作品タイトル

代打屋

「代打屋?なんでも、代役引き受けます」
 星野啓三がこんなわけのわからない看板を見たのは、電車を降りてすぐの、駅の真ん前だった。
 星野は困っていた。しかも、並一通りの困り方ではなかった。困ったという要素があれば、彼の脳髄からあふれ出て、辺りが洪水になるかのごとくの困りようだった。
 星野物産の社長である彼は、これから○×信用金庫に対して融資の依頼をしに出向くところだった。不景気も手伝って、会社は現在やや下り坂。しかし近々大口の取引を控えていた。この取引を成功させれば、会社が上向きになる可能性は高い。だがそのためには、まず信用金庫から運転資金を借りなければならない。このような状況で一つでも歯車が狂うと中小企業はすぐに命取りとなる。
 今日は将に大一番と言っても良い重要な日だった。この日のために、星野は会社の経理課長と共に、○×信用金庫にお百度を踏んだ。デフレが続く景気の中、金融機関は極端な貸し渋りを行っている。こんな状況で融資を受けることが内定できたのも、星野と経理課長のしつこい依頼と努力があったからに他ならない。
 そしてなんとか今日の日を迎えた。後は経理課長の前川と共に、○×信用金庫に出向いて手続きを終えればよかった。その日恵比寿で小口の取引を終えた星野は電車に乗って約束の駅まで向かった。電車が駅に着いた途端、星野のところに飛び込んできた電話は、経理課長の前川からだった。
 社用車で移動して、星野を迎えに行っていた前川は事故にあったのだいう。相手からぶつけられたもので、しかも負傷をしてしまったらしい。とても、迎えに行けるような状態ではないという。
 星野は愕然とし、そして絶望した。経理課長がいなくて、融資の取引ができるなどとは到底思えなかった。中小企業故に、星野も会社の状況はよく把握している。しかし、金融機関に詳しく状況を説明するには、やはり専門の部下の助力が必要なのであった。
 このままでは融資は受けられなくなる。すると星野の会社は?
 倒産、という考えたくもない二文字が浮かんだ。それを避けるためにこの日まで頑張ってきたというのに。くそ、前川の馬鹿め。星野は文字通り地団駄を踏んだ。そして絶望にうちひしがれて駅の外に出た途端、例の看板を見つけたのである。
 それは、高級マンションの一階に、いかにも不釣り合いにあった。マンションの一階が店舗として開店されることはよくある。しかし、この場合、一階部分の、ほんの一角を借りて店舗が開かれていた。幅にしたら五メートルもあるだろうか。狭い間口の、しかも自動ドアでさえないガラスの引き戸。その上にデカデカと「代打屋」の看板が掲げられていたのである。
 星野は思わずその前に立っていた。仕方がなかった。こんな時に、こんなわけのわからない店に頼るのは愚の骨頂と思われた。しかし、もう他に方法はなかった。とにかく、今自分が取れそうな道を、星野はほとんど無意識に模索していたのである。

 手動のガラスの引き戸を開けると、そこが店内だった。店内というほどのこともなかった。六畳程度の小さい事務所。あるのはただ応接セット。そして、そのソファーの上で、やせぎすの中年男が、妙にだらしなくよだれを垂らして大きないびきをかいていた。格好だけは少しくたびれた背広を着て、割にまともに見えていたが、どう考えてもまともな店とは思えない。
 ぎょっとした星野の前で、男のいびきがぴたりと止まった。そして起きあがる。眠たそうな目をしょぼしょぼさせながら、男は、まだよだれが少し残る口元をほころばせた。
「いらっしゃいませ。我が代打屋に、なんのご用ですか?」
「君が…いや、あなたが代打屋ですか?」
「おっと、申し遅れました。私が社長の高井です。高井と言っても、お値段はそれなりに安いですよ、ははは」
 のっけから飛び出した寒いジョークに、星野ははっと我に返った。そうだ、こんなところに自分は何をしにきているのだろう。正常に戻った判断力がそう告げていた。急いで会社に連絡して、経理部の誰かを呼び出した方が、仕事の成功率は高くなるはずだ。うまくいけば融資が受けられるかもしれない。何を馬鹿な所に自分は来ているのだ。
 しかし、そんなまともな判断力を働かせようにも、もう彼は一人の客となって、このわけのわからない店主に対応するしかない状況となっていた。話は変な方にとんとん拍子に進み、いつしか星野はソファーに腰を下ろしてしまっていた。
「それで、何を代打すればよろしいですか?」
 高井氏はにこやかに笑った。笑うと貧相な顔が余計に貧乏くさくなる。
「あなたはなんでも、代打をするのですか?」
「はい、代打専門ですが、何でもやりますよ。他人の代わりならば、野球の代打から学校の教師、経理事務まで何でもやります。一応、一通りの技術は身につけていますのでね」
 少しだけ誇らしそうに高井氏は言った。そして彼の言った、最後の経理事務という言葉が星野の耳朶を打った。この男は経理のことを知っているのか?
 一瞬、心はぐらぐらと揺らいだ。普段の星野だったら、社外秘になるような経理のことを、敢えてこんな男に頼まない。人を頼むにしても、しかるべき筋に頼んで、きちんとした人物を回してもらう。
 しかし、今はもうどうしようもなかった。実は、取引の時間まであと一時間しかないのだ。場所そのものは車で十五分だが、星野だけ行ってもどうにもなるものではない。書類そのものは事前に星野が預かっていたので交渉の席には着ける。しかし、かといって星野だけではどうにもならないだろう。
「実は…その経理のことなのです。これから取引に行かねばならないのですが、我が社の経理課長が先ほど事故に遭いまして…」
「ははあ、それで私に代打を?」
「頼めますか?」
「もちろんです。して、取引は?」
「一時間後で」
「随分せっぱ詰まっていらっしゃいますね。わかりました。そういう時こそ代打屋の出番です。よろしければ、その取引の資料をお見せくださいますか」
 星野はためらった。ためらったが、それはほんのわずかの間だった。もう、事態はどうにもならない所まで来てしまったのである。冷静な対応が取れなかった自分が馬鹿だし、経理課長を車で来させたこともミスだった。その報告を聞いて動転した自分も馬鹿だったし、こんな店に飛び込んだ自分も馬鹿だ。そう思った。
 しかし、彼は気がつけば、書類の入ったトランクを高井に渡していた。彼は手にとってそれを忙しく見始めていた。見ること十五分、高井は大きくうなずいて星野に言った。
「分かりました。では、現地に向かいましょう」
「分かったのですか?」
「はい、私は代打屋ですから。では、社長、車の方をお出ししますので、しばらくお待ちください」
 まるで、昔からの社員のように、高井氏は言った。星野は思わず崩れ落ちそうになった。しかし、既に賽は投げられた。しかもわけのわからない場所で。
 こうして星野は暗澹とした思いを抱き、時折言語不明瞭になりながらも、指定された取引の場所へと向かったのである。

 高井氏の交渉術というのは誠に見事だった。信用金庫の頭取を相手に、彼は朗々と会社の現状を説いた。そして、今後の取引の展開について、実に流麗に、しかし隙無く語り継いだ。頭取は反対することもなかった。そして取引はすんなり終わり、星野の会社は実に良い条件で融資を受けることができた。こうして会社は危機を脱したのである。
 数日後、星野は指定された代金と、手みやげのまんじゅうを持って、再度高井氏の事務所を訪ねた。高井氏は相変わらずソファーに寝転がって大いびきをかいていた。
「おや、いらっしゃいましたか」
 星野が店に入ると、高井氏は先日のようにソファーから起きあがって眠い目をこすった。
「代金の方を、お支払いに来ました」
 星野はそう言って懐から封筒を取り出した。大仕事だったというのに、高井氏が星野に要求した代金は一万五千円ぽっきり。それは、会社の危機を救った大仕事にしてはあまりにも安い金額だった。星野としてはこの10倍を出してもよい気がしたのだが、高井氏は断固としてその金額以外は受け取らないというのである。
「確かにいただきました」
 高井氏は報酬の入った封筒を受け取ると、事務所の後ろに引っ込んだ。次に戻ってきた時、彼は領収書とお茶を持って星野の前に現れていた。
「おかげさまで会社も助かりました」
「それは、なによりでした。お役に立てて何よりです」
 星野と高井は向かい合って茶をすすっていた。茶は、こんな貧相な事務所には珍しく玉露の高級品だった。妙に思いながら星野はその茶をすすり、ふと疑問に思ったことを口に出した。
「高井さんは、もう、ずっとこんな仕事をやってらっしゃるんですか?」
「そうですね。私の人生、代打ばかりですよ。他人の代わりをして、それでいくらかのお金をいただく。まあ、そんな生活です」
「しかし、私は不思議に思います。あの取引の時の貴方の手際のよさ。説明の見事さ。あなたなら、会社の経理事務長が十分に勤まる。あの力だけでも、あなたは十分にやっていけるでしょうに」
 星野は先日の取引の時の様子を思い返していた。高井氏の説明は実に見事で的確だった。十五分しか目にしていない資料の数字を完璧に暗記していて、それを巧みに説明に使用してた。前半期の純利益と設備投資の様子。現在の金利と、借り入れ金との金利関係。複雑な状況を巧みに、しかし取引に都合良く引用していたのは、ほとんど神業と言ってもよかった。
「それが、できないんですね。私は、代打屋だから」
「どういうことです?」
「私は、他人の代わりをする時にしか、力を発揮できないんです。どうしても、その人がいなくて困った状況、せっぱ詰まった状況でしか力を発揮できない。私という人間には、そんな困った特性があるのです」
 高井氏は大きな目をしょぼしょぼ瞬かせながら、古びた茶碗で玉露茶をすった。そして、ぽつり、ぽつりと話し出した。
「もちろん、私も会社勤めをしたことはあります。しかし、何をやっても私は会社でビリでした。すぐにドジを踏んで、迷惑ばかりかけていました。そして、常に職場を追われる状態になってしまいました。不思議なものでしてね。普通に勤めていると、私は人並み以下の力しか出せないのです。それで、随分と職を転々としました。私が一通りの仕事が出来るのはそのためです。正直、美容師から板前までありとあらゆるものを経験しました。しかし、一つも私はものにすることができませんでした。
 ところがです。こんな私ですが、それが【人の代わり】である時には、私とは思えない力を発揮できるのです。こう、なんですかね…頭がすっと冴えていって、何もかも分かったようになってくる。そして、そういう時に仕事をすると、非常によい結果を残すことが出来る。なぜなのか私にはわかりません。しかし、私がそのような人間である以上、私は代打屋でしか生きる道がないのです。」
「人の代わりしか、されないのですか?」
「そうですね。本当に、代わりだけです。始めはこんな自分を嘆きました。そして、呪いました。普段の生活では人並みのことは何もできない私です。しかし、途中から気がつきました。人の代打が出来るということが、私にとっての天職なのだと」
「それで、代打屋ですか」
「そうです。代打屋専門です。よくいらっしゃるんですよ。私に代打を頼んでうまくいったので、私を専属で雇いたいという人が。けれども私はその方々にははっきり申し上げています。専属で、【代打】でない私は、人並み以下の力しか発揮できない。逆にその人に迷惑をかけることになる。社長さん、そういう次第ですから、このこともご了承ください。間違っても、私を続けて雇おうなどと思わないでください」
 星野はぎくりとした。実際、そんなことを考えないでもなかった。人材が足りないと言われるこの世の中。優秀な人物だったら常に引き抜きたい、使いたいと考える。しかし、目の前の男は代打しかダメだというのであった。
「じゃあ、本当に、人の代わりしかされないでやっていかれるのですか」
「そうです。以前は嘆いていましたが、今は違います。今の私は自分が代打であることを誇りに思っています」
「誇りに?」
「今、社長さんは疑問に思われましたね。でも、本当はその認識が間違っています。人の代わりというのは恥ずかしいことでも何でもない。逆に、その人が必要とされている時です。だら、私は今、誇りを持ってこの仕事に臨んでいます。今の私からしたら、人の代わりを恥ずかしく思うことの方がおかしいですね。逆に、無くて困っている人の代わりを務めることができることを、本当はもっと感謝されてもいいのではないかと思うのです」
 星野は聞いているうちに恥ずかしさを覚えてきた。中小企業とはいえ、星野の会社は一つの企業である。その中では当然何人か、代替職員を雇用していた。病欠となっている正社員の代わり、産休に入っている正社員の代わり。全て、代わりに、臨時的に雇っている社員である。
 しかし、その人たちに星野は、満足な待遇を与えているとは言い難かった。思わず彼の背中に冷や汗が流れた。代打の職員ということで不当に低く評価し、安い給与で使っている。しかし、彼らがいなかったら、星野の会社はどうなっていただろうか。
「いやいや、くだらない話を、失礼しました」
 高井氏は言ってお茶をすすると立ち上がった。星野はお茶の入った茶碗を持ったままうつむくしかなかった。
「すみませんが、私はこれから妻を駅まで送らなければいけませんので。申し訳ありませんが、これで」
 高井は店の外を指さした。力なく星野は首を上げてそちらの方を向いた。店の外にはキリっとしたスーツ姿の美女が立っている。星野は仰天した。その顔は、記憶に間違いがなければ、都内でも有数の不動産屋を経営している女社長のものであった。まだ三十代半ばにして巨万の富を築いたとして、経済界でも噂になっている女性である。
「ひょ、ひょっとして、高井さん、あなたの妻というのは?」
「あ、そうですよ。安井貴子です。安井といいますが、売ってる土地は高いし今の姓も高井。なんちゃって」
「あ、あの人があなたの、妻?」
「まあ、そうです。去年、友人の代打で見合いに行ったら妙に向こうが気に入りましてね。おっと、急がないと」
 そこまで言うと、高井氏は慌てて店の外に出て行った。金持ち美女はすぐにべったりと高井氏に寄り添う。そして二人は車に乗り込むと、すぐに遠くへ消えていった。
 野球での代打は、試合の流れをすっかり変えてしまうことがある。どうやら高井氏がつかんだ殊勲打というのは、とてつもない満塁ホームランだったらしい。
 一人残された星野はただため息をつくしかなかった。半年の入院になった経理課長前川の代打を誰にするか悩まなければならなかったからである。


                               (終)
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