
慶長三年の夏、京都伏見の城下町は異様な雰囲気に包まれていた。天下にその名を轟かせた太閤豊臣秀吉が、六
十三をその一期として、この伏見の城のなかでその波乱に富んだ生涯を終えようとしていたのである。この素性も知れ
ぬ猿面冠者は尾張の足軽の頃より織田信長に仕え、その機略を持って長浜十九万石の大名に伸し上がり、本能寺の
変で信長横死の後は並み居る大名たちを押し退けて信長の後継者となった。そして小田原北条氏を下し、全国の大名
に忠誠を誓わせて天下を統一したのである。
しかしその支配は短かった。北条氏降伏の小田原の陣から、まだ僅かに八年余りの年月しか流れていない。この天
下の平和は、秀吉という大きな一枚岩の元において成り立っていた平和であった。それが失われれば即ち百年以上も
続いた戦国の残り火がたちまちのうちに炎えあがるであろうことは誰の目にも容易に推測出来たのである。
しかし、老耄したこの英雄がその臨終において願ったのは恒久の平和や天下の安泰などではなかった。老いて後、
側室の浅井氏との間に設けた一子、僅か六歳の権中納言秀頼にのみこの老人の関心事は向けられていたのであっ
た。
老いた秀吉の行動は、もはや見苦しいを通り越して悲惨を迎えていた。すべての大名たちから秀頼に対して忠誠を
誓うという誓約書を取らせ、関東二百万石の実力者徳川家康の手を取り、涙を流しながら後事を託したのである。家康
に次ぐ実力者である加賀百万石の前田利家を秀頼の傅役に任じ、家康が不埒を行なわぬようその忠誠に期待し、こ
れも涙ながらに訴えかけた。米沢百二十万石の上杉と防長百万石の毛利は帰国していて不在であったため、家康と利
家二人への言葉が、秀吉の政治的なすべての発言であった。彼はそれほどまでに秀頼のことが気掛かりであった。天
下などどうでもよかった。老いて彼は一人の親としてその生涯を閉じようとしていたのである。もはやそこには天下人の
壮麗さや豪奢さなどは欠片も見られなかった。
家康と利家の二人は一礼すると秀吉の御前より同時に退出した。そして二人は瞬時に目くばせで語り合った。二人と
も解っていることは、秀吉が希望したとおりの平和などはこの後到底訪れぬということであった。大名たちは誰もが次
の秀吉に成ろうとしている。そしてその距離に最も近いのが内大臣徳川家康と大納言前田利家の二人であった。秀吉
に対する様々な恩義が二人にはあったが、そのようなものは二人の支配する広大な領国のことを思えば、まさにどこ
吹く風という程度であった。二人とも若年よりこの還暦の老年まで苦労を積み重ねて今の地位を築いたのである。彼ら
にとって秀吉の死は偉大なる先達の死でしかなかったのである。
二人の大老の退出の後にしばらくして秀吉の御前に呼ばれたのは三人のまだ年若い公達であった。歳はいずれもま
だ二十歳を少し過ぎたばかりである。彼らは秀吉とは血の繋がりを持たない人間だが、老年まで実子のいなかった秀
吉の養子として養育され、成人したこの歳になるまでその手元で育てられた息子達であった。
病臥する秀吉に対して三人は一列に並んで平服した。右側の若者は体躯の良さとどことなく人を威圧させる眼光に、
先程退出した家康の面影を如実に受け継いでいた。下総で五万石を擁する結城少将秀康は家康の次男である。まだ
十ばかりのころに人質として秀吉の元にやられたが、その英明剛直さを秀吉に愛されて彼の養子となり、後に結城氏
を嗣いで、五万石という大名としてはそれほど大きくはない程度の領土を受け継いでいた。
真ん中の涼しげな公家風の若者は秀吉がその実子秀頼を除けばこの天地で最も愛した若者であった。中納言宇喜
多秀家もまた八歳の時に秀吉に引き取られ、その手元で我が子同然に育てられたのである。父直家と幼くして死に別
れた秀家は秀吉の薫陶を受けて成長し、やや軽躁の気味はあるものの、その忠誠心と赤心は当代に比類するべきも
のがなかった。中納言という役職に加えて三備五十七万石の大封を誇り、その配下の備前兵は勇猛を持って恐れられ
ていた。秀家自身もその涼しげな容貌とは裏腹に戦場での将兵の統率にも秀で、まだ二十五にも届かない若者の身で
ありながら大老の一員として家康、利家の二人と席を同じくしている。
最後に残されたいちばん左端の若者はこれは誰が見ても鈍物としか思えない顔形をしていた。
彼は終始に落ち着きが無く、せわしない様相で常に右手で烏帽子の紐をいじっていた。手はそのように忙しく動いて
いるというのに肝腎の目はどろんと濁り、腐った魚のような灰色さをもってそこに臨んでいた。顔の真ん中に鎮座した鼻
は両側にひしゃげた鞍鼻で、それを見るだけでもこの若者が暗愚であるということを周囲の人に予想させた。金吾中納
言小早川秀秋がその人である。
この落ち着きの無い小男は、秀吉の正妻北政所の甥に当たるために秀吉の養子として引き取られ、やはりその手元
で育てられた。しかし、前述の二人とは違い、彼にはどこかに太閤の血縁という奢りがあった。幼少のころは聡明を謳
われたが成長するにその才能は影をひそめ、代わって好色とだらしの無さだけが表に出始め、人々からは馬鹿の生き
見本とまで罵られるようになった。しかし意外なのはこの男も小早川家を嗣いで筑前五十二万石の大きな領土を持ち、
愚昧との評判にも関わらず、槍働きを持ってすればそれなりの活躍をするということであった。もっとも、本当にそれな
りではあったが。
この三人が秀吉の前に並び、揃って顔を上げた。秀吉にはもはや血縁として頼む人物は残されてはいなかった。彼
が後を頼むべきは家康と利家、それを除けばこの三人の養子以外にはこの場に存在しえなかった。
三人の封土を併せればそれは百十四万石という大封で、これに対抗しえるのは天地の大名を探しても徳川家康ただ
一人であった。秀吉はただこの三人の養子に期待をかけた。その幼い時より秀吉が手塩にかけて育てた若者たち。そ
の双肩に秀吉は豊臣家の将来を託した。
「秀康に…秀秋に八郎も来たか…」
秀吉は三人の姿を認めると擦れる声で病床より声を発した。秀家のみその名前でなく幼名で呼ばれたのは、それだ
け秀家という男が太閤の愛を背負っていたからである。
「八郎秀家、お召により、ただ今参上いたしました」
礼儀により、この場では一番上席である秀家が返答を返した。既に彼の心には大きな湿っぽい悲しみのわだかまり
が存在しはじめていたので、彼の言葉も自然と勢いの無い乾燥したものとなった。
「うむ…うむ…」
襲い来る肺腑の苦しみに耐えながら秀吉は三人の若者の顔を見回した。このように秀頼が成長さえしていれば、彼
はこれほどの苦悩を抱えて死なずにすんだのであるが、今やそれは叶わない望みとなっていた。
「八郎も…秀康も…そして秀秋も、くれぐれも秀頼のことを頼むぞ。秀頼はそなた達の弟なのだ。どうか慈しんで、立派
にその成長を見守ってやってくれい…」
「ははっ」
一同は揃って両手を付き頭を下げた。しかし掛け声とは違い、その胸中は複雑であった。
弟とはいったいどういうものなのか。秀康はその頭でそう考える。弟と言っても、秀頼は関白豊臣家を嗣ぐべきこと
が、六歳の幼児の身で既に決められている。その歳で位階は中納言に昇り、秀康などよりは遥かに高いところにこの
少年にも手が届かない児童は居るのだ。一緒に遊んだことはおろか、その顔さえもろくに拝んだことがない。そのような
ものが弟といわれても秀康にはまったく実感がわかなかった。
しかし彼の本当の弟である徳川秀忠が弟のようであるかと、それもそうではなかった。この温和なだけが取り柄の凡
庸な弟は、何故かしら父家康に愛されていた。三男の身分であるのに次男の秀康を差し置いて徳川家の後継者に指
名され、その領土二百万石を嗣ぐことが既に周囲に認められていた。関東に戻れば秀康は家康の指揮下に入るのだ
が、それは僅か五万石の大名としてでしかない。この石高は家康の家臣達の石高よりも遥かに低いところにあった。そ
して当然ながら、彼は弟秀忠の下風に立たねばならなかった。やはり、これも弟ではない。
では、いったい自分が動くのは何のためであるのかと秀康は考える。彼には野心がまだあった。いや、それはこの時
になってようやく芽を出しはじめたと言ってよいだろう。幼いときからの人質生活の苦難を彼は忍んできた。そして秀吉
の寵愛を受け、独立した一人の大名として彼はこの天下に立っている。
秀吉と家康の子。彼の諱もその二人の名前を取って付けられた。秀吉は「名前では日本一の弓取りじゃ。この名前に
恥じないように励め」と言った。確かにそうだと秀康は考えた。
秀吉の子。家康の子。彼はすべてに於いて資格を有していた。彼は今こそ自分がすべてを手に入れることが出来る
のだと思った。その武人らしい武骨な体の全身からは、もうその後の動乱を見越したかのような凄まじい気がほとばし
り出ていた。豊臣の家の子として彼は動こうとしていたのである。
僅か六歳の幼児である秀頼に尽くす。この点を秀家は実に素直に受け取っていた。彼はその華美で涼しげな容貌と
は違い、この場に謀略を持ち込めるような才子ではなかった。彼の本質は単純な武将であり、そしてまた人生を意気に
感ずるという彼が一流として自身のなかで保ち続けた大きな美徳を所持していた。そのような所を秀吉は愛した。
また、この場の状況は秀家にとっては決して他人ごとなどではなかった。十数年の昔、まだ父の直家がこの世にあっ
て、秀家が秀頼と同じような幼児であったとき、この場と同じような状況を彼は体験している。
宇喜多直家は死病に侵されていた。そしてその枕頭に秀家は、まだ元服前の童子姿で侍っていた。臨終の床に駆け
付けた羽柴筑前守秀吉の手を直家は涙ながらに押し戴いた。
「どうか我が胸中の辛さをお察し下され」
そういって直家はさめざめと泣いた。枕頭に駆け付けていた秀吉もまた泣いた。現世にまだ秀吉の英雄足る才覚が
存在していた時のことである。秀吉は直家の手をしっかりと握りながら「安堵なされよ。八郎殿を必ず立派な武将として
育て上げてみせましょうぞ」と約束したのである。そして直家の要望に従って八郎を元服させた。秀吉より一字、直家よ
り一字取って秀家と名乗らせた。その後直家は安心したのか幾許もなく死んだ。
秀吉は直家との約束を忠実に実行した。そして秀家は今や豊臣家を成す一員としてこうしてここにいる。彼にとっては
秀吉が十数年前の父で、秀頼が自身であった。そして瀕死の父の手を握り、安堵を願った羽柴筑前こそ、今の自分で
あった。
「義父上、ご安堵なされませ。秀頼様のこと、必ずこの八郎がお守りいたしましょうぞ」
秀家は強い調子で言った。両眼からは既に涙が溢れ落ちていた。十数年前、父と約束し、自分をここまで守り立てて
くれた太閤が逝く。そのことを考えると秀家の心はもはや平静を保つことが出来なかった。すべてに於いて義理と意気
に感ずるこの直情の若者は、込み上げてくる感情を押さえることができなかった。
「八郎よ…」
秀吉の声がかかったときに秀家は辺りも憚らずに涙を溢れされて慟哭した。太閤は彼にとって偉大な父であった。実
父直家の死に対してもこれほどの悲しみを彼は感じなかった。彼はこの秀吉の愛に包まれて生きてきた。「八郎、八
郎」と秀吉は秀家の事を呼び続けた。幼いころの秀家を背に担いで陣中を一緒に見回った事も、秀家が病に倒れたと
きにその傍らで必死になって湿らせた布を替えてくれた秀吉の姿も、すべてが秀家にとって美しい思い出でしかない。
秀家の決意は不退転であった。彼はどこまでも豊臣家の忠義に生きようと固く誓っていた。それがこの優しげな外見
にそぐわない中納言の決意であった。
さて、このように秀康が思案し、秀家が感涙にむせんでいる間も、秀秋はまだそのどろんとした痴呆のような表情をほ
とんど変えずにいた。何が悲しいというのか彼にはよく解らなかった。また、秀吉の死がどれほど大事かもこの鈍すぎ
る男にはよく解らなかった。
秀吉の養子は秀康、秀家の例を見るように俊昧であったが、血縁から迎えたものに関しては彼の希望をことごとく打
ち砕いていた。
姉の子を養子として迎えた秀次にしても性情が酷薄にして才覚を持たず、この甥に関白職を譲り渡したものの、結局
は天下の動乱を防ぐために敢えて死罪を申し渡したのはそれほど昔のことではない。
秀秋も始めは秀吉の隠居分の石高を相続する予定であった。しかし秀秋のあまりの愚劣ぶりに呆れた秀吉は彼を小
早川家に養子に出した。これがよかったのか悪かったのかは解るところではない。しかし今現に秀秋は筑前五十二万
石を相続して、押しも押されぬ大大名として諸侯の間にいる。秀吉はどうしてもこの愚昧な甥を頼らないわけにはいか
なかった。
「どうした、秀秋。なぜ、わしに何も言ってくれん…」
おぼろげな秀吉の声でようやく秀秋は正体にもどった。このような席で何かを感じることができるほど彼の頭は人とし
て成熟していなかった。しかしそのような男でも頼らなくてはいけないところに、秀吉という男の悲しさがあった。
「ご、ご安心、ください…」
彼は呂律の回らない口調でようやくそれだけ言った。この叔父は秀秋にとっては何者なのかよくわからなかった。た
だ幾度と無く彼は殴られた。戦場に出た時彼はいつも一番端の方にいた。そして戦いが終わると叔父はいつも「秀康
のように雄々しく戦え」とか「八郎のように将として泰然とせよ」と言って秀秋を叱った。どうせ俺は外れ者だと秀秋は僻
んだ。僻みはついに彼の精神を押し込めた。押し込めた精神が爆発したとき、彼は戦場で槍を持ち、幾人もの武者を
切り殺していた。その時叔父は「少しはやるでないか」と言った。しかし、ただそれだけであった。彼を誉めるだけの時
間ももたずに、この暴君(少なくとも秀秋にはそう見えた)は命を終えようとしていた。
「三人とも、兄弟として仲良く手を結び、秀頼を守り立ててやってくれ」
苦しい呼吸の下で秀吉は言った。そういう意味ではこの三人は確かに兄弟であった。三人とも幼い時より一緒に暮ら
し、お互いの成長を見つめてきた。
しかし、その性質はあまりにも違いすぎた。秀家は華美好みの殿様。秀康は質実剛健な武将。秀秋は好色貪婪な馬
鹿でしかなかった。ただ彼らを結びつけているのは、秀吉という大きな父親だけであったのである。
「承知しました。この結城少将、必ずや豊臣家を守り立てていきまする」
秀頼を守り立てる、とは秀康はいわなかった。豊臣家であれば秀康はよかったのだ。そしてそれを支配する資格と力
が自分にあることもこの若き英傑は知っていた。僅か五万石の大名から、一躍天下の舞台に躍り出る。それは美しす
ぎ、そして危険な夢想であった。しかしその夢想は急に現実的な味を持ってこの場に形を表しはじめていた。
「何もご心配なさいますな。すべて八郎にお任せください。父に死に別れて以来、私は義父上の恩を忘れたことは一度
もございません。たとえこの身が果てようとも、魂は秀頼様をお守りいたします」
秀家は彼らしい飾り立てた言葉で忠誠を述べた。込み上げる感情はもはやそのような言葉を使ってしか押さえられな
かった。
「解りました…」
秀秋は眠そうな声で秀吉に言った。解ったと言いながらも実の所この男はよく解っていなかった。これはいつもの習
性であった。解らないというば、必ず秀吉の鉄拳が飛んだ。幼いときからの習慣は、秀吉の臨終にあっても、片時も秀
秋の頭を離れることがなかった。
「これで安心じゃ…天下の行方はすべてお前たちの胸中に託したぞ。もう、わしは信長様の元へいかねばならん。八郎
…紙と筆を持て…」
秀家は歌人でもあった。二流程度の歌を詠む素直で煌びやかな公達は、その懐中にいつも筆と紙を携帯している。
それを秀吉はまだ憶えていた。
「持たせよ」
言われるままに秀家は筆を秀吉に握らせた。秀吉は震える手でそれを握ると、暫らく紙の上にそれを走らせていた。
「読んでくれ」
紙には秀吉らしくもない細く震える字体で一篇の和歌が書かれていた。これが時世の句であるとその場の誰もが瞬時
にして悟った。秀家はそれを受け取ると低い声読み上げた。
つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな
難波のことも 夢のまた夢
「夢のまた夢…」
呆然とした表情で秀康は呟いた。夢のまた夢。これもすべて夢であるのかと彼はうめいた。天下の大名小名を巻き込
むはずの大きな戦い。それが彼の前には広がっている。それが夢というなら、死に行く秀吉だけが見る夢想なのだ。
「義父上…おさらばでございます…」
急に涙声が上がる。驚いた秀康が顔を上げると、秀家が泣きながら秀吉の痩せ衰えた体を抱いて手を握り締めてい
た。もはや太閤の顔色には生気は感じられなかった。希代の英雄、猿面冠者はその生涯を静かに閉じていたのであ
る。
「義父上のおかげで私の人生は幸せでした。今度は私が父上に返す番でございます…」
今や遺骸となった秀吉を抱いて秀家は号泣した。嗚咽の声が広間に響いていた。その声を聞き付けて次の間に控え
ていた小姓たちが飛び出してくる。たちまち場は雑然とし、太閤の死が周囲につげられる。
(夢のまた夢…)
秀康は先程の言葉をもう一度繰り返しながら秀家と秀秋の方を見た。秀家はまだ太閤の遺骸を抱いて子供のように
泣きじゃくっていた。
(八郎は解る)
秀康は心の中でそう呟いた。太閤の臨終はもう終わったのである。夢は今や醒めた。これからの道はただ現実でし
かない。
死体を抱いて泣いている秀家はまだ夢の中にいた。そしてこの男が夢から醒めたときには、必ず太閤の遺言通りに
物事を行なうことは知れていた。
(しかし、あれは解らぬ)
秀康が見たのは事の事態がよく解らずに、ただぼんやりと烏帽子の紐をいじり続ける秀秋の姿だった。鈍才というも
のは人をここまで落しているのかと秀康は思った。そしてこの男が夢を見ているのかどうかも彼には解らなかった。
(兄弟三人力を併せるのもまた夢…)
秀康は太閤の遺言を思い出し、その非現実性をもう一度確かめた。それはこの場に居る二人の兄弟を見てみれば
明白だった。
「難波のことも夢のまた夢か」
秀康はもう一度呟いてみた。そして辺りを見回してみた。小姓たちの騒めき、押し寄せる幾人かの大名たちの足跡。
それは何か遠い現実のような気がした。
本当に自分は目覚めているのかと秀康は思った。どこまでも暗い空間がそこに押し寄せてきていた。ただ広く濁った
空気の中で、秀家の嗚咽慟哭の声と、騒めきに消されて聞こえるはずもない秀秋の紐を弄る音がしきりに響いてい
た。
(終)