1
御崎邦弘(みさき くにひろ)は保健室に入ると、四つの目玉に迎えられた。
さっきまで歩いていた廊下には六月らしい湿った空気が漂っていたのだが、どうやらこの部
屋は別次元に存在しているらしい。我が家のような、安心できる心地よさがある。消毒液のに
おいを打ち消す甘い香りのせいだろうか。それとも、シーツやカーテンの純白が視覚をなごま
せるのだろうか。
そうじゃなければ、きょとんと見つめる四つの眼が、魔法をかけたのだろうか?
四つのうちの二つ、椅子にゆったりと腰かけた女性は白衣を羽織っている。養護教諭だろう
か。もう二つの持ち主は、ベッドの一つに腰かけ、足をぷらぷらさせた女生徒だった。
――どっちも綺麗だ。
「え、えっと」声をどもらせながら、邦弘は言った。「プリントを見たんですけど」
ベッドの少女の顔がぱあっと輝いた。その栗色の瞳を好奇心でいっぱいにして、邦弘へと駆
け寄ってくる。
「『カウンセリング同好会』にご用でしょうか?」
「ああ、うん……」
ずいと迫られて、邦弘は思わず逃げ腰になってしまった。
彼女の可愛らしい顔が視界いっぱいに広がる。邪気の感じられない澄んだ瞳。薄いピンクの
線を引いたような、小さな唇。ふわふわした栗色の長い髪。制服にくっついた緑のリボンが、
これまたよく似合っている。
「ほんとに保健室で活動してるんだ」
邦弘はすこしだけ目を逸らしながら言った。可愛らしい女の子にじっと見つめられるのは、
なんだか背筋がむずむずする。
「陽子先生がここを貸してくれてるの」
少女は声を弾ませて、もう一人の女性に顔を向けた。邦弘もつられてそちらを見ると、白衣
の女性がにっこりと微笑み返してきた。彼女は頭のてっぺんで一つに結んだ長い髪を、背中に
垂らしている。眠たげに垂れた目尻には、ぽつんと泣きぼくろがあった。全体的にほっそりと
した体つきだが、その柔らかな物腰と微笑みが大人の色気をにじませていた。
「養護教諭の、妹尾陽子(せのお ようこ)よ。あなたはここ、初めてね?」
白衣の天使、という言葉がふっと浮かび上がった。それは看護婦を指す言葉だが、彼にとっ
て、そんなことはこの際どうでもよかった。とにかく天使のような微笑みなのである。邦弘は
こくこくとうなずいた。
「え、ええ……俺は、具合悪くなったら無断早退しますからね」
「まあ、悪い子ね」
言葉とは裏腹に、良い子を褒め称えるような明るい口調だった。
「ね、名前は?」
こちらは快活な笑顔。陽子先生の柔らかな微笑みとは違うけれど、魅力的であるという点に
おいては共通していた。
「御崎」と名字だけを告げると、「みさき? へえ、女の子みたいな名前」と驚かれた。
「ああ、それは名字。下の名前は邦弘。御崎邦弘」
「名字? ごめんなさい、私ったら」
しゅんとうつむいてしまう。
「いいっていいって。慣れてるから」
邦弘が慌てて付け加えると、彼女は元の笑顔を取り戻した。ころころと忙しく表情を変える
女の子だ。
「私は、ゆりあ。一瀬ゆりあ。ゆりあって呼んでいいですよ」
「……はい?」
ゆりあ、とは外国の名前だろうか? あまり聞かない名前だった。
邦弘が首をかしげていると、ゆりあの口からくすくすと笑い声がこぼれた。
「ごめんなさい。だって、皆が皆、同じ顔をするんだもの」
「あ、ごめん。変な反応しちゃって」
「ふふっ、『みさきちゃん』の件も含めておあいこですね」
ぱちっと可愛らしくウインクしてみせた。
ゆりあは邦弘をベッドに座らせて、自分はお茶の準備を始めた。小さなテーブルの上には、
コーヒーポットや湯沸かし器、それから茶筒が並んでいた。陽子先生の私物なのだろうか、茶
葉のバリエーションは、そこらのファミレスのドリンクバーよりもよほど充実している。
こぽこぽとお湯の跳ねる音を聞きながら、邦弘は落ち着かない気分だった。女性二人のいる
部屋のなかで、自分がひどく異質な存在のように思えた。さながら向日葵畑に生えた雑草であ
る。
そんな邦弘の胸の内を察したのか、陽子先生が切り出した。
「あなたがなにを悩んでいるのか、先生に教えてくれる?」
一瞬、迷った。
ここまで来たのはいいが、いざとなると言い出せなかった。悩みごとがあるには違いないの
だが、それは果たして相談に値する内容なのだろうか……。
「悩みの価値を決めるのは邦弘さんよ。他の誰も、その重さを量る天秤なんて持っていないわ。
もちろん、それはゆりあさんや先生も同じよ」
「え?」
陽子先生に考えていることを言い当てられて、どきりとした。
「そうですよ」お茶を運んできたゆりあが言った。「困ってるひとを助けるのが、私たちの仕
事なんですから。たとえそれがどんな些細な悩みだろうと、ね」
湯呑みの熱がじんわりと手のひらに広がっていくような気がした。二人の言葉が、いれたて
のお茶のように熱く胸に染みた。
だからだろうか。
邦弘の口から飛び出たのは、用意していた相談とは、まったく関係のない言葉だった。
「――俺も、同好会に参加させてください!」
2
目的とはガソリンのようなものだ、と邦弘は思う。
中学三年一学期の時点で偏差値三十だった彼は『ある目的』のためだけに獅子奮迅の猛勉強
を重ね、ついには市内一の学力を誇る学園に入学することができたのだ。
目的のある人間は強い。動力が切れるまで邁進しつづけることができるのだから。
しかし逆に、彼らには、ガソリンが切れたときは一気に弱体化してしまうという困ったとこ
ろもあった。邦弘がその状態になったのは、入学してまだ間もないころのことだった。
その原因はいたって単純かつ青臭いものである。
――告白して、ふられた。ただそれだけのことだ。しかし、邦弘にとってそれは致命傷だっ
た。ショックを引きずってぼんやりしているうちに授業は進んでいき、邦弘はたちまち置いて
いかれた。部活動を見学する気にもならなくなった。
『ごめん、好きになれない』
どうしてもその言葉がリフレインしてしまう。
彼女は特別だった。決して拒絶されるはずがないと信じて疑わなかった。剣を抜かれるとは
思っていなかったから、鎧なんて着ていなかった。だから傷は深く、深く刻み込まれた。
それからは適当に友人を作って、適当にノートを取って……適当に毎日を過ごしていた。
朝のホームルームでそれが配られたのは、そんなときだった。
『あなたの心のスキマ、埋めてみせます』
B5サイズのプリントに、ワープロやパソコンの普及した現在ではとんと見られない手書き
の筆跡で、そんな一文が書かれていた。どこかで聞いたフレーズだな、と思いながら、邦弘は
その細かい文章に視線を走らせた。
「カウンセリング同好会……ね」
ばかばかしい。お悩み相談の部活だって? そんなこと、同年代の学生なんかに務まるもの
か。そもそも部活動として認められてすらいないじゃないか。
否定的な考えばかりが浮かぶのに、なぜか邦弘はそのプリントを捨てられなかった。
いや、自分でもちゃんとわかっていたのだ。このまま鬱屈とした日々を過ごしていても、な
にも変わらないということが。邦弘はいまの状況から抜け出したかったのだ。
放課後。これがきっかけになってくれれば……そんな期待と不安とを胸に、邦弘は保健室を
訪れた。
そして。
それはたしかに、邦弘のこれからの学園生活を、大きく変えるきっかけになったのだった。
3
邦弘の同好会入りはあっさりと認められた。
元々カウンセリング同好会はゆりあが発足させたもので、会員は彼女以外は幽霊部員ならぬ
幽霊会員しかいないらしい。邦弘の申し出は、ゆりあにとって願ってもないことだった。
邦弘は簡単に入会手続きを済ませ、翌日の放課後からさっそく保健室に通い始めた。
「この同好会って具体的にはどんな活動をするんですか?」
邦弘はベッドに寝転がりながら言った。考えてみれば、自分は相談をしなかったから、実際
にゆりあ達が悩みを解決しているところを見たことがなかった。
一応、先生に向けた言葉だから丁寧語にしたのだが、陽子先生には聞こえなかったらしい。
彼女は机上の目覚まし時計をぼんやりと眺めていた。
かわりに窓辺の観葉植物に水をやっていたゆりあが、そうですねえ、と小さく呟いた。
「それは、相談内容によって変わりますから、なんとも言えないですね」
「ひとが違えば悩みも違う。対処法だって違う……ってことか?」
邦弘の言葉に、ゆりあは満足そうににっこりと笑った。
「でも、それだけじゃないんですよ。相談だけじゃなくって、たとえば、そう……雑用だとか
迷い犬探しだとか、探偵まがいのことをしたりもするんです」
「雑用? なんでまた」
「困ってるひとを助けるのが仕事ですから」
彼女にとっては、きっとそれだけが大事なことなのだろう。カウンセリングという看板は、
あくまで活動内容をわかりやすくするために掲げているだけらしい。困っているひとを助ける
ためならば、相談という形にこだわるつもりはないのだ。雑用という言葉だけでげんなりして
しまった邦弘とは、大違いである。
ゆりあという少女はなんて健気でいい子なんだろうと、邦弘は我が子を誉める父親のような
目をした。とは言っても、こう見えてゆりあは邦弘よりも年上である。彼女の制服についてい
る緑色のリボンは、二年生の学年カラーだった。しかし彼女の無垢な雰囲気のせいだろうか、
どうしても年上には見えない。また、ゆりあ自身も邦弘を年下と見ていないようで、いたって
丁寧な口調で話しかけてくるのだ。
「ただ、残念ながらまだ、できることには限りがあるんですよね」
言葉どおり、残念そうに肩を落とした。
「ほう?」
「五月の末ごろに、生徒総会があったじゃないですか」
「あったね。各部の予算を決めた。それがなにか……って、まさか」
言葉の途中ではっと気づいた。ゆりあはこくりとうなずいた。
「同好会には部費が支給されないんです」
「そうだったのか……文芸部ですら、少ないけど、ゼロじゃなかったのにな」
文芸部というのは、ほとんど活動していない、マイナスの方向で有名な部活である。一部に
はやる気のある部員もいるようだが、ほとんどが部室でトランプやらゲームやらおしゃべりや
らに興じる者ばかりで、部としては破綻していると言っていい状況らしい。
「国の税金のむだ遣いを思い出すよ。そんなところに払う金があるなら、こっちに回してほし
いよな、ほんと」
邦弘が怒ったように言うと、ゆりあはくすくすと笑った。
「でも、いまのところお金が必要な依頼はないですから」
「二人とも」
それまでぼーっとしていた陽子先生が、くるりと椅子の上で回転してこちらを向いた。
「お客さんよ」
「は?」
邦弘は戸惑った。保健室のドアは閉じていて、もちろん誰の姿もない。しかし、ゆりあは慌
ててじょうろを投げ捨てると、居住まいを正した。
邦弘は戸惑いながらも、一方で、ゆりあほどの人間でも焦ると物をぞんざいに扱ったりする
んだなと思って、苦笑した。
コン、コン。ドアがノックされ、控えめな音がした。
「失礼します」
女の子の声だった。ドアを開けたその女生徒は、部屋に入るまえに律儀に一礼した。黒縁の
メガネをかけ、黒い髪を肩口できっちりと切り揃えた、とてもお堅そうな女の子だ。彼女はき
ょろきょろと保健室を見回すと、ふと顔をしかめた。しかしすぐに眉尻をさげた、気弱そうな
顔になる。
邦弘が来たときと同じように、ゆりあが、ぱたぱたーっとメガネ少女に駆け寄った。
「カウンセリング同好会にご用でしょうか?」
「え? ええ、そう……そうなんです」
彼女は居心地が悪そうに、縮こまりながら答えた。お堅い上に、内側にこもりがちな性格な
のだろうか。邦弘はふと、種、というイメージを浮かべた。外側をガチガチの殻で覆い、本質
を内包している種。背中を丸めてゆりあから目を逸らす彼女はまるで、殻の内側で、外からの
圧力で押しつぶされることを怖れているようだった。
――ゆりあの勢いに押されているだけ、と思えなくもないのだが。
「どうぞどうぞ、座ってください」ゆりあがベッドをすすめた。
「は……はい」メガネの女の子はびくびくとベッドに近づくと、ポケットから取り出した無地
のハンカチでシーツをぬぐってから座った。公園のベンチじゃないんだから……とツッコミた
い衝動を、邦弘はなんとか押し止めた。
陽子先生が机のひきだしから、一枚の紙を取り出した。格子状の線が引いてあり、誰かの名
前がずらずらと並んでいる。名簿かなにかだろうと見当をつけた。
「お名前を教えてくれる?」
「栗原……三年四組の、栗原佳美です」
おずおずとメガネ少女――佳美が言うと、陽子先生は口元に手をあてて、まあ、と驚いたよ
うな声を出した。
「噂をすればなんとやら……邦弘さん、エスパーね」
「エスパー?」
陽子先生はなんだか楽しそうだが、なにがなにやらわからない。
「彼女は、文芸部の副部長よ」
「そうなんですか? あんまり、そうは見えませんね。どうぞ」と、横からゆりあが割り込ん
できた。彼女はいつの間にかお茶をいれていたらしく、湯立つ湯のみを佳美に手渡した。
そうは見えない、というのは、佳美が文学少女っぽく見えない、という意味ではないだろう。
むしろ彼女は常日頃から単行本を携行し、電車の中でも公園のベンチでも、暇さえあればペー
ジをめくっているような人種にしか見えない。ゆりあは、つまり、佳美はこの学園の落ちぶれ
た文芸部にはそぐわないと言いたいのだ。それは邦弘も同感だった。
「佳美さん」
陽子先生の声だった。名前を呼ばれ、うつむいていた佳美の顔が上がった。
「あなたがなにを悩んでいるのか、先生に教えてくれる?」
陽子先生はまっすぐに佳美の目を見つめながら言った。
「実は……あ、いや、そんな大したことじゃないんですけど、その……」
不謹慎かもしれないが、このとき、邦弘はわくわくしていた。陽子先生とゆりあが、生徒に
どのようにアドバイスするのか? それを初めて目の当たりにできるのである。
「言ってみてください」ゆりあがにっこりと笑った。彼女はどんな些細な悩みでも、軽んじた
りしないのだ。そう、どんな些細な悩みでも。
しかし、次の瞬間、メガネの文芸部副部長の口から飛び出したのは……。
「えっと、その、部室に……脅迫状が届いたんです」
まったく全然ちっとも、些細な内容ではなかった。
4
鍵が盗まれた。後から思えば、それが最初の異変だったのかもしれない。
その日、栗原佳美は小走りに部室棟の廊下を急いでいた。予算請求の書類を生徒会室に届け
ていたため、部活開始時間よりもやや遅れてしまったのだ。副部長である自分が遅刻しては部
員に示しがつかない。ルーズを嫌う彼女にとって、自分自身がたるんだ行動を取ることは、こ
の上ない屈辱だった。書類は、二週間後の生徒総会の三日前までに提出すれば良いのだが、そ
こは締め切り厳守をポリシーとする佳美のこと、ぎりぎりまで提出を引き延ばすことなど考え
もしなかった。
ふと、足を止めた。前方になにやら人垣ができていた。文芸部室の前である。
「ど、どうしたんです?」
「栗原先輩!」
おずおずと声をかけながら近づくと、人垣からひょこっと顔を出した男子生徒――丸井和也
が、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。丸井は文芸部の後輩だった。制服の上着には緑色
の校章が刺繍されており、彼が佳美の一つ年下であることを証明している。
「えっと、その、どうして皆さん、中に入らないんです?」
人垣は全員、文芸部員だった。
「入らないんじゃなくて、入れないんですよ!」
いつもぼそぼそとしゃべる丸井が、珍しく声を荒げた。部活動ができないことが苛立たしい
のだろう。彼は、佳美を除けば唯一のやる気ある部員だった。
「入れない?」
「鍵がなくなっちゃって……」丸井の語尾が弱々しくなっていく。
「あーあー、興ざめですわ」
人垣の中から、聞こえよがしに叫ぶ声があった。その声の主である女生徒が、数人の取り巻
きと一緒に佳美へと近づいてくる。長身の彼女は、背の低い佳美を見下して、冷たく鋭い言葉
を吐き出した。
「鍵の管理ぐらいきちんとなさったらいかがです?」
「そんな……昨日だって、帰るまえにきちんと職員室に返しました」
「それじゃあ、鍵はお散歩しているのかしら? トコトコトコって。ねえ?」
彼女の背後で、女生徒たちが一斉に笑った。
佳美は居心地が悪くなって、身を縮ませた。救いを求めようとしたのか、自分でもよくわか
らないが、ちらりと丸井のほうを見てみた。しかし彼も佳美同様、びくびくしていた。
「せっかく真面目に一句詠もうと思っていたのに……残念ですわぁ」
いかにも残念でなさそうに、彼女は言った。その本心を裏づけるように、背後のくすくす笑
いが大きくなった。
その長身の女生徒のことを、佳美はあまり良く思っていない。彼女は、高塚麗奈(たかつか
れいな)という気高い印象の名前からは想像もできないほど陰湿で、いい加減な女だった。
麗奈は人当たりのいい人間で、最初は佳美も彼女が好きだった。自分から立候補して部長に
なってしまうほど行動力のある彼女に、佳美は憧れにも似た感情を抱いていた。
しかしあるときを境に彼女は変わってしまった。原因はわからないのだが、とにかく作品を
作らなくなった。元々、課題だからと渋々書いていた小説だけでなく、彼女の得意分野である
はずの川柳にまで手をつけなくなったのである。
それからというもの、彼女は部長であるにもかかわらず、毎日のようにサボっていた。部長
の義務である雑務を、すべて佳美に押しつけて、自分は友達とおしゃべりに興じていた。
予算請求の書類を提出するのだって、本当は部長である麗奈の仕事だったのである。
(はあ……あのひと、なんでまだ部長なんだろう)
――やる気がないなら、辞めればいいのに。そう思うのに、正面きってそう言えないのが栗
原佳美という人間だった。
結局、紛失した鍵の行方は知れなかった。
部活は数日後に再開された。職員室に頼んで用意してもらった予備の鍵で部室を開けたのだ。
もっとも、参加したのは佳美と丸井、麗奈とその取り巻きたちだけだった。
佳美は一文一文にしっかりと熱をこめて作品を構築していた。そんな彼女を邪魔するように、
麗奈たちのおしゃべりが響く。安っぽい長テーブルと小さな本棚しかない質素な部屋に、彼女
たちの声はよく反響した。
――いい加減にしてください! そう叫べれば幸せなのだろうが、佳美にはそんな勇気はな
かった。丸井も麗奈と目を合わせまいとするように、原稿用紙だけを見つめてせかせかと筆を
走らせている。佳美は、この空間から逃げ出したくて、席を立った。トイレに行こうと思った。
佳美がトイレから戻ると、ひととおりおしゃべりをして満足したのか、麗奈たちはさっさと
部室を後にした。やかましい女生徒たちが立ち去ると、佳美と丸井の二人はほぼ同時にホッと
息を吐き出した。あまりにタイミングがぴったりだったから、佳美は思わず笑ってしまった。
丸井もつられて、控えめな笑顔を浮かべてみせた。
「作品、進まなかったでしょう?」佳美は立ち上がり、テーブルを回り込んで丸井に近寄った。
「丸井くんは、小説だっけ? 恋愛モノ?」
「は、はい。栗本先輩に比べたら、まだまだへたくそですけどね」
照れたように頬をかいてみせた
。
「あ、あたしは……べつに上手くないと思うけど」
佳美もすこし頬を赤くしてうつむいた。
「そんなことないですって!」丸井が叫んだ。「僕、栗本先輩の小説を読んで、感動したんで
す。ここに入部したのだって……」そこまで言って、彼は唇を噛んだ。
「納得できません。あんなひとが部長だなんて」
丸井の言いたいことはよくわかる。
「栗本先輩は、個人で書いたらどうですか?」
「え?」
丸井が立ち上がり、佳美に詰め寄った。
「このままじゃ、貴重な執筆時間があいつらに邪魔される……部を辞めて、作品づくりに励ん
だほうが、少なくとも、今よりはずっといいと思います」
「……」
佳美自身、その選択肢を頭に浮かべたことが何度もある。きっと、それが正しい選択なのだ
とも思っている。
しかし、佳美は首を横に振った。
「できない」
「どうしてですか!」
「丸井くんは、あたしに、副部長の仕事を放棄しろって言うの?」
丸井はぐっと詰まった。
「そういういい加減なのは、嫌いなの。いい加減になった自分なんて、好きになれない」佳美
が呟くと、丸井は「すみません……」と肩を落としてしまった。
気まずい沈黙が部室内に漂う。しょんぼりとする丸井に、佳美は必死で話題を探した。あち
こちへうろついていた視線が、丸井の目の前の原稿用紙を見つけてぴたりと止まった。
「読んでいい?」
「なにがですか?」
彼は顔を上げて、まぶたをぱちぱちと瞬かせた。佳美は手を伸ばして、原稿用紙に触れた。
「ああ! だめです、だめですって!」丸井は飛び上がらんばかりの勢いで、用紙を回収した。
「まだ完成してないんですから!」
「いつもそう言ってるけど、いつ完成するの?」
「あぐ……」
丸井は言葉を詰まらせた。
「あたしは、読んでみたいな。丸井くんの恋愛小説」
「……栗本先輩だから見せられないんですって」
「え?」
「ああもうこんな時間! それじゃ僕、お先に失礼します!」
叫ぶなり、あたふたと筆記用具をカバンに詰め込んでいく。そして大げさなほど激しく頭を
さげてから、部室を飛び出していった。
佳美は、丸井の顔から首筋までが真っ赤になっていたことに気づいていた。両親からもっと
笑いなさいと言われるお堅い口元が、ふっと緩むのが自分でもわかった。
時計を見ると、もう午後六時である。どうやら丸井の言葉も、単なるごまかしではないよう
だった。佳美はテーブルの、自分の使ったスペースを片づけ始めた。
「あれ?」
自分の持ち物をあらかたカバンに入れ終えて、佳美は首をかしげた。一枚だけ、自分のもの
ではない原稿用紙があったのだ。佳美はいつも、四百字詰め原稿用紙が二百枚でワンセットに
なっているものを使っている。これはノートのように一冊に綴じられていて、一枚ずつはがし
て使うようになっている。自分の周りが散らかることを好まない彼女は、不必要に原稿用紙を
はがしたりはしなかった。だから、一枚だけがぽつんと残るなんてことはありえなかった。
なんの気なしに、その用紙を裏返してみた。
息を呑んだ。
『死ね』
そこには、ひどく角張った無機質な筆跡で、呪詛が刻まれていた。
5
「脅迫というよりはイタズラだな」
邦弘は途切れた言葉を引き継いだ。
最初はどんな深刻な内容かと思ったが、いざ話を聞いてみれば、学生生活ではよく見られる
いやがらせだった。邦弘自身は被害を受けた経験はないが、ベッドに居心地悪そうに腰かけて
いる少女には、いかにも降りかかりそうな火の粉だった。
「気にしすぎなんじゃないか? べつになにをしたら殺すとか、これこれこういう理由で死ね
とか、具体的に書いてあるわけでもないんだろ?」
「そ、そうですよ。だから気味悪くって」
寒そうに身を抱くメガネの副部長の唇が、がたがた震えていた。湯のみが揺れて、あやうく
熱いお茶がこぼれるところだった。
「そうね。シンプルな脅しは怖いわ。邦弘さん、『金をよこさないと殺すぞ』と言われれば、
一も二もなくお財布をひっくり返すんじゃないかしら?」
陽子先生は相変わらず微笑んだままそう言った。
「そりゃあ……命は買えませんから」
「つまりはそういうことなのよ。条件を満たせば助かると言われれば、当然それに従うわけだ
けど……条件が示されていない脅しについては、どうすれば回避できるのかわからない。アリ
アドネの毛玉があるのとないのとでは、迷宮の怖ろしさは違うでしょう?」
言っていることは難しかったが、邦弘はなんとか噛み砕いた。つまりは、攻略の道が見えな
い恐怖は、攻略法の示されたそれよりも怖ろしいということだ。なるほど、と納得した。ただ
でさえ神経質そうなメガネ少女のことだ。そういった理由も込みで、この辺ぴな同好会を頼ろ
うと思い立ったのだろう。
「でも、今の話を聞くに犯人は一人しかいないような気がするけど」
邦弘のあっさりとした物言いに、四つの瞳が集まった。陽子先生と依頼人の栗本佳美だった。
その瞳はどちらも、どうして? と不思議そうに見開かれている。佳美はともかく、陽子先生
まで不思議そうにしていることが、邦弘には不思議だった。
「え、だってどう考えても怪しい人物がいましたよね? その、部長ですっけ? いかにもそ
ういうことをやりそうじゃないですか」
それ以外にはない、と邦弘は確信していた。
「い……いえ。脅迫状とは、筆跡が違いますから」
しかし、メガネ少女はおずおずと否定した。
「筆跡って、わかるの?」邦弘はびっくりして訊いた。
「あたしこれでも副部長ですし。それに自分が作るだけじゃなくて、ひとの作ったものを読む
のも大好きなんです。それで、まだ部がきちんと活動してた頃に、部員全員の作品を読んだこ
とがあるんですよ。えっと……だから」
「部員全員の筆跡を憶えているわけね。佳美さんは、国語以外には社会と生物のテストが得意
だものね。きっと、暗記力があるんだわ」
それはどこからの情報だろうか。いずれにせよ資料も見ずに佳美の成績を言い切る陽子先生
もまた、そうとうな記憶力を備えているに違いない。
「そ、そこまで正確な暗記じゃないんですけど……少なくとも、あんな角張った筆跡のひとは、
部員のなかにはいなかったはずです」
「でも、その高塚って部長は友達多そうだし、誰か部外者に書くだけ書いてもらって、自分は
テーブルに置くだけってことも可能だろ」
邦弘は引き下がらない。だってそうだろう。明らかに怪しい人物を疑わないなんて、ありえ
ない。さっさとその高塚という女を問い詰めたほうがいいに決まっている。ミステリー小説の
世界じゃないのだから、予想外の犯人なんて存在するわけがないのだ。
「そう、ですかね。やっぱりそうなんですかね」
メガネ少女は、うつむいていた顔をすこし上げた。どこか安心したような、柔らかい表情だ
った。その視線の先の陽子先生は、肯定するでも否定するでもなく、ただ微笑んでいるだけだ
った。
「よっし! それじゃとうとう俺の初仕事ですかね。こういう悩みの対処法は、直接悩みの種
を潰すことだと思うんですけど、どうです陽子先生?」
中腰になって、陽子先生に指示を仰いだ。いまから高塚麗奈のもとへ行き、いやがらせを止
めるようかけあう。それで解決するはずなのだ。
そのときだった。
「――あの、そのまえに一ついいでしょうか?」
邦弘が声に振り向くと、そこには片手を小さく上げたゆりあがいた。
「お話を聞きながら、ずっと考えていたんです」
やけに大人しくしていると思ったら、どうやら考えごとをしていたらしい。
「クリーミーさんのお話で、一人だけ明らかに怪しい人物がいましたよね」
いつのまにか愛称ができていた。おそらくクリハラヨシミを略したものだろうが、それにし
てもアバウトすぎである。
「だから言ったじゃないか。それは――」
「ええ。そうです」邦弘の言葉を、ゆりあはにこやかな声で遮った。
「高塚麗奈さん。彼女が
とても怪しいんです。これ以上ないくらい、徹底的に、完全に。『怪しすぎる』って言っても
いいかもしれません」
「おいおい、まさかこれが狂言だとでも?」ゆりあの物言いは、それを示唆していた。
「あ、あたしは嘘なんて言っていませんよ!」
佳美はベッドから飛び上がって叫んだ。縮こまっていた彼女とは思えないほどの声量だった。
「いえ違うんです。もちろん、嘘だなんて思っていませんよ? ただ」
ゆりあは一度、小さく息を吸った。
「クリーミーさんは、犯人が誰なのか、もうわかっているんじゃないでしょうか?」
傍らのメガネ少女が息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「高塚麗奈こそが犯人……誰かにそう言ってもらいたかったんですよね? 不安だったんです
よね。丸井くんが犯人だと直感していたから」
「なんだって?」邦弘は面食らった。「彼は気弱だけど、真面目で良いひとじゃないか。それ
に佳美さんを慕ってるはずだろ?」
「慕っているからこそ、ですよ」
「かわいさ余って憎さ百倍ってことか?」
ゆりあは目を閉じて、ゆっくりと首を左右に振った。
「クリーミーさんは、部員全員の筆跡を憶えていると言いました。けど、嘘ですよね。いつも
『まだ完成してない』と言って、作品を見せてくれないひとがいますよね。彼の筆跡だけは、
クリーミーさんも知らないはずです。それに角張っていて無機質な筆跡になりがちなのは、女
性よりも男性ですし」
「そ、そんなこと……丸井くんは、そんなこと……」
「ゆ、ゆりあ! その辺にしとけよ。証拠はないだろ?」
がくがくと全身を震えさせる佳美を見ていられなかった。ゆりあの言葉は、未成熟の種の中
身を強引に抉り出そうとしているのではないか……と、邦弘にはそんな危惧さえあった。
「邦弘さん」
陽子先生の声に、邦弘は口をつぐんだ。その声は穏やかだが咎めるような色を含んでいた。
――ゆりあさんを信用して。そう言われているような気がした。
「彼を許してあげてください」
ふわりと、ゆりあの栗毛が目の前をよぎった。
「あ……」佳美の震える唇から、微かな吐息がもれた。
邦弘の前を横切って、ゆりあは佳美に近づいていた。呆然とする佳美の頬に手を添えて、ゆ
りあは子供に言い聞かせるように言った。
「丸井くんは最初、高塚さんたちを辞めさせるつもりだったんだと思います。部室の鍵を盗ん
で、ね。元々やる気のないひとたちですし、部室が使えなくなればもう来なくなると思ったん
でしょう。でも、数日後の部活動で、どういうわけか彼女たちが顔を出している。そこで丸井
くんは急遽、標的をクリーミーさんに変えたんです」
「丸井くん、そんなに高塚さんのことが? た、たしかに彼も、執筆を妨害されて苛立ってい
ましたけど……で、でも、標的をあたしに変えたっていうのは……」
「クリーミーさんは、失礼を承知で言いますけど、すごく神経質なお方ですよね」
「……わ、わかります?」
そう言った佳美の頬は、うっすらと赤みがさしていた。自覚はあるらしい。
「雑然としたことやだらしないことを、ひどく気にしますよね。ベッドに座るときだって、こ
んなに真っ白なシーツなのに、ハンカチで拭いたり……あと、ごめんなさい。じょうろが無造
作に転がっていたから、不快にさせてしまったでしょう? 私ったら、お客さまと聞いたら舞
い上がっちゃって、思わずポイって」
ゆりあは茶目っ気たっぷりに、舌を出してみせた。
「とにかく、そんなクリーミーさんはきっと、不真面目な部員たちがうっとおしくて仕方がな
かったんじゃないでしょうか? そして、丸井くんは、高塚さん以下数人の部員があなたのス
トレスになっていると、気づいていたんじゃないでしょうか? 丸井くんは、ずっと、自分に
なにができるかを考えていた。でも、高塚さんと対峙する勇気はない。だから、遠まわしに、
遠まわしに策を講じていったんです。『栗本先輩は個人で執筆したらどうか』っていうのは、
彼なりの必死の訴えだったんですよ」
「あ、あたしのために?」メガネの奥の瞳は、いまにも落涙しそうなほど濡れていた。
「彼は、出会ったときからあなたの作品の……いえ、あなたの虜だったのね」
陽子先生が言った。
「そんな……あたしなんて、細かいし、根暗だし、いいところなんて……」
ゆりあは優しく頬を撫でた。
「クリーミーさんの魅力を量るのは、丸井くんの天秤ですよ」
邦弘ははっとした。入会を決意した日の、陽子先生の言葉を思い出した。
ゆりあは、ひとのどんな感情をも肯定する。邦弘はそれを目の前で実証された気分だった。
「そして、クリーミーさんの気持ちを量るのは、あなたの天秤です。そろそろ行ったほうがい
いんじゃないですか?」
「え?」呆然とゆりあを見つめていた佳美が、我に返った。
「時間を厳守する副部長が部室に来ない……もしかしたら、自分の書いた脅迫文がいけなかっ
たんじゃないか……きっと、彼はいま、心穏やかじゃないと思います」
「あっ……!」
佳美は慌てて時計を見た。もうかなり時間が過ぎている。
「あたし、帰ります。今日はありがとうございました。今度……その……」
「お礼なんて、いいですよ」
ゆりあが言うと、佳美は満面に笑みを浮かべた。
「是非、来させていただきます!」
そして慌しく廊下へ飛び出していった。
佳美が姿を消すと、陽子先生は、にっこり微笑んで。
「ゆりあさん、コーヒーをいれてくれるかしら」と言った。
「みさきちゃんはどうしますか?」
邦弘は苦笑した。どうやらゆりあは、ひとを愛称で呼ぶのが好きらしい。
今回の相談を終えて、邦弘は自分の選択が間違っていなかったことを確信していた。カウン
セリング同好会に入って、本当によかった。二人の笑顔を見ると、なおそう思えた。
「うんと濃くいれてほしいな。俺、難しい話を聞くと、眠くなっちゃうんだ」
軽く冗談を言うと、保健室が気持ちのいい笑い声に満ちた。
6
「彼女を最初に見たときさ、『種』を連想したんだよ」
翌日の放課後、邦弘は保健室のベッドに陣取り、ゆりあのいれた香気漂う紅茶を飲みながら
言った。陽子先生は机でぼんやりと目覚まし時計を眺めている。ひとが来ないと、いつもこう
なのだ。ゆりあはというと、今日も今日とて観葉植物に水やりをしている。いつもどおり、答
えたのは陽子先生ではなく、ゆりあだった。
「種、ですか?」
「ああ。外面が堅そうだからってだけじゃなくて、なんだか本当の自分がまだ芽生えていない
ような……というか、むりに押し込めてるような、そんな感じがしたんだ」
「素敵な比喩ですね。それじゃあ、丸井くんは庭師さんですか?」
そうなると、高塚麗奈たちは花の成長を妨げる雑草といったところか。
「ずいぶんと乱暴な、雑草の刈り方だったけどな」
「ふふっ、雑草だなんて、失礼ですよ」
失礼と言いながら、自分も笑っている。彼女の屈託のない笑顔はやはり可愛い。しかし、邦
弘には、そのくりくりした栗色の瞳の奥には可愛らしさだけではなく、底知れない聡明さが見
え隠れしているような気がした。
「高塚さんだって、真面目に頑張ってるんですから」
聡明な少女は、またとんでもないことを言い出した。
「部室で騒ぎ立てるだけのひとが真面目だって?」
「部室で騒ぎ立てるだけのひとなら、とっくの昔に退部してますよ」
邦弘の反論に、間髪いれず返してきた。
「『せっかく真面目に一句詠もうと思った』なんて嫌味、普段から詠んでいないと、咄嗟には
出てこないんじゃないでしょうか。高塚さんは高塚さんなりに、部室以外の場所で頑張ってる
んだと思います。きっと」
「でも、そんな殊勝なひとがいやがらせなんかするか?」
「根は悪いひとじゃないんですよ、きっと。ただ、ガソリンが切れてしまっただけで」
「ガソリン……?」
「クリーミーさんは、他のひとの作品を読むのが好きでしたよね? でもそういうときって、
相手の作品を読むだけじゃなくて、自分の作品も相手に読んでもらうものだと思うんです」
「ああ……」
女の子たちが和気あいあいと作品を交換している様子が目に浮かぶようだった。
「高塚さんは、クリーミーさんの作品を読んで、やる気がなくなったんでしょうね。あまりに
レベルが違いすぎて。得意分野は違うみたいですけど、それでも文筆力、想像力に気が遠くな
るほどの差があることは明白だった。なんせ後輩を一瞬で虜にしてしまうほどですもん」
ゆりあは、水をあげすぎていることに気づいて、慌ててじょうろを引っこめた。ゆりあが的
を射たことを言っても鼻につかないのは、時おり、こういった愛嬌を見せてくれるからなんだ
ろうな、とぼんやり思った。ゆりあはさらに続けた。
「目的を持ってなにかを頑張ってきたひとは、目的を失ったとたんに、弱くなってしまうもの
ですから」
邦弘はぐっと心臓を鷲づかみにされた。自分もまた、目的を見失った人間だった。
「ゆりあは、すごいな」本心だった。ここまでひとの気持ちを考える人間には、いままで会っ
たことがなかった。
「ありがとうございます。でも、私よりもすごいひとはたくさんいますよ」初めに相手の考え
を受け入れてから、自分の意見を述べる。ゆりあらしかった。出会って数日でらしさを語るの
もどうかと思うけれど。
「いやいやすごいって。話を聞いただけで、解決しちゃったんだから」
もちろん、今回の相談のことである。
「ああ、あれですか。ふふっ、実はですね、私も『タネ』だったんですよ」
「は?」
「丸井和也くん。出席番号三十三番。文芸部所属。国語と英語のテストはクラストップ。でも
体育と数学が苦手。すこしそそっかしいところがあって、たまに机のなかに書きかけの原稿を
残して帰ってしまうことがある」
丸井のプロフィールを並べ立てるゆりあ。邦弘はあんぐりと口を開けるしかなかった。
――なんで、こんなに詳しいんだ?
「ヒントです。私のリボンは何色でしょう?」
ゆりあはくいっとリボンを持ち上げた。緑色である。それを見て邦弘はようやく気がついた。
「クラスメートだったのか!」
「ええ。彼の原稿を拝読したこともあります。未完成の作品でも、友達に読ませたがるんです
よ、丸井くんは。クリーミーさんには読ませたくないみたいですけど」
「それはつまり……作品に佳美さんが登場してるから?」
「鋭いですね。その作品の舞台はお菓子の国なんですけど、主人公の名前、わかりますか?
『クリーミー』っていうんですよ。ケーキに乗ったイチゴがすこしでも傾いていると食欲をな
くしてしまう、神経質な女の子」
ふふっとおかしそうに笑った。
「佳美さんに会ってすぐにわかったの。ああ、このひとがモデルなんだなって。だから話を聞
いて、すぐに全体像が思い浮かんだんです」
「はあ、なるほどねえ……きちんとタネがあったわけだ」
「ええ。だから、今回のことは偶然です」
偶然と言っているが、わずかな仕草や行動から、ひとの内面を読み取ってしまえるのだから
やはりすごい。そんなことを言えばまた「読み取ると言っても、それは私の天秤で量っている
だけですから。きっと間違いだらけですよ」などと返されるだろうか。
ちょっと試してみたくなってきた。
「なあ、ゆりあ――」
「はい?」
邦弘は、小首をかしげた少女に、先ほどの言葉をぶつけてみた。
返ってきた答えがあまりにも予想どおりだったから、邦弘はついつい笑ってしまうのだった。
数日後。栗原佳美と丸井和也が保健室にやってきた。
二人は幸せそうな笑顔を浮かべながら、ぺこりと頭をさげてお礼を言った。
あの後、佳美は文芸部を退部したらしい。副部長としての責任か、自分の執筆環境か。それ
らを天秤にかけたとき、どちらが重たいかは明らかだった。もちろん、それには丸井和也とい
うおもりが付加されていたことは言うまでもない。
いまは、放課後に学園の図書館を使って、二人で作品づくりをしているという。
「これから部活なんで」
お礼を済ませると、二人は並んで保健室を後にした。肩と肩の距離がとても近かった。
佳美の、人目をはばかることのない笑顔は、開花した花のように輝いていた。