作品タイトル

恋の淵

その肆〜流転する運命

 綏子様のことを詳しくお話する前に、少しですがその前に起こった政変のことについて述べることにいたします。定省様が侍従として出仕されて二年のうちに、政局は混迷の時代を迎えました。それは、摂政基経殿が遂に陽成の帝の乱行に対して公然と立ち向かったことから起こりました。
 陽成の帝は元服されたのですが、基経殿は政治の実権を依然自分の手元に止め、引き続き摂政として天下の政を総覧したのです。これは当然のことでした。暴虐の帝に天下の政治を渡すなど、それが基経殿でなくとも思い止まることです。
 しかし帝はこのことを鬱々として楽しまず、基経殿を罵ることが甚だしかったのです。帝王として生まれた以上、存分に権力の刃を揮いたかったのが帝の本音でございましょう。生れながらの帝王であった陽成の帝ならばなおさらでございました。
 帝は常に基経殿への不平不満を宮中で漏らしました。それは私のような下賎の者でさえにも聞こえるほど辺りを憚らないものでした。私も一度帝が「酒の肴のように、基経の首も絞められぬものか」と、いつも晩に召し上がる雉子を目の前にして呟いているのを目のあたりにしたことがございます。
 このような帝の行動を伝え聞いた基経殿はある時の参内で、「帝と太政大臣の仲が険悪と伝えられれば天下は動揺いたしましょう。それほどまでにこの基経を憎く思し召すなら、どうぞ私の骸骨を頂きたく申し上げます」と奏上したのでした。骸骨を頂くというのは太政大臣を退くということです。臣下はその身を帝に捧げる身なので、骸骨を頂くというのは、自分の体を朝廷より返してもらうということで、すなはち辞職を願うことでございます。
 しかし帝はその意味を御存じなく、かえってこんな事を言う基経殿が憎々しく思われたものですから、ただ「骸骨が欲しければ死ね」と面罵したばかりか、本来の意味である辞職さえも御認めにならないのでした。
 さすがの基経様もこれには怒りを発せられまして、その後は朝廷に参内せず、自邸の堀川屋敷に隠られまして、そこから天下の政治を行なう有様となりました。殿上人のほとんどは朝廷には向かわず、基経殿の屋敷で日々の閣議を行なうという異状な事態がしばらく続きました。朝廷には帝を始め、定省様などのような帝の側近だけがぽつりと残されたのです。
 その年も過ぎて元慶七年の霜月になった頃に、事態は急変しました。丁度その頃、前にお話した帝のお気にいりである源益の姿が見えなくなりました。
 この男はいい加減な人間だったので、どうせ何か理由をつけて出仕を怠っていると皆は思い、その不審を誰もが咎めなかったのですが、後で詳しく聞いたところによると、益はなんと帝に殺されたらしいのです。
 諂いと世辞だけで帝に気に入られていた益は、ある時陽成の帝から双六に誘われたそうでございます。益はいつもの通り「私の腕前など、とても帝に及びませんよ」と帝を持ち上げたのでした。しかし結局二人は勝負を始めたそうでございます。その日はなぜか何度やっても益が勝ってしまい、帝はいつもの癇癪を爆発させたのでした。
「余には適わぬなどと言ってこの様ということは、貴様は余を騙したのだな」
 そう怒鳴ると帝は欅で作った双六の盤を持ち上げて益に投げ付けたそうです。陽成の帝は大柄で壮健な肉体の持ち主でしたので、重い盤も易々と持ち上げてしまいました。その盤で益は頭を割られて死んだそうでございます。
 このことで帝の信望は一辺に落ちてしまいまして、誰も味方をするものがなくなりました。そんな時に今度は馬の事件が起こったのでございます。
 定省様は狩りを好まれましたが、同時に騎射や馬の扱いにも関心を示されました。その話を耳にした帝は、一つ自分も馬を扱ってみようと思ったそうでございます。
 我が侭の無理難題が発せられまして、帝は側近の蔵人や侍従達から、良い馬を取り上げて自身のものにしてしまいました。定省様の所からも蒼毛の名馬が一頭取り上げられたことを覚えております。
 馬の徴発が手当たり次第に行なわれました。それだけではまだなんとか済んだのですが、帝はその馬達をこともあろうに、禁裏である清涼殿の近くに繋いでおいたのです。定省さまに聞いたところでは、帝の傍らに控えていても、馬の臭いと嘶きが届くほどの酷さだったそうです。
 この報が堀川邸の基経殿のところにもたらされたのは師走になってからすぐのことでございました。注進したのは言うまでもなく、後宮を取り仕切る淑子様でございます。基経殿はすぐに参内すると、有無を言わさずに禁裏に繋がれていた馬を放逐してしまいました。帝がいくら形相を険しくして脅し、すかしても無駄でございました。基経殿は、やると決めたならば必ずその通りにするだけの決断力を持った人でございました。
 そんな調子で年は暮れて行き、元慶八年に変わりました。その頃はもはや定省様数名の侍従が時折帝の元に参内する程度になり、宮廷の寂しさは甚だしくなりました。
 正月より陽成の帝の様子は益々おかしくなり、ついには地下のもので紀正直という妖術を良く為すというものを呼び込んでは、紙屑を人に変える等の幻術を楽しむようになりました。これは本当の話でございます。
 いつでしたかもう忘れましたが、私が内裏の庭で定省様のお帰りを待っていた時のことでございます。紫宸殿の露台の下でしゃがみこんでおりますと、不意に目の前に紙切れが落ちて来たのです。それはたちまち小さな子供に変わり、何やら歌を歌いながら内裏を飛び出して行きました。あっけにとられた私が頭上の露台を見上げますと、そこでは陽成の帝が扇を広げながらからからと大きな笑いを立てているのでした。帝は幻の術を紀正直より習ったと聞きます。その男には私も数度会ったことがあるのですが、私の目の前で草鞋を小さな鯛に変えて御所回りの水の中で泳がせたりしておりましたので、相当な腕前でございました。
 帝はこの他にも、御簾の上に賀茂祭りの行列を出したり、紙で作った相撲人を戦わせたりしていたそうでございまして、心ある人々はとうとう帝が本当の狂気に犯されたのだと秘かに言うのでした。
 ここに於いてとうとう基経の大臣は、政を与る最高の身分として、臣下の部限を越えた行動に出たのでした。朝廷は全て基経殿の意のままでございました。
 事変が起こったのは元慶八年の如月の日であったと記憶しております。その前日に、妹君である淑子様の元を訪れた時に、ふと私は基経の大臣の姿を見かけました。山荘ともいう程の淑子様の館の庭には、東山の清水を引いた、小さな水の落ち込みがありました。竹の樋を伝って流れるつくばいの傍らにぼんやりと基経殿が佇んでいるのが見えました。
「どうかなさいましたか?」
 不審に思った私が声をかけると、大臣は困惑の表情で振り返りました。この人は普段から非常に情熱的で、しかも若々しく、五十路を越えてもそのような年寄臭さは微塵も見せない性格でしたが、この時に私は基経殿の年齢をはっきりと感じておりました。
 この時、太政大臣基経殿は丁度五十でした。三十の半ばに叔父の良房殿の後を受けて、わが国の国政を司られてから十数年の歳月が過ぎておりました。その間、常に政治に対して真摯であった基経殿には、帝の乱行はさすがに応えたようでした。基経殿は自分の娘の珠佳子を陽成の帝の後宮に入内させていて、しかもその間に皇子さえ生まれているのですから、帝との因縁は浅からぬものがあったのです。
 このまま陽成の帝の時代が続けば、やがては基経殿の孫である皇子が即位し、大臣の政権は磐石であるはずでした。
 しかし、陽成の帝の狂いぶりは、いくら基経殿が帝に関係があっても、もはや太政大臣として見過ごすことはできなかったのです。水をゆったりと湛えた鉢の傍に立ち尽くしていた大臣はゆっくりと視線を私の方に向けました。
「蓼男か。すまんな、たいしたことではないのだが」
「何か御苦悩されることでも」
「苦悩、という程度ではない。しかし、確かにわしは悩んでいる。やはり、わしは太政大臣たる決断を下さねばならぬようだ」
「その為に淑子様の所へいらっしゃったのですか」
「うむ…わしはこの国開闢以来の不忠の大臣じゃ。しかし、これは摂政たるわしの務めなのだな」
 その時、基経殿と私の間に交わされた言葉は、それだけを聞けば何のことかさっぱり解らないものであるはずです。しかし、私達の間では、それが何のことかは、互いの心を透かせるほどに分かり切っていたことだったのです。
 基経殿が悩んでいたのは、単に自身の臣下としての問題でございました。わが国が始まって以来、臣下が帝を廃したことはただの一度のありません。もっとも、その間には長谷部若雀天皇のように、蘇我氏との政争に巻き込まれて不幸な最後を遂げられた方もいらっしゃったりしたのですが、どのように権力を持った姓の人間でも、帝を廃することなどはなかったのです。
 人臣として最高の位に着いて、摂政太政大臣として天下を総覧した白河の大臣良房殿でさえ、水尾の帝に対しては万事において恭謙であり、帝の意も十分に汲まれる余裕があったのです。
 しかし、この時の状況は違っておりました。基経殿は陽成の帝と正面から戦いを挑まなくてはならなかったのです。その結果がどうあるとして、基経殿が不忠義の人間となることは変わりありません。忠義であるという徳目は孔子も教えているところでございますが、これは基経殿が一つも果たせない美徳でありました。また、命を賭して陽成の帝に諌言をするには、基経殿という人はあまりにも現実的でありすぎたのです。むざむざと殺されることが解っていて、それを行なう基経殿ではありませんでした。そうなれば、後は基経殿が帝を廃するより外に方法はなかったのです。
 いくら基経殿が時の権力者であるとはいえ、帝をその座から降ろすというのはただごとではありません。しかし、基経殿には強い味方が居りました。それが定省様の養母である淑子様であったのです。
 淑子様は陽成の帝の母君である皇后高子様の姉君でいらっしるうえに、尚侍として、後宮の権力をほぼ一手に握っていたのです。内裏務めの女房たちも、皆陽成の帝の乱暴には恐れを為していましたし、なにしろ女官が井戸に落とされる一件があってからは誰も帝に対してはよそよそしくて、その味方になるものなどいないのでした。
 基経殿は淑子様と手を組むことで、一息に勝負を着けてしまうつもりであったのです。そして淑子様が基経殿に加担することは明白でした。このお二人は平時から仲が好くていらして、身体が空くと御酒を一緒に召し上がることが多かったものですから、淑子さまは間違いなく基経殿に着くはずなのでした。
「淑子様は…何とおっしゃいましたので」
「ふん、わしを指示することを承知してくれた。だからもはや腹は決まった。しかし、あと一つ問題がある。次の帝のことだ」
「次の、帝でございますか」
「そうだ。わしは主上を廃し、わしの思う通りの帝を立てる。謀反人としては少し行きすぎかのう」
 呵呵とばかりに基経殿は笑いましたが、その笑いにはどことなく不安の影が忍んでいました。剛毅なこの殿もさすがに大逆にも等しい罪を犯すのに躊躇いがあったのです。
「それで、どなたを次の天子に」
「むう…これが難しいところだ。こともあろうに、源融の奴めが出しゃばって来ておる。奴はこう言いおったわ。『もし帝に万が一のことがあれば、この融も嵯峨の帝の皇子ですぞ』とな。奴には絶対任せられん」
「藤原北家のためでございますか」
「そういうことだ」
 小さく息を基経殿は継いだのですが、その時に私はこの偉大な大臣の内に、年齢が思う以上に浸食しているのを悟りました。基経殿は五十路を越えましたが、その太郎君、後の時平の大臣はまだ元服も迎えないほどの童であり、この太郎君と並んで三平と呼ばれた仲平、忠平の御子様達も、まだ十にも充たない有様なのでした。
 今でこそ、藤原北家は朝廷の左右大臣を一門全てで占めるほどの盛況ぶりでしたが、基経殿が一門の主人であった時は、さほど力が強いというわけではなく、朝廷の豪族では、元皇子で臣下となった源氏の一族が力を占めていたのでございます。それらの源氏の上に、ただ独り基経殿がその才覚でもって、全ての政を総覧していたのです。
 左大臣源融殿というのが、その源氏の統領たる人でした。確か基経殿よりも半回りほどの年上であったと思いますよ。その皇統は遠く嵯峨の帝にまで遡ります。融殿は嵯峨の帝の十二男でしたが、母上の身分が卑しいので、嵯峨の帝はこの皇子を臣籍に落として源氏の姓を与えたのでした。
 そして、これから、皇子の幾人もが源氏の姓を与えられて、朝廷に伺候するようになったのです。定省様もその一人であったわけです。代々の帝の皇子から、幾人もの源氏が出まして、今は彼らを清和源氏、宇多源氏と、どの帝を祖とするかによって分けているのです。
 嵯峨源氏である左大臣源融殿は河原左大臣の通り名で呼ばれた人で、たいへんなお金持ちでいらっしゃいました。東六条の北、鴨川の西に大きな河原院という館を構えており、池には海の魚貝を放していたそうでございます。そして難波の浦より海の水を毎日二十石ずつ汲まされて池に注がれ、池のほとりを浜のようにして、京にいながら浦の住まいを豪勢に楽しんでいたそうです。この人は穏やかな性質ながらも遊興を好み、鳥や花に想いを注がれたものの本質的に怠惰で見通しの暗い方でございました。ただ、その財力と権力が、この大臣の身分をしっかりと支え、基経殿に次ぐ政界の実力者としてのさばらせているのでした。
 基経殿が融の左大臣を恐れられるのは、そのような理由からでした。藤原氏は盛りを迎えたとは言え、それは北家の総帥である摂政基経殿の力量によって支えられたものであったのです。それは、基経殿の兄上の国経殿が、藤原北家の事実上の正嫡でありながら位は大納言に甘んじ、六十を過ぎた今でも朝廷での発言力がほとんど無かったということを思えば、いかにこの天下が基経殿の才覚で支えられた天下であったかお分りになると思います。融の左大臣が帝の御位に付けば、必ず世は源氏の天下になるはずでございました。源氏という氏族は、元が皇子故に、一概にのんびりとした穏やかな気質の方が多いのですが、その反面で実務経験に乏しく、実際の政務を取り仕切れるような知識のある方は大凡存在しないのでした。しかし毛並みとしてはほぼ最高に近いものですから、定省さまやあの源益のように、帝の近従である侍従として出仕することが専らであったのです。
 したがって、源融殿が即位するということは、ただ藤原北家のためでないばかりか、朝廷の政務に関しても大きな不都合があったのです。そして源融殿という人は、生来頑健で、実際七十幾つになるまでの長寿を保った人でして、基経殿より六つの年上とはいえ、とうていこの人が先に逝くことなど考え難いのでした。
「では、殿としてはどちらの宮様をお考えでございますか」
「正統を論ずるならば一の宮が適当だが、さすがに朝議は認めんだろうな」
「それは…確かに難しゅうございます…一の宮はまだやっと四つに成られたばかりではございませんか」
「それだけが理由ではない。一の宮が位についてしまうと、帝を闇に葬り去ることができなくなるのだ」
「確かに…」
 基経殿の娘である珠佳子殿と、陽成の帝の間には一の宮と呼ばれる男皇子が一人ございまして、その出自からも、この皇子が東宮に立てられるであろうことは誰もが想像しておりました。しかし、この皇子を立てるのは、様々な点で不都合がありました。一つは基経殿が、権勢を揮うためにまだ十七の帝を廃したという、芳しくない風評を立てられることです。そのような事が囁かれれば、今は基経殿に傾いている朝議がいつ源融側に付くか解りません。そうなれば帝を廃しても、基経殿の運命は暗澹としたものに陥ってしまうでしょう。
 またせっかく陽成の帝を廃したとしても、その息子が皇位を継げば、陽成の帝が上皇としての権勢を奮うことは間違いありませんでした。そして陽成の帝は源融殿や基経殿よりも遥かに若く、壮健な人でした。基経殿より遥かに春秋に富む人を永らえさせていては、いつ藤原北家の足元が掬われるか解ったものではありません。
「では、いかなるお考えを?」
 深く、強い声で基経殿を見つめた私に対して、太政大臣殿は、ちょっとだけ間をとると、口元を微かにしかめ、唇の真ん中を少しだけ開いて、囁くような声を洩らしました。
「蓼男よ、これはわしの考えでなく、淑子の考えだ。というよりも、奴が勧めたのだ。不本意だが、どうもここは帥の宮、時康親王を立てねばならんようだ」
「それは願ったりではございませんか!」
 私は思わず大きな声を挙げておりました。一度臣下に落ちて源氏となっているとはいえ、定省様の父君である時康親王様が次の帝に為れば、定省様の運も開けてくるというものです。
「そうだな。確かに、淑子にとっては望ましいこととなる。あいつは定省の養母だから、定省が出世すれば、その見返りは十分返ってくるであろう」
「それで淑子様は賛成されたのでしょう。ところで、殿はそれでよろしいとお考えなのですか」
「うむ、その程度の利害を見抜けぬ基経ではないわ。淑子に野心があることはわしにも解っている。しかし、ここは淑子の意見を聞き入れなくてはならぬようでな。ただ、帥の宮とわしは親しくしている間からといえども縁戚関係は無いのだ。宮とは深い付き合いとはいえ、その後のことが気になる。それで迷っていたのだ。しかし、これ以上悩む余地はない。即断せねばならぬところまで事態は進んでしまっている」
 基経殿は大きく息を継ぐと、流れている水の傍らにしゃがみ込むと、つくばいの底にに溜まった枯葉をその手で掬い上げました。
「淀んでいる」
 基経殿はそうおっしゃいました。その顔は無表情、というよりもどこか険しい、何かを見つめるような視線でございました。
「淀んだ水は、一度捨てなくてはならん。そうしなければ、後から落ちる清水までが濁っていくのだ」
 基経殿が手を払うと、石臼のように窪んだつくばいの中の水が、朽ちた落葉と一緒になって流れ、足元の玉砂利に、淀んだ水となってしみ込んで行きました。私は悟りました。不本意ながらも基経殿が何を決断したのかということを。たとえ縁戚の無い親王が帝になろうとも、政界に陽成帝の影響を残してはならない。そう基経殿はおっしゃっていたのです。
「蓼男よ。これから、そなたも忙しくなりそうだな。さて、それが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、わしには全く見当もつかんがな…」
 どこか捨て鉢のように言い捨てると、基経殿は懐から扇を取り出して二、三度顔を扇ぎ、不意に微笑を浮かべられました。あっけに取られる私を尻目に、この大政治家は悠々として淑子様の屋敷を立ち去ったのです。
 そして、陽成の帝が、基経殿の手によって廃されたのは、その翌日のことでございました。
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