来て、お酒を御注ぎしなさい」
高百年がその名前を呼ぶと、しばらくして衝立ての影から一人の少女があらわれた。まだ幼さの残る顔立ちだが、美
しさはもう十分に女のそれを漂わせている。少女は酒壷を持つと、少しはにかみながら軽く高長恭に向かって会釈し
た。
「妻の章蘭です」
「む…長恭だ。貴女の父上の斛律光将軍には何かとお世話になっている」
「はい…父も殿下のことは申しておりました。父の話の通り、美しい方でいらっしゃいますね」
章蘭は高長恭の傍に立った。杯を机の上に置き、酒をなみなみと注ぐ。芳醇な香と微かな色香が高長恭の鼻先をか
すめた。
(美しい?私は本当に美しいのか?)
章蘭に言われた言葉は高長恭の頭に強く響いた。
(私を美しいというなら、そなたはこんな乞食皇子の妻などでなく、この俺の妻となるべきなのだ)
思わず、彼はそんなことを言おうとして、あわてて口を抑えた。そんな理性を無くしかけた自分に対して、彼は酷く狼狽
していた。「このような安酒は殿下のお口にはあわないかもしれませぬが、容赦ください」
そう言った高百年の言葉などもはやうわの空であった。たしかに言葉通りの不味い酒となった。うわべでは始終楽し
そうな顔をしながら、痛い心を隠して高長恭は杯を呷った。酒とはなんとつまらぬものだと思った。そして自身が酷く惨
めなものだと感じられた。
宮中より呼び出しがあったのはその数日後のことである。まだ高長恭は酒浸りであったが、皇帝直々の呼び出しの
命令を断るわけにはいかなかった。いくら叔父甥の関係でも、相手はれっきとした皇帝なのだから、形の上でも臣下の
ま礼は取らなくてはならなかった。
兄の遺言に背き、その子から位を奪ったために良い評判はない人物だが、武成帝は一代の傑物であった。早死にし
た兄孝昭帝の後を襲い、貧しかった北済をたちまち強国に押し上げた手腕は只者ではない。若い頃は高長恭と共に軍
人として活躍し、皇帝となった今も一軍を率いる勇将であった。
高長恭が参内したとき、皇帝は床に伏して、痩せた顔に蒼冷めて落ち窪んだ眼骨を浮かび上がらせていた。このとこ
ろ具合が悪いという話は聞いていたが、どうやらそれはかなり悪いようであった。
代々、北済王家の寿命は短かった。高長恭の父の高澄は三十に成る前に死に、その弟で北済の初代宣武帝は三十
で死んだ。先帝であり高百年の父孝昭帝は二十八で亡くなった。 今、病の床にある武成帝も、高長恭の叔父ではあ
るが、年はわずか五つしか違わない、ようやく三十路を越えたばかりの青年であったのである。
「それほどお悪いとは聞いておりませんでしたが」
意外に思った高長恭に返ってきた言葉は、かつての軍人皇帝からすれば想像もつかないか細いものであった。明ら
かに死が近いのだと高長恭には予想がついた。
「うむ…あまり、よくはない」
「なにゆえ、臣を呼ばれましたか」
「ああ、そうだな。少し聞きたいことがあるのだ。お前はこの前百年の所へ行ったらしいではないか」
「はっ、確かに出向きましたが」
「あれはどうしていた?」
武成帝はようやく身体を起こすと、苦しい息を何度か継いだ。言葉が漏れる唇は乾ききっていて、まるで死人のそれ
のようであった。
「はあ…お元気なようで…」
高長恭は曖昧にしか答えることができなかった。彼の意識は当時別なものに注がれていたのだから。だから、高百年
がどうであったかなど記憶にはなかった。叔父の考えなどすこしも及ばなかった。再び彼の頭を嫉妬がちらりと過った。
「そうか…元気か…」
二、三度咳き込むと皇帝は再び横になった。かと思うと、布団の中から右手を出してある方向へと指を指した。その
先にはいつも彼が座っていた皇帝の玉座があった。
「ああ…あの座…惜しいものだ…」
「どういうことですかな?」
「とぼけるな。お前は知っているはずだ。予の地位は百年を追い落とすことで手に入れたものだ。このまま予が死んだ
ら、あの位はいったい誰が継ぐのだろうかのう。予は我が子緯度にあの位を継がせたいものだ…」
武成帝は絞り出すような声でゆるゆると言葉を発した。武成帝の兄孝昭帝もやはり兄宣武帝の子から位を奪って即
位した。そしてその孝昭帝の子から武成帝は位を奪った。
「予が死んだら、おそらく誰かが太子緯度から位を奪うだろう。しかし予はそうはさせん。必ず我が子緯度に位を継がせ
てみせる……うっ…」
言った後、皇帝は強く咳き込んだ。高長恭の脳裏には、太子である高緯度の姿が浮かんでいた。
高緯度は名うてのどら息子として知られていた。年は百年と同じだが、酷い鈍物で、戦争、政治の何れにも才覚がま
ったくなかった。父の武成帝は狂疾の気があったが戦争は強く、優れた皇帝であった。
乱世の帝位は常に力があるものが継いだ。その理を皇帝自身がいちばんよく知っていた。知っていたからこそ、彼は
敢えてあがこうとしていた。自分が兄の子から位を奪った故に、なんとしても自分の子に位を伝えたかったのである。
「それで、臣を呼ばれたのはどういうわけですかな?まさか、そのような愚痴を聞かせるためではございますまい」
「ふふ、当然だ。………これは…命令ではない。ただ、予の…いや、わしの頼みなのだ。皇帝としてではない。叔父とし
てでもない。お前とは長い付き合いだった。お前なら、わしの最後の望みを聞いてくれると思ってな」「湛叔父上…」
「久しぶりだの。その名前で呼ばれるのも」 高長恭は皇帝の名前を呼んだ。まだ先代皇帝が在世していたとき、二人
は軍隊の一員として共に寝起きし、親しく語り合った仲であった。
「随分気の弱いことをおっしゃる」
「いや、お前には隠すことができん。わしはもう死ぬ。残念だが、もはやこれまでよ。しかし、百年のことが気掛かりで、
わしはまだ死にきれないのだ……わしが死んだら、百年が緯度から位を奪うだろう」
先皇帝の皇子でかつての皇太子。百年にはその資格が十分にあった。しかも、背後には斛律光の軍隊がついている
のである。それにどうひいき目に見ても、緯度より百年の方が優れている。
「わしにはあの百年に位を奪われるのは我慢がならん。頼む、長恭。わしのことを哀れに思うなら、百年をこの世から
葬り去ってくれ…頼む…頼む」
武成帝は無理に身体を起こすと高長恭の手を握ってはらはらと涙を流した。握った手は酷く冷たく、そして痩せ衰えて
いた。
(これがあの勇猛な叔父上か)
高長恭は酷くこの皇帝が哀れになった。暴君の気配はあった皇帝だったが、高長恭には優しい兄のような存在だっ
た。先輩の将軍として高長恭の面倒をよく見てくれた。辛い軍務、生死の境の危地も常に過ごした戦友だった。
その男が涙を流してこうして頼んでいるのを見ると、その手を無下に振り払うことはできなかった。
しかし、冷静に考えれば、緯度が位を継ぐよりも百年が皇帝に成ったほうが、帝国のためになるとは思われた。今は
決して太平の世の中ではない。南北朝と呼ばれるほどに、大陸の国々は別れ、そして醜く争いを続けている。隣国北
周は西方の精強な軍団を率いているし、南方には陳と梁の二国があって、それぞれがしのぎを削っている。平和な時
ならともかく、このような戦時にあっては、百年のほうが緯度よりも遥かに皇帝たる資格があるのだ。
それは当然のこととして高長恭は受けとめた。しかし、それとは別に、まったく違う考えが彼の頭に浮かんできた。
(もし百年が死ねば、あの少女は俺のものになるだろうか)
彼はふとそう思った。
礼節によって離婚というものはできぬ時代であるが、その夫が死ねば、妻が再婚することも十分に考えられる。
しかも百年を殺すことは、皇帝の意向にもかなうことである。
何かが高長恭の頭の中で回り始めた。酒を飲んだわけでもないのに、頭の上にぼやっとした曇りが生じてきて、やた
らと身体が熱くなってきているのがわかった。
「叔父上…貴方の言葉…とりあえず胸に収めさせてください」
曖昧な、非常にはっきりしない言葉を高長恭は発した。
「頼む…お前ならわしの願いを…」
眼下の皇帝はもはや床に横たわり、一つの力もないまま、うわごとのようにその言葉を言い続けている。
いったい、どうすればよいのか。その答えをすぐに導きだすのは高長恭には無理であった。彼は蕭然としてその場か
ら立ち去った。 しかし頭には武成帝の言葉がいつまでも響いていた。
高長恭は自宅の庭にある池の畔に佇んでいた。池は綺麗に澄み、人が覗き込めばその姿が容易に見れるほであっ
た。
高長恭が覗き込むと、端正で美しい彼の顔が映った。
「俺は美しい…のだろうか?」
とてもそうは思えなかった。こうして嫉妬の中で蠢いている自分は酷く滑稽に見えた。 しかし、だからといって章蘭を
思い切って、硬骨の士たるだけの勇気も彼にはなかった。何日か彼はそうやって自分を落とし込めていた。どうにもや
りきれない感情が続いていた。
章蘭のことは忘れがたかった。そして百年のことは嫉ましく思えた。あの少年は、この自分が求めてもどうしても手に
入れられないものを持っている。そう考えると全身の血液が沸騰しそうになった。
高長恭は座り込むと、肘をついて池を眺めた。顔は少しやつれて頬骨が落ち窪んでいた。妄執に取りつかれた人間
の顔だった。まるで叔父のようだと思い、彼は自嘲じみた笑い声を発した。微かに水面に波紋が浮かんだ。(もし百年
が皇帝になれば…)
彼はそんなことを考えてみた。確かに太子緯度よりははるかに良い皇帝となるだろう。そしてそれは北済のためにも
なることである。
「しかし…」
言葉を口に出し、その後の肝心な部分は頭の中に収めた。
(そうなれば章蘭は皇后だ。二度と手の届かないところにいってしまう)
ふと思えば、彼は自身の願望が酷く叔父武成帝と一致していることに気が付いた。百年に対して我慢がならないとい
うことは二人とも一緒であった。
「章蘭…か」
言葉に漏れたのは、ここの所寝ても冷めても頭に思い浮かぶ女の名前であった。ほとんど話したこともないのに、彼
はまるで少年のようにその少女に焦がれていた。もし百年が皇帝となれば、自身は臣下として皇后の前に跪拝すること
になる。想いは永遠に届かないままで、彼は屈辱に耐えなければならないのだ。
「ああ…」
大きなため息をついた後、彼は立ち上がった。心には相変わらず妙なわだかまりがあった。しかし、彼は今自分が何
をすれば良いかわかっていた。彼は手早く軍装に身を包んだ。そして、もっとも良く切れると言われると言われる干将
の剣を携えると、大股で闊歩しながら宮中に向かった。
高長恭は足早にと参内した。すっかり軍装にと身を包んだ彼はどこから見ても立派な流麗の貴公子であった。干将と
呼ばれる名剣を携え、彼は宮廷を闊歩した。誰とも会話を交わす事無く、彼は皇帝の寝室を目指した。
途中、幾人かの女官と彼はすれ違った。それらの者は、いつも彩のある視線を彼に向けてくる。この日もそうだった。
しかし今の彼にはそれに応えるだけの余力はなかった。普段ならば適当に相手をし、いささか艶めいた言葉さえ交わ
すことができた。だが、今日の彼は終始に沈黙を守った。
(俺は鬼かもしれんな)
彼はふとそう思った。もはや他の女の姿など一片も目にとまらなかった。昔ならどのような女でも平気で相手にした。
それが婢であろうが構わなかった。見目麗しい女なら本当に誰でもよかったのだ。
しかし、今は違った。強い執着があった。どうしてもあの少女の清らかな顔が頭から離れてくれない。自身ではそれを
女々しいと叱り、将軍にあるまじきことと自分を戒めるのだが、それは少しも効果を顕さない。
いや、思えば思うほど恋は焦がれていった。どうしても、あの少女を手に入れたかった。
高長恭は美しい男と周りの人々から言い続けられてきた。そして自身もそのつもりだった。しかし思えばその美貌は、
所詮本当に恋した一人の少女を引き付けられなかった。
(やはり、俺は鬼だ)
恋の嫉妬に狂った鬼。それが自身の姿と彼は思った。鬼だから、俺は人の心を引き寄せることができない。所詮、他
の人間は俺の魔性に魅せられているにすぎない。そう彼は心で呟いた。
だが、鬼であるからこそ章蘭を奪うこともできると彼は考えた。それが戦国の習いだった。力があるものが常に勝利
を修めていた。今度も必ず勝つのだと自身の心に強く言い聞かせた。
北済の宮殿はさして広くはない。武力を頼んだ国家のため、その宮廷も質実なものだった。たいした時間もかけずに
彼は皇帝の寝所に辿り着いた。
「来てくれたのか」
寝台に横たわったまま武成帝は喜びの声をあげた。その声は擦れて力がなかった。今の武成帝は息子のことを思う
哀れな妄執の人でしかなかった。そんな男が後継者に指名した太子というのがまっとうな人間のわけはなかった。果た
してこれでいいのかと彼は再度思い返した。
だが、百年と章蘭が並んでいる姿を思い浮べた瞬間、彼の迷いは一度に晴れていった。それだけはどうしても許しが
たかった。百年が皇位にあろうが、愚魯な緯度が皇帝になろうがどうでもよかった。ただ章蘭を手に入れられないこと
だけが我慢がならなかった。
「間もなく百年が参内する手筈となっております。どうぞ、別室に御下りください」
大声で叫びたいほどの感情を彼は圧し殺した。もはや人の言葉や自分の心に惑わされる場合ではなかった。事は必
ず成功させねばならなかったのである。
病床の皇帝と入れ代わり、彼は寝台に身を横たえた。寝具の中で彼は剣に右手を置いた。乱れた心は強い嫉妬でな
んとか支えられていた。しかしそうしていても、彼は自分の脳髄にまで、心の臓の鼓動が響いて来るのを押さえることが
できなかった。宮殿は静けさを保ち続けていた。武成帝によって、ここでは全ての人が遠ざけられていた。ただ、例外と
して高長恭がここに潜んでいた。皇帝の寝台に身体を横たえて彼は百年の到着を待った。張り詰めた空気の中で心臓
が脈打つ音がやたら高く聞こえていた。初めて戦場に出た時もこのようなものだったと彼は思った。そしてこれが実は
戦いだと思いなおし、彼はゆっくりと胸を撫で下ろした。
どの程度の時間が過ぎたのか。それはほんの四半刻の間にさえ足りないに違いなかった。だが時間は酷く長いもの
に思えた。静寂の中に張られた緊張の糸を、必死になって彼は保ち続けた。
やがて足音が遠くから響き始めた。百年の足音と彼は直感した。地面に臥せているので視界は定かでない。しかし確
かにその足音はこちらに近付いてきた。そしてその足音は部屋の中に入り、寝台の横で足を止めた。
「お召しでございますか」
百年の声がした。病人の代わりに寝台に横たわりながら、横目で高長恭は少年の姿を追った。少年は何も気付かな
いようであった。かつかつと足音が石畳の上に響いていった。その距離は正に指呼の間にへと迫っていた。高長恭は
剣を握り、身体を起こした。
「百年、お前に恨みはないが、命を頂戴する」
素早く寝具を払い除けて寝台から跳ね起き、高長恭は抜刀した。驚いた百年の顔が眼底に映った。しかし彼はそれ
を気に留める間もなく剣先を百年の胸に突き刺した。確かな手応えがあり、鮮血が地面を赤く染めた。
「うっ…」
少年は短く悲鳴を発した。さすがに百戦錬磨の高長恭の剣であった。即座に命を奪わないまでも、相手の急所を
深々と貫いていた。血混じりの泡が百年の口から滴った。どうと彼は地面に倒れ、荒い呼吸で高長恭の方を見つめる
他になかった。
「殿下…あなたは…」
「お前を生かしておくと国の災いを招く。これしか方法がなかったのだよ」
長恭は明らかな嘘をついた。自分の心を偽るためだった。
「それは…嘘でございましょう…」
百年は血を吐きながら高長恭を凝視した。冷たい視線だった。高長恭は何もかも見透かされたような心持ちだった。
彼は平静を装うと努力した。しかしそれでも構えた剣の切っ先が震えるのを止めることはできなかった。「殿下は…どう
しても手に入れたいものが…おありになるはずです…」
「何を言うか」
「貴方ほどのお方なら、望んで手に入らないものはありません…けれど、私が持っているただ一つのものが貴方には手
に入らない…」 高長恭はどきりとした。まさか、とも思った。全て見透かされていたことを彼は知った。それは識られて
はいけないことだった。蒼白な顔色となった彼は、半死人となって床に転がる高百年を見下ろしていた。
「うふふ…殿下はどうしても、それが欲しい…しかしどうしても貴方はそれが手に入らない…だから私をこのように…」
「黙れ!黙らんか!」
もはやこれ以上百年の言葉を聞き続けることはできなかった。早くこの事は終わらさねばならなかった。最後に残っ
た僅かな勇気と力をもって、長恭は干将の剣を百年の喉に突き立てた。断末魔も何もなく、静かに百年は目を閉じた。
床に再び鮮血が滴り、大きな染みが床に広がった。正気にと戻れば長恭は血溜りの中に立ち尽くしていた。全てが終
わったのだと、彼はこの時初めて理解した。
「見事だ…長恭…」
気が付けばいつのまにか皇帝が傍らにいた。病のせいで声は震えていたが、それにははっきりとした悦びの色が取
れた。長恭は肩を貸し、この瀕死の叔父を再び寝台に戻した。「これで全てが巧く行くはずだ。そなたのおかげだ。そな
たに、何でも好きな褒美を取らそうではないか」
「褒美、でございますか」
それこそが待ち望んでいた言葉だった。ようやく自身の手に入れられるもの。これまでの生涯で、手に入れるまでこ
れほどの労苦を背負ったものなど他にない。
「高百年の未亡人、章蘭を賜りたいと思いますが」
「なんだ、随分欲がないな」
違う、と高長恭は沈黙で叫ぶ。それこそが最も欲しかったもの。全てをなげうっても手に入れたかったものなのだ。
「…よし、それは許そう。しかしそれだけではわしの気持ちが済まない。お前の爵位を進めて王に任じよう。それでどう
かな」
「御存分に」
彼は言い捨てた。王の位などどうでもよかった。今、彼は最も欲しいものを手に入れたのだ。高長恭は剣の血糊を拭
うと、素早く宦官たちを呼び寄せ、死体の始末をするように言い付けた。百年の死は病死として片付けられることになっ
ていた。謀反の罪を着せたりすれば、国軍の実力者斛律光の罪を問わなければならなくなる。病死にして密かに埋葬
してしまい、全てを闇に葬るのが、当時の政争のやり口であった。
高長恭は素早く宮廷からその足を遠ざけた。後は全てうまく行くはずだった。彼は屋敷に戻ると、ようやく軍装を解い
た。重い荷がようやく肩から下りた心持ちであった。彼は床を取るとすぐに横になった。そして久しぶりに深い眠りを心
行くまで貪った。
百年の死は病死として片付けられた。それを頭から信じ込むものなど誰も居はしなかったが、敢えてそのことを口に
する事はなかった。ほんの僅かな例外を除けばだが。
やがて高長恭がの爵位が蘭陵王に進められることが決まり、斛律光将軍に肩を並べて国軍の中枢に据えられること
となった。
戦功は十分な将軍であったから、高長恭の叙勲はおかしなものではなかったが、この事態においてそのような事が
行なわれるのを訝しがるものも多数あった。
しかしそんなことを彼は気に留める余裕などなかった。彼は一層焦燥に駆られていた。なぜならば夫を失い、寡婦と
なった章蘭は、何度彼が招こうとも、決してその誘いに応じないのであった。
「貞節を尽くすのが亡き夫への務めでございます」
何度も出した使者はいつもこのような口上で追い返されていた。何をしても無駄であった。贅を尽くした贈り物をして
も、彼女は見向きもしなかった。
送り出した使者が贈り物を持って引き下がってくる度に彼は部下を怒鳴り付けた。おめおめと引き下がってくるとは何
事だと叱った。
そして、ついに彼は事を起こすことにした。彼は武人であった。こうなったならば、力付くでもと思った。既に皇帝から
の内諾は得てある。何も問題がないはずであった。
ある日高長恭は軽武装をすると騎兵数人を率いて亡き百年の邸宅へと向かった。今日こそはなんとしてもと考えてい
た。
門の前に着くと、百年は部下を引き連れて屋敷の中へと入り込んだ。彼を留めるものなど誰も居なかった。死んだ廃
太子の所に敢えて仕えるものなど居なかった。
高長恭は中庭へと足を進めた。そこには小さな東屋があった。それは以前彼が百年の家を訪れた時に、ささやかな
接遇を受けた場所であった。
「章蘭よ…」
そこに探し求めた女の姿を見て、彼は思わず感慨の声を洩らした。少女は物憂げな顔で東屋の椅子に腰を下ろして
いた。しばらくの間にその顔はすっかりとやつれ果てていたが、それでもその美しさは失われていなかった。
「長恭殿下、どうなさいました」
毅然として彼女は立ち上がった。彼がここに来たことを咎めるような声だった。
「貴女を迎えにきた。さあ、俺と一緒に俺の館に来るのだ」
「それは何度もお断わりしたはずでございます。亡き夫に貞節を尽くすのが私の役目です。どうか私のことは打ち棄て
ておいてください」
少女は強い意志で言い放った。声は少し擦れていたが、それでもしっかりとした意志がその口調からも取れた。どこ
までも頑なな態度だった。
「馬鹿な。そこまでして死人に忠義を尽くす必要もなかろう」
「いえ、そうでなくては、むざむざと殺された夫が哀れでなりません」
章蘭の言葉に高長恭は軽い動揺を覚えた。そうだ、と一人呟いた。百年を殺したのはこの俺だと彼は胸の内で叫ん
だ。しかし、それしか彼には方法がなかった。そうでなくては、目の前の獲物を捉えることさえできなかったのだ。
「いや、今度は何を言っても無駄だ。俺は力付くでも貴女を掠って行くつもりだ」
「何を申されますか」
高長恭は章蘭との距離を詰めた。飛び掛かれば獲物を手に入れられるほどに二人の間は近付いていた。じわり、と
章蘭は後ずさった。しかし、その背後には既に高長恭の部下たちが控え、彼女の退路を断とうとしていた。「なんという
ことを…」
「しかたがない。俺はそなたが好きだ。もう、この想いはどうしようもない。無理遣りでもかまわん。俺は何をしようと許さ
れるのだ」
一歩、一歩と高長恭は章蘭に近付いた。もう距離はほとんどなかった。手を伸ばせば少女の肉体を掴むことができる
ほどにまで近付くことができた。
少女は間近で見るとやはり端麗な美しさを保っていた。この花をようやく我が手にすることができるのと思うと、高長
恭の胸は高鳴った。彼はゆっくりと手をのばした。期待に打ち震えながら彼は章蘭を掴もうとした。
「近付かないでください、それ以上近付けば私は死にます」
夢見心地の高長恭は、突如として現実世界に引き戻された。そこには恐ろしい現状が広がっていた。眼前の章蘭は
両手で懐剣を握り締めていた。剣先が僅かに喉に触れ、柔らかな皮膚を傷つける。そこから、つうと一筋の血が流れ
落ちた。
「馬鹿な…」
「私は本気です。このまま貞節を全うできないなら、私はすぐに夫の元に行くつもりです」
「そんな、はずは…」
止めろ、と口にしようとしたが、彼はそれができなかった。こんなはずではなかった。美しい花は手に入れることができ
るはずだった。しかしそれは摘まれる事を拒んだ。もう少しで手に入れられそうなものはその手に落ちなかった。
『殿下には…それは手に入らない…』
ふと、百年の最後の言葉が頭をよぎった。彼はどこまでも高長恭の前に立ちはだかっていた。生きている時でも邪魔
な存在だったが、たとえこの世に居なくともそれは同じであった。
「止めろ…百年…」
目の前でふと百年が嘲笑ったような気がした。憑かれたように高長恭は呟くと、その場に座り込んだ。もはやどうしよ
うもなかった。欲しいものはどうしても手に入りはしなかった。
「どうぞお引き取りくださいませ、殿下」
追い打ちをかけるように凛とした章蘭の声が耳に届いた。もう駄目だと彼は思った。そしてその時の彼をどうかしてや
るだけの方策も人間もそこには居なかった。仕方なく彼は引き上げざるを得なかった。
高長恭は章蘭を手に入れることができなかった。彼は失望に打ち拉がれた。家に閉じこもり門を閉ざし、誰とも出会
わない日々が続いた。
やがて高長恭の蘭陵王への叙勲の式が行なわれ、その時にようやく彼は参内した。朝廷に於いて文武の百官の拝
謁が行なわれた。それは盛大な儀式であった。王となった彼は領土を持ち、家臣を幾人も抱えることとなる。皇帝、皇
太子に次ぐ皇族として、多くの宮廷人が彼の目の前に跪まづいていた。
この叙勲の式の時、高長恭は皇太子である緯度に出会うこととなった。
世間の噂どおりに太子は鈍物で、全ての返答に対してしどろもどろにしか答えることが出来なかった。本当にこんな
人物に国を任せてよかったのかと、彼の心はまた後悔に捉われた。章蘭亡き後、全てはただ悔いる気持ちで一杯だっ
た。自分のために、北済はこんな男に手綱を委ねなくてはならなかったのだと思うと、彼は闇の中に自分が埋まってい
くのを覚えた。
暗い気持ちで宮廷を辞そうとした時に、彼は章蘭の父である斛律光に呼び止められた。「殿下、娘は亡くなりました
よ。何も口にせず、ただ百年様のことを想い続けて…」
ほとんど無表情のままで斛律光はそう言った。それ以外、彼は何も話してはくれなかった。高長恭は絶望の思いにた
たき込まれ、自分の存在を全く見失った。
叙勲の後、小康を得ていた武成帝の具合は再び悪くなり、代わって皇太子緯度が政治を執ることになった。予定どお
りの筋書きであった。しかし鈍物の皇太子による政治は乱脈を極め、早くも不穏な空気が宮中に漂い始めた。
今や全てに疲れ切った高長恭は再び自邸に閉じこもり、酒浸りで執務もせぬまま、徒にぼんやりとした日々を過ごし
ていた。結局、彼は蘭陵王の位を手に入れた。しかしそれだけであった。他の何も、欲しいものなど手に入りはしなかっ
たのだ。
ある日彼は酔ったままで庭に座り、何度もため息をついた。全てがうまくいかなかった。なんでも思うままに行く気がし
ていたあの頃がやけに懐かしかった。
彼は姿見の池を覗き込んだ。池に端正な男の顔が浮かんだ。美しいが卑劣な男だった。自分の欲望のために罪もな
い人を殺し、国を誤らせ、それなのに欲しいものを手に入れられなかった滑稽な男の顔だった。
「汚い面だ。もう見たくもない」
大きなため息と共に彼はそんな言葉を吐き捨てた。本当にそうだった。もう、こんな顔を晒しているのは嫌だと彼は思
った。
ふと、彼はこの前の叙勲の時、皇帝から下賜された品物の中に、演舞で使う面があるのを思い出した。それは鉄で
作られた不恰好なもので、鬼の形相をした酷く醜い品物であった。
彼はそれを取り出してしばらく手に取っていたが、意を決したようにそれを被り、きつく紐で自身の顔に結びつけた。
不恰好な面が高長恭の顔に填まった。
(俺にはこの醜い顔で十分なのだ)
彼は笑った。乾いた、表情の無い笑いだった。その声は変わらない顔の仮面の下からどこまでも続いて響いてきてい
た。自嘲の笑いだった。もうこれでいいのだと思うまで彼は笑い続けた。
そして、蘭陵王は亡くなるまでその面を顔から外すことがなかった。
(終)