都洛陽では全ての人の表情が明るかった。もはや戦乱にも、そのための重い税にも悩まされなくてすむのである。官 民は挙って、天下統一の慶びを味わっていた。
 しかし、この洛陽で、ただ一人そのような騒ぎとは無関係に日々を過ごしている男がいた。名を陳寿といい、元は蜀漢 王朝の歴史官で、国が滅びた後は晋に仕えて、昔と同じような職務を忠実にこなしていた。蜀漢王朝が滅びて十年余り の時が過ぎた。そして彼はようやく自身の仕事に一段落をつけようとしていた。
 彼は書斎で机に向かい、これまで自身が書いた竹管をもう一度始めから見なおしていた。そしてそれが終わると、全 てを積み重ね、題字となる部分に筆をかけようとした。ここには蜀漢王朝の歴史が書き連ねられていた。 蜀漢王朝は 後漢王朝の滅亡の後、王室の血を引く漢中王劉玄徳が、部下の諸葛孔明と共に漢を再興した国家である。しかしその 支配地は大陸の三分の一にも満たない弱小国で、僅か四十数年で三国のうち真っ先に滅ぼされている。
 王朝が滅んだのち、その国の歴史を残すのが歴史官の義務であった。蜀漢の遺臣である陳寿は自身の責務に従っ て、蜀漢の歴史を編纂したのであった。国滅びて十年余り。ようやくそれは完成に近付きつつあったのである。
 彼は硯に向かい、特に念を入れて墨を磨った。そして筆にそれを含ませると、最後の締めである題字に取り掛かろう とした。
 この歴史書の題名はもう決めていたつもりだった。「蜀漢書」以外になにがあるのか解らなかった。前代には偉大な 歴史家である班固という人がいた。この人は漢の歴史をまとめ上げ、「漢書」という歴史書を書いた。
 それに比類するのは僭越かもしれないがと陳寿は考える。しかしそう名付けるのが自然だと彼は思った。「漢書」は二 百年もの長い歴史を扱っている。「蜀漢書」となるべき本は僅か四十年そこらの歴史でしかない。しかしそれは間違い なく一つの国家の歴史なのであった。
 陳寿はもう一度筆を握り締めた。そして彼らしい繊細でまとまった文字で蜀という文字までは書き付けた。それ以上は 後が続かなかった。陳寿は大きくため息をつくと筆を取り落とした。筆は何の抵抗もなく床に転がり、辺りに墨の飛沫を 撒き散らした。本当にこれでいいのかと彼は思った。そのような題名をこの歴史書につけるのは、何かとてもいけない ような気がした。
 陳寿はこの歴史書が完成するまで、幾度か友人の史官に見せたことがある。蜀漢のことを書いたのだから、その友 人も蜀漢の遺臣だった。張某とかいうその男は、陳寿の歴史書を絶賛してくれたのである。短い歴史ながらも、これほ どの出来栄えのものはそうはないであろうと。ただ、惜しむべきは、一つだけよろしくないところがあるという。
 友人によれば、歴史書に書かれている諸葛孔明宰相のことがあまりにも悪く書きすぎてあるというのであった。それ だけが友人には不満だった。しかしそれを除いてはほぼ完璧な出来だという。
 今、陳寿は震える手で、もう一度その諸葛孔明宰相について書かれた部分を紐解いてみた。そこにはこのような意味 のことが書かれていた。風格、政治の才能は古来の名宰相に近いものがあるが、戦を幾度も起こして成功しなかった のは、才覚がなかったためである、と。
 陳寿はこの評伝がまちがっているとは思わなかった。しかし、何か彼は納得がいかない部分が一方であった。やは り、これは昔からの恨みなのかとも考えてみた。そうやっていろいろ考えているうちに、陳寿の頭の中は縺れ絡んで、ど うしようもなくぼうっとした感覚だけが目の前を過ぎるようになっていった。



 諸葛亮、字は孔明。狼牙国の人で、若くして草廬に篭もり、晴耕雨読して日々をすごしていた。しかしその才覚を見込 んだ予州長官の劉玄徳によって軍師として迎えられ、玄徳が漢王朝を再興すると、宰相の大任を任せられた。そして 没するまでその役職を十年余り務め上げた。
 漢王朝の再興と言ったが、蜀漢王朝は全国の三分の一も支配できない弱い王朝だった。初代皇帝となった玄徳は即 位の翌々年に早くも没し、この脆弱な王朝は諸葛孔明の力によって支えられたのである。有能な政治家であった彼は その徳を領土に施し、蜀漢の民からは没した後半世紀近くなった今でも神として崇められている。
 陳寿は孔明自身に触れてその人を識ったわけではない。彼が幼い頃に孔明は戦陣の五丈原に卒している。しかし、 孔明という人の性質と能力は掴んでいるつもりだった。
 世間の人々は孔明を戦略の天才、偉大なる英傑、忠臣として褒めたたえた。しかし、どうも陳寿にはそうは思えなか った。人口百万足らずの蜀漢王朝で、四百万の民を要する魏帝国に歯向かうのは蟐螂の斧ではなかったのであろう か。冷静に考えれば、それは当然のような気がした。単純に考えて四倍もの国力の敵に当たるのは正気の沙汰ではな い。仮に勝算があって孔明という人がそれを行なったとしても、結局彼は幾度もの北伐のうちで、一度たりとも成功を修 めたことはないのだ。
 どうして軍事に優れた人であったといえようかと陳寿は思う。彼は自分の父である陳式でさえまともに使いこなせずに 死に追いやった人間なのだ。やはり孔明は軍事の才覚などなかったと陳寿は自分を納得させた。
 だが父のことを考えると、陳寿は自分がひょっとすれば孔明の事を無意識的に悪く書いているかもしれないと、また 考え直してみた。陳寿の父の陳式は彼が幼い頃ささいな軍功争いが元で孔明に処刑されている。人材の少ない蜀漢 王朝の中で、陳式は数少ない勇将であった。しかし孔明はそれさえ使いこなせなかった。
 父の死後、陳寿は母から将軍にだけは成るなと言聞かせられて育った。自然彼は文官の道を歩み、平凡な歴史家と してその人生を歩んできた。
 公平に書いたつもりだと陳寿は思った。だが、幼い頃からすり込まれた記憶がどこかで筆を曲げさせているかもしれ ないということを彼は危惧した。所詮自身はちっぽけな歴史家に過ぎないのだが、歴史は永遠に残る。人は死して名を 残すが、この歴史書そのものが陳寿の名であった。そして歴史は常に公正でなくてはならないはずだった。
 どこかになにか不都合があるはずだと陳寿は思った。すると、自然とそこには諸葛瞻の顔が浮んでくるのであった。



 諸葛瞻は字を思遠といい、孔明のたった一人の息子だった。孔明が五丈原に没した時、まだ八歳の幼児であった が、父の威光と遺徳のおかげで、誰もから尊崇され、期待を背負い成長した。そのため、どこまでも尊大な男に成り下 がっていた。十七で皇女と婚姻して皇帝の娘婿となり、侍従、校尉と要職を歴任し、武郷侯に列せられていた。
 父の期待を背負っただけのこの男には才覚も勇気も欠けていたと陳寿は思う。しかしその諸葛思遠について書いた 部分を見ると、自分でもそれは必要以上に悪くを書きすぎている気がしてきた。
 まだ蜀漢王朝がこの世にあった頃、陳寿と諸葛思遠は共に宮廷に仕える身であった。しかし陳寿が一介の史官であ ったというのに、諸葛思遠は既に武郷侯であり、身分の差ははなはだしかった。
 そして父の差も激しかった。陳寿の父は軍令違反の罪で処刑されている。陳寿はいわば罪人の息子であった。しかし 諸葛思遠はまったく違う。彼の父は丞相と呼ばれる大臣として最高の位に着き、神とも慕われる遺徳をこの世に残して いった。そして皇帝の娘婿として前途は遥々たるものがあった。陳寿は罪人の子として、辛うじて生きていけるだけの 官位しか与えられなかった。
 陳寿は昔、その諸葛思遠に罵られたことが一度ある。理由は何であったかもはや忘れてしまったが、とにかく些細な ことであった。その時諸葛思遠は「罪人の息子は予期通りつまらぬ奴だ」と陳寿のことを罵倒したのである。心のどこか でそれは深い恨みとなっていて残っていたらしい。そのためか、少し筆がおかしな通りに進んだようであった。
 陳寿は書き加えるべき所を朱で付け加えた。これで全てが足りたと思った。こうして諸葛親子のことを最後にして、蜀 漢書となる本は全てを書き上げることができた。
 これで自分の歴史官たる役割は全て果たせたのだと彼は思った。ここ数年多病の彼は、ようやく自分の人生が終わ りに近付いたと思い始めていたのである。
 全てのことは書き負え、彼は再び題字を書くことに精神を集中しようとした。もう一度彼は心を新たにして墨を磨り、衣 服を正して机に向かい直した。
 しかし、陳寿は題字の続きを書くことが出来なかった。小さく描かれた蜀の文字だけがぽつねんとそこに題字として残 されていた。後にはここに漢書という、偉大な文字を書き入れるだけであった。それで全ての仕事は終わるはずだっ た。
「出きぬ…」
 筆を握り締めたままで陳寿は何度も大きく息を継いだ。書き入れさえすれば、もうそれは完成した一つの作品であっ た。それ以上の訂正や加筆は容されないのが世の常であった。そう考えると、陳寿は先程直した諸葛思遠の伝が、本 当にそれでよかったのかとさえ思い始めた。 陳寿は何か自信が持てなかった。そしてどうしてもそこに「蜀漢書」の名 前を書き込むことができなかった。「やめだ」
 陳寿はやおら呟くと筆を硯の上に正しく置いた。そして行儀のいい知識人の彼らしくもなく、そのまま後へ体を倒し、手 を枕にして大の字に寝転がった。机の上にはただ蜀とだけ文字が書かれた歴史書が残されていた。
 静かに陳寿は目を閉じた。こんなはずではなかったと彼は思った。彼が描きたい歴史とはこんなものではけっしてな かったと心の中でひとりごちた。
 蜀漢王朝。それは短い期間であったが、幾多もの英雄豪傑が艱難辛苦に耐え、陳寿では計り識れないほどの才知と 労苦でこの世に建設したものであった。その人々のことを歴史に書き残したい。そんな思いが高じ、彼を歴史家として の義務に立ち向かわせたのである。だが、それは完成を目前にして危うく潰えようとしていたのであった。



 陳寿はぼんやりとした夢うつつの中にいた。彼はまだ幼い幼童で、桑の木の下で鞠遊びをしていた。不意に玉が転が り、幼子は慌ててそれを追い掛ける。
 追い掛けた先には一人の背の高い大人がいた。道師の長い着物に身を包み、右手には鶴の羽で編んだ白羽扇。そ の大人は片手で鞠を掴むと、そっと陳寿に渡してくれた。微笑んだ優しい笑顔は、どこまでも忘れがたい綺麗な姿であ った。
「丞相閣下、軍議の支度が出来ました」
 不意になつかしい声がする。今や顔さえもほとんどおぼろげでしかなくなった父の陳式の声だ。大人はかすかにうな づき、父と共に幕舎の内へと消えていった。
 そこで陳寿は目を覚ました。彼は自分がつい先程まで、自身でも覚えていない過去の中へ意識を飛ばしていたのを 知った。彼はようやく自分の仕事を思い出した。
 孔明は、確かにそのような人だった。陳寿はもう一度自分に言い聞かせた。
 歴史に書かれた人々は、それだけでは決してなかったのだということを改めて陳寿は思いなおした。
「もっと、様々な方向から、あの人たちを見るべきであったのだ」
 大きく、少しだけ長い独り言を彼は洩らした。もう一度陳寿は机に向かい直した。蜀とだけ書かれた題字が相変わら ずそこにあった。陳寿は大きく息をひとつ継いで筆を取ると、蜀の文字の上に彼らしくもない大きな文字でこう書き付け た。
 三國志という文字が題字として描かれた。
 書き上げてみると、それはなにか不思議な気がする題字だった。「三國志蜀」とは、なんとも奇妙な題だと彼自身でも 思った。
 しかし、これ以外にもはや彼は自分の歴史を片付ける方策を知らなかった。これでいいのだと思うより他になかった。 残り二つの国の歴史を書くことができれば、孔明の真の姿も後世に残すことが出来るのである。あと自身にどれだけの 時間が残されているのか解らないが、とにかく残り二つの国の歴史を書き上げなくてはならないと彼は感じていた。一 度休められようとした筆を彼は握り直した。新しい竹管が積まれ、再び硯に力が込められた。静かに、淡々と陳寿の筆 は再び動き始めていた。
 薄暗い書斎の外では夜風が激しく吹き続けていた。
                   (終)