ホスピスにて、20XX年11月。
この敷地は3km四方1mほどの植木に囲まれていて、そのなかで10階建ての病院や、老人ホーム、リハビリテーションなどの施設などが建設されていた、わたしは敷地内での外出許可が出されていたため、大きな庭の隅のブロックに腰掛け日光浴を楽しんでいた。庭には直径20mの池があり、時々どこからともなく鳥があらわれ、水辺で戯れていた。
この病院の個室に入れられてからはほとんど会話をするのは医者と看護婦で、見舞いにくる客もなかった。個室、といっても6,7畳ほどもあり、ほとんど食事以外は自分で生活できるようベッドやTVのほか、備え付けのテーブルや本棚、ユニットバスが設置されていた。条件は病院の敷地内からでないこと、他の患者と接触をもたないこと、間食はあまりしないこと等であった。それ以外は全くといってよいほど自由気まま・・・・・毎日決められた時刻に食事が運ばれてきてそれを食べ、夕方までには簡単な往診で検査を受けまた決まった時刻に薬を飲み、不快なときには点滴を受けたり・・・・・であった。
わたしは年に何度か発作を起こしたくらいで、正直いって普通のマンションでの生活のような気もした。
雑誌が読みたければ売店へ行き、専用のカードを出してそれを手にいれるし、小腹がすけば同じように菓子を選んでカードを通してもらう。そしてまたエレベーターで自分の病室・・・もう「部屋」であるが、戻っていくのであった。売店が1階で自室は8階にあった。もっと重度な患者は他の階にいるらしく当然見かけないし部屋の外へは一切でられないのだろう。ちなみに9階がそれらしく、10階は外科かなんかだったような気がする。そんなことはさておき私はそそくさと部屋へ戻った。
室内には向かって窓がありベランダが設置されている。ベランダに格子が何本か余計についているのがうざったいだけであった。このベランダが設置されているのは8階のみであり多少なりとも優越感があった。窓の外は当然のごとく山ろくがひろがり、四季が伝わった。
2年ほど前病に倒れて半年ほど入院した。退院してからというもの私は、半年間のブランクと渦高く積まれている書類に頭をかかえそのままパニック状態となり、倒れて救急車で運ばれ、気がつくとこの街から遠く離れたホスピスに入院させられたのであった。
実のところわたしの父は手広く事業を繰り広げている、企業の社長の専務であった。実家も邸宅で何不自由なく暮らし大学まで付属のストレート、しかし私はこのまま父の言いなりになることをきらい、反対を押し切り普通の会社に就職してしまった。就職したはよいがすぐさま経歴があからさまになり、周囲からもひそひそ囁かれながら毎日遅くまではたらいた。・・・・・・学生時代、「ストレートのやつらは外の世界をしらん」と言われたことに苛立ちを覚え、しかもその通りの風体だったためか意地でも自活してやろうという気になっていたのであった。だがしかし毎日毎日の残業や周囲の噂を我慢しながら意地を通した結果、ある日胃に激痛がはしりそのままデスクの下へ倒れこんでしまった。その時『社会人とはこんなものだったのか・・・・?』と呟いたことを覚えている。
そして現在は企業の専務の『不肖の息子』と化してしまい、華やかだがしかし面倒だった晩餐会へも、もう顔向けが出来ない状態である。だが、そんな父のお蔭・・・・・といってもホスピスだが、こんなにも融通の利く施設に放り込んでくれたことに感謝している。
今ここで読書をしている庭の隅はわたしの特等席であった。夏は池の周りに色とりどりのチューリップが咲き誇り、夏は時折山ろくから涼しい風が運ばれてくる。秋は池へ紅葉が舞いおち、冬は膝まで雪が積もり童心に帰ることが出来る。
時々この庭で思い出すのが学生時代、クラブやカラオケでのドンチャン騒ぎや、入社後歓迎会で一気飲みさせられて『君君なかなか酒いけるじゃないか』など上司に褒められたことであった。そんな想い出もまた、風とともに遠く山ろくへと運ばれていった。
今日もいつものように、池に落とされる紅葉の葉っぱを見やりつつ、横文字の作家の文庫に没頭していた。
「へぇ〜文学全集ね。おたく頭いいんだ」
ふと見あげるとどこからきたのか女の子だった。中学生くらいに見えた。・・・・・患者同士の会話は禁止されている、と思いまた次の行に目をやった。しかしその女の子はわたしの横に1mほど離れて座った。
「・・・・・・・・・・・・」
わたしは医師から言われたとおり、規則のとおりに無視した。すると女の子はふん、とつまらなそうにどこへやら池の向こうの茂みに身を隠すように消えてしまった。
それから5,6分ほどしただろうか。
『ばっしゃ〜〜ん!!!!!』
いきなり頭の上から水が降ってきた。わたしも文庫本もぐっしょり濡れてしまった。
「なんだ?」
目の前に、さっきの女の子が青いバケツを持って立っていた。
「口が訊けるんじゃん。しかも外許持ってるし。無視するからよ!!!!!」
わたしはスッ、とたってびしょぬれの体で歩き医者を呼びに行こうとした。だがしかし、腕をつかまれ、ドスン、と芝生のうえに座らされてしまった。
「何か・・・・・・?」
仕方なく口を開いた。
「ここの規則、知ってるでしょう・・・・・」
女の子が面倒で仕方がなかった。青い長袖のシャツに白いジャージをはいて、病院のマークのついた青バケツ(確か売店でも売っていた・・・・・)を持って色白で細長く、華奢な体つきをしていた。見た目は至って元気そうであった。むかつく・・・よりも先に驚いたのと寒いのとで混乱した。女の子は意地悪そうに腕から手を離していった。
「あたしの部屋ね、9階なのよ。・・・・・・・すごいでしょう」
(嘘つけ・・・・こんなにぴんぴんしているやつが9階?自分は騙されてるのか?)
わたしはびしょびしょのまま文庫と一緒に頭を抱え込んだ。すると女の子は言った。
「あんたの部屋って8階でぇ、ベランダつきなんでしょ、いいわよねーベランダって・・・・・ぐすっごほっ・・・」
「おいきみ・・・・」
女の子は突然両手で口を押え、泣きながらむせ返った。そしてわたしが手を差し伸べるがいなや、走って池の茂みに消えてしまった。
・・・・・今日わたしはひとつ、規則を破ってしまったのだった。他の入院患者と会話をしてはいけないのだ。医者たちに見つかればいっそのこと、池にでもおちた、とでも言っておこうと思った。そしてまたびしょぬれの姿ですたすた歩き、幸運なことに誰にも会うことなくエレベーターに乗り、自室へ戻り、シャワーをし着替えることができた。
・・・・・・やはり例の水をかけてきた女の子、のことを思い出すと、頭が重かった。そしてうざいような気がしてたまらなかった。なので当分ベランダに出るのはやめようと思った。
夕方の問診で医者から、今日に限って『体調に変化はありませんか』『食事はきちんと摂れますか』のような質問をされたが、『はい』とだけ答えた。そしてさらに帰り際に、
「最近は冷え込んでますから、あまり外に長く出ないように」
と言い残されてしまった。
自分がびしょぬれで帰る途中を医者に見られていたのだろうか、とふと思った。そしてまた
「外出禁止のくせにどうやって外に出るんだあいつは!」
「あのときは・・・・驚いた・・・・くそっ・・・・・」
などと呟いてみたりもした。入院当時の説明では、『回復のよろしくない際は、上の階の病棟に移動してもらいます。室内はほぼ同じですけど、完全看護・・・・言ってみれば外には出られず廊下は監視カメラが24時間作動してます。』
一瞬そのセリフに全身が凍りついたが、また
『ですから、規則どおり生活なさって一日もはやく元気になっていただかないと』
と励まされていたわたしであった。
・・・・・・いつのまにか、頭がボンヤリしだした。びしょぬれになったせいだろう、風邪をひいてはならないと思い、夜の八時半には床につき朝までぐっすり眠った。
それから5日もの間、微熱が続いたせいもあってかあの特等席へは向かおうとしなかった。医者には何故だか疲れてしまい、薄着で寝てしまったと誤魔化した。口が裂けても池がどうしたとか喋ってはならないと思った。
「平熱に戻るまで、安静になさってください」
と毎度毎度言われて、5日間部屋の中でじっとしていた。
6日目の昼にはようやく平熱に戻った。・・・・あの女の子のことがひっかかってはいたが、外の風に吹かれたかったせいか、ゆるゆると池のそばへやってきて腰を降ろした。池には殆ど枯葉は撤去され、冬がくる直前のようだった。天気は曇りで空は昼間から暗く、冷たい空気が頬に伝わってきた。
「・・・・・・・・・この間は、ゴメンナサイ」
あの時と同じ例の女の子の声がした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
背筋がぞっとした。あの日池の水をかけられ5日も寝込んでしまったこと、せっかくの文庫本がびしょぬれになったことを思い出した。
「・・・・・・・・あまり悪戯が過ぎると、先生に頼んでほかへ転院してもらうよ」
謝られてもわたしの周りには執拗な雰囲気が漂っていた。
「・・・・・・・・・・・本当にゴメンナサイ」
「・・・・・・・・・・・・・」
わたしは沈黙を守った。すると女の子はわたしの目の前・・・といっても約1mほど離れてはいたが、に座って喋りはじめた。
「転院なんてできないもん。私のおとうさんはねぇおかねもちなの!あなたのおうちよりず〜っと、ずっとおかねもちなの!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
転院できないから始まって、女の子はある日学校で2,3人の生徒にいじめに遭ってから連日連夜半端じゃないしかえし(イタ電100回・ゴキブリを何匹か捕まえて机の中に入れた・雑草を給食のおかずに混ぜた・・・・)をした後、さらに爆竹を相手の家の中に投げこんだところを警官に発見され親が呼ばれて厳重注意で済まされたけど学校にも連絡されてしばらく謹慎・・・・さらに相手の子達が家の近所をうろついていたところを窓から見つけて、部屋から駆け下り台所からナイフを握って玄関をでたところを張り込んでいた私服刑事に取り押さえられ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しばらく経った後、両親がひそひそ話をしたり至るところへ電話をかけていたかと思うと気がついたらここへ来て診察を受けて『しばらくはここで自由にしなさい、悪い子はいないよ』と医師と父親に言われたのだといった。
「しばらく、おとうさんやおかあさんともはなればなれなの。」
はぁはぁと息を切らしながら女の子はいった。どうでもいいように2度ほど頷いてやった。
「おにいさん、なまえは何ていうの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ふ〜ん、と小さく呟くと女の子はまた座ったまま喋りだした。
「わたし、サトヨって言うの。@@学園中の2年生なの・・・・・もう行ってないけど」
『@@学園中?・・・・・・・・・・・って名門じゃないか。』
思った瞬間、女の子、サトヨは少しわたしに近づいてきた。
「・・・・・・・・・・・知っているの。わたしの学校の名前」
わたしは首を横に振った。
「あんな学校もういや。みんなおかねもちなだけよ、つまんない。つまんないと思っていたらあんなばか達に取り囲まれちゃって、わたしったらドジね・・・・・・・・・・一生懸命しかえししてやったのに見つかっちゃったし、喘息がひどくなっちゃった」
喘息ね、とあの時サトヨがうずくまった理由を知った。
境遇が似ているなとわたしはふと思った。だからと言って規則を破ってまでこの子(サトヨ)と口をきく必要も無かった。
しかしサトヨはわたしが反応したことにたいして嬉しく思ったらしく、さらに喋りは続いた。
「ここにきた時、本当は8階かも知れなかった。でも入るときにどこへ連れてきたのよ、ってその場で喧嘩になっちゃったから9階になったの。見晴らしはいいけどベランダはないしあの時暴れたりしなきゃあよかったってすこし後悔・・・・・。でもお医者さまの言ったとおり、悪い子はいないし、カードで好きなものは何だってもらえるの」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9階は監視カメラ設置のセキュリティつき。あなたが9階なんて嘘でしょう」
とうとうわたしはちいさなちいさな声で話してしまった。
「やっと口をきいてくれた、サトヨと」
サトヨはまた少し私の目の前に近づいてきた。1mあるかと思った距離が半分あるかないかくらいに感じられた。
「わたしと話したことはほかのひとに喋らないと約束するなら」
「・・・・・・・うん!!」
わたしはサトヨに負けてしまった・・・・・・というより9階からどうして抜け出せれるのかという疑問の答えを求めたいまま、規則を破った・・・・・・・・・・・・。
そんなことはまったく気にもならないらしく、サトヨは頬を赤く染めながらにこにこと微笑んだ。
そしてわたしの求めたセキュリティシステムの話がはじまった。
「廊下のカメラはね、廊下全部を映しているように見えるけど実は全部じゃないの。私のお部屋からカメラに映るように曲がり角の娯楽室まで歩いて、娯楽室からすぐの扉から入って娯楽室のもうひとつの扉から出て、上に架かったカメラの下から壁につたって戻ってってまた曲がり角があってそしたら今度はしゃがんで壁につたって歩いてエレベーターを通って非常階段まで行くの」
「・・・・・・・・・・死角、どうしてわかったの」
「・・・・・・・・・・名門中学なんだもん!! なんてね、はじめてここにきたときカメラ壊しちゃえばみんな自由なんだと思ったけどモップもないしボールもないし。机も椅子も床にくっついてるの。それから廊下のいろんなところで喚いてみたりしゃがんで泣いているうちに発明したの」
「最近はうたがわれるとマズいから、たまぁにかんごふさんにノートほしいってカードわたしたり」
「お医者さんには何にもいわれないの」
「いつも言われる。『ほかのひとはあなたのいうことはわからないから苛めちゃあだめだよ』、って・・・・・・・・ほとんどであったりしないんだけど」
一瞬わたしは眩暈がした気がした。・・・・・・・・こんな女子中学生(名門っていうけど)に9階の監視カメラが突破できていたとは。
「廊下で泣いていたとき、すぐに看護婦さんがきて『おうちに帰りたいの』って聞かれてうん、って言ったの。それで『よくなるようにがんばりましょうね』って」
「それを繰り返したわけだ」
「うん」
わたしは文庫に紐を挟んでとじ、芝生の上に置いた。
「おにいさんの思うところで・・・・・サトヨは、泣いていても看護婦さんがきてくれない場所があるのに気づいたんだね」
「うん」
わたしははぁ・・・・・・・、と深くため息をついた。
それから、9階には12も部屋があるのに娯楽室へでてこれるひとが3,4人しかいないし、あとのひとはずっと部屋の中で扉を叩いてみても幾つか応答の無い部屋がある話、娯楽室の椅子も床にくっついていたり、部屋によっては戸棚に鍵をかけられて使えないような(看護婦から盗み聞きをしたらしい)話を延々と聞いていた。
・・・・・・・これで9階のセキュリティシステム突破(大袈裟だけど)のことはわかったわけだし、退散しようと思った。この場所はわたしの特等席ではあるが、院内からの四角では無い。だからといって場所を変えるというのもなんだが、その必要もなかった。
「おにいさんもサトヨと一緒、丈夫でないんだ。もう帰らないと。お医者さんが外出に厳しいんだ」
適当にあしらって帰ろうとした。
「おにいさん・・・・・・・サトヨのためにまたここに来て」
サトヨは涙目で私を見上げ、白くか細い手でセーターのすそを握った。・・・・・・・なんだか騙しているような気がしたが軽くうんと首を振り足早に院内へ戻っていった。
部屋に戻るとすぐに往診、夕食となった。今日は医師からは『回復してよろしかったですね、まだ寒さが続きますのでお体を冷やさないように』、といわれ内心ホッとしてまたドキリともした。・・・・・・・・この間のような疑わしい気配は感じられなかったが、カーテンの隙間から特等席の方角を眺めた。特等席のあたりはちょうど大きな木々が影になっておりこのあたりの窓からは見えなかった。
わたしはサッと室内を振り向くと今日の会話を思い出した。そして机の上に置いていた文庫に目をやった。
「・・・・・・・・そういえば、机が床にくっついているって・・・・」
ものは試し、わたしは机を引っ張った。意外にも動かなかった。椅子は軽い木で出来ており、簡単に動かせた。このようにしてソファや本棚などいろいろと引っ張ったりした結果、ベッドとソファが
そうであることに気づき、なんとなく納得してしまった。
そうして、ここへきてから携帯電話とパソコン、財布などを預けなければならず、その代わりにカードを手渡されていたのだった。
しかしそうした生活もわたしには苦にはならず、毎日テレビと文庫本で過ごした。テレビ番組も充実しており、少し待てば大抵の映画も観られたので退屈はしなかった。また8階からは自由に階下まで通れていたので外の空気にあたることができた。
『・・・・・・・暴れたりしなきゃあよかった』
一瞬、今日のサトヨの言葉を思い出した。そう・・・・・・・・、9階と8階ではシステムが異なる。
・・・・・・またここで幾日もの間過ごしておこうと、わたしは眠りについたのだった。
サトヨと出会って、2週間ほど経過した。往診と夕食を済ませ、夜の8時をまわった頃だっただろうか。急に小さく、部屋の扉を叩く音がした。
「・・・・・・・・・・・何かな」
看護婦か夕食係のおばさんと思い、扉を開けた。扉はカラカラカラ・・・・と薄っぺらい音を立てた。
「えっ?!」
「おにいさん」
扉の隙間から女の子の姿が見えた。・・・・・・・青いトレーナーに白いショールを羽織り紺のジャージ。サトヨだった。
「ここはまずい」
わたしは即座にサトヨの腕を掴み部屋の中へ引き入れた。そしてさっきよりも薄い音を立てゆっくりと扉を閉めた。
「どうやってここってわかった」
わたしは、人差し指を唇にあて黙れというように合図しサトヨをソファに座らせた。
「・・・・・・毎日あの場所にいたのにちっとも来てくれない」
サトヨは小声で俯いた。
「おにいさんはね、このところ気分が悪かったんだ」
と、嘘をついた。
「おにいさんの部屋・・・・・椅子が動くんだね」
「おにいさんが来なくなったから例の方法で8階まで来たんだ」
「おにいさん、まだ具合良くならないの」
「うん」
わたしはまた嘘をつき、少ししか話せないと呟いてみせた。それからひとつしか無いマグカップにサトヨの分の紅茶を入れてやり、わたしはひとつしかない湯呑みに紅茶を入れ、並んでソファに座った。
「・・・・・・・・・・おにいさん、会いにいけないことが気がかりだった。サトヨのことがずっと気になっていたんだ」
またしても大嘘であったが、サトヨは紅茶を飲みながら頬を赤く染めにこっと微笑んだ。
「サトヨ、がんばっておにいさんがどの部屋かさがしたの」
「へぇ・・・・・・今度はどんな風に」
わたしはちらっと横目で意地悪くサトヨを見下ろしてやった。サトヨはまた少し微笑むとさらに小声で言った。
「8階の看護婦さんたちのお部屋に行って、名前を調べたの。それで外から8階を見てた・・・」
「・・・・・・・・・忍び込んだんだ」
「そう」
それからわたしは少し考えて、湯飲みをテーブルの上に置いた。そしてサトヨに向かってまた意地悪く言った。
「ほかの部屋に行った?」
「行かないよ」
「・・・・・・・・・・間違えてほかのひとが出てきたらどうしてた?」
「間違えないよ」
わたしは少しだけ微笑んで腕をくんだ。
「あててやろう、おにいさんの部屋だけずっとカーテンが開いてなかった」
「そう」
意外とかしこい子だねと冗談交じりで笑った。
約2時間半、この部屋には明かりがともっていた。だが正面は山ろく、わたしにとっては何の気にもならなかった。カーテンの人影が増えていたとしても、誰も気づかなかったことであろう。
サトヨが大胆不敵な行動だったことと、わたしの意地悪な態度にも拗ねたりもしなかったことそしてわたしの嘘に騙されてくれたことで、わたしはサトヨに昔の話などぽつぽつと聞かせてやった。サトヨは相変わらずで、小声だったがたくさんの話を聞かせた。
わたしが時々微笑むと、サトヨも一緒になって細い手で顔を覆って笑った。案外心地良く楽しいものと思わせた。
その間に、看護婦の詰所にあたる部屋の行き方も聞いてしまった。
『検査のために5階まで医者に連れられて行く途中にわざとはしゃぎ、8階のボタンを押し、開いたらすぐ飛び降りて『閉』のボタンを押して詰所まで走って行き、先生とはぐれたとわざと泣いてみせた。(すぐに先生は逃げられたと思い6階で降りて8階まで階段を駆け上がり詰所までやってきた。)その間サトヨは泣きながら室内のボードの部屋割を見ていたらしい。・・・・・・医師が来るまで10分もなかったらしいが、サトヨは『先生ゴメンナサイ』とわざと泣いて出てやった、言っていた』
またしても大胆な“行き方”であるに違いなかった。そのようにわたしは思った。
最後に、サトヨとわたしはゆびきりをしある約束をした。『おにいさん、手出して』と囁かれ何故だかわたしは素直に右手を差し出した。すると、サトヨの細く細く小さな小指をわたしの小指にからめた。
「よくなったらあの場所に・・・・・・かならずよ。サトヨと約束」
「・・・・・・・・・・・・くるよ」
わたしは約束に答えるしかなかった。明後日、いや明々後日と思いつつ、来たときと同じようにサトヨを返すしかなかった。
サトヨが部屋を出たあと、廊下をこっそり歩く姿を見送った。サトヨは靴もスリッパも履かずに靴下のまま、ふわりふわり廊下を舞うように音も立てず大股で歩いていった。非常階段の前で立ち止まるとこちらを振り向いて手を振った。ほんの一瞬だったが、わたしも軽く手をあげた。
そしてサトヨが居なくなるのを確かめてから部屋に入り、明かりを消して右手の小指を見つめながら眠りについた。
2日が経過した。
わたしはサトヨとの約束どおり、例の場所――かつての特等席へ向かい池の前へ腰を降ろして文庫本を開いた。数頁パラパラと流してサトヨが来るかと待っていた。
この日は意外と良い天気で、雪もまだ降る気配もなくわたしは羽織っていたコートを脱ぎ膝のそばへ置きまた文庫を手に取った。すると、
「おにいさん。おにいさん・・・・・・・」
目の前・・・・・前方の池の方角から小さな声が聞こえてきた。
「サトヨ・・・・・・またおにいさんに水をかける気かな」
仕方なしに池のそばへゆっくりと近づいた。池のほとりまで来るとふと後ろから両手で目隠しをされてしまった。・・・・・細く長い女の両手だった。
「からかうなよ」
わたしは振り払おうと思い右手をあげた。
「・・・・・・・サトヨのための、や・く・そ・く。うふふふ・・・・」
あの日のあの夜と同じように右手の小指をからめられてしまった。
「・・・・・・サトヨ?」
サトヨにしては、指先も爪も長いような気がした。それにうふふという女の声がサトヨではあったがサトヨらしくなかった。
「・・・・・・・・・・・サトヨ・・・・」
もう一度、サトヨの名を呼んだその時だった。パタパタとこちらへ走ってくる足音がした。
その間、わたしがサトヨと思い込んでいた女は池の茂みに走りこんで逃げてしまった。
わたしは呆然としてしまった。
振り向くと、わたしの担当医がこちらへ向かってやってきてしまっているのがわかった。
「あなたは、ここでコートを脱いであのひとと一体何をやっていたのかね」
「わたしは池のほうで声がするので、なんだろうと思ってきてみるとあの女の人が居たんです。コートを脱いだのは天気も良かったからです」
と、平然として答えた。
「・・・・・・・・・・・まぁ今日のところはあなたを信じます。ですが今後このようなことがあれば・・・・・・・・・」
医師は、わたしが平然としていたことか日ごろの行いかが幸いしあっさり納得した。さらにわたしは自由時間ですしさっきのひともいません、といってまた座り込み文庫を読むポーズをとった。
「・・・・・・・・・・・今後このようなことがあれば・・・・・・おわかりですね」
「わかっています」
そしてそれだけ会話をすると、医師は黙って帰ってしまった。
数分経って、もしあれが本当にサトヨだとしたら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、とわたしは焦った。と同時に何時かの記憶がよぎった。さっきの女、娯楽室で見たことがあったかも知れない。8階の・・・・・・・・・・・・・・・・。いやそうだ。見ている。見たことがある。確か部屋は・・・・・・・・・・・・・、
「・・・・・・・自分の隣の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
わたしは、あの夜・・・・・・・・・・サトヨを部屋に入れたことを女に知られすべてを知られてしまったに違いないと気づいた。壁にでも張り付いていたのか、あの女はわたしとサトヨが別れ際にした約束や声色をつかってサトヨを真似た。
考えると、急に腹ただしく恐ろしくもあった。
「あの女、なんであの時のことを知っているんだ・・・・・・・・ああでも、ここは・・・・・・・規則は・・・・・・・・・・」
わたしは、頭を抱えてへたり込んでしまった。
もう取り返しがつかない。
サトヨとのことを誰かに・・・・・・・・・・・あの女に知られてしまった。
どうする・・・・・・・、と思いきや今度は目の前に本当に本物のサトヨが現れた。
「おにいさん・・・・・・・・サトヨとしたことがバレちゃってるよ・・・・・・・・あの女のひと、誰?どうしてサトヨとおんなじことしてるの?」
「わからないよ」
「おにいさんなんか、明日から9階よ!・・・・・・・あの女のひとも9階よ!!!」
「わからないっていってるだろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だ・か・ら。・・・・・・・・・・・明日からサトヨが8階よ」
そう言って、サトヨは走り去ってしまった。
翌日。朝食を済ませるとわたしの部屋に来たのは担当医では無く、この施設の理事長率いる4人の中年男性たちだった。有無を言わせず書類にサインをさせられ、理事長の側近らしき男二人が荷物を纏めだしわたしが理由を聞くのにも応えずわたしは残りの二人に両側から腕を掴まれて無理やりエレベーターに乗せられた。
行き先は『9F』。
昨日サトヨが言ったとおりに、わたしは9階の住人となってしまった。あまりの速さとショックで声も出なかった。即荷物もほどかれて整理され、扉には当分の間は鍵をかけると言い残し男たちは部屋を出て行った。
その数時間後、廊下でけたたましい女の笑い声がした。扉を閉める音がガタンと大きく廊下に響き渡った。しばらくの間笑い声が廊下を突き抜けて響き渡った。わたしは誰なのかは判っていた。
わたしはその叫びに耳をそむけ室内から窓の外を見遣った。
・・・・・・・・・・扉も開けては貰えない。
ここにはベランダも無い。
庭園にも出られない。
かろうじて、昨日まで歩いて行けたはずだった・・・・池の畔が見えた。外はすでに冷え込んでいるらしく、雪がちらちらと辺りを染めて行く。
その畔で黄緑色のマフラーに白いコートで佇んでいる女の子の姿があった。その瞬間・・・・・わたしの右目が霞みしずくが滴りおちていった。
「・・・・・・・・・サトヨ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
池には白く大きな蓮の花が揺れ動いていた。
完