作品タイトル

恋の淵

その壱〜亭子院のこと
 そうでございますね。御話が長くなるといったのは、亭子院様の身の周りのことからお話しなければならないので、その説明に時間がかかり、また人々の関係というものが複雑に入り組んでいて、一つ一つを解いてお話しなければならないのだからですよ。
 亭子院様、この方は御諱を定省様と申し上げます。かつて帝の位にあった人をこう呼ぶことはたいへんな失礼ではありますが、私にとっては亭子院様というよりも定省様と呼んだ方が馴染みが深いですし、あの方がおかくれになった今となってもこの呼び方を捨てたくないので、これからはこう呼ばせてもらうことにします。
 定省様は水尾帝の貞観年間にお生れでございまして、御父上は時康親王様、後の小松帝でいらっしゃいます。御母は班子女王様で、これは式部卿仲野親王の姫さまでいらっしゃいました。
 こうして定省様の御両親を挙げれば、貴方は定省様が御皇位に着かれたのは当然と思われるでしょうね。しかし、実はそうではなかったのですよ。いや、当然というのはおかしい言い方でしたね。貴方はそこにとうに気付かれていて私を訪ねたわけですから。しかし、ここは物事の順序を正しくするために、先程言った通りに一つ一つをお話していくことにしましょう。省略などすると、却って解らなくなるかもしれませんから。
 定省様が御生まれになった時、お父上の時康親王様は常陸守、太宰帥などを歴任なされる、中央の政界からは遠い御方でした。太宰帥を務められたことから、この親王様を帥の宮とも申し上げました。親王でいらっしゃっても、日陰の官を務められるような方ですから、誰も時康親王様が後に小松の帝に成られるなどとは想像しなかったのです。それに、私ふぜいがこういうのはなんですが、この宮家はあまり厚遇はされていらっしゃいませんでした。定省様の母上の班子様の実家もさして身分の高くない宮家でございまして、時康親王さまが仁明帝の皇子という赫々としたものでいらしても、その力はほんの微々たるものでいらっしゃいました。当時の宮廷においては宮様方の家よりも白河の摂政良房殿の御兄弟や一族が幅をきかせていたような時代でございました。
 宮廷はまさに藤原氏の世の中であったのです。そのような時の定省様の御出生でございました。御父上の時康親王様も、御母上の班子女王様も、定省様の御将来を思われますと、これはもう手元に置いて養育されるよりも、どこか自分たちと心安く、出世の見込める貴族の所へ里子に出した方がよいと思われるようになったのでございます。これは後年私が定省様の御父上である小松帝から直に伺った話でございますので確かなものでございます。
 このことは、今の天皇家のご隆盛を考えれば信じがたいことかもしれません。しかし、当時はそのような状況であったのです。生母の実家には力が無く、加えて父である親王様は各地の国守を務められるような家柄では、時康親王様がそう思われたのも当然であったのでございます。
 そこでお父上の親王様は、普段自分が親しくしていらっしゃる中納言基経殿に、定省様を託すことになされたのでございます。この基経殿というのは後の堀川関白殿ですが、この時はまだ参議からようやくにして中納言に昇られたばかりで、それほどの高位というべきでもいらっしゃらなかったのです。
 この基経殿の時康親王様のお付き合いは古くて、まだ基経殿が参議になったかならなかったかのころ、宮中であったある宴の時に、何かの手違いで、一人の某氏にのみ、お膳が行き届かなかったことがあったそうでございます。本来ならば手違いを起こした係のものが強く罰せられるのですが、そんな時この親王様は何食わぬ顔で自分のお膳を差し出して、後は知らぬ存ぜぬでいらっしゃったそうでした。それを見た基経殿は「なんと心映えの良い親王様だ」と大変関心なされて、皇族と諸氏の間を乗り越えて深い付き合いをなさるようになったのでした。
 さて、この基経殿の妹に淑子様という方がいらっしゃいました。摂関家は自分たちの権力を保つために、自分の娘を次々と女御として入内させたのですが、この方は後宮を司る尚侍として御使えしていて、正式な結婚はされておりませんでした。
 ご存じのように尚侍や更衣などの女官は帝の秘書のようなものですから、帝さえその気になればいくらでも御手がつくことが十分あるのですが、この尚侍淑子様には、そういう話はとんと持ち上がらないのでございました。その訳は、この方の家に雇われていた私が言うのもなんですが、淑子様という女人は、どうひいき目に見てもあまり美しいとは言えない御人なのでした。
 当時の水尾帝の正妻として後宮の寵を受けていたのは淑子様の妹でいらっしゃった女御高子様でして、この方と水尾帝の間に生まれた皇太子様が、後の陽成院の帝なのです。そうです、基経殿、淑子様、高子様は兄妹でいらっしゃいます。この高子様というのは、姉上に似ずに小柄で美しい方で、その可愛らしさといえば後宮中に響いていらしたそうです。私は高子様を直に拝したことが無いのでそのお顔は直接知りませんが、このお方がまだ入内される前に、あの在原業平と、駈け落ちの罪を犯したことは、今でも語られるお話でございます。業平といえば天下の色事師ですが、それがまだ女としても花開かぬ少女であった高子様に心惹かれたのは、この御方にただならぬ魅力が備わっていらしたのでしょう。
 そのような妹様に比べると、淑子様という人は、女人としては甚だ冴えないお方でした。この人は大柄で気が強く、喧しく喋られる方でした。もっとも、尚侍を務められるほどの人ですから、相応の教養やたしなみもあるのでしたが、ともすればその強気がまずい評判を招くこともあったのです。
 業平の中将は恋に生きる色事師でしたが、晩年は零落して見る影もない有様でございました。この業平がある時、どうしてか淑子様に歌を送り、通ってきたことがあったそうです。

 白川の知らずともいはじ底清み
 流れて世々に住まんとも思へば

 そういう歌を業平中将は詠んだのです。白川に誓って、貴女の元に心変わりせずに通いますという意ですが、このような歌を詠むとは、在五中将も落ちたものです。この歌は私が淑子様の屋敷に務めている時に業平が送られたものなので、私には確かに覚えがあるのです。なにしろ、この歌を取り次いだのは私なのですから。その時には業平はもう五十を過ぎていたでしょうか。かつての美青年の面影もなく、ただ老いと貧しさに身を蝕まれた老人という印象しか私は憶えておりません。当時の淑子様も四十路にさしかかる姥桜という様子でして、いくら業平が貧していても、もう少し他のやり方があったでしょうに。要するに淑子様のもつ財貨が目当てで、業平殿はこんな歌を送って、美しくも無い女人に通ったわけです。
 その晩業平が、東山の山荘、淑子様の邸宅にやって参りまして、庭の植込の影にかくれて、かつての若い時のように月を背にして歌を口ずさんでいると、突然几帳の奥から淑子様の声が聞こえてきました。

 世の中の人の心は花染めの
 移ろい易き色にぞありける

 男の心などあっさりと変わってしまう。丁度それは染め物の色が褪せるようだという意の歌で、業平を退ける歌なのでございます。ここまでは風流なのですが、それから後がいけません。歌が終わった後、「そうれ」という掛け声と共に几帳の内側から、大きな音を立てて染め物の反物が業平の前に飛んできたのです。淑子様は業平の申し出を断ったのですが、ただ返すのもなんだと、歌にちなんだ反物をよこしたのです。しかしそれにしてもあまりなやり方でした。礼儀正しく歌を一つでも添えて渡せばよいものを、断りついでに投げてよこすとは私のような身分の低いものにもたまらないものがあります。
 ただ、もっとたまらないのは、業平がそれをおめおめと拾って持ち帰ったということです。老いれば駿馬も駄馬に劣るというのはこのことでございましょう。だからと言って淑子様の為されたことが良かったわけではありません。気の強さにまかせてそんなことを時折なさるので、淑子様の評判はあまりよくないのでした。
 評判が良く無いと言いましても、淑子様はたいへんな物持ちでいらっしゃいまして、それに水尾帝の寵姫である高子様の姉でもいらっしゃいますし、叔父の摂政良房殿からも格別に眼をかけられていましたから、財力といい、宮廷内での発言力といい並ならぬものがあったのです。
 多少話が逸れましたが、基経殿を介して定省様はこの淑子様のお屋敷に預けられることになったのです。その時の定省様はまだようやく三つ、四つ程にもお成りになっていたでしょうか。私が淑子様の屋敷に住むようになったのはその時です。私は丁度十になったばかり、まだ前髪の少年でございました。
 私の母は橘氏の末裔でございまして、たいそう男出入りの激しい女でございました。私は自分の父を知りません。ただ、母も若いときから宮仕えをしていたので、その時に行きずりとなった男の誰かが私の父なのだと思っております。私が十の時、母は上総介の某氏を新しい夫に選び、男と共に東国へと旅立って参りました。尚侍である淑子殿は母の上役であったのです。私は一人都に残されました。そして、母の縁故を頼って、淑子様の屋敷で定省様と寝食を共にするようになったのです。私の役目は定省さまの遊び相手でございました。こんなことを言うと、世捨て人の戯言と思われるかもしれませんが、私は遥か昔の光景を、定省さまと出会った日のことを今だに鮮明に記憶しているのです。水尾の帝の貞観十一年の神無月でございました。ああ、その晩もこんな夜のように時雨が絡み付くように降っていたでしょうか。
 淑子様のお屋敷に引き取られてからようやく半年も過ぎた私は随身所の片隅で、割り当てられた新しい衣を敷いて休んでおりました。それまで私は炊屋に詰めて料理人の真似事のようなことをしておりました。その日に、新しく淑子様がお引取になったという公達のお世話をするために、私はそれまでの職を解かれて、牛付きや小使いの控える随身所へと昇ったのです。
 板張の床は、冷たい土間とは比べものにもならない暖かさで、私は心地よい眠りについておりました。ゆっくりと、静かに降り注ぐ時雨の雨音が、向かいの回廊の先にある釣殿の縁下から微かに、しかし途切れることなく続いて聞こえておりました。
 その時、私は雨音に混じって、童の声を聞いたのでございます。なんだ、と思って私は眼を覚ましました。起きて私は、随身所の棟が空になっていることに気が付きました。その晩は淑子様が兄である基経殿の所にお出かけになっておりまして、随身所の連中の大半が出払っていたのです。私が寝呆け眼で眼を擦ると、牛付きの連中の声と共に、けたたましく廊下を走る音がしました。
「これ、わが子よ。そんなに急いで走るものではない」
 淑子様の声が足音の後よりします。私は主人である淑子様を迎えるために、眠たいのも早々にして身を起こしました。
 その時でした。随身所の入り口、回廊の端より、まだ前髪の童が小走りに部屋の内へと入り、眠たい眼をしょぼしょぼと瞬きさせている私に飛び付いてきたのは。
 驚いて小さな叫び声をあげた私の首筋に、童はしっかりとしがみついていました。息を乱しているのか、荒い息遣いが私の耳朶に聞こえました。なんだ、と思うより先に、私は童の背中を抱え、静かにその背中を擦っていました。
「うむ、どこに行ったかと気をもんでおったら蓼男の所か。これは都合がよいわ」
 淑子様の声が後からしました。蓼とは私のことでございます。私の本姓は橘氏でございましたが、子供のころの私がいつもむつかしい顔をしているので、誰もが「酢い甘いがある橘というより、お前は辛い蓼だ」というので、いつしか私は蓼男という名で呼ばれるようになっていたのです。
「淑子様、この御方はいったい…」
 多少の驚きを込めて問うた私に、淑子様は素早くお答えになりました。
「お前がお世話をすることになった七ノ宮様がその御方だ」
 どこか、淑子様の言い方には鼻でくくったような尊大なものがありました。少しお酒を召していらっしゃるらしく、微かに酒の香が袿から漂って参りました。まったくもって不遜なことでした。淑子様がいくら物持ちでいらっしゃっても、相手が宮様ならば、もう少し丁寧な言い方があったでしょうに。しかしその時の私は淑子様の態度をどうのこう思うよりも、まさか相手が宮様であるとは思ってもいなかったので、そのことの方の驚きが大きかったのです。
「七ノ宮さまですと。では、私は宮様のお世話をするのですか」
「はは、その通りだね。蓼男、精々とお世話をするんだよ」
 衝撃と恐ろしさでおずおずと見上げた私を見ると、淑子様はまた大きな声を立ててお笑いになられました。
「何を怯えているんだね。何を驚く必要があるんだ。時康親王殿の所では、手元不如意で、宮を養えないから、この私に世話の鉢が回ってきたんだ。いいのさ、いいのさ。この淑子の子供と思って育てればいい。なにを怯える必要がある…はは…」
 高らかに笑いの声を挙げられると、淑子様は其の場に座り込まれました。疲れを含んだ大きな呼吸の息からは確かに酒の香りがしました。関白基経様の御兄弟は何れもお酒が好きで有名でしたが、この淑子様もやはりたいへんお酒が好きで、その晩もどうやら兄君の所で随分と過ごされたようでした。
「しかし、宮様の御面倒を見るとなると、この私ふぜいでは…」
「お前だから尚いいのだ…子供の面倒は子供が見るのが一番なのだ。私が面倒を見るわけにはいかんだろう…なあ…蓼男よ」
 途切れ途切れの言葉を呟かれる淑子様の両脇に、屋敷務めの女房たちが寄って、淑子様の両脇を抱えると、まるで拉致するよに、淑子様をあちらへと引きずっていきました。女人が醜く見えたということは、出家の身の私に思えたことは幾度もあるのですが、それは十指に数えることができるほどの醜態でありました。私は気味悪さをもって、酔いながら周囲の女房を呂律の回らない口調で怒鳴り散らす淑子様を見ておりました。あれは何の肉だとと思いました。今にして思い返せば、その時から私の苦難の道程は始まっていたのでございます。
「たでお」
 私が嫌悪の意識から、直視すべき現実へと引き戻されたのは宮の、定省様の声でございました。私と淑子様のやりとりなど、幼い定省様に解るわけがありません。しかし、そんの中でただ一つ、定省様が憶えたものがありました。それが私の名前である蓼男であったのです。
 嗚呼、と私は心の中で呟きました。私の胸の上には、幼い定省様の温もりがありました。小さく、可愛らしい童の顔が私の前にありました。私は生まれてからこれまで、かほどにか弱く、そして美しく見える生きものを見たことがありません。私には兄弟が居りませんでした。たった一人の肉親である母とも別れた子供の私は孤独でした。その私にとって、童姿の定省さまは、初めて触れた人のぬくもりだったのです。
「たでお、というのだな。名前は」
 まだ上手く呂律の回らない言葉で定省さまはおっしゃいました。私はその言葉を聞きながら、ゆっくりと定省様の置かれた境遇というものを確かめておりました。この宮様はあまりにも不憫でした。これが中央に近い皇嗣の方か、諸氏でも高位の公達ならば、その将来は時めいて約束されたものであったでしょう。しかし皇子たる方が、宮家の経済的な事情で母上たる班子女王様の元から放され、誰も見も知らないこの山荘でこれからの毎日を送られるとは。私はその時の定省様を思うと、今でも涙が零れるのです。
「左様でございます。蓼男と申します。誠心誠意、宮様をお世話させて頂きます…」
 私の双眸から、不意に涙が溢れました。その時の私は本当に泣いていたのです。これほどにも幼くしてその母より引き離された定省様があまりにも悲しく、そしていとおしかったのです。私の目から
「なあ、どうして泣くのだ。泣くな、泣かないでくれ」
「は、はい。失礼いたしました。もう泣きませぬ」
 私は慌てて着物の袖で自分の涙を拭いました。今にして思えば、それが定省さまの命を受けた最初であったのです。私は不覚を取りました。御対面の最初を涙で汚し、なおかつ主人たる方にそれを咎められる失態です。しかしそのおかげで、この出会いのことは、一挙一動の全てを忘れかねる強い記憶となって残っているのです。
「これからはこの蓼男になんでも申し付けくださいませ」
 そして私はそのような大人じみた返事を返しました。おかしな話ですが、そのような言い方をすることに、少しの躊躇いも感じていなかったのでした。まだ十を過ぎたばかりの私でしたが、この宮に全てを捧げて御仕えしようと私は強い決意を感じておりました。
 私は定省様を抱いて立ち上がりました。小さな童は私の胸にしっかりとしがみ付いて、安心した顔で、じっと私の顔を見つめていました。強い幸せでした。この時の私はかけがえのないものを手に入れたのです。
 こうして突然の出会いを経まして、淑子様の山荘で私と定省様の生活は始まっていったのでございます。
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