笑うカウンセラー

四章『笑うハッピークロック』

 
 
「聞こえなかったんだね?」  男の声がそう言うと、妹尾陽子はびくりと背筋を強張らせた。なんの脈絡もなく、周囲は白 一色の世界だった。保健室も白いイメージがあるけれど、この場所はその比ではなかった。  ここはどこだろう? などと、そんな疑問は湧かなかった。目の前には人間の形をしている 影があった。ここには、自分とその影だけがいる。ただそれだけだ。場所も時間も関係ない。 ぼんやりとした頭で、陽子はそう考えていた。
 
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そして、「……ごめんなさい」と、陽子は謝罪を口にした。
 その瞬間、景色が一変した。精白だった壁はすこしくすんだ白に取って代わった。そこは、 マンションの一室だった。ふかふかのダブルベッドに目覚まし時計の置かれたナイトテーブル。 クリーム色の生地に青やピンクの染色体みたいな模様が走っているカーテンに、お気に入りの 小説だけを並べた本棚。ここが自分の部屋であると気づくのにそう時間はかからなかった。
 そのとき、コン、コン、と玄関から小さな音がした。金属のドアを、誰かが遠慮がちにノッ クしているようだった。
(返事をしなきゃ)
 陽子は立ち上がろうとした。しかし、できなかった。いつの間にか彼女は布団のなかにいた。 毛布にくるまり、目を閉じて、アルマジロのように体を丸めていた。
 ノックの音は続く。
(聞こえてる……聞こえてるわ)
 陽子は必死で喉の奥を震わせて、ノックに答えようとした。やっぱり声は出なかった。  やがてノックがやみ、彼女は心のなかで悲鳴を上げた。
(駄目。行かないで。私、聞こえてる。聞こえてるのよ!)
 その後、ドアがノックされることは二度となかった。
「聞こえなかったんだね?」
 また、男の声が聞こえた。
 そのとき、景色が上下に揺れた。陽子はとたんに黒い空間に放り出され、そのまま深い闇の 底へと頭から落下していった。

 がくんと前のめりになり、陽子はしたたかにおでこを打った。痛かった。薄ぼんやりとした 視界で周囲を見渡す。白いカーテンと白いベッド、それから給茶スペース――と言っても、部 屋の端に小テーブルを置いただけの簡素な代物だが――が目に入った。どうやらここは保健室 で、頭はデスクにぶつけられたようだった。目の前では手つかずの書類が行儀よく積み重なり、 処理されるときを今か今かと待っている。窓の外は明るく、赤い葉をつけた枝がゆさゆさと揺 れているのが見えた。机上の目覚まし時計は七時半を指している。
 どうやら早朝早々、居眠りしてしまっていたらしい。この寒風吹きすさぶ季節に毛布もかけ ないで眠るとは、我ながら無謀である。全身に妙な悪寒が走っているのは、さっきまで見てい た夢のせいばかりではなさそうだった。
「ふぁ……」と小さく口を開けた。
 あくびではなかった。次の瞬間、「くしゅんっ」と、小さなくしゃみが出た。
(……養護教諭が風邪をひいてどうするのかしら)
 彼女は着くずれた白衣をきちっと整えると、書類に取りかかることにした。
(久恵と通話すると、どうしてああも長電話になるのかしら)
 陽子の勤める学園の司書教諭である賀茂久恵は、陽子の数少ない同期であり友人だった。高 校時代の同級生だから、なかなかの付き合いの長さを誇る。
 そんな彼女から電話があったのは、昨夜のことだった。
「あたし、結婚することにしたの。ああん、幸せすぎて力士になっちゃったらどうしよう!」
 陽子はため息をついた。久恵にかかれば、幸せ太りも極端化されてしまうのだ。
 しかし報告そのものは喜ぶべきことだったので、
「おめでとう。幸せになるのよ」
 と素直に祝意を表した。
「ブーケは陽子に投げるからね。誕生日プレゼントと思って、しっかり受け取りなさい」
「誕生日?」
 陽子は首をかしげた。
「十月二十五日に挙式。陽子がまた一つおばあさんに近づく日よ」
「……そう」陽子の表情に翳りがさした。
「私相手じゃ、ブーケの方が逃げちゃうんじゃないかしら」
 親友の変化を、声音から読み取ったらしい久恵は急に真面目な声で言った。
「陽子はまだ若いわ。あたしが言うのも変だけどね。過去は部屋の片隅に積み上げて観賞する ものよ。間違っても、持ち運ぶものじゃない……そろそろ、新しいひとを探しなよ」
 陽子は目覚まし時計を手に取った。アラームは設定されていない。する気もない。この先、 ずっとこの目覚まし時計が鳴ることはない。
「不幸自慢じゃないけど、あたしにだって色々あったこと、陽子も知ってるでしょ?」
 久恵には信子という一人娘がいて、二ヶ月前まで子連れ出勤をしていた。それが、たった一 人の家族とできるだけ長く同じ時間を共有したいという、久恵の願いの形であることを陽子は 知っていた。久恵のかつての恋人は、信子を懐妊したと告げられたとたんに豹変し、逃げ出し たのだという。彼女は失望しながらも、堕胎の道は選ばなかった。『あんな男の貧弱遺伝子が 残ってるわけないじゃない。この子はあたしだけの子よ』というのは強がりだったが、そう言 ったときの彼女の目はしっかりと未来を見据えていた。
「そうね。久恵は強かった。だから新しい幸せが来てくれた」
「違う。追いかけたから掴めたのよ」
 かちり、と時計の分針が動いた。
「ねえ」陽子はぼんやりと時計を眺めながら言った。「目覚まし時計は、スイッチを押さなく ちゃ鳴らないわよね」
「は?」
 きょとんとする久恵の顔が目に浮かぶようだった。
「目覚まし時計の仕事は、時を刻むことと、時を知らせることだけど……アラームが設定され ていなければ、ただただ静かに、規則的に、時間の流れに委ねるだけよね」
「……陽子は言うことが遠まわしだってば。要するに、なあに?」
「要するにね」陽子は小さく微笑んだ。
「私は、もう鳴らないのよ。あのときからずっと、スイッチが切れたままなの」
 


「ゆりあも招待されたんだ?」
 御崎邦弘は、窓際の観葉植物にじょうろを向けながら彼と会話していたゆりあがふと口にし た言葉に反応して、そんなことを訊いていた。
 ゆりあは水やりの手を休めて振り向いた。この保健室の管理者は陽子先生ではなくゆりあだ と、邦弘はいつも思う。いまだって彼女は、給茶スペースに据え置くための茶葉や簡易冷蔵庫 に常駐しておくアイスコーヒー、ミルクなどの買い出しに行って帰ってきたばかりなのだ。そ れに加えて観葉植物の手入れである。この室内はゆりあによって保たれていると言っても過言 ではない。
「ええ。ずいぶんとおめでたそうな招待状が届きましたよ。文体もまた大げさで」
 ゆりあはくすくすと笑った。
 賀茂久恵から、十月下旬に挙式するという内容の手紙が送られてきたのは、昨日のことだっ た。彼女は夏休みに入ったばかりの時に、とある相談を持ちかけてきた人物である。その件に ついて解決してみせたことで邦弘たちは、もともと陽子先生という共通の仲良しさんがいたこ ともあり、彼女と交流を得ることになったのだった。
 相談、というのはもちろんカウンセリング同好会への相談だ。ゆりあが発足させ、陽子先生 が活動場所を提供してくれている同好会。まだまだ学園内の知名度は低いが、それでも邦弘が 入会してからこれまで、すでに十件近くの相談が舞い込んでいる。相談の種類は、単なる―― と言うとゆりあは激しく反論するのだが――お悩み相談から、奇妙で不可解な事件のせいで悩 んでいるので解決してくださいといった、どうやらここを探偵事務所かなにかと勘違いしてい るらしい依頼まで様々だった。そしてその度に、邦弘の汗と涙の地道な情報収集活動と、それ らの苦労を一瞬で舞台の外へと追いやってくれるゆりあと陽子先生の活躍によって、相談者は 笑顔で保健室を出て行くのである。

「くしゅん!」
 陽子先生が小さくくしゃみをした。ゆりあは心配そうに彼女の方へ顔を向けて、
「お風邪ですか」と訊いた。
「ウイルスは優等生ね。治す側の人間から攻撃するなんて」
 苦笑いしながら、陽子先生は言った。
「風が冷たくなってきましたもんね……」
 ゆりあはふっと窓の外に目をやった。そこでは紅葉した木々が強めの風に揺さぶられていた。
十月だった。文化祭も終わり、三年生は本格的に受験対策に入る時季である。
「お布団をかけないで寝ちゃったんですか?」
 とゆりあが首をかしげて訊くと、陽子先生は肩をすくめてみせた。
「久恵と夜通し電話してたから眠たくって、今朝、ここで寝ちゃったのよ」
「うへえ」
 と舌を出して顔をしかめたのは邦弘だった。薄手の白衣だけではとても防寒できやしない。
想像するだけで体が凍えそうだった。
「ああ、電話で直接招待されたんですね」
 ゆりあはぽんと手を叩きながら言った。
「そうね……」陽子先生はうつむいて、呟くように言った。だけどすぐに顔を上げて、笑顔を 見せた。
「のろけられちゃった。なんでも彼女のブーケには最高の幸せが詰まってるとか」
「ブーケかぁ、次に結婚するとしたら、やっぱり陽子先生ですかね?」
 邦弘はなにげなく言った。すると陽子先生は、
「先生なんかより、ゆりあさんたちの方が先じゃないかしら」
 などといたずらっぽい声で言った。
 ゆりあはじょうろを置いて、くすっと笑った。そして可愛らしくウインクしながら、
「私にはお相手すらいませんよ。それよりも現実的な線で、杏里さんとか」
 邦弘へと意味ありげな視線を送った。
「ぶっ」邦弘は思わず吹き出してしまった。コーヒーなど飲んでいなくてよかったと、胸を撫 で下ろす。そして、「じ、冗談きついぞ」とゆりあを軽く睨みつけた。
 杏里は邦弘の古くからの付き合いであると同時に初恋、初失恋の相手でもあった。数ヶ月前 まで続いていた仲違いは、一応の収束を見せていたが、だからと言って結婚云々という関係に は全然至っていない。なので、彼は顔を赤くしながら両手を振って否定した。
「陽子先生もはぐらかさないでくださいよ。恋人の一人や二人、いるでしょうに」
 そんなに綺麗なんだから、という言葉はさすがに胸の内だけにとどめた。
 彼はこのとき、陽子先生の反応を『恋人なんていないわ。先生、そんなに魅力ないし』であ るか『二人だなんて、不謹慎ね』であるかのどちらかだと予想していた。もちろん、どちらに しても柔らかな微笑みをたたえて答えてくれるのだろうと思っていた。
 しかし実際に陽子先生の顔に浮かんだのは、なんとも言えない微苦笑だった。
「恋人は、いるわよ」噛んで含めるような、あるいは自分に言い聞かせるような口調だった。
「でも、先生はブーケを受け取っちゃいけないのよ。幸せになっちゃいけないの」
「えっと……」
 邦弘はどう答えていいかわからず、どぎまぎした。部屋中に視線を巡らせて、やがてゆりあ の顔で落ち着いた。彼女はきゅっと唇を引き締め、いつになく厳しい表情をしていた。
「そんな顔しないで。ゆりあさんは、笑顔が一番似合うわ」
 陽子先生は苦笑いして言った。ゆりあのまっすぐな視線から逃げるように、彼女はくるりと 椅子の上で回転した。デスクの上にちょこんと居座っている目覚まし時計を手に取った。丸く て、二本の足が生えていて、頭に二つの大福みたいな鐘がのっている目覚まし時計だった。
「そういえば、いつもその時計を見てますよね。なにか思い入れがあるんですか?」
 相談客が来ないとき、彼女はいつもその目覚まし時計をぼんやりと眺めていた。どうしてそ んなことをするのか、邦弘はずっと気になっていたのだけれど、訊けないでいたのだ。
「そうね……恨む気持ちも、思いには違いないわね」
「え?」
 邦弘はぱちぱちと瞬きした。
「先生はね、幸せになっちゃいけないのよ」陽子先生は微笑んで、しかし表情とは正反対に低 い声で言った。「後にも先にもたった一人の恋人を、殺してしまったんだから」
 邦弘は絶句した。彼女の口から出てきた言葉を理解することができなかった。
「どういうこと、ですか?」
 ゆりあが硬い声で尋ねた。
「昔話よ」陽子先生は時計の頭をゆっくりと撫でながら、しゃべり始めた。
「そうね、先生がまだ若かったころ。この学園に勤めてまだ日の浅いころのことだったわ」
 

 
朝の澄んだ空気を切り裂いて、けたたましいベルの音が鳴り響く。
 ベッドの上で掛け布団がもぞもぞと揺れ、めくれ上がり、その隙間から細長い腕が伸びて手 探りにナイトテーブルを叩く。悪戦苦闘のすえにようやく手のひらがスイッチを捉え、室内に はしんと静寂が戻った。
「……ん」
 
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陽子は半身だけを起こすと、軽く頭を振った。二度寝したい衝動を全力で押さえ込む。
 ――今日は絶対に寝過ごしてはいけない。彼女は睡魔の追撃から逃れるために、さっさと温 かな掛け布団を跳ね飛ばして、十月の冷気に全身をさらした。
 大学時代の友人にも現在の職場の仲間にも、陽子は高嶺の花として扱われることが多い。そ れは粛然とした物腰のせいであったり、なんでもこなす万能ぶりのせいであったり、風光明媚 な外見のせいであったり、理由は様々である……と、久恵に言われたことがある。
 しかし彼女は、自分が後輩や同年輩から特別視されるほどすごい人間だとはとても思えなか った。彼らはきっと思い違いをしているに違いない。だって自分には、こんなにも目に余る欠 点があるのだから。
 朝に弱い、という欠点が。
 高校時代からの親友である久恵なんかは、陽子との午前中の待ち合わせには必ず一時間遅れ てやってくる。大寝坊をやらかした陽子が身繕いもそこそこに約束の喫茶店へ駆け込むと、そ こには一杯目のコーヒーに悠々と口をつけている久恵がいて、したり顔でこう言うのである。
『あたしも今来たトコ』
 まったくもって陽子という人間を理解している女なのだ。
 久恵との約束に限らず、陽子が午前の待ち合わせに時間通りに現れることはまずない。それ だけでも充分に困ったものなのだが彼女はさらに、学園に養護教諭として勤めることになって 以来、遅刻しない日はないという前代未聞の記録を樹立していたりもするのだ。大学を出たば かりの新米養護教諭が、いいご身分である。もちろん彼女に悪気があるわけではない。ないの だが、体が勝手に二度寝を決め込んでしまうのだ。
 陽子はそんな自分が大嫌いだった。慌てて駆けつけた待ち合わせ場所で、ぐったりしている 友人を見る度に、彼女は居たたまれない気持ちになった。もちろん寝る時間を早めたりと努力 はしている。しかしそれが実ったことなど一度たりともなかった。
 ――というのは、一ヶ月前までの話である。
「八時、ね。ちょうどいいわ」
 彼女はナイトテーブルに置かれた目覚まし時計に目をやって、満足げにうなずいた。ベッド から降りて、独り暮らしの身にはいささか広い室内を横切ってクローゼットへ。その中からお 気に入りのカーディガンと、マーメイドラインのスカートを取り出す。それらを胸の前で広げ た姿を鏡に映すと、そこには活き活きとした笑顔をきらめかせている可憐な乙女がいた。この 表情だけは、学園の先生方も久恵も知らない。この秘密の一面を知っているのは、彼女自身を 除けば、この世でただ一人だけだった。
 おっと忘れてはいけないと、タンスから黒の下着を取り出す。上下ワンセットで、なかなか しゃれたデザインなので気に入っていた。
 手早く先ほどの服装に着替えると、次は化粧である。ふと、陽子には化粧なんて必要ない、 などと久恵が大げさに誉めてくれたことを思い出した。陽子も化粧はあまり好きではない。け れど一応、ファンデーションだけでも塗っておくことにした。女にはどうしても飾らずにはい られない時があるのだ。
 そうして準備万端整えた彼女がマンションの部屋を出ると、ちょうどお隣のドアも開くとこ ろだった。
「あら、妹尾さん。ちょうどよかった」
 と、よく通る声で言ったのはぎらぎらと輝く中年女性だった。両の指にはこれでもかとアク セサリを装備し、パーマをかけた髪を紫色に染め、派手な花柄プリントのワンピースを着込ん でいる。化粧もずいぶんと分厚い。ルージュを幾重にも塗り重ねたのか、唇は新鮮なたらこを 思わせるほどに赤かった。陽子は内心で苦笑しながら、軽く会釈した。
「おはようございます。お出かけですか」と、陽子は尋ねた。
「いやいや。ちょうどお宅に回覧板を届けようと思ったところなの。昨日、うっかり忘れたま ま寝ちゃってねえ」
「……はあ」
 たった五メートルあるかないかの隣室を訪ねるためだけの完全武装なのかと思うと、彼女は 思わず気の抜けた返事をしてしまった。見栄を張りたい性質の女性なのだろう。同じ女性とし て、みっともない姿で表に出たくないという気持ちはよく理解できる陽子ではあるが、さすが にこれはやりすぎではと思ってしまう。
「デートかしらん?」
 と、派手な隣人は興味津々といった風に陽子に詰め寄る。そこには、好奇心に爛々と輝く主 婦の瞳があった。
「あ、いえ。ちょっとしたお散歩です」
 下手な返事をすれば、ご近所にどんな噂が広まるかわからない。陽子は曖昧に受け答えた。
 するとおばさまは、訝るような視線を陽子の頭からつま先の間で往復させた。
「ちょっとしたお散歩にしては飾ってるじゃなあい?」
 あなたがそれを言いますかと、これはさすがに口のなかだけで呟いた。陽子ははぐらかすよ うに微笑むと、室内に引き返した。下駄箱の上に回覧板を置いて、ふたたび外へ。例のおばさ まは、まだにこにこ顔でそこにいた。
「いってらっしゃい」
「……はい」
 陽子は苦笑してから、エレベーターへと歩き出した。どうにもこの隣人は苦手だ。他人と関 わるのが大好きのようで、ことさらに彼女に構ってくる。新聞屋さんが集金にきていたとか女 の子が遊びにきていたとか、帰宅する度に報告される。どうして自分の部屋への来訪者をチェ ックしているのかと、何度問い詰めようと思ったことか。数年前に旦那さんを亡くしたとのこ とで、寂しいのかもしれないが……かと言って、自分をよるべとされても困るのだ。
(駄目よ、私。笑顔、笑顔)
 駆動音とともに降下していく箱のなかで、陽子はぱしぱしと両頬をはたいた。
 休日の駅前は平日とはまた違った人込みであふれている。広場にはスーツの波ではなく、私 服の波が押し寄せていた。あちこちから聞こえる女の子たちのはしゃぐ声が混じり合い、ベン チで一人たたずむ陽子の気分を高揚させる。秋の風は冷たく手のひらもすこし冷えていたが、 他人ではなく自分がその感覚を味わっているということが、彼女には嬉しかった。広場に設置 された大時計の示す時刻は十時半。そろそろかな、と思ったとき、人垣の向こうに大きく手を 振って駆けてくる姿を見つけた。
「はあ、はあ、待った?」
 彼は肩で息をしながらすまなそうに片手を上げた。陽子はにこりと微笑んで、こう言った。
「ううん、私も今来たところよ」
 決まった、と内心でにやりとしたときだった。
「くしゅん!」と、盛大にくしゃみをしてしまった。
「待たせちゃったみたいだね」
 彼は苦笑しながらハンカチを差し出してくれた。T・Kという文字が刺繍されている。風見 太陽(かざみ たいよう)のイニシャルだった。そこそこ高そうなハンカチを使うのは忍びな かったので、丁重に断って、ここまでの道中で配られたポケットティッシュを取り出した。
 太陽とは大学在学中につきあい始めて、その仲は現在まで続いている。陽子に自覚はなかっ たが、友人たちの間では二人はかなり仲むつまじいカップルとして通っているらしい。久恵な んかは、「陽と陽がくっつくな。暑苦しい」などとうちわをはためかせながら辟易していたく らいだ。
 新しく買ったのだろうか、彼は陽子の見たことのない黒いコートを羽織っていた。それも悪 くないのだが、彼にはスーツ姿が一番ぴったりだなと思う。大手商社に勤めるエリートサラリ ーマンという肩書きが、陽子にそんな印象を抱かせるのかもしれない。
 ともあれそんな恋しい彼氏である太陽は、恥ずかしさに赤面しながら鼻をかんでいる陽子に 笑いかけた。
「今日も勝てなかったか。これでも三十分前に着くように家を出たんだけどな」
「きっちり三十分前よ」
 十一時に待ち合わせ、という予定だったのだ。彼は決して遅れていない。ただ。
「君はどうせ一時間前くらいに着いたんだろう?」
「八時半には家を出たから……二時間前くらいね」
 陽子が馬鹿みたいに早すぎただけである。
 今度は照れたように頬を染めた顔でそう言い切られて、彼は肩をすくめてみせた。
「まいったね。目覚まし時計だけでこんなに変わるなんて。待つ立場だったころが懐かしいよ」
「ふふっ、感謝してるわ」
 そう、陽子が遅刻魔として名を馳せていたのは一ヶ月前までだ。いまでは約束の一時間前、 二時間前にはたいてい待ち合わせ場所にいる。なにが彼女をそこまで変えたのかと言うと、そ れは目覚まし時計だった。
 一度、デートで盛大な遅刻をやらかしてしまったことがあり、そのときの彼女は小さくなっ て何度も何度も頭を下げた。太陽は笑って許してくれたあと、陽子にどうしてそんなに朝が弱 いのかと訊いてきた。彼女が自分の現状をかいつまんで説明すると、彼は納得したようにうな ずいて、「それは目覚ましを使ってないからだよ」と言ったのだ。
 たしかに陽子は目覚まし時計を持っていなかった。とても面倒見のいい母親がいたため、高 校時代は毎日のように揺り起こしてもらっていた。大学時代は寮に入って生活していたのだが、 朝起きられなくなったのはそのころからである。
 なるほど目覚まし時計かと、陽子はぽんと手を打った。母も父もそんな物は使っていなかっ たから、なんとなく朝は自力で起きるものだと思い込んでいた。こんな簡単なことに思い至ら なかった自分は、やっぱり皆が言うようなすごい人間ではないな、とも思った。
 彼はちょうどいいと言って、デートのついでに近くのデパートで目覚まし時計を買ってくれ た。丸くて、二本の足が生えていて、頭に二つの大福みたいな鐘がのっている目覚まし時計だ。 これがよく鳴り響く。おかげで彼女は、設定した時間どおりに起床できるようになっていた。
「効果てき面みたいでなによりだけどね」太陽は小さく微笑んだ。「別の意味で時間どおりに 来てくれよ」
 その呆れたような口調に、陽子はすこしだけ舌を出して笑った。
「だって、嬉しくて。待たせるんじゃなくて、待ってるんだって思うと」
「だからってこの寒いなか……養護教諭が風邪をひいてどうするのさ」
 彼は呆れたように言うと、そうだ、と両手をぽんと叩いた。
 次の瞬間、額に自分とは別の体温を感じた。気づくと目と鼻の先に、彼の目と鼻があった。
「うん、熱はないみたいだ」
 納得したようにうなずくと、彼はくっつけていたおでこを離した。 「もう」陽子は頬が火照っているのがばれないように顔を逸らすと、唇をとがらせた。
 太陽は真剣な目で陽子を見つめると、 「いいかい、次からは早すぎない時間に来ること」  と、しっかり釘を刺してきた。 「えー」陽子は不満の声で迎撃する。
「頼むよ。君の体調のこともあるけどね、これは男の意地でもあるんだから」
「男の意地?」
 陽子が首をかしげると、太陽はどんと広い胸を叩いてこう言ったのだった。
「彼女を待たせてなるものか、ってね」
 その後のデートで太陽は、名誉挽回とばかりに全力でリードしてくれた。彼が自分を待たせ たことを気にしているのかもしれないと思うと、ちょっと申し訳ない気分になってしまう陽子 だった。
 それから数日後。陽子は昼からはたきを片手にリビングや自室を駆け回っていた。今日は彼 が部屋を訪ねてくるのである。
 飾らずとも、ありのままの姿を見せればいい……というのは、正体が美しい人間の言葉だ。 彼女の普段の自宅は、とてもそのままお見せできるような状態ではなかった。
 あらかた埃やごみが見えなくなり、やれやれと汗をぬぐったところで、チャイムの音が鳴り 響いた。「はいはーい」とインターフォンに出ると、案の定、太陽の声が「こんにちは」と答 えた。ちなみに今日は約束の時間ぴったりだ。いつものように三十分前に来たりしないところ が、彼の思いやりの深いところだった。整理整頓の猶予を与えてくれるのはありがたかった。 合鍵を持っているのに勝手に入ってこない辺りも紳士的だ。片づけが終わっていない状態でい きなり入ってこられるとかなり困るので、これもまた助かる。
 太陽はリビングに足を踏み入れるなり、ほうと感嘆の息を吐いた。
「綺麗にしてるんだねえ」
「それはもう」
 即興のビフォーアフターであることなど微塵も感じさせない見事な返事だった。
「うんうん、さすが君だ。掃除のできない女性なんて論外だからね」
 彼は笑顔でうなずきながら、至極当然といった風にそう言った。
 ぐさりと、見えざる鋭利な槍が胸を貫いた。
「……論外」
「ん? どうかした?」
「信じられないわよね、掃除のできない女なんて」
 顔を覗きこまれたので、陽子は慌てて最高の笑顔を作って、そんなことをうそぶいた。変わ り身の早さは女の武器である。そんな陽子の虚勢には気づいていないのだろうか彼は、 「幸福は綺麗な部屋に宿るってね。流行りの風水師が言ってたよ」と言って微笑んでいた。
 彼がコートを脱いだので、陽子は如才なくそれを受け取って衣文掛けにかけた。献身的な女 性ぶりをアピールするのが狙いである。
(あら?)
 コートの裾の部分から、なにかがぴょこんと飛び出している。しばらくそれをまじまじと見 つめてから、陽子はぷっと吹き出した。
「もしかしてこの格好で外を歩いてきたの?」
「そうだけど、それがどうし……」
 きょとんとした顔の太陽をさえぎって、陽子は片目をぱちんと閉じて言った。
「けっこう高いのね、これ」
 ひょいと黒いコートを掲げた。裾から飛び出ているのは、小さな値札だった。
「まいったな……気をつけてるつもりなんだけどなあ」
 と、太陽は小さく肩をすくめて言った。
 彼はエリートサラリーマンの皮をかぶっているが、つぎはぎの綻んだ部分をちょこっとめく ってやると、そこにはおっちょこちょいな青年が隠れているのだ。
 とても優秀だけど、どこか抜けている。そんな部分もそっくりなカップルだわねえ、と久恵 などは言っていた。
「まあ、僕が値札をぶら下げていようが誰も気にしないさ。おやあそこの二枚目が一万円で買 えるのかい、こりゃあ買いだって言うひとがいれば、話は別だけどね」
「よく言うわ」
 冗談に笑いながら、陽子はふと隣人のおばさまを思い出した。たった数歩の距離を出歩くだ けなのに他人の目を気にして、完璧に身繕いをする彼女。他人の目をまったく意に介さない太 陽とはきっと、対極にいる人間なのだろう。
「ずいぶんとおっちょこちょいな二枚目さんね」
 陽子がそう言うと、太陽はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「それはそうと……はたきくらいは片づけような。おっちょこちょいな美人さん」
 彼の目は、彼女の右手辺りを見ていた。その視線を辿ってようやく、陽子は自分がはたきを 持ったままだったことに気づいた。
「……最初から全部わかっててからかってたのね」
 どこまでも似た者同士の二人だった。

 陽子にとってベッドは母だった。ぬくぬくとした布団に包まれると、まるでそこが胎内であ るかのように安心感を覚えるのだ。朝起きられないのも、もしかすると夜寒の残滓から逃げた いという、母への乳くさい甘えに他ならないのかもしれない。
 ベッドが母だとしたら、太陽は父だった。彼にベッドの半分を貸すとき、陽子はいつも電気 を消させる。顔を見るのも見られるのも恥ずかしいという理由もあったが、それよりもなによ りも、彼の存在を肌だけで感じたかった。どんなに甘いささやきも、どんなに好意的な表情も なにも語らないことを彼女は知っていた。久恵曰く十年に一度の美女である彼女は、嫌になる ほどそういった言葉や表情と出会ってきたのだ。だから、特別なひととは特別な触れ合い―― 肌と肌の触れ合いを楽しみたかった。
 姿の見えない相手に触れられる。それは胎児が父親に触れられるようなものだ。胎児は、姿 は見えなくても、しっかりとそこに父を感じる。父の力を感じて、蹴りという力でもって答え るのだ。
 だから太陽のいるベッドはすごい。ぬくもりと力強さを兼ね合わせたそこは、まさに安息の 地だった。あまりの安心感に陽子は、いつも愛し合ったあとすぐに眠りに落ちてしまうのだ。
 今日もこのまま、朝まで眠るはずだった。しかし彼女は、微かなベッドのきしみに目を覚ま してしまった。ぼんやりと目を開ける。太陽が上半身だけを起こしているのが見えた。
 おかしいな、とぼんやり思う。彼は彼女が眠るのを見届けると、そっと帰宅するはずだった。 彼はここからタクシーで十五分ほどの実家に住んでいる。母親が体面をひどく気にするとかで、 結婚前の男がちゃらちゃらと夜遊びするのはけしからんと、太陽は外泊を禁じられていた。陽 子としては、結婚後に外泊する方が問題じゃないかしらとも思うのだが。
 ともあれ、どうして彼がまだここにいるのだろう? 今日は特別に一晩中いてくれる、とい うのなら大歓迎なのだけど。
 太陽はぎゅっと握ったこぶしをじっと見つめていた。なにかを持っているのだろうか、やけ に力が入っている。その真剣な横顔を見ていると、胸の奥がどきどきしてきた。睡眠で冷たく なっていた全身が急に熱を取り戻して、熱いくらいだった。
 そのとき、いきなり彼が身をよじった。その拍子に布団が半分持って行かれた。とたんに寒 くなって、陽子は慌ててたぐり寄せた。
 逆方向に引っぱられたことで気づいたのだろう。ナイトテーブルの方へ向いていた彼の顔が、 さっとこちらを振り返った。からん、と乾いた音がした。太陽は彼女と目が合うと、苦笑いの ような表情を浮かべて言った。
「まだ起きてたんだ」
「ううん、いま起きたところ。帰らなくて平気なの?」
「もう帰るよ。悪いね、起こしちゃったみたいで」
 太陽の手が長い髪をそっと撫でた。とたんに甘い気分になって、陽子は硬い胸板にしなだれ かかった。
「明日の約束、忘れるなよ」
 彼はそんなことを言い出した。言われるまでもなく、忘れるつもりなんか毛頭なかった。そ う答えると、彼はおかしそうに笑った。きっとはたきのことを思い出しているに違いない。ま ったく、失礼な男だ。彼は笑いやむと、また真面目な顔に戻った。
「明日は特別なデートだからね」
 彼は明日の予定を教えてくれなかったが、陽子にはなんとなく予想できていた。明日は十月 二十五日、日曜日。彼女の誕生日だった。彼はきっとなにかプレゼントをくれるつもりなのだ。
「それじゃあ、早く寝て早く起きなきゃね。もういっかい、寝かしつけてよ」
 陽子はそっと上半身を押して、彼を押し倒した。そして、貪るように唇を合わせた。
 目覚めると、隣に彼の姿はなかった。途中から意識が途絶えていたので記憶ははっきりしな いが、おそらく家に帰ったのだろう。閉じたカーテンの隙間からわずかに光が差し込んでいて、 いまが朝であるとわかった。いつもの癖で、ナイトテーブルの上を手で探る。いつもなら簡単 に目覚ましのスイッチを捉えられるのだが、今日はなかなか上手くいかなかった。
 仕方がないので、もやがかかったようにはっきりしない目でナイトテーブルを見た。陽子は、 おや、と首をかしげた。目覚まし時計はちゃんとあった。しかしどうしてかその脇に、輪状の 淡い光が見えるのだ。銀色のリングに、虹色の輝きをまとっているなにかがくっついている。 なんだろう、と思うよりも早く、頭の奥にずしりと眠気がのしかかってきた。陽子はもそもそ と布団のなかにもぐり込んだ。
 そのとき、コン、コン、と玄関から小さな音がしたような気がした。しかし半ば夢のなかに いた彼女は、そのまま眠ることにした。来客かもしれないが、どうせ大した用事などないだろ う。陽子は毛布にくるまり、アルマジロのように体を丸めた。
 陽子が本格的に目覚めたのは、時計の針が二本そろって仲良く上を向いた時間だった。ふと 目が覚めて、例によって手探りでナイトテーブルを叩きまくって、目覚まし時計を引き寄せる と、そこにはとんでもない時刻が示されていたのだ。
 約束の時間を二時間も過ぎてしまっていた。
「……うそ」
 信じられなかった。目覚ましを使うようになってから、一度も寝坊なんてしなかったのに。 よりによって、デートの日に……しかも、特別なデートだと念を押された日に。
 慌ててベッドから飛び降りて、クローゼットを開け放った。服の選別をする余裕はなかった。 この前と同じ服がたまたま手近にあったのでそれを着ることにした。ファンデーションもいつ もより薄く塗るだけにとどめた。いまさら急いだところで遅刻には違いないだろうが、できる だけ早く向かおうとするのが誠意というものだ。
 家を出ると、ちょうどお隣の家のドアも開いた。ぎらぎら光るおばさまは、相変わらず丹念 に着飾っていた。
「すみません、いま急いでて」
 話しかけられるよりも先に、陽子は言った。相手はきょとんとしたが、すぐににやにやと口 元に笑みを浮かべた。
「あらん、デートかしら。今朝の彼と同じひとかしら? 黒いコートの。なかなかの美男さん だったわねえ」
「えっ、彼、うちに来てたんですか?」
 びっくりして、声が裏返ってしまった。
「ごまかしてもむだよぉ。しっかり見てたんだから」
 だからどうして見ているのだと、反ばくしたい気持ちをぐっと堪えた。
「って言っても、ノックしてるところしか見てないけどね。なべが噴いちゃってねえ」
 おばさまは心底残念そうに肩を落とした。
 陽子はちらちらと腕時計に目をやっていた。太陽が家に来ていた。遅すぎる彼女に業を煮や して迎えにきたのだろう。それなのに自分はぐーすか寝ていたのだ。
「いいわねえ、美男美女のカップル。どこまで進んでるのかしら」
「ごめんなさい!」
 興味津々のおばさまに勢いよく頭を下げて、陽子は駆け出した。おしゃべりに付き合ってい るひまはなかった。
 降下していくエレベーターのなかで、陽子は思った。
 ――合鍵を使ってくれればよかったのに。こんなときまで勝手に入ってこないだなんて、紳 士を通り越して馬鹿だ。そんなことを考えながら、マンションを飛び出して駅前の大時計へ向 かった。陽子はヒールをはいてきたことを後悔しながらアスファルトを走った。彼女を急き立 てるように、遠くで短いスパンのサイレンが鳴っていた。
 大通りに差しかかると、横の道路は渋滞になっていた。徒歩でよかった。車だったら日の高 い内には彼と会えなかったかもしれない。
 どうやって謝ろう。陽子は途中からそればかり考えていた。愛想を尽かされるだろうか。そ れとも逆に、笑って許してくれるだろうか。不安と切望で頭がどうかしてしまいそうだった。
 しかし実際は、そのどちらでもなかった。
 待ち合わせ場所に彼の姿はなかった。見回しても、大勢の見知らぬひとがいるだけ。見慣れ た顔と、あまり見慣れていない黒いコートはどこにもいなかった。
 太陽が陽子のマンションから駅へと向かう道で、ブレーキを踏まれそこねた乗用車にはねら れて死亡したという知らせを、陽子が受けたのはその日の夜、午後八時だった。
 訃報を聞き終えた彼女が力なく受話器を離したとき、思い出したように目覚まし時計のベル が、寝室でじりじりと鳴り響いた。

 

「運命だったのかしらね。先生が起きられなかったのも、運転手がブレーキを踏みそこねたの も、あのひとが先生を待たずに迎えに来たのも」
  陽子先生は疲れたように目を閉じながらそう言うと、目覚まし時計をデスクに置いた。どう やら話は終わりのようだった。
 邦弘はかける言葉に困って、ゆりあの顔をうかがった。彼女は目覚まし時計と陽子先生の顔 とを交互に眺めていた。
「恨む気持ちっていうのは、そういうことよ。この時計は肝心なときに起こしてくれなかった。 まあ、それも結局は責任転嫁なんだけどね」
 彼女は言いながら立ち上がると、給茶スペースへ向かった。簡易冷蔵庫からパックのアイス コーヒーを取り出して、グラスに注ぐ。それはゆりあの仕事のはずだが、栗毛の少女は目を細 めてなにやら考え込んでいて、それどころではなさそうだった。
「先生は、保健室に誰かが来るのを、すぐに感じることができるでしょう? あれはね、いつ も廊下の音に耳をすませているからなの。もうすぐ誰かがこのドアをノックする。このドアを 開けて入ってくる。その音を絶対に聞き落としちゃいけないって、ね。もうこれ以上、罪を重 ねるのは嫌だもの」
 どこか乾いた声で陽子先生は言った。その声音には昔語りに登場した、はつらつとした女性 の気配は微塵も感じられなかった。
「陽子先生のせいじゃない」
 邦弘はたまらずに叫んでいた。丁寧語を使うことも忘れていた。彼女の自嘲的な言葉は、聞 くに堪えなかった。
「悲しいのは、仕方ない。でもだからって、陽子先生が殺したなんておかしい。事故だったん でしょう?」
「いいえ」
 陽子先生はガムシロップをコーヒーに流し込みながら、きっぱりと言い放った。
「偶然の事故にだって要因はあるのよ。たとえそれが幾重にも積み重なった偶然だとしても、 結局は要因の蓄積に他ならない」
「でも」
 邦弘が口を開きかけるのを、陽子先生は片手で制した。
「先生はその内のいくつの要因を引き起こしているのかしらね。先生が時間どおりに起きてい れば彼がマンションに来ることはなかったし、ノックに答えていればもしかしたら無事だった かもしれない。そもそも先生と付き合っていなければ、彼はまだ生きていて、幸せに過ごして いたはずなのに」
 陽子先生はグラスをお盆にのせて近づいてきた。この季節にアイスコーヒーというのはなん だか妙な気分だったが、喉がからからに渇いていた邦弘はありがたく受け取った。ゆりあも難 しい表情のまま受け取り、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
 保健室に沈黙が横たわった。誰も口を開かず、室内には居心地の悪い空気がよどんでいた。
 なにもしていないと気分がひどく落ち着かなくて、邦弘は一気にコーヒーを飲み干した。
「うっ、なんだこれ」
彼は口内に広がる、濃厚すぎる甘みに口元を押さえた。
「あ、甘すぎる」
「あら、邦弘さんはいつもガムシロップ一個よね」
「そうですけど、これ本当に一個分ですか? 二個分くらい入ってる気がする」
「あっ」
 と、ゆりあがふいに声を上げた。そして自分のグラスにその柔らかそうな唇をくっつける。 ゆっくりと味わうような間を空けて、彼女はごくりと喉を鳴らした。
「甘いですね」
 呆けたような声だった。彼女は何度かうなずくと、ようやくいつもの爛漫な笑顔を取り戻し てこう言った。
「よかった……やっぱり陽子先生は、罪なんて負っていなかった」
「ゆりあさん?」
 陽子先生が怪訝そうに眉をひそめた。邦弘も首をかしげた。
「いままでずっと考えていたんです。どうしてその日に限って、陽子先生が寝坊してしまった のか。だっておかしいですよね。目覚まし時計の音で起きるのが習慣になっていたのに、その 日だけ起きられないなんて」
「それは偶然よ」
「偶然にも要因はあります。ただ単に起きられなかったんじゃなくて、そこにもちゃんと原因 があったんですよ」
「どういうことだ?」
 横から邦弘が訊いた。ゆりあの栗色の瞳には、いつもの聡明な色が宿っていた。
「その日、目覚まし時計のアラームは設定されていなかったんです」
「それはないわね」
陽子先生は間髪いれず否定した。
「寝る前にちゃんとスイッチを押してい たわ。それこそ習慣でね。それにその日の午後八時には鳴ったのよ? デジタルじゃない、す こし古いタイプの目覚まし時計だから、午前と午後を区別してアラームを設定することができ ないの。だから朝の八時にもしっかり鳴っていたはずよ」
 これに対して、ゆりあはいともあっさりとうなずいた。
「そう。そうなんです。だからずっと考えていたんです。どうして朝鳴らなかった目覚まし時 計が、夜になって鳴ってしまったのか……答えは、このコーヒーが教えてくれました」
 彼女はすっとグラスをかかげた。黒い液体の側面に、陽子先生の怪訝そうな顔が映っている。
「陽子先生は、どうしてホットじゃなくてアイスにしたんですか?」
「別に深い意味はないけど。喉が渇いたからかしら。冷たいほうが潤う感じがするのよ」
「そうですね」
いまのはただの確認だったらしく、ゆりあは質問を重ねたりはしなかった。
「ところで給茶スペースにはもちろんコーヒー豆があるわけですけど、ホットでいれるときは たいてい、シュガーやガムシロップを使いますよね。陽子先生はブラックですけど。みさきち ゃんはガムシロップ一個で、私は三個」
 多すぎだ、というツッコミを入れる暇さえ与えずに、ゆりあは続けた。
「最近、空気もだいぶ冷たくなってきましたし、飲み物はほとんどホットでしたよね。陽子先 生はシロップを入れることが習慣になっていたんです――だから、それと同じ感覚で、もとも と甘いアイスコーヒーにさらにガムシロップを加えてしまった」
「あら、無糖じゃなかったの?」
 まったく気づかなかったとでも言いたげに目を見開いた。
「買い出しに行ったのは、シロップ三個の私ですよ。無糖なんて買いませんよ」
「待ったゆりあ」
なんだか話が逸れているような気がして、邦弘は慌てて割り込んだ。
「ゆり あが甘党なのはわかった。でも目覚まし時計となんの関係があるんだよ」
「同じことじゃないですか。すでに甘いコーヒーに、シロップを入れてしまうことと、すでに スイッチが切れていた目覚まし時計の、スイッチを入れてしまうことは」
 ゆりあがそう言うと、陽子先生は息を呑んだ。
「つまり、朝には切れていた目覚ましのスイッチを、先生がもう一度入れなおしたと? でも 二度もスイッチを押した記憶はないわよ」
 その形のいい眉に指を添えて、陽子先生は低くうなった。
「陽子先生がスイッチを入れなおしたのは、十二時に目覚めたときです。憶えていないんでし ょうね。寝起きがてらにナイトテーブルを、その上の目覚まし時計を叩くことは習慣になって いたみたいですから」
「なるほど……」
陽子先生は感心したように呟いた。
「でも、それじゃあどうしてアラームは 切れていたのかしら。寝る前にスイッチを押したのは本当よ」
 ゆりあの表情がすこしだけくもった。言っていいものかどうか、迷っているようだった。
 陽子先生は逡巡しているゆりあを見つめていたが、しばらくしてふうとため息をついた。
「わかってるわ。ゆりあさんの仮説が本当だとしたら、スイッチを切ることのできたひとは、 先生以外には一人しかいない……つまり、彼ね」
 ゆりあは気まずげに小さくうなずいた。 「でも、どうしてそんなことをする必要があったのかしら」
 という陽子先生の問いに、ゆりあは小さな声で答えた。
「亡くなった方の心に入り込むのは、とても気が引けるんですけど……太陽さんは、陽子先生 に遅刻してほしかったのではないでしょうか。彼女を待たせてなるものかっていう、男の意地 が、自分の遅刻を許さなかったんです」
「そんなの、直接言えば済む話でしょう」
「言ってますよ。でも素直に聞いてくれなかった。だから苦肉の策として、前日に約束を取り つけて陽子先生の家へ行ったんです。いつもより遅くまで帰らずにいたのは、陽子先生が完全 に眠ったことを確認したかったからだと思います」
 陽子先生はさっきからせわしなく足を組みかえていた。
「待って。本当に彼がアラームを切ったとして、どうして翌朝、部屋に訪ねてきたの? 先生 が遅刻することを知っていたなら、待ちきれなくなるなんておかしいわ」
「お隣のおばさんによると、太陽さんはノックしていたんですよね」
「そうよ」
 ゆりあはグラスを指でこんこんと叩き、ノックを表現した。
「前日はインターフォンを使っていましたね。それなのに、その日はあえてノックすることを 選んだ。太陽さんは律儀なひとみたいですから、すぐに合鍵を使わずに、ワンクッション置き たかったんでしょうね。でもインターフォンは音が響くので起こしてしまう恐れがある。だか ら、ノックにしたんです。彼なりの最低限の礼儀だったんでしょうね。そして、部屋のなかに 入った――あるものを回収するために」
 邦弘はピンときたので、すかさず割り込んだ。
「陽子先生が最初に目覚めたときに見た、虹色の輝きか」
「そうです。コートの値札を取らないで外に出るくらいの、おっちょこちょいな太陽さんは、 とても大事なものを先生の部屋に置き忘れてしまったんですよ。特別なデートで陽子先生に渡 すはずだった、特別なプレゼントをね。きっと、夜中に真剣に見つめていたのは、そのプレゼ ントだったんでしょう。いきなり陽子先生が起きたから、びっくりしてナイトテーブルに落と してしまい、そのまま忘れてしまったんでしょうね」
「つまり……」
陽子先生はか細い息を吐いた。厳しい目つきでゆりあを見据える。
「目覚まし 時計が鳴らなかったから先生は起きられなかった。ノックの音も、もともと先生を起こさない ように鳴らされた音だから、それで目覚めなくても仕方がない。だから太陽の死は先生の責任 じゃない……と言いたいのかしら、ゆりあさん」
 普段は優しい彼女の、怒りさえ感じさせる声音に、邦弘は身を固くした。
 けれどゆりあは怯まない。毅然とした態度で先生に対峙する。
「陽子先生が罪悪感を覚えるのは自由です。そこに私の推測が介入する隙間なんてありません。 ただ私は、太陽さんはそれを望んでいないのではないか、むしろ陽子先生には幸せになっても らいたいと思っているのではないか……とは思っています」
 そのとき、耳をつんざくような大きな音がして、邦弘は飛び上がった。陽子先生がデスクを 叩きつけた音だった。彼女の目はつり上がり、握りこぶしはぷるぷると震えている。
「皆そう言ったわ。あのひとのことをなにも知らないくせにそう言った。ゆりあさん、あなた まで太陽の心を決めつけるの?」
「太陽さんの真意も、陽子先生の真意も、私にはわかるはずがありません」
ゆりあは首を振っ た。
「けどすこしでも陽子先生の救いになるなら、私は真実をねじ曲げてでも推測を語ります」
 動じないゆりあに、養護教諭はたじろいだ。指は髪をいじり、視線はあちこちをうろつく。
「太陽さんは陽子先生に幸せになってもらいたいと思っています。その根拠も、あります」
「根拠?」
 邦弘は相槌を打った。張り詰めた空気のなかで黙っているのが辛くなったのだ。
「虹色の輝きは、たぶんオパールです。色の特徴も当てはまりますし、なにより十月の誕生石 なので」
「オパール、ね」
陽子先生の口の端に厭世的な笑みが浮かぶ。
「スコットの小説の影響で、一 時期は不幸の石と呼ばれていたものじゃない。ぴったりね」
「石言葉のひとつは……幸せ、です」
「……それこそ、偶然よ」
 陽子先生はゆりあから目を逸らすとデスクに向かい、背中を向けた。
「彼は少なくとも、流行りの風水師の言葉をきちんと憶えているくらいには、おまじないに興 味があったんですよ。オパールの石言葉を、まったく意識しなかったはずはないと思います」
 陽子先生は振り向かず、なにも言わない。ゆりあは続けた。
「最初に陽子先生に会ったとき、私は止まりかけの時計を見たような気分でした。鳴ることは なく、ただ時を刻み続けるだけの時計。生徒たちのセラピストであることが、その時計の唯一 の動力であるようにも思えました。先生は、お昼休みや授業中には生徒たちと活き活きと話し ていました。きっと、お隣のおばさんと同じだったんです。寂しさから他人に深く接しようと する。だけど寂しがりで弱い自分を、しっかり隠しながら。おばさんは分厚いお化粧で、陽子 先生は聞きに回ってめったにしゃべらないことで。でもそれは嘘だから……自分を見せないコ ミュニケーションなんてごまかしだから、私にはつぎはぎだらけに見えたんです。そして、そ のつぎはぎは放課後になるとくっきり浮き上がってきました。ひとけのない保健室にたたずむ 陽子先生は、とても危うかった」
 陽子先生は振り向かず、なにも言わない。ゆりあはさらに続けた。
「いずれ止まってしまいそうで、怖かった。だから私は、話を持ちかけたんです。以前からず っと、やりたかったけれど思い切れなかった、カウンセリング同好会結成の話を」
 陽子先生は振り向かない。けれど、言った。
「ゆりあさんは……先生のカウンセラーだったのね」
 とてもかすれた声だった。デスクに肘をついて、眉間を押さえていた。
「まあ、色々と言いましたが」
ゆりあはにっこりと笑った。
「要するに陽子先生には幸せにな ってほしいと思っているひとが、私や太陽さんも含めてたくさんいるということです。ですよ ね、みさきちゃん」
「へ? あ、ああ、もちろんだともさ」
 いきなり話を振られたのでややいい加減な返事になってしまった。陽子先生の過去やら同好 会発足の経緯などが次々と明らかになり、ちょっと置いてけぼりを食らっていたのだ。しかし、 言葉にいつわりはなかった。
「まあ、女性の心は難しいから、すぐには変われないだろうけど」
 そのことは、骨身に染みている邦弘だった。だからこそ、その言葉が彼女の心に届いたのだ ろうか。陽子先生は、ゆっくりと振り返っていた。
「そうよね……」
 彼女はそう言ってうなずくと、 「くしゅん!」と盛大にくしゃみをした。
 鼻の下を赤くしつつ、陽子先生はうっすらと笑顔を浮かべてこう言ったのだった。
「養護教諭が風邪をひいて、どうするのよね」

 

 森田誠一と賀茂久恵――正確には一昨日付けで森田久恵――の結婚式は、それはもう大げさ にとり行われた。バージンロードの脇には親戚やら友人やらがずらりと並んでいる。邦弘やゆ りあ、それから杏里の姿も見える。職場の先生方も何人かいた。久恵って友達たくさんいたの ねぇと、陽子は思わず感心してしまった。
 
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十月の空気は冷たいけれど、空は青々としていた。気持ちのいい日光が降り注いでいる。
 陽光のカーテンの裾に、新郎新婦の姿があった。ウェディングドレスに身を包んだ久恵は、 とても綺麗だった。
 式は滞りなく終わり、新郎新婦の周りには女性陣が殺到していた。久恵は繊細なつくりの花 束を胸に抱えている。彼女曰く、幸せのたっぷり詰まった花束だ。
 花嫁が大きくすくい上げるように、ブーケを上空へ放り投げた。
 ――どうでもいい話だが、この結婚式は午前中に行われた。陽子は久しぶりにあの目覚まし 時計を使ってみた。何年もほったらかしだったそれは、しかし電池を換えるとすぐに元気に鳴 り響いてくれた。おかげで陽子は、開式の二時間前に式場に現れるという迷惑極まりない奇行 に走ってしまい、久恵に大いに呆れられてしまった。
 幸せの花束が宙を舞う。周囲から何本もの腕が空へと伸びる。幸せを掴もうと、女たちは、 目一杯に腕を伸ばしている。そんな光景を横目に彼女は、ふうとため息をついた。うつむいて、 こぶしを強く握った。
 ブーケは空中で、まるで時間を止めたように一瞬だけ静止した。
 ――けれど、時計はまたすぐに動き出す。  陽子は青空へ向かって思い切り両腕を突き出したのだった。
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