私の住んでいる自宅のお向かいには一人の男子高校生が住んでおりまして、これがまたとてもとてもお喋り好きでございますの。日曜の朝お庭の掃除をしておりふいと門の外を出ますと、その子が『健康にいいから』と同じく早起きをしておりまして、『おはようございます。今僕燃えないゴミの日でゴミを捨ててきたんです、なかなかやるもんでしょう』と言うんです。私も歳を取ってから若い男の子に話しかけられると大変嬉しいもんですから笑顔で『まあえらいわねえ』と返してやったんです。するとさらにその子はこちらへ近寄って来て『オバサン聞いてくんない僕の話を!!』と元気よく言うもんで、『あらなにかしらね、オバサンでよかったら・・・・』と話を聞くことにしたんです。その子の話は長い長い話となりましたけれど。
『僕昨日も早起きして外へ出たんです。んで誰もいなかったからちょっと辺りを散歩でもしようかと思ったんですけど実はお腹が空いていて、僕朝ごはんまだだったから家に戻ってパンでもと思って台所に行ってみたら牛乳しか入ってなくて。まずこういう時ってお母さんとか誰か呼びますよね、それで呼んだんですよ。でもこんなに朝早いのに誰もいないんです。・・オバサンは知ってらっしゃるかと思いますけど、僕のうちって4人家族で父と母と姉と僕なんです。でもよくよく考えたら、金曜から父とは母は温泉旅行へ行っていなくて姉は友達の家に泊まるからって言ってたのを思い出したんです。それで僕は仕方なしに『朝は牛乳だけでいいや』って思って冷蔵庫にあった牛乳を取ってそのまま飲んだんです』
そして、彼は片手を頬にあててひそひそと小声になりはじめたんです。
『・・・・・・飲んでから気がついたんですけど、なんだか口の中が酸っぱくなってちょっと固まってヨーグルトみたいな気がしたんです。半分あった牛乳をごっくん、とまではいかなかったんですけど、飲んじゃったんですよ!!・・・それで『おっかしいなあ』って。結局期限から10日近く経ってて。僕お腹壊しちゃったらどうしようとか焦っちゃいました』
ここまで話し終えると彼は一呼吸ついた。私はやっと間ができたと思い、
「そんなの飲んで、大丈夫だったの」
と尋ねると、
『オバサン、続きがまだあるんですよー。牛乳の文句を言ってやろうと家族のケータイに電話してやったんです。そしたら全員圏外にされてて。こういうの『僕騙された』ってやつですよねー。それで寂しくなって戸棚の中を開けると、あったんです、食料が・・・・・って言ってもラーメンとかお菓子ですけど。そんなのしかなくても負けずに、自分で一生懸命ポットでお湯沸かしたんです。それでやっと10時に朝ごはんみたいなのになったんです。最後にお菓子をちょっとだけ食べてもうお腹一杯で。それで満足して牛乳のことなんか忘れちゃってたんです。お腹も大丈夫だったんですよ』
「まあよかったわね」
大丈夫だったみたいねと思いながら、私は口を挟んだ。
『でもね〜、お昼お菓子だけでは足りなかったんです−。夕方にしても親とか帰ってくるの多分遅いと思ったし。だから僕お昼前くらいかな、自分のお小遣いで何かスーパーででも買い物しようと思ったんです。こっから先住宅街を抜けて2,3kmしたらスーパーがありますよね、とりあえずそこで何か探すつもりでいたんです。その時何故だか自分のチャリ使うのがいやで−、姉のママチャリを倉庫からひっぱってきたんです−。意外に前輪がふわふわしてるなあなんて思いながら乗ってたら、スーパーの手前でチャリがパンクして前輪がひしゃげちゃって、僕こけちゃったんです。道の真ん中で』
「あらまあ大変だったわねえ」
彼はこことこことここ・・・・・といいながら膝や両腕に出来た青あざや擦り傷を、私の目の前で披露したんです。幸い骨には異常ないといいつつもスラックスをめくると左膝には5cm程の青あざとその下には切り傷のような擦り傷のあとにバンドエイドが4枚ほど貼ってありました。
『本当に大変だったんです。すぐ近くに交番ってあるでしょう、そこの交番からお巡りさんがやってきたんです。僕びっくりしちゃって『僕転んだだけなんです』って言っちゃったもんだから周りのひとたちにくすくす笑われて、恥かいちゃいました。でもお巡りさんがとても親切にしてくださって・・・・自転車を交番までひっぱっていって、それで交番の中で救急箱を出してもらって自分で手当てをしてたんです。その時初めて交番の中に入ったんですよ!!』
「私も入ったことないわ、ちらっと中を覗いたことはあるけど・・・・」
私がそう呟いた時、彼は両手で握りこぶしを作りやけに興奮しているようでした。顔も紅潮していましたし。
『オバサン、見たことはあるんですね、僕は入ったことあるから分かるんですけど中意外と狭いんです。入ってすぐに先生用の机みたいなのに椅子が二つと小さな2人がけのソファ、その奥に部屋があってテレビとテーブルと物入れと布団が一組。なんだかそこで泊まれるようになってるみたいで、テレビで見たのと変わらないですよ。・・・・・そう、僕が傷の手当をし終わってからお巡りさんが『このパンクはタイヤごと変えないと無理だよ』っていうんです、僕ショックでした。・・・・・・・・でもスーパーはすぐそこですからって言ってお礼を言って出たんです』
そしてすぐまた彼は喋りだした。
『本当に膝とか痛かったんですけどなんとかこらえてスーパーの中に入ったんです。久しぶりに来るもんでちょっと緊張気味でした。入ってすぐにかごを持っていって、おにぎりとかラーメンとかみてたのはいいんですけど気がついたら財布の中身が483円しかなくて。僕めちゃくちゃ焦っちゃって
おにぎり3個とか入れてたのに全部返して。最後にかごの中はミネラルウォーターとポテトチップス2袋で。なんだか恥ずかしくなっちゃって袋を受け取ったらすぐ出て、ママチャリのタイヤがパンクしているのを思い出してさらに恥ずかしくなっちゃったんです。ほらさっきの交番前を通らないといけないでしょう、だから僕思い切って逆の道へ出て遠回りで、ママチャリのカゴにスーパーの袋乗せて引きずって徒歩で帰って来たんです』
「まああ・・・・・」
どうしてそんな大変で、恥ずかしい話を私なんかにしてくれるのだろう・・・・・と思いきやさらに次の話がはじまったんですの。
『チャリでこけたり−お金無かったりで色々あって、家に着いたのが夕方の4時半だったんですよ・・・
はぁ−もうホント今日はやないちにちだななんて思っていたら・・・・・まだあったんです。ポケットに入れてた家の鍵が無くて。もうヤバイ、終わってる・・・・って思って泣きそうになってママチャリの横にうずくまってこれから僕どうしようと考えていたんです。鍵は、多分スーパーの前でこけたとき落としたんだと一瞬思ったんです。でも今から行ってもしなかったら・・・・とか交番で落としたとか届けられてるとか・・・・足とかズキズキするし・・・・・・・・・そんなことを色々思っていると、ふとママチャリの横に鍵がもうひとつついているのを見つけたんです。その時僕は『これだ!!』と思い、やっとのことで家に入れたんです。なんと家の鍵がママチャリの横につけてあったんですよー!!』
「お巡りさんが拾ってくれてたんでしょうね・・・・」
「いえ、違うんですよ」
嘘嘘とのごとく彼は片手を横に振り、その手でさりげなく前髪をかきあげました。
『家を出るとき、ママチャリの横に一緒につけていたのを僕が忘れていただけだったんです。僕また恥ずかしくなって玄関入って鍵閉めて、そのまま二階に駆け上がったんです。僕は自分の部屋でポテチを食べてミネラルウォーターを飲みながら『なんてばかなやつなんだ』と反省していました。そのうち膝下からまた血がにじみ出てきちゃって急いで消毒したりバンドエイド取り替えたりしてて・・・・・・・・あっ僕の部屋ってテレビ置いてるんですよね、それでテレビをずっとみて気がついたら夜の9時を廻っていたんです。そしたら玄関から僕を呼ぶ声がしたので下りてみるとやっとで両親と姉がそろって帰って来たんです・・・・・。僕はもうホッとしました』
「そうなの・・・・・なんだか・・よかったわねえ」
「・・・ところが良くなかったんです」
『僕が玄関へ行った瞬間、僕がけがをしていることが両親にわかったんです。それから入ってすぐのところにママチャリが置きっぱなしで、最初っからパンクしていたのに姉がそれを僕のせいにしてしかも『勝手に使っておいてなによ』って言われたんです。それから全員居間に集合して・・・・・。さっきいきなり言われたからもう僕も頭にきてしまって牛乳の話からしてやったんです。・・・そしたらとうとうお父さんが『わかったからもう寝なさい』って。
・・・実はその時まだスーパーの手前でチャリでこけた話までしかしていなかったんですよね。でも話の途中で中断されちゃったんです。姉は姉で電話帳で自転車屋さんを探してぶつぶつぶつぶつ独り言をいいながら僕にあたり散らすんです。困った姉さんですよ。最後に親に骨は折れてないかとかしつこく聞かれてしまって。本当にズキズキするしひりひり痛いしで、でもどこもちゃんと動くから心配いらないって言ったんです。言った後実は心配でその日なかなか眠れなかったりで、いゃぁ本当に悲惨な一日でした』
「大変だったわねえ・・・・」
「はい・・でも今朝は何事も無かったですよ!!・・・・そんなわけで今から交番にお礼をしに行くんですー。行ってきま〜す!!」
「まあそうなの。気をつけて行ってらっしゃい・・・・・」
彼は足早にお向かい宅に駈け戻ると、彼のらしき通学用自転車を引っ張り出しました。そしてハンドル片手に紙袋片手で私に手を振り颯爽と走り去って行かれました。
ちなみにお向かいのお宅が建てられたのは丁度2年前のことでした。息子さんが高校へ進学するのとほぼ同時に移られて、こちらへもご挨拶にこられたのを覚えております。時々奥様をお見かけして
立ち話をしたりするのですが、本当にあの息子さんはお喋り好きで、話し出したらとまらないと聞いたことがあります。
さて、今日は彼の話をたくさん聞かせてもらったところで私も宅の中へ戻ることにいたします。
完