ピチャン、ピチャンと雫が滴る音が微かに響いていた。酒の滴りが一滴、一滴とコップにたま って行く。ヒビが入ったウイスキーグラスの底か ら一センチほどの高さのところまで酒が溜まっ ている。 「ふう…ようやく、ワンフィンガー分くらいになったよ」 さっきから酒ビンをグラスに傾けていた女は顔を上げると大きく息継ぎをした。 場所はのんびりと秋の陽気が漂う酒場の三階。貧乏人用に間貸しされた一室で、貧乏女ミリ アは必死に酒ビンと格闘していた。 部屋中には見事に空っぽのウイスキーのビンが積まれていた。銘柄は特になく、とにかく空 ビンが山ほど積まれていたのである。 その空ビンを取りのぞけば、部屋は恐ろしいほどに殺風景だった。今ミリアが腰掛けている ガタついた椅子と小さな丸テーブル。後はこ汚い ベッドと、壁からぶらさがった一振りの大剣。 そして床に転がったオンボロの皮鎧が、この堕落した女戦士の全てである。一目で貧乏である と いうことがわかる。 その貧乏ファイターミリアは、さっきから空ビンを手にとって、ビンに残った僅か一滴、二滴の 酒を、必死になってコップに貯めている最中であ った。やけに神妙な顔のまま、ミリアは両手 に持った安ウイスキーのビンを傾けた。小さな滴の滴る音がして、ウイスキーの僅かな滴がコ ップに 落ちる。 「へっへー、酒だ酒だ」 後ろで縛っただけのボサボサ頭が小刻みに揺れ動く。ミリアはさも嬉しそうにそのコップを手 に取ると、俗物根性丸出しの顔で、歯茎を剥出し にした汚い顔で笑った。いや、汚いのは当然 である。いい加減に銭湯にも十日くらい行っていない。全ては自堕落でどうしようもない生活の た めである。 「ぐっへっへ」 さも嬉しそうに下品に笑うと、ミリアはその猫目を細めてコップを口に運んだ。ハーフ・エルフ 特有の長い耳が嬉しそうに動いた。この世界では あまり見られない、人間と妖精の混血種が これだ。 ハーフ・エルフは森の妖精エルフと人間の混血種であり、少し人間離れした容姿と、極度に 老化が遅いという特徴を合わせ持つ。基本的にめ ったに見られない連中である。したがって、 ここにハーフ・エルフがいることも十分に珍しかった。しかし、こいつの性格というものも、相当 に珍し かった。 女で戦士。それだけでも十分に希少価値のあるものだったが、一番珍しいのはこいつの性 格と内蔵だった。それはもう、鋼鉄の肝臓と胃袋 を持つ女である。そして頭の中身は極端に悪 かった。こんな奴がマトモな生活を送るわけがない。 酒好きの宴会好きでズボラな女。そんな奴に男が付くわけもなく、日々は自堕落に過ぎてい った。一応、戦士としての腕前は一流なので、とき どき仕事をしては全部飲んでしまう。そうい う頭の悪い生活を、もう百何十年も続けているのである。 「うーん、さすがはブレンド。複雑な味だね」 馬鹿なことを言うと、ミリアはウイスキーを何度も口に運んだ。どんなに貧乏しても、やっぱり 酒は止められない。しかし、十日前に、最後の銅 貨を使いきり、完全に一文無しになってしま っていた。 戦士を必要とする仕事が特にあるわけでもなく、金を借りる当てがあるわけでもない。けれど も酒は飲みたい。仕方がないので、アチコチの 酒場から空ビンを集めてきたのだ。そう、部屋 に積まれたビンはそれである。わずかに残った数滴でも、集めれば一杯分くらいにはなる。も は や乞食根性というのもおこがましいほどの惨めっぷりである。 「しかし、いつまでこんな生活続くんだろう。早く戦争でも起こってくれないと、あたしは日乾しに なるぞ」 少しだけ難しい顔をすると、この全身アルコール漬けの自堕落剣士は舐めるようにウイスキ ーを啜った。スコッチやバーボン等、色々な種類 のウイスキーが混じったブレンド物である。当 たり前だが、とてもまともな味ではない。 「とりあえず、明日はラムのビンだな。明後日はブランデーの空ビンでも集めるとしますか」 あまりにも頭の悪い発言をすると、貴重なウイスキーをミリアは舐め回した。骨の髄まで貧乏 である。 「ふう、飲んだ飲んだ」 勢い良く最後の一口を飲み干すと、ひび割れたウイスキーグラスをドンとテーブルの上に置 いた。この部屋の数少ない食器であるこれは、以 前ゴミ捨て場からちょろまかして来たもので ある。 「さて、市場に行くとでもしますか」 変にアルコール臭い息を吐いてミリアは立ち上がった。今日は市場の安売りセールである。 もちろん、買いにいくわけではない。市が終わっ た後、売り物にならなくなった食料品を拾って くるためである。夏も過ぎて、市場のゴミも腐りにくくなった。毎度行けば、それなりにクズ野菜 や ボロ肉が手に入るのである。 なんとか暮らせるものだから、どうしようもない生活をまるきり改めようとしない。どうしようも ない最低の戦士はどっこいしょと掛け声を挙げ て、座っていた椅子から重い尻を上げた。 ドンドンドン。 不意に立て付けの悪い入り口のドアが鳴る。 「なんだい、家賃なら無いって言ったじゃないかっ」 忌ま忌ましそうにミリアは唇を突き出すと、ドアに向かって怒鳴りたてた。この間借り宿の大 家は一階の酒場の主人である。一時間前、酒場 で空になった酒ビンを頂戴しに下に降りたミ リアに対して、大家であるクレーベ・フォイツ氏は当然のように家賃を請求した。 その結果、不幸にもフォイツ氏はミリアに「いつか払うって言ってんだから、出世払いにしてお け」と怒鳴り付けらた。そして氏は理不尽なセリ フに傷つきながら、カウンターの隅で「もうこん な下宿人は嫌だ…」と悲嘆の涙に暮れるしかなかった。まったく、とんでもない爆弾を抱え込ん だ ものである。 「ちょっと、何言ってるのよ〜」 扉の向こうから、あっけに取られた女の声がした。どうやら大家ではないらしい。 「あれ?大家じゃない?じゃあ、借金取りか?」 ミリアの方もあっけにとられた顔をした。大きな猫目が不思議そうに見開かれる。ここ数日 間、借金取りばかりが訪ねてきていた。その全部 が「金返せ!」とうっとおしかった。今は訪問 者全員、街の診療所で絶対安静となり、おとなしくなっているが。 「何のことよ〜」 妙に間延びした女の口調が扉の向こうから続けられた。 「いや、大家でも借金取りでもないならいいや。ちょいと待ってよ。今鍵を開けるから」 ふう、と気怠そうに息を継ぐと、ミリアは背中を丸めて気怠そうに、入り口のドアに向かって歩 き始めた。 「ええ、鍵がかかっているの〜」 また、やけにトロ臭い声が扉の向こうからする。 「じゃあ、開けなきゃ〜」 扉の向こうで何やら動きがあった。ピン、と一瞬にして空気が張り詰めた。 (え?) 何かただならぬ雰囲気を感じてミリアは身構える。 「開け〜、ドア!」 トロ臭い声が大声で叫ぶ。瞬間、物凄い轟音を立てて、鍵のかかっていたドアは部屋の内側 にフッ飛んだ。 「げふっ!」 飛んできたドアにブチ当たり、見事にミリアはフッ飛んだ。施錠されたドアをムリヤリにこじ開 けるオープンロックの呪文。ミリアが鍵を開ける 前に、そんな呪文を使われてしまったのだ。 「ぎょぇぇぇ!」 すさまじい勢いでミリアは跳ねとばされて壁に激突した。そして、部屋に山積みとなっていた ウイスキーのボトルも部屋中に舞い上がる。そし て、狭い部屋の中には、酒ビンが嵐となって 渦巻いていた。 「あれ〜、誰もいないわ〜」 間の抜けた女の声が部屋に響いた。部屋は一面がウイスキーの空ボトルで埋め尽くされて いた。スコッチの長ビンから黒い丸型のオーソドッ クスなビンまで。色々な種類のウイスキービ ンが床に散乱している。 その一番奥。壁ぎわのベッドの上に、ウイスキーのビンが山積みになっていた。かと思うと、 そのビンの山がモゾモゾと動く。小さな山からビン の雪崩が起きて、その頂点から一匹のハー フ・エルフの顔がひょっこりと飛び出してきた。 「ここに居るわい!いきなりあたしの部屋に飛び込んできて、いったいなんて言い草だ!」 酒ビンの山から顔だけを出してミリアは怒鳴り付ける。突っ込んでおけば、ここはこいつの部 屋ではなく、階下で涙に暮れている大家のもので ある。 「あれ〜、姉さんじゃない〜。よかった〜。居たんだね〜」 トロい声の女はミリアの顔を見ると、本当に嬉しそうににっこりと笑った。自分が何をしでかし たのかなんて、まるで分かっちゃいやしなかっ た。 その女の耳も、ミリアと同じようにわずかに尖っていた。長くのばした髪の毛は、額の所で両 側に垂れている。ハーフエルフによく見られる猫 目はそれほどきつくなく、どっちかといえばど こか眠そうな、人間の眼に近かった。胸には簡単な金属鎧を装備し、腰には巻き付けた布を 装備 している。女の軽戦士に一般によく見られるスタイルだ。 「え?ええと、誰だったっけ?」 突然「姉さん」と言われても、ミリアの悪い頭はすぐにそんなことを思い出さない。今度はトロ い女がズルっと足を滑らせる番だった。 「酷いわ〜。あたしよ、リオーネ。姉さんのすぐ下の妹だったじゃない〜」 そんなことを言われても、ミリアにはすぐに思い出せなかった。なにしろ当年とって百五十と 少しである。いい加減に兄弟のことなんて半分忘 れかかっている。 「え?リオーネ?あんた、あのトロ臭いリオーネなの?」 二、三度首を捻って、ミリアはようやく思い出した。さすがに、すぐ下の妹などといわれたら思 い出さないわけにもいかない。 「トロ臭いだけ余計よ〜」 そうは言うものの、口調からして既に説得力が無い。 「しばらくぶりだねぇ。百年ぶり位かなぁ」 珍しい再会に、多少口元を歪めながら、ミリアは埋没していた酒ビンの山から這い出してき た。基本的に頑丈な肉体なので、当然のように怪 我はない。 「そうよね〜。姉さんがリュル市の金山を襲撃して、金鉱石を強奪して指名手配になって以来 かしら〜」 「そうか。もうそんなになるんだなあ」 恐ろしい思い出話を平然とすると、ミリアは首を捻ってゴキゴキ言わせながら、ベッドに腰を 降ろした。 「まあ、そこの椅子にでも座りなよ」 さっきまで腰掛けて、酒を収拾していた椅子をアゴでしゃくる。トロい女リオーネはよっこらしょ とばかりに腰掛けた。この女も、外見だけは若く 見えるが、ハーフ・エルフなので年令は幾つ かわかったものではない。 「本当に久しぶりね〜」 「久しぶりはいいけれどさ。いったい何の用だよ。言っておくが、金なら無いよ」 自分に用件のあるものは全て借金取りだとばかりにミリアは言ってのけた。リオーネは首を ゆっくり左右に振ると、酒ビンだらけの部屋を眺 め回した。 「いやね〜、姉さんにお金を借りるほどあたしはバカじゃないわ〜」 「ほう、言ってくれるなぁ」 ピクリ、とミリアの右コミカメに青い血管が浮き出た。この女は決して気が長くはない。乱暴で 短気が売り物のような所もある奴なので、自分 の悪口には敏感に反応する。 「それよりも〜姉さんの力が借りたいのよ〜」 気を悪くした姉など眼中に無いという風にリオーネは自分の言葉を続けた。ミリアが短気なの に反して、こっちの妹は気が長いというか鈍感で ある。 「嫌だよ。金だけじゃなくて、力も貸さないよ」 速効でミリアは妹の頼みを否定した。こういう頼み事が大抵は一文にもならないことは承知し ている。 「ちょ、ちょっと〜。聞いてくれてもいいじゃない〜。耳を貸してくれるだけでいいのに〜」 「金はないけれど、貸す耳もないね」 何も聞く耳持たないという風にミリアはそっぽをむいた。そ知らぬ顔で窓の外の風景を見やる 素振りをする。 「ひどい〜。せっかく妹がお土産持って訪ねて来たのに〜」 困った顔をすると、リオーネは背中に背負ったリュックから、一本のビンをドンと取り出すとテ ーブルの上に置いた。 「へっ、なんだ?」 音に釣られてミリアはそっちの方をむいた。そこには立派な酒ビンが一本置かれていた。緑 色の透明ガラスで作られた、縦長のウイスキービ ンである。しかもほんのりとアルコールの香 が漂ってきていた。 「ありゃ、そいつは、ひょっとして、酒かい?」 急にミリアは眼を輝かせた。嬉しそうに尖った耳がヒクヒクと動く。 「これ?アルコールよ〜」 ほとんど表情の変わらない声でリオーネが答える。 「おいおい、それなら早くいってくれなくちゃぁ。妹が困っているなら、姉として力をかさないと ね。リオーネ、なんでもネーちゃんに話してみな」 目の前に置かれたお土産により、ミリアの態度は一変した。ミリアはニコニコしながらリオー ネの側に近寄ると、机の上に置かれたビンを取っ て栓を開けて口を付けた。 「ういー、ずいぶん効く酒だなあ」 「あ…飲んじゃったの〜」 少し困ったような顔でリオーネがこの粗暴短気な姉を見上げる。 「なんだい、悪いのかい?いいじゃないか。その代わり、あんたの頼みとやらをネーちゃんが聞 いてやるからさ」 大口を開けてアルコール臭い息を吐くと、任せておけとでも言わんばかりにミリアは妹の背中 を叩いた。 「そう?じゃあね、姉さん〜。あたしと一緒にサケ退治に出掛けてよ〜」 「へ?サケ?」 少しだけ首を傾げると、ミリアは右手に持った酒ビンに眼をやった。 「こんなもん、どうやって退治するんだ?」 あまりにも頭の悪い発言が、首を傾げたミリアの口から漏れる。 「あのね〜、ジョーダンの湖に、それが泳いでいるのよ〜。凄いでっかいサケが。あたし、それ を捕まえて、薬を作りたいの〜」 「あ…なんだ。鮭のことか」 いくら馬鹿なミリアでもさすがにそこで納得した。サケ、鮭、シャケ。言うまでもなく、水中に泳 ぐ魚の一種である。 「へえ、鮭が薬になるのか。でもさ、それなら、その辺の市場に売っている奴でも十分じゃない の?」 至極もっともな意見を述べながらミリアは手に持ったお土産の酒ビンを口に運んだ。妙に頭 にキーンと来る酒である。 「それが駄目〜。ジョーダンの湖にいるサケじゃないと駄目なのよ〜。あの湖のサケじゃない と、あたしの必要とするクスリは作れないの〜」 口調は非常に遅かったが、強固な口調でリオーネは主張した。そういえば、この妹は薬の調 合が出来たということをミリアは思い出した。生 来が単純パーで、戦士としての訓練しかしてい なかったミリアと違い、リオーネは薬学、魔術、剣術と色々な分野に手を出していた。そう、出 来 はいい方だったのである。あまりにもトロイという一条項を除きさえすればだが。 「しかし、なんだね」 ミリアは引き続き酒ビンの液体を呷った。大分回ってきたのか、少しフラついて来ていた。こ んなことは珍しいことである。いつもはドラムカン 一本位の酒は平気で飲み干してしまうのだ が。 「リオーネ、あんたの剣の腕前だって相当なものだよね。それなのに、あたしの力が必要ってこ とは、そいつはよっぽどの強敵なんだろうね?」 少しだけ不安、という口調でミリアは尋ねる。リオーネは世間で言う魔法剣士というタイプに属 する。剣も魔法も両方をバランスよく使いこなす この手の人物は、世間にはそうそう転がって いない。そして、大抵が異様なほど強いのである。それが適わないとなると、いったいどんな鮭 とい うのか。 「そうなの〜。そのサケ、体長は五メートルはあるかしらね〜。あたしだけじゃ不安だから、ぜ ひ姉さんの馬鹿力が欲しいのよ〜」 またもやリオーネは口を滑らせた。というより、これはナチュラルである。単純明快馬鹿のミリ アと違い、自然にトボケてしまうのが、この魔法 剣士の泣き所なのである。 「馬鹿力とは言ってくれたもんだね。まあ、いいか。リオーネ、手伝ってあげるよ。その代わり、 これと同じ酒をもう一本用意しておいてよ」 ミリアは多少苦笑いを浮かべると、残ったアルコールを全部一息に飲み干した。僅か数分の 会話のうちに、一リットルの容量の酒ビンをミリ アは空にしていた。いい加減、とんでもない酒 豪である。 「え…いいの、姉さん〜そんなものでよかったら幾らでもあげるわ〜」 破顔一笑。にこやかにリオーネは微笑んだ。こうするとかなりの美人である。才色兼備。トロ い所だけが泣き所である。 「いやいや、なかなかいい酒だったよ。しかし、ビン一本なのに、随分強い酒だね」 汚いボサボサ頭をミリアは熱そうにかき上げた。だいぶ身体の内側からポカポカしてきてい た。物凄い上戸のミリアが酔っ払うのだから、か なり強力な酒であることは間違いない。 「酒というのかしら…まさか、姉さんがこれを飲むとは思わなかったけれど〜」 「おいおい、何いってんの。アルコールならあたしは何だって飲むさ。ところで、これ、なんていう 酒だい?」 好奇心を丸出しにしてミリアはリオーネの顔を覗き込んだ。あまり似ていない妹は、不思議そ うな顔で視線を上げるとポツリとつぶやいた。 「メチル・アルコールっていうんだけれど…本当に飲んで大丈夫だったの〜?」 そう、たしかにミリアはアルコールなら何でも飲むとはいった。しかし、これはアルコールでは あっても酒ではない。 次の瞬間、ミリアはダッシュして便所に駆け込んでいた。やがて廊下にはオエーオエーという 聞き苦しい音が響き渡っていった。 「なんか、まだ頭がグラグラしているような気がするぞ…」 翌日、メチル・アルコールを口にしたミリアは、それでも元気にジョーダンの湖を目指してい た。 「あたしも、まさか姉さんが飲むなんて思わなかったから〜」 とぼけた声のリオーネが傍らで 答える。こんな調子でも、一応心配はしているらし い。 「あんな容器に入って土産なんて言われたら、誰だって中身は酒だって思うよ」 渋い表情でミリアはブツブツ呻いた。まだ舌先にはヒリヒリした感覚が残っている。当然であ る。メチル・アルコールはホルマリン漬けや工業 用に使う、名前だけのアルコールだ。毒性は 抜群に強く、普通は飲んだら確実に死ぬ。それでもミリアが無事なのは、全ては天性の酒飲み の 肉体がそうさせているのであった。 「え〜、あたしは中身はアルコールって言っただけで、酒って言ってないよ〜」 鈍いながらもリオーネの通った反論が来る。悔しいがミリアは言い返せなかった。どちらかと いえば、そんなものを飲んだ方が恥である。いち いち言い返せば恥の上塗りとなってしまう。 「はいはい、わかったわかった。ネーちゃんが悪かったよ」 仏頂面でミリアは横を向くしかなかった。もらえるものが酒でないことが分かったなら、こんな 依頼はポイしてしまいたいところである。しかし一 度引き受けたことを断るのが容易くないの が、冒険者と呼ばれる彼らの掟でもある。 というわけで、ミリアは妹の頼みを断ることもできず、文句を垂れながらジョーダンの湖を目 指しているのであった。ミリアの住んでいる港町ガ ダルから東南の方にかけて、ドレスデン山 脈が広がっている。その山脈の一角、森に囲まれた小さな高原に、その湖はあった。昔、ジョ ーダン という偏屈な魔法使いの別荘があったので、そんな名前の付いた小さな湖である。 ミリアとリオーネはすっかり旅支度を整え、そのドレスデン山脈を歩いていた。リオーネの方 は宿にあらわれた時と同じ、簡素なプレートに幅 広の長剣という装備だった。眠くてトロそうに 見えても、これでも魔法剣士としては十分な腕前なのである。 そしてミリアといえば、ボロボロになった革製の胸当て鎧と、これまた錆びてボロボロの両手 剣という情けない装備だった。金属の鎧はとっく に質屋で流れている。しかも裸足という、どう しようもなく貧乏な姿でミリアは突き進んでいた。 そんな格好でも、二人はズカズカとドレスデン山脈を突き進んでいた。冒険者と呼ばれる連 中の歩く速度は通常人より遥かに早い。わずかに 山中に留まること一泊で、翌日には二人は ジョーダンの湖に到着していた。 「おっ、湖だ。やっと来たぞ」 別段苦労もしていないが、何故かミリアは両手を上げて叫んだ。かといってたいして嬉しいわ けでもなかったが。 青々と茂る杉の木立の向こう側に、透き通った水を湛えた湖が見える。湖の形が一目で見 渡せる程度だから、ちょっと大きめの池といっても いいくらいだ。 「おっ、魚か?」 その湖の中央を何やら巨大な物体が泳いでいた。体長はゆうに五メートルはあるだろうか。 黒光りする背中が水面を切って、湖の上に大き な波紋を広げていた。 「あれよ〜、姉さん。あたしが必要とするサケは〜。あのでっかいサケを捕らえるために、姉さ んの力が必要なのよ〜」 緊迫感の無い声でリオーネはいった。あまり感動を覚えずにミリアは湖を見つめていた。いく ら巨大な魚とはいえ、この自堕落戦士にはそれ ほどの強敵とは思えない。いくら大酒飲みで パーとはいえ、実際ミリアは強い。 「ふふん、あの程度の鮭なら任せておきなって。あたしはドラゴンでも十メートルクラスまでなら 退治できるんだ。あんな鮭くらいたいしたことない よ」 自信満々という風にミリアは言った。嘘ではない。十メートルくらいのドラゴンまでなら、お手 軽と退治できる。本当ならドラゴンバスターとして 尊敬されてもいい存在だが、実際はバカにさ れている。なんてアンバランスな人生である。 「そう?でも気をつけてね〜。なにしろあいつはアルコールブレスを吐いてくるの〜。あたしはあ まりお酒が強くないから、何度も二日酔いになっ て負けているんだけれど〜」 「は?」 妹のわけのわからない言葉にミリアは己れが耳を疑った。怪訝な表情で耳の穴をホジくる。 ボロボロと汚い耳あかを地面に落とした後、ミリア はもう一度という風に、眠そうなリオーネの 顔を覗き込んだ。 「鮭がブレス?なんだい、そりゃ。そんなもんを吐くとは変わった鮭だな」 一部のモンスターが持つ高圧の吐息。それは毒や炎、冷気とさまざまな種類がある。それら を総称してブレスと呼ぶ。限られた高級モンスタ ーが使う、極めて危険な攻撃方法である。 「たかが魚程度がブレスを吐くなんて、あたしは聞いたことがないぞ」 今までの経験からミリアは首を傾げていた。魚は水中の生きものである。当然呼吸もエラ呼 吸だ。そんな生物が息を吐くなんて聞いたことも ない。しかもそれがアルコールならなおさらで ある。 「魚〜?何いってるの、姉さん〜」 そこでなぜかリオーネは不思議そうに首を捻った。トロンとした眠たそうな眼が意味ありげに ミリアの顔を見つめた。 「は?何いってんの、あんた。あれって鮭でしょうが」 こっちもよくわからず、ミリアは湖を泳ぐ巨大な物体を指差した。水の澄んだ秋の湖を、気持 ちよさそうに円筒の物体が身体をくねらせてい る。 「そう、サケよ〜」 「じゃあ、なんだい。鮭は魚じゃないとでもいうのかい」 何を言っているんだという風に、ミリアは猫目を寄せると、女にしてはボサボサすぎる頭をボ リボリとかきむしった。鮭、シャケ、サーモンとも言 う。朝食によく登場する赤い塩漬けの切り 身。それはどう考えても魚類である。 「シャケは魚だけれど〜、サケはアルコールよ〜。魚じゃないわ〜」 「はあ?あんた、いったい何わけのわからないことを言ってるんだ?」 いい加減にミリアはこの押問答にイライラしてきた。戦士などという荒っぽい仕事をしているこ とからもわかるとおり、ミリアは非常に短気であ る。そして難しいことが嫌いである。 「鮭のどこが魚じゃないと言うんだい!」 半分怒り混じりの大声を発すると、ミリアはガシッとリオーネの手を掴んだ。 「あ〜れ〜」 「いいから来いっ!」 まるで誘拐のようにリオーネの手を取って引きずると、ミリアは森を抜けて湖畔に足取りを進 めた。秋の弱まった太陽が、それでも心地よく降 り注いでいる。透き通った美しい湖。その中 を大きな魚らしきものがバシャバシャと泳いでいる。 「あれのどこが魚じゃないというん…だ?」 泳いでいる大きな魚をミリアは指差した。そして絶句した。最初はそれを見せ付けて、何か魚 じゃないのかとリオーネを問い詰めるつもりだっ た。 「ほら〜、やっぱり魚じゃないわ〜」 少しだけ勝ち誇ったリオーネの声が横でする。ミリアはまさに開いた口が塞がらなかった。そ う、そこにいたのは本当に魚ではなかった。 「さ、酒ビン?」 目の前の光景を確かめるかのように、ミリアは震える声でリオーネの方を向いた。このトロい 妹は、割と真面目な顔でゆっくりと首を縦に振っ た。 そう、湖で泳いでいたのは、大きさ五メートルほどもあろうという、巨大なウイスキーのビンだ ったのである。 「しかも黒ラベルだ…」 半分呆れたように言うミリアだったが、さすがにその眼は裏返っていた。 「いったい何なんだ、あの黒ラベルは!」 唖然、呆然、愕然。その三つが通り過ぎた後、当然のようにミリアは妹に向かって轟然と叫ん だ。 「え〜、だから、サケを退治したいって、最初に言ったじゃない〜」 気怠そうに聞こえるリオーネの声が飛ぶ。うっ、となってミリアは口篭もった。そう、確かにサ ケを退治に行くとミリアは思い込んでいたのであ る。しかし、まさかそれが酒ビンのこととなど、 まるで考えていなかったことだ。 「そ…そうだけれどさ…リオーネ…ねーちゃんはなんだか頭が痛くなって来たぞ…」 信じられない光景を目のあたりにしてミリアは頭を抱えた。湖では酒ビンが楽しそうに泳いで いる。時折ボトルキャップが水面に突き出る。ど うやらその部分が尻尾になっているらしい。 「あら〜頭痛?きっとまだメチルアルコールが残っているのね〜」 とぼけているにしてはあまりにもナチュラルなボケがミリアに入る。それがますます頭痛の種 となることも気が付かずに。「いや…なんかもう酔 っ払いたい気分だよ。まさか酒ビンが泳いで いるなんて考えなかったからさ…」 ミリアはなんとかしてこの非常識な場面を受け入れようとした。静かな湖畔。そこに泳ぐ黒ラ ベルのウイスキービン。どう考えてもまともな光景 ではない。 「でも〜、この辺ではこんなのは常識よ〜。この湖の周辺は、魔術師ジョーダンのシャレ魔法 がかかっているの〜」 「シャレ魔法?」 魔法に関しては全然知識の無いミリアが聞き返す。 「そう〜、全てシャレになるって呪文なの〜。ほら〜そこにも〜」 少し笑いながらリオーネは地面に咲いている小さなハナを指差した。 「へっ?」 またもやミリアは眼を丸くする。そうであった。それは確かにハナであった。葉っぱに茎。そし てツボミ。そこまでは普通の植物と一緒である。 しかし花となって開いている部分には、鼻毛 がボウボウに生えた、人間の鼻のようなものが咲いているのであった。 「これがここのハナなのよ〜」 特に動揺した風もなくリオーネが説明する。魔術師ジョーダンは、今から百年ほど前の魔術 師である。色々と奇抜な魔法を研究していた彼は マジック・ジョーダンと呼ばれたほど、不思議 な魔法を使いこなした。その魔術師も二十年前に亡くなり、彼が住んでいた湖畔の別荘も既に 朽 ちている。しかし、彼が生前にかけた魔法はまだ続いていた。その魔法は、全てのものをこ じつけるという、とんでもない種類のものだった。 というわけで、湖では酒が泳ぎ、湖畔には鼻が咲いているのである。ちなみに朽ちた別荘の 側に立っている木には、柿ならず牡蛎がびっしり と実っていた。 「どんな場所だ…ここは…」 あまりのことに呆れ果てたミリアだったが、その頃にはようやく自分を取り戻していた。とうい うより、なんとかしなければならない現実にようや く気が付き始めていた。言えることはただ一 つ。あの酒ビンを倒さなければいかんということである。 「あたしはあの酒ビン、黒きジョニーを倒して、ビンの体液を手に入れなくてはならないの〜。あ の酒ビンの液体を使えば、あたしの必要とする クスリが完成するのよ〜」 腕組みして困った顔をしているミリアの心情を少しも思いやらずにリオーネが続けた。同じ姉 妹だけあって、無神経というところは共通してい る。 「あの酒ビンを倒すのか…」 眉を寄せて口をしかめたままで、ミリアは何度か首を捻った。あれがただの魚だったら、倒す のは簡単である。湖に潜ってバトルすればよ い。しかし今度の相手はわけのわからないバケ モノである。いったいどうやって倒せばよいのだろうか。 「姉さん、頑張って〜。あたしは姉さんの力を信じているから〜」 無責任と無神経にリオーネの声援が飛ぶ。嫌な顔をしてミリアはこの妹を睨み付けた。 「おい、いったいあれは、どんな生きものだよ?」 納得がいかないという口調でミリアは酒ビンを指差した。秋の光の中で、酒ビンは楽しそうに 湖面を跳ねている。 「どんなって〜、酒ビンよ〜」 「ええい、そんなことは聞いてない!あたしが聞きたいのは、あの酒ビンは、どんな行動を取る かってことだ!」 トロい妹の返答にイラついたミリアが怒鳴る。昔からそうだった。どうもこの妹ととはテンポが 合わない。せっかちのミリア。のほほんとしたリオ ーネ。対照的な姉妹だったが、なぜか勉強 はリオーネの方が遥かに出来ていた。 「どんな行動〜?見ていればわかるわ〜」 「ふうん?」 疑わしそうに言って、ミリアは巨大な酒ビンに視線を落とした。酒ビンはまるで魚のように泳 いでいた。注ぎ口にはまった赤いボトルキャップが どうやら尻尾の役割を果たしているらしく、 それを動かして酒ビンは進んでいる。 ブォォォォー 不意に楽器がかき鳴らされるような音がした。酒ビンの、そう、魚で言うならちょうど背中の部 分から、細かい水の粒子が吹き出てきたのであ る。湖の表面にたちまち濃い、茶色の霧が広 がっていった。 「まずいわ〜、アルコールブレスよ〜」 緊迫感の無い声でリオーネは言うと、胸元から取り出したハンカチで口と鼻を押さえた。ミリ アはなんのことか分からずに突っ立っていた。や がて霧が自分の所まで広がっていった時、そ れが上物のウイスキーであるということがわかった。 「おっ、黒いジョニー」 酒場でも逸品とされるウイスキーの名前を述べると、ミリアは勢いよく自分を取り巻く霧を吸 い込んだ。換気扇が煙を飲み込むように、アルコ ールの粒子はミリアの口の中に吸い込まれ ていった。 「くー、美味いねえ」 僅か一瞬の出来事だった。ポンプよろしく、辺りに散布されたウイスキーをミリアは一度に吸 い尽くしていた。 「ね、姉さん〜凄いわ〜」 感心しているのか分からないほど間延びしたリオーネの声だったが、どうやら素直に驚いて いるらしい。 「なあに、この程度なら楽勝だよ。しかし、背中から霧を吹くとは、まるでクジラだね」 酒ビンの丸っこくて黒い外見。背中から霧を吹く姿は、確かにクジラに似てなくもない。 「おっ!そうだ!」 途端、ミリアの頭で回路が繋がった。思い出したようにポンと両手を叩く。普段使わない納豆 頭が珍しく活動を始めていた。 「へっへっへ、リオーネ。ネーちゃんはいいことを思いついちまったぞ。奴がクジラなら、きっと エサを必要とするに違いない」 「姉さん〜、あれはクジラじゃなくて酒ビンなんだってば〜」 割と冷静にリオーネは状況を判断 した。少し横長の眼が顔色一つ変えずにミリアを 見つめる。 「ええい、いちいちうるさいな!ようは、あれがクジラに似ているってことだ!クジラに似ている ならなんとかなるってことだ!」 「なんとかって〜?」 「はっはっは、まあ、見てなよ」 太めの形の良い眉毛を少しだけ歪めたリオーネに対し、ミリアは腕組みをしてカラカラと笑っ た。そして次に、ミリアは再度森の中へ歩きだし ていた。 「姉さん、何を〜?」 首を左右に振って不思議そうな顔をするリオーネを振り向かず、ミリアは木々の間に姿を消 した。しばらくすると、何やらコーン、コーンとい う、木を切り倒そうとしている音が聞こえてきた のだった。 数分後、見事に切り倒した杉の大木を抱えてミリアは森から出てきた。両手で一抱えほども ある幹の高さである。 「ちょっと〜、こんな丸太、どうするの〜」 「ああ、こいつはサオにするのさ。リオーネ、ロープを貸してよ」 「うん〜、いいけれど〜」 リオーネがゴソゴソと背負い袋からロープを出しているのを横目でみながら、ミリアはグレート ソードで丸太の枝落としを始めた。 「えいやっ!」 気合い一閃と共に両手剣を振り降ろす。バキバキと音がして、丸太に残っていた小枝や葉っ ぱが打ち倒されていく。 「ふう、こんなものか」 うっすらと額に汗をにじませながら、ミリアは息を継いだ。十メートルはありそうな、大きな杉 の丸太が出来上がる。 「はい、姉さん〜。ロープはこれよ〜」 「よし、これでばっちりだ」 ミリアはリオーネから手渡されたロープを手に取ると、それを丸太の先端の部分に結びつけ 始めた。 「ちょっと、何するの〜まさかこれで酒ビンをひっかけるの〜?」 そんなことは無理とでも言いたそうなリオーネに向かってミリアは歯をむいて笑った。そしてグ ッと親指を立てる。そうだ、と指で合図していた。 「そんなの無理よ〜。だってエサも無いし〜」 「いや、エサはあるさ」 「え〜、どこに〜?」 「ほら、そこに」 ニヤリと笑うとミリアはリオーネを指差した。 「え〜?どこよ〜」 まだよく事態の分からないリオーネが顔を左右に振り回す。「さて、エサを取り付けるぞっ!」 一声叫ぶと、ミリアはロープを掴んで、いきなりリオーネをグルグル巻きにしはじめた。抵抗 の余地もなく、あっという間にリオーネは縛られて しまう。 「ちょっ、ちょっと〜」 やけに間延びしているが、これでも焦燥に駆られたリオーネの叫び声が響く。 「許せ、妹よ」 あまり悪怯れずにミリアは言うと、ロープでス巻きにしたリオーネを、ドンブラコとばかりに湖 に放りこんだ。 「いや〜、姉さん、酷いわ〜」 泡立つ波間でリオーネがもがく。辛うじて自由になる足で水を掻いて、必死に浮力を保ってい る。 「よいしょっと。ポイントはバッチリだな」 泳ぐ巨大酒ビンの近くにリオーネが落ちたのを見ると、ミリアは地面に置かれた丸太を両手 で抱えた。 「それっ」 少し腕に力を入れると、十メートルもの丸太がやすやすと持ち上がった。女にあるまじき怪力 である。いや、普通の男でもこうはいかない。こ ういう怪力がある反面、魔法の才能はまるで ゼロ。論理も生活観念もゼロである。 「おーい、エサ。頑張ってクジラを寄せ付けてくれよ」 「ま、待って〜。ゴボッ…そんなのないわよ〜」 時折波間でブクブクとリオーネの発する気泡が立つ。さすがに浮いたり沈んだりしはじめた。 酷いことに、ミリアは平然とそれを見つめてい た。そう、基本的にこういう奴である。目的のた めには手段は選ばない。というより、頭が悪いので、ロクな手段を考え付かないのである。 「だいたい〜、クジラがこんなもので釣れるわけないじゃない〜」 半分溺れかかりながら、必死の正論をリオーネは叫ぶ。そうである。これではただの魚釣り だ。クジラが釣りで取れるという話はきかない。 「だって、本にはこう書いてあったぞ。クジラは釣れるんだって」 「どんな本よ〜」 「絵本。なんかクジラが釣られる絵が書いてあった奴。昔、かーちゃんが読んでくれたことがあ った」 いけしゃあしゃあとミリアは言った。こいつが読んだ本など所詮その程度である。 「馬鹿ぁ〜、姉さんの馬鹿ぁ〜」 悲痛な叫びを残して、リオーネは波間に沈んだ。重装備ではないが、彼女は金属の胸当て鎧 を付けていた。今まではバタ足で必死に泳いで いたが、ミリアの馬鹿な答えによって、一度に 気力が尽きてしまった。 「ガボッ…ゴボゴボッ…」 激しい泡を残して、ドプンとリオーネの身体は沈んでいく。「あっ、マズイ!」 あわててミリアはロープを引っ張った。こんなこともあろうかと、しっかりとロープは大木に結 わえ付けてある。釣り竿をひっぱるように、大木を しゃくりあげてリオーネを水面に引っ張ろう とする。 ブチッ! その時、そんな鈍い音がしていた。 「あれ?」 サーっとミリアの顔が青ざめる。と、スルスルとロープが湖に飲み込まれていった。 「げえっ!」 口をあんぐりと開けてミリアは叫んだ。丸太に結わえ付けた部分のロープがプッツリと切れて しまっている。ほどけたらいけないと思ってしっか りと結んだが、肝腎のロープの耐久度の方 がもたなかったらしい。 沈んでいくリオーネと一緒に、ロープは水中に消えた。後には何もなかったかのようになって しまった。ただ、湖で楽しげに泳ぐ酒ビンだけが 残っている。 「はあ…」 渋い顔をして唇を突き出すと、ミリアはため息をついで水面に視線をやった。どうやら、どうし ようもない事態が発生したということは理解でき た。リオーネは見事に水没したのである。 しかし、誰かに助けを呼ぶこともままならない。こんな僻地に来るのはミリア姉妹くらいなもの だ。それに、リオーネが溺れてしまったからに は、グズグスしているわけにもいかない。「くそ う!結局身体を使うハメになるのか!面倒臭いから嫌だったのにっ」 いかにも嫌だという風に叫ぶと、ミリアは両手剣を背中に背負ってザンブラと湖に飛び込ん だ。 水面にすさまじい水音と、一筋の航跡が浮かんでいた。波を掻き分け、平泳ぎで突入する謎 の物体。そう、それはミリアである。 海中を突き進むマグロのように弾丸となり、ミリアは湖の中央に進んでいた。軽戦士であるミ リアの装備は簡素な皮の胸当て鎧だけである。 軽い戦士というのは、財布の中身が軽いとい う意味もあるが。 「リオーネっ!」 あっという間に沈没地点にまで辿り着くと、ミリアは両手で水中を引っ掻き回した。すぐにロー プの切れ端が手に引っ掛かる。それを力任せに 引っ張ると、少し青ざめた顔のリオーネが水 面に浮かんできた。 「おい、大丈夫かい?」 「げほっ…ごほっ…」 足だけの立ち泳ぎをしながら、リオーネは強かに水を吐く。そうやっている間に、ミリアはス巻 きになっているリオーネのロープを切り離した。 切れ味の悪いグレートソードだが、縄を切り離 すくらいはできる。 「とりあえず、これでいいだろう。あんたはとっとと岸まで泳ぎなよ」 鎖で連結されている胸当て鎧も外し、なんとか自由になったリオーネを見やりながらぶっきら ぼうにミリアが言う。 「ごほっ…ね、姉さんはどうするの〜」 リオーネはようやく声が出るようになった。全身水浸しで唇は少し青い。 「ここまで来たらどうしようもないよ。もう、あの酒ビンをブッ潰すまでだ」 仕方がないという風にミリアはつぶやいた。その声にでも反応したのだろうか。酒ビンが急に 頭をこっちに向けた。そう、ビンの底に当たる部 分を二人の方に向けて、酒ビンが突っ込んで きたのである。 「おっ、来たね。最初からそうやっておけば手間が省けたのに」 忌ま忌ましそうに言うと、ミリアは立ち泳ぎのままで、背中に背負った両手剣を身体の正面に 構えた。 「ちょっと〜姉さん。ビンを壊したら駄目〜」 すぐ横でリオーネも片手剣を持ちながら立ち泳ぎになっていた。一度沈んだために、さすがに 声には疲れが見えている。 「な、なんだよ、それは」 「ビンを壊したら、ビンの中の液体までパアになっちゃうわ〜。パアは姉さんの頭だけでもうい いのよ〜」 あわててリオーネがミリアと酒ビンの間に割って入った。しかし相変わらず酷い発言である。 「なんだとっ!誰がパアだっ」 目の前の酒ビンの存在をあっさり忘れて、ミリアはリオーネに掴み掛かった。敵前逃亡なら ぬ敵前乱闘である。もちろん、その隙を酒ビンは 見逃さなかった。 水面に大きな波動が立ったかと思うと、酒ビンが一度に突進してきた。津波とまではいかな いが、巨大な水の壁が二人を襲う。 「ぐえっ!」 「きゃあああ〜」 一方は下品な叫び。一方はトロくて緊迫感の無い叫び声を発した。水が渦巻き、強力な水流 が二人を飲みこんだ。 「あ〜れ〜」 リオーネは水面の上を流されていた。重い装備がなくなった彼女の身体は流れによって波に 押し流される。そして、波と一緒に岸辺に辿り着 き、一瞬宙を待って、波打ち際の地面に落下 する。 「ああ〜」 そんな一声を挙げると、リオーネは地面にうつぶせになってピクリともしなくなった。 (…なんて運の無い奴だよ…) 強力なパワーで波に逆らって泳ぎながら、ミリアは事態の一部始終を見つめていた。昔、酔 っ払って下水に流されたこともある。この程度の 波なら平気で掻き分けられる。 「え?」 ふと気が付くと、ミリアの側に大きな黒い物体が近付いていた。そう、いうまでもなく、巨大な 酒ビンである。 酒ビンはその巨体を一瞬沈めた。かと思うと、大きくジャンプして、ビンの底でミリアの脳天を 殴り付けた。ゴン!と鈍い音がする。 「痛っ!」 思わずミリアは顔を歪めて頭を押さえた。しかし、さすがは石頭である。頭には傷一つつかな かった。それでもダメージそのものは大きい。ガ ンガンとした痛みがカラッポの脳内を走る。 「ゴォ!」 その時酒ビンは再度背中からアルコールの蒸気を吹き出した。周囲がたちまち茶色がかっ た煙に包まれる。それは一種の煙幕となり、視界 はたちまち落ちていく。 「くっ、どこだっ?」 予測もしなかった短時間のうちに視界を曇らされ、ミリアはあわてて周囲を見回した。泳ぎな がらではこの霧を吸い込むわけにもいかない。こ の女は幸いおかしな位に酒には強いので酔 っ払うことはない。しかし、普通の人間なら酔って溺れてしまう。 (そうはいくかっ) 奥歯を噛み締めて身構えた時、またもや水が激しく跳ねる音がした。 「ぎょえっ!」 再びゴチンと鈍い音がして、ミリアはもんどりうって引っ繰り返った。またもや酒ビンの頭突き が前頭部を直撃したのである。 「あたたた…」 今度はさすがに効いていた。思わずミリアは手に持っていた剣を落としてしまった。水中に金 属が落ちてしまうと、もう拾う事は諦めなければ ならない。両手剣は僅かな泡を挙げて湖底に 沈んでいく。 「くっ…あたしのなけなしの金属製品を…」 沈んでいく剣を恨めしそうに見送りながら、ミリアは唇を噛み締めた。鍛冶屋のオヤジが放っ ておいて錆びさせた失敗作を、無理に銅貨三枚 で譲り受けたのが今の剣だった。錆びに錆び ていたので、豆を煮るときの錆び釘代わりにと大活躍の剣であった。しかしそんな剣も今は無 い。 湖底へと消滅である。 「許さん!てめえ、ブッ壊すぞ!」 なおも執拗な攻撃を続けようとする酒ビンに向かって、ミリアは両手のコブシを突き出した。 戦士なので素手の格闘もできる。特にミリアのパ ンチを食らうと痛い。 その心からの咆哮が、静かな湖畔に響き渡る。それは水辺で倒れているリオーネの鼓膜に も届いていた。 「駄目よ〜姉さん。壊しては駄目〜」 突然むっくりと起き上がると、リオーネはそう叫んだ。そしてまたパタンと地面に倒れた。あと はうわごとのように「駄目〜」と呻き続ける。かな り器用な体質である。 「わかったわい!くそっ!今日は最悪だ!剣はなくなる、頭は痛い。安酒を飲んでも、こんなこ とにはならないぞっ!」 「駄目〜」と言うリオーネの呻きというか叫びを背後に受けながら、仏頂面でミリアは酒ビンに 突進した。頭を下げると、水中に全体を沈め、そ こでゆっくりと眼を開く。 湖の中の透明度は抜群だった。少し水を掻き分けて、ミリアは自身の身体を水深の深い所 に沈めた。そしてゆっくりと上を見上げる。 水面では、相手を失った酒ビンがウロウロしていた。ちょうど尻尾に当たる部分のボトルキャ ップがピチピチと動いている。 (開栓してやるっ!) 不意にミリアは水面目掛けて急浮上した。飛び上がる魚のように大きく伸び上がり、まだうっ すらと霧のかかる湖面に顔を挙げる。 「ドンピシャだっ」 その目の前には、赤いボトルキャップがあった。ウイスキーのビンを閉めている、回転式のあ れである。 間髪入れず、ミリアはボトルキャツプを掴んで捻った。シュッと小さな音がして栓がゆるむ。 「このサケめ!全部飲み干してやる!」 ほとんどヤケクソになって、ミリアは酒ビンの口に顔を突っ込んだ。そう、突っ込んだのであ る。五メートルもの酒ビンの注ぎ口だから、当然そ の直径は五十センチほどもある巨大なもの だ。開いたビンの口からは茶色の液体がドボドボと流れ始めた。 「おっ、極上のウイスキーだ」 最初の一舐めでミリアはあっりと液体の正体を見破った。黒いジョニーと呼ばれるタイプの、 上質なウイスキーである。 「いっただきまーす」 合掌すると、ミリアは酒ビンの注ぎ口を掴んだ。ボトルキャップを開けられたとはいえ、酒ビン はまだピチピチと跳ねている。しかしミリアの怪 力に捕まれて逃げることはできない。そんな不 気味な体勢のまま、ミリアはゴクゴクと酒ビンの体液を飲み干していった。相変わらず下半身 は 立ち泳ぎの姿勢である。器用といえば器用な話だ。 「かぁっ、やっぱりマトモなウイスキーは美味いねっ」 そして激闘五分と三十五秒が経過した酒ビンは見事にカラッポとなり、今はみじめにプカプカ と水面に浮いていた。いったいどれだけの量が あったのだろうか。ドラムカン十数本はあった はずだが。 「これでサカナでもあったらもっとよかったのになぁ」 そんな馬鹿なことを言いながら、戦いに勝利したミリアは酒臭い息を吐くと、悲しく浮かんでい るカラッポの酒ビンにケリを入れた。ビシッ、と音 がしてカラッポのビンにヒビが入る。そしてそ の悲惨な酒ビンは、ポンポン水面を飛び跳ねながら、湖畔で突っ伏しているリオーネの側へと 飛ん でいった。 「酷いわ〜姉さん〜これじゃあサケの体液が手に入らないわ〜」 波打ち際に打ち寄せられたカラッポの酒ビン。それを覗き込んで、リオーネはブツブツと文句 を漏らしていた。酒ビンの中身はすっかりミリア に飲み干され、加えて先程のケリで、大きなひ び割れもはいっている。 「うるさいな。酷いのはこっちだよ。なけなしの剣はなくすし、苦労して倒しても酒が飲めただけ だしさ」 執拗に責め立てる妹に対してミリアが答える。実際、たいした損害だった。頭は二発殴られる わ、唯一の武器の剣は無くすわで、ロクなもの ではなかった。たとえ酒が飲めても、たいした 見返りにはなっていない。 「そんなこと〜どうでもいいわ〜。約束が違うわよ〜。サケの体液がないと、酒に強くなるクスリ ができないのよ〜」 イヤイヤをするようにリオーネは眼を閉じて首を大きく振り回す。えっ?とばかりにミリアは顔 をこの妹の方にやった。 「おい、ちょっと待て。あの酒ビンの中身はどう考えても酒でしかなかったぞ。それから、酒が強 くなるクスリを造るとはどういうことだい?」 おかしなものを感じてミリアはリオーネを見やった。少なくとも、飲んだかぎりでは、あれは間 違いなくただのウイスキーである。それ以上、そ れ以下のなにものでもない。 「だってえ〜、本に書いてあったわ〜。酒に弱いものが、毎日少しずつサケの体液を飲めば、 酒に強くなるって〜」 「はあ?」 なにか不可解なものを感じてミリアは首をかしげだ。確かに、酒を毎日少しずつ飲めば、次 第に酒への耐性は強くなっていく。毒に対する抵 抗力が付くと同じようなものである。しかしそ れはどんな酒でもよく、今回のような、泳ぐ酒ビンでないと駄目というわけではない。 「ほら、ここに書いてある〜」 ゴソゴソとリオーネは背負い袋から一冊の本を取り出した。そしてその一ページを広げてミリ アの前に置く。 「ほら、このところ〜」 「おい、字が汚くて解らないよ」 本にはミミズののたくった字が並んでいた。しかしこれは汚いわけでなく、魔法語という種類で ある。 「こう書いてあるの〜『サケビンの中身を毎日飲めば、酒に対する抵抗力は上がる』って〜。こ んな素晴らしい液体が手に入らないのは悲しい わ〜」 さも残念、という風にリオーネは肩を落とす。ミリアはそれを呆れ半分で見やりながら、ポツリ と口を開いた。 「あのさ…リオーネ。酒っていうのはさ…毎日飲んでいれば強くなるものだってば」 半分呆れたという風に、ミリアが冷ややかな眼でリオーネを見下ろす。 「え〜。そうなの?知らなかったわ〜」 いまさら気が付いたという風にリオーネは眼を丸くする。 「じゃあ〜さっそく今日から飲むことにするわ〜。酒が弱いって言われるのが嫌だったから強く なるクスリが欲しかったんだけれど〜」 リオーネは晴れ晴れとした顔でそういった。いや、何のことはない。泳ぐ酒ビンの中身も結局 は酒である。毎日少しずつ飲んでいれば、強くは なっていく。確かに、酒が強くなるクスリでは ある。 「リオーネ…あんた、馬鹿だよ…」 馬鹿なミリアもガックリとして肩を落とした。所詮この姉妹の違いは天然にボケているか短気 かの違いである。馬鹿なことには二人とも変わり がなかったらしい。 こうして無駄な酒ビン退治は終わりを告げた。まったくもって、一文の得にもならなかった。ガ ダルの町の人は、このくだらない戦いを「バトル・ サケ」と後世に伝え、今もって語りぐさにして いるというそうな。 (おしまい) |