鄭成功はゆっくりと砂浜に進み出た。初春のまだ肌寒い夜風が首筋を駆け抜けていく。大陸の南部である福建とは いえども、この時期の夜はまだ寒さを覚える季節である。
 頬に、寒さと同時に微かな痛みを感じて鄭成功は右手で自身の頬を押さえた。先程父にたたかれた顔の左側がほん のりと熱を持って襲ってくる。
 背後からはまだ妓楼の賑やかな音が聞こえていた。同時に父である鄭芝龍の強かによった濁声が響き、鄭成功の 耳朶に幾度もしみ込んで来た。
「父上も欲に目が眩んでしまわれたか…」
 先程妓楼の上で父に吐き付けたその不遜な言葉を鄭成功はもう一度、暗く広がる海原へと向かって吐き付けた。わ ずかに小波が立つ水面の上をその言葉が滑り、沖の闇の中に消えていく。
 鄭成功は大きく一つため息をつくと、遥か北の方を仰いで立ち尽くした。福建の向う、浙江の更に北、先年陥落したば かりの副都南京を彼は見つめていた。もちろん、それは遥か彼方にあるはずの、見えざる街に違いなかった。しかし、 それとは解っていても、鄭成功はどうしてもその街へと思いをめぐらせるしかなかった。
 もはや清軍がそこまで迫っている以上、どうしても副都南京のことを思わずには居られなかったのだ。
 堂々たる統一王朝たる大明帝国の命運はもはや尽きている。
 そのことを父の鄭芝龍に説かれたのはほんの先程のことであった。一昨年にその帝都たる北京は既に清軍の馬蹄 によって蹂躙されていた。豪華絢爛を極めた紫禁城は忌むべき夷狄の手中に落ち、もはや長江以北は清の支配する 土地と成り果てている。全ては李自成の反乱の隙を突かれた一瞬の電撃作戦によるものであった。
 明末に起こった李自成の反乱によって明の首都北京は一時的ながら陥落し、この大帝国の行政は一時的に麻痺の 様相を呈した。その混乱を狙って、山海関を抜けて北方の清軍が侵入してきたのである。
 後に巨大なる統一王朝を築き上げる清も、もともとは塞外に拠点を置く半遊牧の王朝に過ぎない。しかし、その軍事 力は強大で、常に明を脅かし続けていた。
 清の順治二年は明の崇禎十七年に当たる。この年に北京が反乱軍によって占拠された虚を突いて、清軍は怒涛の ごとく南進を始めた。反乱軍及び明軍を各地で撃破し、清は今や中国全土を支配しようとしていたのである。 明の実 力者である呉三桂将軍も既に清に服属し、清軍の勢いは旭日のごときであった。北京が落ちたときに明の崇禎帝は自 殺し、替わって南京で新たに弘光帝が立った。そして、明は南京を中心に清と戦いを繰り広げたのである。
 抗戦が続くこと一年余り。昨年にはその南京も陥落し、弘光帝はとらえられて処刑された。北京、南京の両方を落とさ れ、明はもはや刻々と滅亡に向けてその歩みを始めていた。
 南京陥落を受けて、その南方である福建で即位したのが唐王朱聿鍵である。明の宗室の一人として、各地で転戦を 続けた勇猛果敢な明の王族である。
 彼は海商であり、倭寇の指揮官でもあった鄭芝龍の支持を得、新たに福建を根拠地として皇帝となった。年号は隆 武。唐王朱聿鍵を隆武帝という。明の王朝の創始者である洪武帝にちなみ、武を隆盛させるという意味での荘厳な年 号であった。
 しかし、戦局は明に圧倒的に不利なままであった。ようやくその年を持ちこたえ、隆武の年号は二年目の春を迎え た。しかし、もはやこの時に、鄭芝龍は明を去って清に下ることを決めていた。
「なぜ父上は大恩ある我が君を見捨て、夷狄たる清などに下るというのですか」
 鄭成功は先程自身が激した口調をもう一度思い起して口のなかで幾度も反芻した。実際、隆武帝の助力がなけれ ば、鄭芝龍はこまでの地位を築けはしなかったであろう。彼は南京の政府からは南安伯を受けて、それを足かがりに 明の最高の実力者に伸し上がっていった。今や隆武帝からは太帥平国公の位を授けられ、かつこの明の財務全般を 任されていたのである。それほど隆武邸の鄭芝龍に対する信頼は篤いものであった。
 鄭家は福建地方を根拠とする倭寇まがいの商人船団で、その勢力は巨大なものであった。だが、それは反面で統制 の乱雑さを同時に意味する。事実、隆武帝に取り立てられるまでの鄭芝龍は鄭家軍団の中でもさしたる実力者ではな かった。若い頃は遥か日本まで商売に訪れたことさえある。それが今では鄭家軍団を牛耳るほどの存在に成り上がっ ていた。それは全て明の恩である。
 鄭芝龍は計算高い。彼は鶏口となるよりも牛後となる方を選んだのであった。確かに、もはや明の運命は尽きかけて いる。そして鄭家最大の実力者である鄭芝龍が裏切れば、その運命は決するであろう。
 鄭成功がそんな父を翻意させるべく、鄭芝龍行きつけの妓楼を訪れたのはほんの小一時間ほど前のことであった。 鄭成功は懇々と父を説いた。明の大恩。そして不忠の臣たる不名誉を幾度も父に説いた。武官たる彼にふさわしくもな い儒服に身を包み、彼は幾度も忠義である必要性を父に語った。
 しかし、鄭芝龍は頑として応じなかった。「主に忠たるより、父のわしに対して孝であろう」とも反駁された。思い余った 末に、鄭成功は先程の言葉を父に投げ付けた。
 刹那、鄭芝龍の老いた右手が飛んで、強かに鄭成功の左の頬を打ち据えた。それでもはや親子の話し合いは決別し た。明日になれば鄭芝龍は自身の財貨と軍団をまとめ、福建を去って北に向かう。
「駿馬も老いれば駄馬に劣るとというが…」
 鄭成功は、春の明るい星々が瞬き始めた暗天を見上げると、無念そうにゆっくりと目を閉じた。
「父上も老いられたのか…」
 鄭成功はそんなことを言うが、肝腎の鄭芝龍は僅か四十二歳。今年を厄年として、男として一番脂の乗り切る時期で ある。かつて無敗を誇った帝王、明の成粗永楽帝が帝位に即いたのも鄭芝龍と同じ年である。老いというものが理由 ではなかった。打算的な鄭芝龍は単に損得で降伏を決めただけである。
 父が欲得だけで動くということを信じたくはないという風に彼は肩を落とし、遠く彼方の星を見つめながら、海の向うに 目をやった。そこは南京ではなく、彼の生まれた故郷があるはずであった。いつしか、鄭成功の思考は、十数年前の 昔、海原の向うの故郷へと向かっていた。



 鄭成功は生粋の漢人ではない。彼は海の彼方の島国、日本の平戸でその生を受けたのである。
 もちろん、父である鄭芝龍そのものは純粋な漢人であり、鄭成功は間違いなくその血を受けている。問題はその母で あった。鄭成功は平戸の豪族である田川七左衛門の娘マツを母として生まれたのである。
 鄭成功は子供の頃は漢語を喋ることはできなかった。いや、そもそも自身が海商である鄭家の一族であることすら知 らなかった。そのころ父の鄭芝龍は大陸へ帰投し、次第に実力を付けて鄭家の中核を為しつつあった。平戸に残した 妻とその幼児は顧みられることはなかったのである。
 幼名福松と名付けられた彼は、そのまま過ごせば平戸の一豪族の子弟として、さほど不自由もないが波乱もない生 涯を送ったに違いない。
 彼が七歳の時に、父である鄭芝龍は再度平戸を訪れた。この時鄭芝龍は彼を大陸に連れ帰り、自身の後継者として 周囲に示したのである。
 田川福松は鄭森と名乗り、鄭家の一員として育てられた。はじめは不自由な言葉もすぐに慣れた。今では母の国の 言葉を思い出す方が難しくなった。今までとは違った国での生活は慣れがたかったが、何よりも、自身に父という存在 が嬉しく、そのような事は苦にはならなかった。今まで何度周囲から「父無し子」として蔑視されてきたことか。頼もしい 父を得て、田川福松は次第に大陸人鄭森として替わりつつあった。
 鄭家の子弟として彼は南京の大学に学び、数々の学問を身につけた。儒学の教えもその一つである。君に忠たれと いうことはこの頃の彼の中で形づくられたものである。
 やがて崇禎十七年に李自成の反乱が起こり、南京で弘安帝が即位する。清軍は怒涛の勢いで南京を攻め、これを 陥落させた。これを機会に鄭森は南京を去って福建に戻った。名を鄭成功と改めたのはこのころである。鄭成功は二 十一になっていた。全身から気力が光芒のように満ち溢れ、豊かな学識を身につけていた彼は、たちまち鄭家軍団の 一人として、父鄭成功の片腕として重きを為すようになったのである。
 そんな時、隆武帝に彼は目どおりすることとなった。隆武帝は四十を過ぎたばかりの壮年である。明を復興するという 気概が時には理性を押さえこんでしまうことも往々にしてあった、使命に駆り立てられた悲壮の天子である。
 隆武邸は一目見て鄭成功を気に入った。彼は鄭成功を自身の婿にしたいと願った。しかし、不幸にして隆武帝には 娘はない。仕方なく鄭成功に、明の王姓である朱の名乗りを許すこととなった。国の姓を許されたために、鄭成功は後 に国姓爺鄭成功とも呼ばれるようになった。
 鄭成功もまた、この亡命の君主に深い情愛を抱いた。武士として、燃える青年の若き血潮が、衰えゆく明を守護すべ しと掻き立てていた。しかし、そんな鄭成功の熱意も虚しく、今、父たる鄭芝龍は明を去ろうとしている。
 やり場のない憤りを胸に抱いたまま、鄭成功は足元の砂を滑りだすようにして前へ一歩進んだ。砂浜に一つの足跡 がまた刻まれた。一つ一つ刻み込まれるその足跡は、彼がこの砂浜まで歩んで来た印の一つである。その足跡が決し て覆い隠せないのと同じように、この情勢は糊塗できない。
「どうした、大木よ。先程叔父貴に殴られたのがまだ痛むのか?」
 まるで嘲笑するかのように鄭成功の背後から声が飛んだ。彼は眉間に皺を寄せたままで踵を返した。大木とは鄭成 功が南京に学んだときに号した名である。自身の名であった森に因んでそう名乗ったものである。
「なんだ、彩兄か」
 憮然とした面持ちのままで鄭成功は背後に立った従兄を見やった。この一回りほど年上の従兄鄭彩は日頃から不遜 な言動が多く、鄭家軍団の一員ではあるが、その総帥的立場の鄭芝龍からは常に疎まれていた。
「叔父貴に手酷く叩かれたそうだな。清に下ることを諌めたそうだが無駄なことだ。清は叔父貴に親王待遇を与えると いう条件を持ちかけてきたのだ。今の平国公よりは爵位は上だ。しかも清軍の勢いはとどまるところを知らない。計算 高い叔父貴のことだ。とうにこの政権には見切りをつけているはずだ」
「なにっ」
 嘲りのこもった微かな笑いを唇の上に浮かべて鄭彩は上から下まで鄭成功を眺め回した。年二十一の鄭成功は鼻 柱が太く通り、細く釣り上がった眼が異様に輝く気鋭の青年である。その眼に強い怒りの色が宿ったのを見て、鄭彩は その舌鋒を止めて従弟を押し止めた。
「そう、怒るな、大木。俺はお前に別れを告げに来たのだ」
「別れだと。彩兄も我が父上と一緒に清に下るとでもいうのか?」
 そのことを詰るような口調で鄭成功は呼吸を整えた。砂浜の上の鄭彩はうっすらと微笑を浮かべたまま、顔をしかめ た従弟を一瞥した。
「まさか、叔父上に嫌われている俺が清などに下れるものか」
「では、彩兄はどこに行くと言われる」
「監国の地位にある魯王が海上に漂流している。俺の船団はそれを迎えようと思う」
 明は一度滅亡したといえども、その皇族、王族は各地で転戦を続けていた。皇帝の代理として監国と称した魯王もそ の一人であった。この政権は当初南京の南部紹興に拠ったが、今はその根拠地を追われて舟山列島付近の海上を彷 徨している。
「明の復帰など、万に一つもありえん話だ。その点、叔父貴は慧眼と言えるだろう。しかし俺はあんな男と同席に着いて 清に仕えることはできん。どんなに枯れようとも俺も鄭家の一人だ。お前の父の指図などは受けたくない」
 舌を口の中で前後させるような言い方で鄭彩は自身の計画とその真意を吐き捨てた。まだ年は三十を幾つか出た程 度であるのに、その顔は長年の航海生活でしみ込んだ塩によって赤黒く輝いている。鄭成功とは違い、大きく見開かれ た二重の眼が辺りを威圧するように動いている。
 鄭芝龍は鄭家の一員とはいえ、明の力を背景として権力を掌握した成り上がりである。その下に着くことを、鄭家の 一員として彼は潔しとはしなかった。才子であった鄭芝龍とは違い、武骨で意地の強いだけの武人だが、芯の強さは誰 もが認める所である。
「俺は明日、船団を率いて舟山島へ向かう。これで叔父貴の奴とはお別れだ。大木、お前はどうするつもりだ」
「私は…」
 言われてふと、鄭成功は気づいた。自身がまだ、何も選ぶことのできない人間であるという事実がそこにあった。
「口篭もるということは、お前はまだ、叔父貴に着いていくかどうか決めかねているのだな」
 深い所の真実を突かれて、鄭成功は一つ大きな身震いをした。事実、その通りであった。子として父の命令には従わ なくてはならない。しかし、今度という今度はそれは出来なかった。明を捨てて清に走る。しかしそれは父との決別を同 時に示していた。
「彩兄、私は鄭家の一員としていったいどうすればよいのであろうか。私はまだ決めかねているのだ。本来ならば家父 長である父に従うべきであろう。しかし、それが私には承服しかねるのだ」
 鄭成功はゆるゆると息を吐いた。事実、わからなかった。先程までは誠心誠意で父を諌めた。しかしその意見は入れ られなかった。鄭芝龍は近いうちに必ず清に下るに違いない。そしてこの福建は必ず清によって陥落させられる。
「鄭家の一員としてだと?俺は、お前を鄭家の一員としては認めておらんぞ」
 いつもの、口癖のような言葉が鄭彩の口を突いて出た。鄭成功は一瞬、その白面を朱に染めた。ほんの刹那だが、 激昂の血が顔の血管を駆け巡り、白い細面を薄桃色に変える。「お前が倭の血を引いていることは覆いようがない。お 前は元は彼の国の人間だ」
「彩兄は私をまた侮辱するのか」
「黙って聞け。お前は鄭家の一員ではない。だからお前はこの戦に関わる必要などないのだ。おとなしく平戸に戻れば よいではないか。平戸にはお前の弟がまだ居るであろう。確か、それも叔父貴の胤だったはずだがな」
 分厚い唇を突き出して、鄭彩は海の向う、北東の方角を指すように顎をしゃくった。南方人特有の分厚い唇と大きな 目がぎょろりと楼閣の明かりを受けて照り輝いていた。
 間髪入れず侮蔑の言葉を受けて、鄭成功の血は沸騰した。ついこの間まで儒生として南京に学んでいた彼は、未だ 白面の学生肌を残している。その青い顔は既にやり場のない怒りが駆け巡っていた。
「彩兄…それ以上私の侮辱は許さぬぞ」
 鄭成功は怒りに震える右手を袖の内に隠し、唇を真一文字に結んで細目で眼前の鄭彩を凝視した。鄭彩の態度は 変わらなかった。彼はちらりと視界の端に鄭成功を置くと、小さく息を嗣いで再度海原の彼方にその目を置いた。
「大木、お前は帰れ」
「なんだと?」
「鄭家の一員でないお前はこれ以上ここにとどまる必要などない。大人しく生まれ故郷に戻ればよかろう。まだお前の 外祖父も弟も平戸には健在であろうが」
 鄭成功の弟の次郎左衛門は未だ平戸にとどまり、田川の家の一員として日々を過ごしている。
「俺は、紛れもない鄭家の一員だ。そして鄭家軍団の一方を預かる男だ。しかし俺はあの叔父貴に着いていこうとは思 わん。だから俺は叔父貴と別の道を行こう。しかし、お前は所詮は叔父貴の…平国公鄭芝龍あっての人間だ。お前は 叔父貴がいたから鄭家の人間として扱われたのだぞ」
 侮蔑に近い言葉を幾つも入れながら鄭彩は言ったが、その言葉ともに、鄭成功は不思議と自身の血か少しずつ引い て醒めていくのを感じていた。
 考えれば鄭彩の言うこともあながち間違いとは言えない。夷狄の女を母とした鄭成功の風当たりは鄭家軍団の中で もよいものではなかった。そんな鄭成功を庇い続けたのは父である鄭芝龍であった。
 芝龍は息子である鄭成功の才覚を見込み、自身の後継者としてその地位を固めてきた。まだ成功が日本で福松と名 乗っていた時、鄭家の一員として迎え入れる手筈を整えたのは鄭芝龍であったのである。
 その時の興奮と喜びを鄭成功は今も憶えていた。幼い頃から周囲から父無し子として嘲られ、哄笑をもって迎えられ てきた。
 もちろん、大陸にわたってからも鄭彩のように、夷狄との間の子として軽侮するものもいるにはいた。しかし、幼い鄭 成功にとっては、まず、父が出来たという事実の方が嬉しかった。
 鄭成功が七つの時にその対面は果たされた。母のマツを平戸に残し、単身渡海した七つの幼子を、父の鄭芝龍は寧 波まで迎え出た。西よりの南へ向かう風が吹く季節。船の甲板の上に転がるようにして登った幼児を鄭芝龍は力強く抱 き締めた。
 その時の父のたくましさを鄭成功は強く憶えている。当時は明の崇禎三年。万暦、天啓の政治の膿が吹き出しはじ め、明帝国の屋台骨が揺らぎ始めた頃である。この時鄭芝龍は二十七歳。交易商李旦の後を引継ぎ、鄭家軍団を掌 握し始めた鄭芝龍は気鋭の青年であった。
 それから十五年が過ぎて、鄭芝龍は四十の坂を越えた。相変わらず偉大な才覚でもってこの強大な鄭家軍団を切り 回している。しかし、もはやその指導力は昔のように冴えをもたない。
「しかし、私は父に従うことはできない」
「ならば帰れ。お前はわざわざこの生き死に関わる必要などないのだ。母と共に故郷に戻ればよかろう」
 母のマツは先年大陸への渡航を果たし、今は鄭家の本拠地である安海の城で日々を送っている。鄭成功とは違い、 日本での暮らしが長かった母は。暮らしの違いに戸惑うことも多数と聞き及んでいた。
「私は…」
 何もかもがわからなくなって鄭成功は砂浜に膝を着いた。儒服の裾が湿った砂の水分を受けてたちまち濃い色に染 まる。
「帰れ、大木。あたら命をおとすな」
 片目を閉じ、視界の端で鄭成功を一瞥すると、鄭彩は一度大きく首を縦に振った。そして、背を向けて踵を返した。
 闇の中で鄭彩の筋骨隆々とした背中が揺れ動いていた。わずかに吹き付ける南向きの風。それに交じって遊廓の賑 やかな音楽が響いてくる。
 背後に打ち寄せる波の音を背負いながら、膝をついて鄭成功はいつまでも石のように蹲っていた。



 それから一月の歳月が流れた。その日も鄭成功はこの浜辺に立ち尽くしていた。
 あの夜の翌朝、鄭成功は二つの船団を見送った。一つは父である鄭芝龍の船団である。こちらは明に降伏するため に、鄭家の本拠地である安海城を目指していた。福州より少し南に下った所にある安海の城。そこには鄭成功の母で あるマツが居る。
 結局、鄭成功は己れの進むべき道を決めることはできなかった。ただ、後から行くとの言葉を残し、彼は父を見送っ た。
 既に前線では清軍の南下が始まっていた。皇帝である隆武帝はこれを迎撃せんとして延平府まで出向いていた。
 いわば、鄭芝龍の降伏はこの留守の隙を突いて行なわれたわけで、この裏切りはある程度の予想はできていたもの の、完全たる敵前逃亡であった。
 主力の鄭家軍団を失った隆武帝の軍団は大敗を喫し、帝は長汀府へと逃げ延びたが、その生死はいまだ不明であ る。
 やがて、鄭成功の留まる福建にも、清軍の脅威が押し寄せてくるようになった。鄭芝龍は福建を引き上げる時に、そ の軍団の大半を自身の麾下として引き連れていった。したがってここに残された兵は僅かであり、到底福建を守りきる ことはできない。
 鄭成功に従う僅かの部下からしきりに脱出を勧められるようになったある日、安海よりの使者は不意に訪れた。それ は、安海城の陥落と、鄭成功の母であるマツの死を告げるものであった。
「母上が亡くなられただと?」
 安海城の陥落は当然として受けとめた鄭成功であったが、その母の死はあまりにも突然で、自身の中でそれをどの ように受けとめるべきか解らなかった。
 悲しみ、というのは実の所ほとんどなかった。七つの時に生き別れた母に対する思い出はほとんど記憶の片隅に埋 もれてしまっている。昨年母が大陸に渡ったときも、内心ではどこか迷惑さえ感じていたほどであった。
 しかし、母マツの突然の死は、不思議な感覚を鄭成功にもたらした。それは、今までの彼が心のどこかに置き忘れて いたものであった。
 茫然として使者を見守る鄭成功を前にして、安海よりの使者は更に続けた。
「御母堂は自害されたのであります」
「自害だと?」
「御母堂は倭よりの懐剣を携えていらっしゃいました。その懐剣で喉を突かれたのでございます」
「なぜ母上は自害などなされたのだ」
「城主の妻ならば、城と共に運命を共にするのが当然であるとのお言葉でございました」
 実に不思議そうに使者はその言葉を鄭成功に言い伝えた。それは大陸の人間である使者自身には解らぬことであっ たかもしれない。しかし、鄭成功は次第に記憶のどこかからか、忘れていた何かを思いだし始めていた。
 まだ平戸の田川家で日々を送っていた時のことである。外祖父の七左衛門はよく昔の武将の話をしてくれた。
 祖父の話はほとんどが合戦の話であり、しばしば落城の悲話をも子供に話し聞かせた。 もちろん、まだ六つ程度の 頑是ない幼童にその話が全て解るわけではなかったが、城が落ちる時の悲劇の幾つかは、幼い子供の頭にも記憶さ れており、それが今まざまざとよみがえってきたのである。
 織田信長の妹として生を受け、柴田勝家と共に北庄城でその生涯を終えた美貌の女人お市の方。その娘で、紅蓮の 炎の中で大阪城と共に人生の幕を引いた淀の方。それらの女人の華々しい最後が一つずつ鄭成功の頭に、見たこと があるかのような幻影として駆け抜けていったのである。
「御母堂は、落城の恥辱を受けて生きるならば、潔い死を選ぶと仰っていました」
 それもまた、大陸の男である使者には理解できなかった。しかし、鄭成功にはその言葉の意味が、断片的にだが解り 始めていた。
 彼は足元の砂をかき回しながら、海の彼方を再度見やった。それは舟山島の方向を指していた。もう一方の舟団、 鄭彩は一族の鄭芝鳳らと共に、海上をさまよう魯王朱以海と合流すべく旅立っていた。魯王は皇帝の代理として監国と 称していた。これを擁する限り、まだ明再興の目はあることとなる。鄭彩はその少ない可能性に賭けたのだ。
 だが、鄭成功の視線は舟山島ではなく、更にその向うの、見えるはずのない島を見つめていた。
「母上は、やはり、武士の娘でいらっしゃったのだな」
 鄭成功は大きくため息を嗣いだ。鄭彩に言われた言葉がまざまざと頭の中を駆け巡っていた。
 天下分け目の関ケ原の戦いが終わってまもなくして母のマツは生を受けた。そして大阪夏の陣がようやく終わり、ま だ戦国の気風が衰えない中で鄭成功が生まれたのである。
 「お前は所詮倭人だ」という鄭彩の侮蔑の言葉が不思議に心地よく耳に戻ってきていた。謎は全て解けた。母が死ん だにもかかわらず、鄭成功は思わず口元に微かな笑みさえ浮かべていた。
 訝しがる使者を前にして、鄭成功は浜辺に立ち尽くしていた。ようやく、頭の中で一つの考え方がまとまりつつあった。 浜辺には西よりの風が吹いていた。それは母の故郷、自身にとっても故郷の日本から吹き付けてくるなつかしい風だっ た。
 しばらくの間、微動だにしない鄭成功を前にして、使者との間に不思議な沈黙が流れていた。それは明らかに鄭成功 の変化によるものであった。今までは才気走った癇癖の強いこの青年には、どこか涼しい風土が漂い始めていたので ある。
「もう一つ、最後になりましたが、お伝えせねばならぬことがございます」
 この御曹司の持つ雰囲気の突如とした変化に使者は戸惑いながらも、言い残した言葉を伝えるべく、その場の静寂 を打ち破った。
「長汀府に逃れていた朱聿鍵は清軍に捕まり、処刑が行なわれました。鄭芝龍様はこれから船団で北京へと向かわ れ、順治帝陛下に拝謁する手筈となっております。その時に、成功様にも合流せよとの仰せでした」
 使者はもはや、隆武帝のことを帝とは呼ばなかった。その名である朱聿鍵で呼んだ。そして、清の君主である順治帝 のことを帝とした。鄭芝龍は名実ともに清に降伏する用意を整えたのである。
「なにっ!陛下が崩御されたと!」
 鄭成功は殊更に驚いてみせた。それも予想された範囲の出来事ではあった。しかし、今の彼にはそれを大声で公示 すべき理由があった。
「成功様、もはや朱聿鍵は我らの仰ぐ主君ではございません」
 使者は鄭成功の新なる態度の変化に戸惑いながらも、鄭芝龍から言い付かった通り、清への帰属を鄭成功に説い た。
「黙れ!この逆臣めが!この間まで主と仰いでいた方を手のひらを返したように庶人扱いするとは言語道断だ。貴様、 そのような言葉まで父上から仰せつかったとでも言うのか」
 鄭成功は怒り、喘ぎ、只管に言葉を幾つも発した。それは全て隆武帝への追悼を込めての演技であった。
「あまつさえ、夷狄たる清を、中原の民の身で崇拝しようとは」
 ついこの間までは付くべきかどうか迷っていた相手の事を鄭成功は悪し様に罵った。それは、投降の選択肢を自ら消 すものであった。中華の帝王たろうとしていた清は、自身が塞外の民、いわゆる夷狄として扱われることを極度に嫌っ ていた。清を夷狄と呼ぶことは、清を敵に回すことと同じになる。塞外の戦闘民族である清は決して寛大な政権ではな い。降伏した者の風習は漸次清のものに改められている。胡服と呼ばれる女真族伝統の服装に、辮髪と呼ばれる剃り 上げた髪型を彼らは強制していた。もちろん、従わないものには極刑を以て対処される。清はそれほど自身の民族に 誇りを持っていた。それを夷狄と罵る事は、降伏の目を摘んだと同じなのだ。そのような発言をした人間を清朝は決し て許さないであろう。もちろん、そのようなことは鄭成功は十分承知している。知っているからこそ、彼は敢えてそのよう な事を述べたのだ。
「戻って父上に伝えい。私は、成功は清になどは降伏せんとな」
 毅然とした態度で成功は言い放った。ふみにじられた足元の砂は窪地のようにへこみ、その中心にすくっと鄭成功は 立ち尽くしている。背後にその悠久なる海原を背負いながら、朗々とよく響く声で彼はそう決意した。
「清に降伏せずしてどうされます。衰亡する明に忠義を尽くすと言われますか」
 使者はゆっくりと一字一句を踏みしめるように、鄭成功の顔色を伺いながら口を開いた。使者にはまだ疑いがあっ た。それは、鄭成功が一時の感情に惑わされて物言いをしているのではないかという疑念があったからだ。しかし、意 に反して、鄭成功の顔色は落ち着いていた。その目には穏やかな光が戻っていた。
「私は明に忠誠を尽くすのではない。しかし、私は武士として、父の裏切り行為を許すことはできない。間違いなく父に 伝えよ。成功は父上の息子であるが、同時に武士でもある。裏切り者の父を持った恥辱はこの手で必ず雪ぐであろう、 とな」
 鄭成功の声は澄み渡り、福建の浜辺に流れるがごとくに響き渡っていた。辺りには清々とした風が吹き渡っている。 その風の通りに、鄭成功の心も澄み渡っていた。心につかえていた重しがようやく外れたような気がしていた。それは、 書生鄭林から、軍人鄭成功への脱皮の瞬間でもあった。
 体を半身にずらし、鄭成功はこの間まで自身が学んでいた北の方南京を見やった。かつては明の国都、北京に遷都 が行なわれてからも副都として二百年以上も興隆を誇った町は、沂江のまだ遥か北である。明は破れに破れてとうとう ここまで落ちぶれていった。いつかはあの町を取り戻すのだと鄭成功は心につぶやいていた。
 使者は何も言えずに立ち去った。そして、鄭成功は素早くその足を自身の軍に向けた。事は急を要するものとなっ た。もはや偉大な父鄭芝龍の庇護は受けられない。これからは手持ちの軍団を切り回していかなければならないの だ。
 清の順治三年、明の隆武二年は秋八月。福建の浜辺には秋風が涼しく冴え渡っていた。



 間もなく、既に福建も危ういという報が前線よりの斥候によってもたらされた。
 清の軍勢は更に南下し、明の支配する領域は更に侵されていく一方であった。
 隆武帝の後を受けてその弟が紹武帝として立ったが、これは一月ももたず、清軍によって駆逐されてしまった。
 今や福建も陥落の危機にさらされていた。この緊迫する情勢の中、鄭成功はようやく福建よりの脱出を決意してい た。
 しかし、それは父鄭芝龍の向かう北京でもなく、海上をさまよう鄭彩達の所でもなかった。
 鄭彩とは違うが、鄭成功は確実に明再興への道を歩み始めていた。
 別段、自身が忠臣であるとは思わなかった。しかし、必ずこれはやり遂げなければならぬと思った。倭の人として生ま れた鄭成功は、必ず明の再興だけはやり遂げられなければと心に誓っていたのである。
 武士として。一人の男として。父の鄭芝龍や従兄の鄭彩でも無い道を鄭成功は選ぼうとしている。
 福建を脱出する直前となって、鄭成功の元には朗報が飛び込んだ。明の王室の一人、桂王朱由榔が遥か南方の広 東の肇慶で即位し、元号を永暦としたのである。これが明王朝最後の皇帝永暦帝であった。
 この即位を受けて、鄭成功は福建を脱出することとした。彼の手元に残された船団は僅か十数隻。従う家臣も僅かで ある。もはや鄭家の御曹司としての力は無いも同然である。しかし、それとは裏腹に、彼の心の中ではさわやかな風が 吹き続けていた。
 秋の晴れ空の広がる正午、鄭成功は僅かな軍団を浜辺に集めた。彼は既に軍装に身を固めで武装していた。
 その足元には、今まで彼が愛用してきた儒服が積み重ねられていた。教養を積んだ大学の学生としての象徴の儒服 がうずたかく積み上げられていたのである。
 鄭成功は軍団を集めると、遥か西の彼方を仰いで三拝し、今や最後の皇帝と成り果てた永暦帝を思った。そして一 同がそれに従ったのである。
 そして鄭成功は目の前に積まれた儒服に魚油を掛け、それらに火を点した。たちまちそれらの服には炎が立ち上り、 激しい勢いで布地を舐め回し始めた。
 父や一族に従う孝悌。主君に尽くす忠義。それらの儒学の徳目の全てと彼は決別していた。今、彼の胸に宿るのは、 倭の人としての思いであった。孝でもなければ忠でもない。ただ、そこには武士としての彼が持つ羞恥心が生き生きと 萌え出でていたのである。
 鄭成功は甲板に登り、昨日自身が大書した旗を船にかかげた。そこにはこう書かれてあった。
 「殺父報国」
 父を殺して国に報いる。それは今まで彼の信奉してきた儒学では決して許されないことであったはずである。しかし今 や鄭成功はその束縛から開放されていたのであった。
 裏切り者の父。恥辱を知って死んだ母。倭人であり、武士である鄭成功が取れる道はもはやこれしかなかったのであ る。だが、それは苦渋の決断というよりは、むしろ心の中の流れに乗るかのようであった。
 鄭成功の小船団は一路南西を目指していた。今はまだ独力で歯向かう術もない小勢力の軍団である。しかし、彼は この流れを選び、どこまでも戦いぬく決意を固めていた。
 遥か遠く、日本の方から吹き付ける風を背負って、船団は次第に速度を挙げていった。その苦闘の船出を後押しす るかのように、さわやかな風は吹き続けていた。
 南風は未だ止まず。明の運命はまだ決せられてはいない。
               (終)