その弐〜宮廷での日々
淑子様の御屋敷での暮らしは、特に何かに不自由するということはございませんでしたが、その中身は親王の御子である皇族の公達にしては、あまりにも質素であると言うべきでございました。
しかし、そのような愚痴を当時はまるで思いもしませんでした。皇族の王子である定省様が外出する時に付くのは御者一人と牛車一台だけでございましたが、定省様が父親王様の所にいらした時よりは、ずっと良い暮らしぶりであったのです。
その当時より荘園の貴族寄進が激しくなりはじめまして、力のある家は益々富を貯えるようになり、そうでないものの貧しさはその酷さを増しておりました。親王家といえども、宮家に当てられた扶持だけでは暮らしを営んでいくのに遥かに足りなかったのです。かの業平も阿保親王様の血を引く、いわゆる降下した皇族の一人でしたが、晩年は先程お話したように、貴公子にあるまじき窮乏した暮らし向きであったのです。ましてや皇子の多い時康親王様の家ではなおさらでございました。
淑子様の山荘で、私と定省様の平和な日々は過ぎていきました。思えば、あれが私の人生の上で最良の日々でございました。後になって定省様が皇位に付かれて雲居の人となった後も、私は特別の御者として目をかけていただきまして、暮らしはその時のほうがずっと良かったのですが、心の充実という面では、あの山荘での十年余りが一番のものであったと思うのです。
定省様は賢いお方でした。特に何がお得意であったというわけではなかったのですが、あの方は何事も一通りの事はお出来になりました。公達の最も必要な素養とされる漢詩についてもよく学んでいらっしゃいました。歌についても、特に誰かに学ばれたというわけでもなかったのですが、わりとよく詠まれました。
しかし残念なことに、私は定省様の作られた漢詩、歌については、どれも秀作とは思うのですが、これが素晴らしく記憶に残るというものは、ある一つの歌を除いてほとんど思い出せないのです。どうしてそんなことになったのでしょうか。これはもう、私のような門外漢が言うべきことではないのでしょうが、言ってしまえば情熱の問題ではなかったのかと思っております。あの色事師の業平は多くの恋歌を詠みましたが、そのほとんどが、恋愛からの情熱より来ていたのは言うまでもありません。しかし定省様が歌にそのような情熱を燃やされたのは、私の識るただ一首でございます。
ええ、その一つの歌ですか。そのことについても、追い追い話して行こうと思っておりますので、どうぞ腰を落ち付けてお聞き願いたいのです。
ごくごく自然に山荘での十年は過ぎました。淑子様は宮廷での御用が忙しいので、館には時々の宿下がりでしか戻ってきませんので、その暮らしは実に静かなものでございました。その間、定省様は皇族の地位を離れて源の姓を賜っていらっしゃいました。これは父の親王様が「いつまでも皇族の身分では、出仕して人並みの官位に着くこともできぬ」というお考えで、そのために水尾の帝と摂政良房様に特にお願いしてそうされたとのことです。定省様の身分は淑子様の猶子となっておりました。「猶、子の如し」と云う様に、養子に次ぐ待遇として遇されるようになったのです。
しかし、だからと言って淑子様が幼い定省様の母代わりをするようになったわけではないのですよ。前にもお話した通り、この人は後宮を取り仕切る役目を担っており、また女御高子様の姉上として権勢を振るっていた女傑でした。ですが酒好きで粗暴な一面を持っていたように、女としての母性からは著しく外れた人だったので、とても定省様の面倒など見ることができないのでした。
それどころか、たまに宿下がりで帰って来た時になど、基経殿の長兄でこれまた朝廷屈指の大酒飲みである大納言国経殿の所から頂いてきた酒を瓶子であおりながら、
「どうしてわが子はそのような冴えない容貌なのかね。父の親王はあのように輝くばかりの姿というのに、これではたまに戻ってきても、館が少しも映えぬ」
と、酔いに淀んだ目で、じろじろと定省様を眺めることなどさえあるのでした。
私は定省様の御容貌が冴えなかったなどとは少しも思いません。本当に目元の涼しげな、爽やかなお姿の御方だったと思っております。しかし、たしかに父上の親王様に比べると数段劣っていたという事実は否めません。父上の時康親王さまは、その美しさを後世に伝えられるほどの美形の貴公子でいらっしゃいまして、当時の宮廷で、業平とその美しさを比べられたとされるほどです。
この親王様が春の七草を摘まれたことがございまして、その時は睦月の雪がその衣の上に静かに積み重なっていくお姿を、同じように若菜を摘みに来た宮廷の女房達が、茫然と手をとめて、恍惚の眼差しで見つめていたというのは、もはや語りぐさでございます。親王様の涼しく整ったお姿が、本当に降りしきる雪にお似合いだったと聞き及んでおります。それほどの方を御父上にお持ちの定省様でしたので、淑子様はそのような事を言ったのでしょうが、それにしてもあまりの言い草でした。
そんな淑子様でしたので、定省様のお世話は全てこの私、蓼男が差し上げていたのです。定省様は利発な方で、私に何一つ無理なことを御言いになられませんでした。まだ幼いときにはさぞかし母上に会いたかったであろうと思われます。そんな時に私が
「お母さまに会いたくないのですか」
と御尋ねしますと、定省様は何もおっしゃらずに、いつもゆっくりと首を御振りになるのでした。決して自分から、母上に会いたい等とは仰られませんでした。そんな定省様でしたから、私は一層誠意を尽くして御仕えすることができたのです。
私が定省様と暮らしを営んでいる間に、時代は次々と移り変わって参りました。水尾の帝は生来御病弱でいらっしゃいましたが、在位十七年にして、二十七の若さで位を皇太子貞明親王に譲って上皇になられると間もなく崩じられました。貞明親王という方が、いわゆる陽成院でいらっしゃいます。
その数年前には摂政良房殿も世を去り、代わって甥である基経殿が太政大臣として、藤原摂関家の氏の長者となっておりました。
だいたいこの人は権中納言長良殿の三男で、兄上に大納言国経殿という嫡男がいらっしゃったのに、父上の身分、兄上の身分を飛び越えて太政大臣にまで成られたのは、よほどの人物であったからなのです。強気であったという点は妹御の淑子様と同じでして、政治にも自分の意見をしっかりと持った、意志の強固な大臣でございました。
この方がいかに政治家として優れていたかというのに、次のような逸話がございます。水尾の帝の貞観のある年、内裏南の応天門から出火し、辺りの楼閣全てが灰燼に帰すという火災事変がございました。この時、左大臣源信殿が犯人とされて、その時にまだ参議であった基経殿に、左大臣殿を逮捕するように命令が下りました。しかし基経殿は左大臣が濡れ衣を着せられたものと察知し、素早く帝に奏上して、源信殿の嫌疑を晴らされて、新たに調査を始められたのです。その結果として、あの伴大納言が真犯人として捕らえられたのはあまりにも有名な話でございます。基経殿はこのように機知に富んだお人でしたから、太政大臣という、国政の総帥である地位に着かれたのもそれほど不思議なことではありませんでした。
時代はそのように、陽成の帝と基経殿の御代へと変わっていたのですが、私と定省様はそのような時代の流動からはとり残された日々を送っておりました。定省様は十六歳になっていらっしゃいました。この歳までまだ前髪の童子でいらっしゃったので、出仕とかそういう宮廷の事情にまったく無縁であったのです。そんな定省様がようやく元服されたのは元慶六年のことでございます。この年に、同じく陽成天皇が元服されて、関白基経殿のお手から離れて政務を取ることが決まっていましたので、それに合わせて出仕することとなったのです。
元服された定省様は、私には正に見目麗しい貴公子として映りました。前髪を落として垂纓の冠を正しく冠り、束帯姿も新しく、まだ白木の香も微かに薫る笏を持たれたお姿は本当に父上の親王様の若い頃を彷彿させるような見栄えであったと思うのです。さすがにこの時は淑子様もご機嫌でして、
「このような美しい者を手元で眺めるために私はこの子を頂戴したようなものさ」
と、例によってお酒を召し上がりながら、兄上の大納言国経殿や関白基経殿にそのような事を言っていたのです。
「定省殿も今日より殿上人の仲間入りとなる。十分に己れの才を尽くして帝にお仕えしてくれ」
そんな事を言ったのは関白基経様です。元服の日には、淑子様の男兄弟の方々が集まり、何れも大変にお酒が好きな人たちなので、元服の宴は華やいだ場というよりも、酒気に溢れた騒がしい場となっていたことを良く憶えています。
「この定省、不才ではございますが、お若い帝の御力になりたいと思っております」
「よい心がけだ。何しろ帝には軽率の御振る舞いが多い。そなたのような落ち着いた若者が今の帝には必要なのだ。わが国の政治は帝に全てを託されている。短慮があってはならない御立場だ。そなたは侍従として帝を御助けするのだ」
基経様のこの言葉は、定省様という方の立場を、自分に酷く都合の良いように曲げたものであったことはすぐにお分りと思います。陽成の帝は十五歳に成られ、自身を常に無視して政務を進める基経様を疎ましく思いがちになられていたのです。その傍に、基経殿のに近しい者が侍るということは、帝に対して常に小さな刃物を突き付けているようなものでございました。そして、それは基経殿にとっては利益でございましたが、定省様にはたいへんな危険でもあるのでした。
陽成の帝という方は、良くも悪くも闊達なお人柄で、自分の意にそぐわないことは頑としてお聞き入れになられない方でした。それは生まれながらの帝王の血筋がそうさせたのと思われます。この帝は御出生の時にすぐに皇太子に立てられ、僅か九つで水尾の帝の跡を次がれて天子となられました。このような輝かしい路を歩んでこられた若き帝はいつまでも朝廷を我が者とする老獪な基経様に反感を憶えていらっしゃったようです。そのような中で侍従となった定省様の立場は微妙なものでございました。
「では…帝には最近狂騒の疑いがあるというのは本当だったのですね」
基経殿から差し出された返杯を受けながら定省様は曇った顔つきでお答えになられました。定省様の頭が軽く下がると、結われたばかりの鬢に付いた椿油の照りが灯の朧な明かりを受けて濃淡を返る様が、私にはたまらなく美しいものに感じられました。
「ふむ、識っておったかね」
「多少は聞き及んでおります。播磨の内侍が井戸に落とされたことは義母より教えられましたが」
「ううむ、そのことも既に知れ渡っていようとはな。まだ犬を相手にしているうちはましだと考えておったのだが…」
基経殿は精力的な横顔に少しだけ影を落とすと、鼻筋をやや歪めて、定省様の方を向き直られました。定省様は真摯な面持ちでこの大臣を見つめていらっしゃいました。
陽成の帝という方が、良くも悪くも血気盛んな御方であったということは先程お話しました。まだお若く、とかく恐いもの知らずで育たれた陽成の帝は、その気質のために、時折粗暴な振る舞いをされることがあったと聞き及んでおります。
この帝は幼い頃からその乱暴な性質がおありでして、まだ童姿の時に、樫の木の棒を持って辺りじゅう振り回し、帝に寄ってきた幼気な犬の子を叩き殺したなどの物騒な話が伝わっておりました。
基経殿の言う、播磨の話というのも、そのような帝の御乱行の一つであったのです。この話は後宮に御仕えする淑子様が私たちにお話になったものですから、相当な信憑性はあるでしょう。その当時、後宮に播磨の内侍と呼ばれる女房がおりました。この女は何事につけても万事が愚図の人で、物事をきちんとやり遂げることが覚束無かったそうです。
まあ、それが罪であるといえば仕方がないのですが、人にはそれぞれの能力と言うものがある以上、帝王としては多少の事は大目に見るべきでございましょう。しかし陽成帝はそうではなかったのです。ある朝、帝がお召しになる服が更衣の所へ届いていないことがありました。これではいけないとして、その更衣は播磨の内侍に朝顔の文様の装束を持ってこさせるように頼んだそうです。
しかし随分長い間かかって運ばれてきたのは、何をまちがったか浅黄色の着物が持ち込まれたそうです。
確かに、どう考えても非はこの播磨という女にあります。浅黄色の着物など、下位の者が着るのですから、たとえ聞き違えたとしてもそのような着物が求められていないことは、多少の知恵を働かせれば解りそうなものです。しかしこの女官はのこのことその着物を持って現われたそうです。
これですっかり癇癪を破裂させた陽成の帝は、棒でもってこの播磨を散々に折檻したそうです。そしてついに怯えて泣き喚くこの哀れな女を、仁寿殿の露台前の井戸へと突き落としておしまいになったそうです。
こんなことがあってから、陽成の帝は一層恐れられるようになり、朝に帝の御着替えを手伝うことになる更衣の連中は、今日は何事も起こらぬ様に、神仏にとお祈りしてからこの役目に臨むようになったとの話でございます。
「近ごろ、帝の奇矯な御振る舞いは度を過ぎたものがある。定省殿もこれからは帝のお側に仕えることになるが、間違いを起こさぬように気をつけるのだ」
基経殿は噛んで含むような口調で話しながら、定省様の様子を伺うような視線を杯の端からちらりちらりと覗かせていました。今までに語った言葉には色々と含む所があったので、基経殿はそのような態度を取られたのでしょう。
「私にはただ御仕えすることしかできませんよ」
基経殿の言葉にも、定省様はただそう御答えされるばかりでございました。
そして間もなく定省様は基経殿によって従五位下侍従に任ぜられまして、帝の側近の一人として、その傍らに控える御身と成られたのです。
定省様の元服及び出仕というのは、私の生活にも大きな変化をもたらしました。それまでの私はお屋敷においての定省様の遊び相手に留まっていたのですが、今度の御出仕によって外出の機会が頻繁となり、私はその舎人として、定省様の御車に付き添う役目を新たに与えられたことでした。
元服された定省様はもはや子供ではございません。これは淑子様の差し金ですが、妻を娶られたのです。そのうち正妻となった義子は、私の叔父と言われる参議橘広相の娘でございます。なぜ「言われる」などと申し上げたかといいますと、私という人間は母の私生児でございまして、正当な橘の一族とは認められていなかったからなのです。伯父の広相は定省様の元服を機に、私にも出仕を進めてまいりました。お仕えする若様も成人されて、後に役目は残るまい。父親の無いお前には高位は無理だが、私が引き立ててやるから出仕を願った方が後世のためだ、とそんな事を伯父は申しました。
嫡出では無いとはいえ、出仕して叔父の後ろ盾を受ければ、枯れたとはいえ一応私も橘の一族ですから、下級官吏に甘んじるであろうことはともかくとして、晩年には少納言くらいの地位は得ることができたでしょう。しかし私は伯父の申し出をきっぱりと断りまして、引き続き定省様のお側に仕える道を選んだのです。私は二十二歳になっておりました。本当ならばここで妻の一人でも持たねばならぬところでしたが、私はそれをしようとはしませんでした。
私がどうして結婚をしなかったのか。私に気後れがあったといえばそれまでのことです。しかしその気後れがなんであったのかというと、これは複雑なものがあります。庶出の生まれ、母に捨てられたことによる女性への恐怖等、理由を挙げればきりがございません。しかしその最もたる理由は定省様の存在でございました。私は家庭を持つことで、定省様への御奉公の態度が変わることを恐れたのです。徒に家庭を持てば、私の気は定省様か妻子に向いてしまうかもしれない。そのことを私は恐れました。私は全身を以て定省様にお仕えするために妻帯を望まなかったのです。そのため、私の血脈は私一代で絶えようとしております。しかし定省様の御血筋は後世に引き継がれ、今の皇室の繁栄ぶりを見るにつけ、私は嬉しさで、出家の身でありながらも胸を一杯にして思わず歓喜の涙が零れて来るのを憶えるのです。
さて、そんな風にして私は御者となって、定省様がお出かけする時に常にそのお側に侍る身となりました。出仕されてからの定省様は、侍従として陽成の帝の側近としてお仕えすることになりましたので、頻繁に参内される日々が続きました。
侍従はいわゆる帝の秘書役でございます。醍醐の帝のように、常に御自身で政務を執られた賢君の御代では、その側近である侍従という役目は重く、国政を担う立場になります。しかし陽成帝の時代、政治の実権というものは帝にございませんでした。五十路を越えてもなお政界に君臨する太政大臣基経殿が、しっかりとその権力を握って放さなかったのです。よってこの時代、侍従という役職は帝の遊び相手とさして重要でもない政務を助ける程度のものでしかございませんでした。
しかし、この帝の相手というのが、非常に骨の折れ、なおかつ危険な仕事でございました。陽成の帝は、これまでに申し上げた通りの気性でいらっしゃいましたので、いつその暴虐の手が伸びるか解らないような状況であったのです。ですから、参内の日というものは、私はいつも仏にお祈りすることで定省様の安全をお祈りしていたものです。
この時の定省様は従五位下でしたので、陽成帝のお住まいである清涼殿に昇殿が出来ましたが、私は官位の無い陪臣ですので、そこまでお着きすることが出来ません。そこで私は定省様が参内して清涼殿に昇られると、お帰りになるまで、紫宸殿の側にある河竹の傍らで待つことを続けておりました。
定省様と陽成の帝のご関係は、はっきりと言えば芳しくないものであったと申し上げておきましょう。というよりも、これは帝が一方的に定省様のことを侮り、見下していらしゃったからでした。無理無いことといえばそれまでです。陽成帝は仁明帝、文徳帝、水尾帝と、代々続いた皇家直系の血筋の方で、幼い頃から何不自由なく育てられた方でした。加えて定省様が控えめなお人柄でしたので、陽成帝が定省様を見下す態度というものは一層増したと私は考えているのです。
また、こういってはなんですが、陽成帝の周囲に侍っていた人たちにも、それほどの人物はおりませんでした。あの業平中将も、その取り巻きの一人になっていたものです。あとは、陽成帝の乳兄弟であった源益という男が幇間のような役目を務めておりました。この男の父は嵯峨の帝の子孫である源蔭という、官位はあるのですが役職のもらえなかった人でして、その人の息子ですから、この益も知れたものでございました。
このような人々の中に定省様は混じってお仕えすることになったのです。その御苦労は、直に側でお仕えしたこの私が一番良く識っているつもりでございます。
ある時、こんなことがごいました。それは文月の始め、相撲の節を間近に控えた初秋のことでございます。
「今年も相撲の季節が近付いたが、今年はいかがな相撲人が来るであろうかな」
そう言い出したのが陽成の帝であったことを憶えております。その声ははっきりと殿下に侍る私にも聞こえておりました。
「今度の節に堀川殿は相撲人をお出しにならないと聞いておりますが」
源益の声でした。途端、陽成帝の激した声が上がり、御座所より帝が立ち上がったのが見えました。堀川殿というのは基経の大臣のことでございました。この殿は堀川に屋敷を構えていたので、世間では堀川殿と通称されておりました。
「奴め…どういうつもりだ」
「さあ、私は存じませぬ。しかし、最近の関白様には専横の御振る舞い。これは帝の御威光に逆らう行いと見受けられますが」
益が陽成の帝に都合の良い事を述べているのが聞こえました。まったく、羞かしげもない言いたてでございました。
「定省よ、貴様は聞き及んでいるのか」
定省様は清涼殿の御座所から一番離れた、濡れ縁の近くの板間に座していらっしゃいました。側近の寄り合う陽成帝の御座所では、帝と親しい者ほど近くに座ることとなります。帝から最も疎まれている定省様が遠くに座らせられたことは当然でございました。
「関白様は国事多忙の上のことと仰ってございました」
「国事多忙だとな。なんだ、周囲の追従を受けるだけのいい身分で国事が忙しいと申すのか」
「ここ数年、蝦夷への対策が関白様のお仕事となっていらっしゃいますので」
「なんだ、仕事というが、相撲の節は、関白の仕事ではないとでもいうのか」
「主上の仰るとおり、それも立派な仕事でございます。職務を怠る堀川殿の方に責任があると言えましょう」
都合の良いところで源益の佞言が飛びました。この男は陽成帝と乳兄弟であった関係上、帝の性格をよく識っていました。周囲の追従を受けるのは基経殿ではなく、この帝その人であったのです。
その頃の基経殿は出羽国の経営に腐心していらっしゃいました。水尾帝の末年から続いた飢饉で、出羽、陸奥の人心は朝廷より離反し、内乱の続く戦地となっておりました。かつて出羽按察使を務められた基経殿はこの地方の重要性を熟知しており、朝廷の責任者としてその慰撫に心を砕いていたのです。この歳の相撲の節に基経殿がさしたる興味を抱かなかったのは、国政を統べる人間としては当然であったでしょう。
「ふん、面白くないわ。誰のための大臣だ。余のための家臣だ。この天下は余のものだ。この余に誰が逆らおうと言うのだ?あ!」
帝は手にしていたしなやかな鞭を取ると、慣れた手つきで軽くそれを床に打ち付けました。ビュッと軽く空を切る音がして、乾いた打音が静寂に響きました。
「のう、定省よ。お前は誰の臣と言うのだ?」
勘の走った、妖しい光を帯びた帝の目付きでした。陽成帝がこうなると、必ず奇矯の振る舞いに出られることを誰もが察知しておりました。
「私は、主上の臣にございます」
「そうではあるまい。貴様はあの基経の妹の淫売の囲いものではないのか」
帝の周囲に侍っていた人々から、どうと哄笑の声が上がったのは、あまりにも酷い仕打ちでございました。淑子様にはとかくそういう噂がありがちでございました。また、それを面と向かって言い返せるだけの定省様ではなかったのです。
「定省、冗談に怒るなよな。のう、そなたも冗談と解っておるのだろう?」
帝は定省様に顔を近付けると、じろりじろりと舐め回されるように視線を遣られました。おそらく定省様が何か帝の気にいらない素振りを見せられたら、ここぞとばかりに付け込むつもりであったのでしょう。
「まあいいわ。定省はどうやら余の家臣のようだ。ならば、余を楽しませてもらわねばならんな」
「いかなることをお望みでございましょうか」
「ふむ、業平の中将はあるか?」
「ここにございますが…」
不意に後ろの方から嗄れた声がしました。転ぶようにまかり出たのは、もはや六十にも近いかと思われる老人でした。この歳になってもまだ浅黄の衣の五位でしかない親王の息子が、その老醜をここに晒しているのでございました。業平という人は阿保親王様の御子でしたので、本来ならばもっと高い位についていてもよさそうなものでしたが、生来の放埒な行状が祟って、本来ならば恩賜で自適の暮らしであるべきのところを、未だ老いた身を周囲に晒しているのでございました。
「中将よ、定省と相撲をとるのだ。定省よ、お前が余の臣なら、余を楽しませることに依存はないであろうな」
定省様はゆっくりと頭を恭しく下げられました。しかし、これはあまりにも無茶な相談でございました。
定省様は痩身の方でしたが、狩りをお好みになったその性質から、肉体は頑健で、淑子様の言うとおり、男として十分な用を為す公達であったのです。しかし業平は既に六十が近く、その老いと優男ぶりは、とても相撲などを取れるような体ではなかったのです。
業平は慌てて、それでも文句を言わずに御前に進み出ました。
「どうした定省よ。早くせぬか」
定省様は立ち上がられたのですが、どうしても気が進まぬようで、しばらくその場で躊躇していらっしゃいました。それはそうでしょう。相手はもはや年寄なのに、ご自身は伸びる若木のごとくに壮健でいらっしゃいました。これでためらいを感じないなら、それはその方がおかしいというべきでしょう。
「貴様、余を楽しませるのが不服とでも言うのか」
帝の手に持った鞭が数度鋭い音を立てると、定省様は意を決したように身を震わせました。この帝には何を言っても無駄ということが解っておりました。仕方なく定省様は前に進まれると、業平の中将と向かい合い、しっかりとその体を組まされたのです。
勝負の方は言うまでもありませんでした。定省様は易々と業平を掴むと、渾身の力で投げ飛ばされました。その時、帝は玉座から立ってこの光景を見物していたので、御椅子にはいなかったのですが、投げ飛ばされた業平が空いた椅子に強かに打ち付けられたのでした。拍子に椅子の手摺りがぽきりと折れて、業平は地面に転がりました。
このことで帝の機嫌はまた悪くなりました。ぴしりと鞭が飛ぶ音がして、血色の変わった帝が定省様に近付きました。
「なんだ、余の椅子を壊すほどに機嫌を損じたとでも言うのか、定省よ」
「何を仰られます。ただ私は仰せの通りにしたまででございます」
「余は椅子を壊せとか、中将を投げ付けろなどとは命じておらんぞ」
その時の帝の顔はいつも以上にぎらぎらと妖しい狂気で輝いていて、周囲の人は誰もその側に近寄ることが出来ませんでした。
「どうぞ、御存分に処罰くださいませ」
定省様はさらりと袍を脱ぎ捨てられると、上半身を下衣にして、深々とその場に跪づかれました。帝が狂ったように赤い舌を唇の端にとやったのが遠めではございましたが、私には確かに見えたのです。
そして次の瞬間には強かに定省様を打擲する帝の姿がありました。古の暴君である傑紂とはかくのごとき人物のことを言うのでございましょうか。それを嘲笑うように見ているのが、帝のお気にいりの連中でございました。当時の内裏の様子などこのようなものでした。
いくら狂気に侵されているとはいえ、帝は帝でございます。そして帝の側に侍るのが侍従の役目でございます。こうして定省様の宮仕えの日々は続いていくのでございました。