「おい、いったい、セイネはどこに消えたんだ」 場所は変わって貧乏な宿屋の一室。月金貨六枚で借りている、ミリアの安下宿である。板張 りの床に、ベッドとテーブルがあるだけのどうしようもない殺風景な部屋。この恐るべき貧乏な 空間に、哀れな少年は引きずり込まれていた。 「う…ぐすっ…」 じわりと少年の顔がゆがみ、目の端に涙が浮かぶ。 「怖いよ…」 肩をすくめ、身を小さくして少年は涙声で呟いた。一部のマニアにはたまらん展開だが、この 無神経なハーフエルフにはそういう少年の格好も気にならない。 「ああもう!泣くな!」 ドン、とテーブルを叩いてミリアはがなりたてた。 「うわぁぁぁ、ウサギさんが怒ったぁ」 命令をまるで無視して、少年は眼を細くして泣きじゃくり始める。 「だ、駄目だこりゃ…」 まるで手に負えない少年の態度に、ミリアはとうとうサジを投げた。性格が性格だからしょう がないというのもある。モンスター退治は得意な分野だが、少年との対話はまるで苦手であ る。 「よし、拙者が代わろう」 代わってゲンブがここぞとばかり、例のウサギの着ぐるみ姿で顔を出す。 「うわぁ、ウサギさん、怖い!」 たちまち、少年の泣き声のトーンが上がった。ナマズヒゲの中年がウサギの着ぐるみを着て いる姿は、確かに怖い。 「ゲンブ、そんな着ぐるみなんか、いつまでも着てるんじゃないよ。いい加減にクソ熱いし、とっ とと脱いだ方がいいんじゃないの?」 バニースーツのままで窓枠に腰掛け、扇で顔を仰ぎながらミリアが息を継いだ。安普請の宿 屋の三階は、初夏と言えどもたいへんな熱気が立ちこめ始めている。額にじっとりと汗がにじ んできている。 「そうだのう」 ゲンブは同意すると、モコモコとした着ぐるみを脱いで軍服姿になった。カーキ色のシャツに 軍用ズボン。腰に下げた日本刀は、ジャポネ帝国の軍人であるサムライの標準装備である。 「ほら、これで拙者はウサギではなくなったぞ。坊やよ、拙者にそのウサギとやらの行き先を話 してはもらえぬか?」 汗だくの軍服姿で腰をかがめ、ゲンブは少年に語りかけた。声のトーンは優しかったが、近 づけた中年のナマズヒゲはかなり不気味である。 「うわぁぁ!軍服のウサギ怖い!」 「な、なぜ泣く」 「軍服のウサギ、怖いよ!」 せっかく着ぐるみを脱いだものの、少年のおびえ方は益々激しくなった。汚い板張りの床に座 り込み、両足をルの字に折り曲げた体制で、必死に上半身を揺すって少年は抵抗する。 「ええい、軍服も駄目なら脱いでやる!」 業を煮やしたゲンブはあっさりと軍服を脱いで下着一枚になった。彼の股間をガードするひら ひらの布は、フンドシイッチョウと呼ばれるサムライの装備である。 「どうだ、これで!」 少年の前でゲンブは両手を広げ、自身の肉体を見せつけるポーズを取った。腐ってもサムラ イだから肉体はマッチョである。もちろん、そんな暑苦しいものを見せつけられて少年が泣きや むわけもない。 「うわぁ!怖い、怖いよ!」 「な、なに、これでも駄目か。まさか、坊や、拙者に素っ裸になれというのか!」 ものすごい拡大解釈をしながらも、ゲンブは自分のフンドシのひもに手をかけようとする。 「ええい、そんな汚いモノ、見せるんじゃない!」 間一髪。ボケッと乾いた音がして、ゲンブは地面に突っ伏した。ミリアのパンチが後頭部に炸 裂したのである。 「何を考えているんだ、こいつは…」 知的なのか変態なのかよくわからないサムライのケツをブーツのかかとでグリグリと踏みつ けながら、ミリアはなおもおびえる少年に目をやった。 「おい、変態は退治したからもう泣くなってば」 「あ、ありがとう、ウサギさん」 「あたしはウサギじゃなくて、ミリアだ」 「ミリアさん、ありがとう。ブーツを履いていたから、軍服ウサギさんの仲間と思っていたけれ ど、本当はいい人なんだ」 「いやっはは、照れるなぁ」 猫目を細くしてミリアは後ろ頭に手を回した。照れた時の癖である。 「なるほど、わかったぞ!」 ミリアの足の下でケツをグリグリ踏まれていたゲンブが不意に大きな声を挙げた。ビクッとそ の場にいる二人が身を引く。その隙を突いてゲンブは素早く起きあがり、床にあぐらを掻いた。 「なんのことかと思っていたが、軍服ウサギとはエスナ・デ・リ・ホーゲンドープのことだ」 「エスナが軍服ウサギ?」 よく解っていない顔でミリアが首を傾げる。 「うむ、そうだ。まず、耳が長い。したがってウサギだ」 かなり強引な推理をゲンブは堂々と述べた。しかし、この場合当てはまっているのが慧眼で 怖い。 「その少年、貴殿のブーツを見て怯えた。拙者の軍服を見ても怯えた。耳が長くて軍服を着て、 ブーツを履いている者はエスナ殿しか考えられん。ひょっとしたら、この少年、一度エスナ殿に 捕まって拷問でも受けたのやもしれん」 ゲンブは朗々と己が推理を述べ立てた。変態なのか知的なのかよくわからないが、ゲンブの 頭脳は並ではない。もちろん、ミリアだって並ではなくて並以下だが。 「なるほど!」 「ひょっとしたら、貴殿の妹御というのは、拷問を受けていたこの少年を放っておけなくて助けた のかもしれんな」 顎に手を当て、感慨深そうな顔でゲンブは幾度もうなずいた。一見すると格好よさそうに見え るが、フンドシイッチョウでそんな真面目な顔をされても間抜けなだけである。 「そしてもう一つ、拙者は大事なことに気が付いた」 「な、なんだよ。教えてくれよ」 猫目を大きくしてちょっと驚きの表情を作り、やや期待も込めた視線でミリアはゲンブの顔を のぞき込んだ。ゲンブは口元にかすかな笑いを浮かべて次の言葉を発した。 「ブーツでケツを踏まれると大変気持ちがいいことがわかった」 「うりゃぁ!死ね!このド変態がぁ!なにが大事な発見だ!」 殴る、蹴る、叩く。ほとんど原型をとどめないほどに、ミリアはゲンブをさんざんブチのめした。 「どうだ!これでも食らえ!」 半死半生になって喘いでいるゲンブの頭に向かって、ミリアは思い切りブーツを踏み下ろし た。グシャッと鈍い音がして、汚い汁が床に飛び散る。 「ふう、変態は滅びた」 板床の上に腹這いで横たわる汚い肉塊を一瞥すると、ミリアは一息ついて少年の手を取る。 「ぼ、僕をどうするの?」 怯えた小動物のように、少年の瞳の奥が震えていた。ものすごい大惨劇を今の今まで見せ つけられていたから当然ではあるが。 「あ、そうか。そういう問題があったな。セイネのことはついでだったもんね」 やっとそのことを思い出して、ミリアは閉じた扇でパチンと自分の頭を一つ叩いた。 「大丈夫。悪いようにはしないからさ」 「ど、どうするの?」 「うん、エスナに渡して報酬の一万金貨をもらうんだけれどね」 まったく悪びれもせずにミリアは言い放った。確かに、自分自身にとって悪いようにはしてい ない。 「なに、エ、エスナって、あの、軍服のウサギさんだよね?や、やだよ。止めて、そんなこと。 僕、あのウサギさんは嫌いなんだ」 今までの会話から事情を察して少年は僅かに身を引いた。襲われるヒロインのように、床に 横たわりながら、少年はじわじわと後ろに下がる。 「へっへっ、残念だけれど、あたしの生活には代えられないんだよね。さあ、覚悟しなよ」 舌先を丸めて下卑た笑いを浮かべると、ミリアは両手を前につきだして少年につかみかかろ うとした。目は既に欲望にまみれている。 「う、嘘だよね。セイネさんのお姉さんがそんなことをするわけないよね」 「ええい、覚悟しろっ」 ミリアは獲物を襲う獣のように少年に掴みかかった。尚も少年は抵抗しようとする。 「止めてよ!セイネさん、助けて!」 「叫んでも無駄だっ。セイネの奴が来るわけないよ!」 ほとんど三流の悪役のような台詞をとばしながら、ミリアは少年を押さえ込もうとした。肩口を 掴んでうつぶせに押さえ込もうとする。さすがは馬鹿力のミリアである。さしたる反撃も出来ず に、少年はあっという間に取り押さえられてしまう。 「ひ、酷いよう…」 「よし、後はあんたをエスナに引き渡せば、明日からステーキ三昧の暮らしだ」 ミリアのニヤついた口の端からツウと涎が垂れてきた。腐った野菜の塩水スープが主食の今 日このごろ。肉なんぞ超一級の贅沢品である。 「うへへ、ステーキ、ローストチキン、厚切りハムに七面鳥の丸焼き…」 頭の中で、超即物的な妄想に浸りながら、ミリアは架空の食事風景に浸っていた。テーブル を埋め尽くさんばかりの豪華な食事。思い切り腹一杯平らげたいものである。 「おっと、まだそんな場合じゃないや」 妄想の中で、ちょうどテーブル半分まで平らげたとき、やっとまだそれが架空ということに気 が付いてミリアは正気に戻った。現実は昼飯が生人参三本である。金が入って初めてごちそう は現実となる。 「セイネさん…助けて…」 体の下では、取り押さえられた少年がうつぶせになって涙を流していた。しかし、極悪非道な ミリアにはそれも所詮一万金貨の塊にしか見えない。 「あれ?なんだ、ありゃ?」 そこでふとミリアは気が付いた。破れて当て布を何枚も重ねたベッドシーツの上。そこには一 つのシルクハットが置いてあった。黒い、丸いつばのついた、手品師がよく使う形の大きなシル クハットである。 驚いているミリアを後目に、帽子はふっと宙に浮いた。間髪入れず、どこかでオクターブがミ リアに似た声が響く。 「ハット・フェイド!」 その言葉と同時に、女のバニーガール姿が出現し、次第に鮮明になりつつある。 「あっ、セイネさんだ」 少年の顔がパッと明るく輝いた。今までうつぶせになっていた顔を上げて、少年は身を必死 でよじる。 「な、なにぃ!」 悪事を握られた三流悪役のような声を出して、ミリアは驚愕の表情で次第に実体化していく セイネを凝視した。その間は僅か2、3秒でしかなかった。 そして、すっくと見目麗しいハーフエルフがその場に立ちつくす。黒炭色に照り輝くバニースー ツに網タイツ。右手には銀色のステッキを持ち、高い視線からその場を見回していた。 「セイネさん、僕を助けにきてくれたんだ!」 「あっ、しまった!」 油断したミリアの隙を突いて、少年はミリアのダイコン足の下から這い出した。そして素早くセ イネの後ろに身を隠す。細身だがセイネの身長は高い。ミリアも割と背丈のある方だが、セイ ネは軽く180センチはありそうだ。 「ふふふ、もう大丈夫よ。そこの悪人、覚悟なさい。天が呼んだか、地が呼ぶか。悪を蹴散らし 三千里。少年泣かす憎い奴、セイネ・カジネットが成敗よ!」 右手の銀色ステッキをつきだしてビシッとミリアに突きつけ、よく響き渡る声でセイネは宣言し た、声色に芝居かがっているのも職業が踊り子であるらしい。 「な、なんだ、セイネ、そのへんてこな格好は?」 自分自身もバニー姿なのに、ミリアは開いた口がふさがらない。 「うっふふ、そんなチャチな変装で、アレク皇子をたぶらかすとはなんとも間抜けな悪党ぶりだ わ。その程度で私に化けたとはお笑いね」 腕組みをすると、やけに甲高い笑い声でホホホとセイネは笑った。まるで芝居の舞台のよう である。 「変装?」 言われてミリアは自分のスタイルを見直した。やっぱり、どう見てもバニースーツである。ただ し、セイネのものと比べるとかなり安物だ。中身の方もやっぱり安物である。 「あ、そうか。ジャンケンで負けたから、あたしがバニースーツになっちゃったんだよな」 向こうの方ではゲンブが脱ぎ捨てたウサギのぬいぐるみが転がっている。ゲンブは相変わら ず気絶して昇天していた。こんな奴がバニー姿になっていたらかなりたまらなかったろうが。 「何を今更グチャグチャと言っているのかしら!私の変装をして、私になり代わろうとするとは なんたる悪人!このセイネ・カジネットが退治する!冥土の置きみやげに名を聞きましょう!」 またもや芝居がかった口調で言うと、セイネはステッキを右手でクルクル回し、一秒の後にそ れを止めた。そしてパシッと音を立てて握り直すと、またその先をミリアに突きつける。 「あたしだよ、ねーちゃんだ」 「アタシダヨ・ネーチャンダ。確かに名は拝聴しました。その名前、しかと覚えておきましょう。こ れで存分に成敗してくれん!」 一人自己陶酔したような台詞を言い放つと、またもやセイネははステッキを片手で回し始め た。しかし、今度は遊びではない。一度にその場に緊張感が高まっていく。 「げっ、マズイ!」 慌ててミリアは背中に背負ったブロードソードを抜きはなった。その瞬間、セイネは電光石火 の勢いで跳躍し、ミリアの懐に飛び込んでいた。 「死んでもらいます!」 ステッキを逆手に持ち、身をかがめてセイネが突っ込んでくる。瞬時にミリアは剣の切っ先を 足下に向けて防御した。 ガキィィンと金属が悲鳴を上げる。一瞬、ものすごい火花が室内に飛び散った。セイネの攻 撃は間一髪で防がれる。 「くっ!」 一撃が受け止められたのを見ると、セイネは慌てて後ろに飛び退いた。麗しい顔の眉間に深 いしわが刻まれている。 「わ、私の一撃をかわすとは、ただの悪人ではないようだわね」 乱れた呼吸を数度継ぎ、セイネが鋭い視線でミリアをにらむ。四角く横に長い、ややつり上が った形の目から殺気がほとばしる。 「うげっ」 ふと右手の違和感に気が付いてミリアは自身の持っているブロードソードを見やり、そして言 葉を失った。セイネの武器はステッキであった。しかし、ミリアの剣の方が見事に歯欠けしてい た。行き倒れの剣士から水一杯と引き替えに巻き上げたナマクラ剣でも、剣は剣である。その 刃の真ん中の部分が、指一本分ほども削り取られてしまっている。 「な、なんだ、そのステッキは。剣を壊すとはどういうステッキだ」 「ふふふ、いい質問だわね。このステッキは太古の昔、鉱山町シュトルガットの名工によって創 られたミスリル銀製。岩をも砕き、剣をへし折る天下の名品。もはやこれに勝るものはダイヤ モンドのみ!」 またもや調子を付けると、まるでミュージカルの台詞のようなテンポでぽんぽんとセイネは言 ってのけた。しゃべっている間に常にステッキは右手で回転していた。おそらく、これも一種の 職業病なのかもしれない。 「この威力に恐れ入ったなら、潔い死が待ち受けるはず。アタシダ・ネーチャンダ、おとなしく裁 きを受けなさい!」 「てめえ、いい加減にしろっ!この顔に見覚えがないのかっ」 尚も口上を続けるセイネに対して、ミリアは激怒して怒鳴った。自分だって今朝まで忘れてい たくせにいい気なもんである。 「残念ながら、そのような薄汚い顔には見覚えなし。しかし、今の一撃を受け止めたことで、そ の顔を私は永遠にメモリーするでしょう!」 どっちかというと、根本的に記憶回路に問題がありそうな姉妹は狭い部屋で火花を散らして 対峙した。部屋の隅では相変わらずゲンブが寝っ転がり、アレク皇子が頭を押さえて小さくなっ ている。 「待っていてください、私の愛しい皇子様。すぐにこの害物を片づけ、貴方の身をお守りしましょ う」 軽く少年に向かって一礼すると、セイネは再度ステッキを構え、戦闘のポーズを取った。全身 からみなぎる気合いと迫力は、とても一介の踊り子ではない。歴戦の戦闘をくぐり抜けた戦士 のものだ。 「ちいっ、腹減るから嫌だったけれど、本気出すしかないか」 忌々しげにミリアは言い捨てると、床に散らばっている残りの人参を一本拾った。そして剣を 構えたままでそれをボリボリむさぼり食う。 「おのれっ!覚悟!」 「おう、ドンと来い!」 二人は同時に叫び、そして斬りかかった。瞬きをする間もない時間の空白の後、狭く汚い部 屋に幾多もの火花が散らばった。飛び、交わし、そして斬りかかる。激しい呼吸と二つの黒い 影が部屋の中を渦巻く。こうして果てしのない姉妹喧嘩が始まっていったのである。 |