「えー、そこの綺麗なおねーさん、ちょいと、買っていかないか?」 場所は人々の行き交う夜の繁華街。そこで男は座り込んでいた。 時折、彼は立ち上がり、その妙な風体でもって、道行く女に声をかける。とはいっても、別に 身体を売るような訳ではない。彼が売っているのは、目の前に広げた品物の数々である。 「ほらっ、ちょっと買っていかないか?今ならこのオレの投げキスまで付けちゃうから、ほらっ」 人が通り過ぎる度に、男は情けなく媚を売った。みてくれはそんなに悪くはない。むしろ、美青 年という方だ。細身ながら均整の取れた肉体に、すらっとした身長。そんじゃそこらのジゴロに は劣らない程度の容姿である。 しかし、その出で立ちは抜群に悪かった。長袖が千切れて半袖になったシャツにヨレヨレのス ラックス。腰から下げているオンボロのロングソードが、辛うじて彼の威厳を保っている。しか し、どう見えてもまともな人間には見えない。 「ねぇっ、買っていってくれよ。このアクセサリーは、なんと手作りだぜ」 彼は情けないほどに主張すると、地面に広げたボロ布の上に置いてある、いくつもの曲がっ たハリガネを指差した。誰もがそれを一瞥して通り過ぎていく。とてもこんなものがアクセサリー にはならない。ついさっきでっぷり太ったマダムが「犬に付けるの」と言って一個買っていった が、それ以外の人間は誰も興味を示そうとしていない。 町は夕刻を過ぎて夜に入っていた。男の目の前を、冒険で富を得たらしいリッチな剣士や魔 法使いが幾人も通り過ぎていく。しかし、男の財布には僅か銅貨一枚。まるで売れない商品を ジロリと端から端まで見つめなおすと、男は膝を抱えて大きくため息をついた。 「くそっ!ミリアめ。こんなもん、どう考えても売れるわけないじゃないか!」 目の前にはアクセサリーと偽った、ただの曲がった金属片が並んでいた。あちこちの鍛冶屋 やゴミ捨て場から持ってきた金物を、ハンドメイドで叩いて伸ばしたシロモノである。こんなもの を付けて喜ぶ人間はいない。 「でも、あと十個は売らないと帰れねぇ…」 男は悲しそうに事実を再確認すると、体育座りの膝の間に、その端正な顔を押し込んだ。脳 裏にチラリと、下宿で待っている極悪非道の女の顔がよぎった。 「なんで、このヤード様が、こんな所でガラクタ売りなんか…」 男は哀しげに涙声で言葉を継いだ。自尊心はもうほとんどボロボロである。しかし、今日のノ ルマはあと九個。それを達成しないと、下宿に帰るに帰れない。 「なんで、オレはあんな奴の所に転がりこんじまったんだ…」 後悔しても、現実は容赦なく目の前に広がっていた。ここガダルの町には、富を得た冒険者 達が幾人も訪れる。そういう人間は大金を手に入れて気が大きくなっている。ひょっとしたら僅 かな仏心を出して、こんなガラクタを購入してくれるかもしれない。それだけが一縷の望みであ る。 盛場が近いのか、幾人もの華美な装備に身を包んだ一段が通り過ぎていった。立派な鎧に 身を包んだ剣士。幾多もの魔法の品物で身を飾った魔法使い。宝石をジャラつかせた盗賊の 一団。彼の目の前の人々は皆成功を背負っていた。 「オレも、百五十年前は、羽振りがよかったのになぁ…」 男は再度ため息をついた。これが、かつて大陸でも屈指の悪党として名を馳せたヤード・カジ ネットの成れの果てであったのである。 ヤード・カジネットはオールマイティーの魔法剣士である。 カンドレーン国の宿屋の息子として生まれた彼は、生れながらにしての大天才であった。そ う、彼には不向きというべき分野がなかったのである。 全てにおいて平均以上の彼は、たちまち世界に名を馳せる存在となった。普通の人間は、一 方の分野にしか能力を発揮できない。常識で考えても、魔法と剣技は相反する。しかしヤード は違っていた。その両者を修めたばかりか、盗賊達の指先技や、吟遊詩人達の知識まで、全 てを網羅する天才であった。全てを手にするヤードの事を、人々は畏怖を込めて黒博士と呼ん だ。 しかし、彼の繁栄は長くは続かなかった。というより、少しばかり悪さをしすぎたのである。世 界を二分する闇と光の戦争に加担したヤードは、お約束どおりに光の側によって封印されてし まった。そのまま百五十年。彼は若い姿のままで眠り続けた。 しかし、そこまではよかった。百五十年経って、今更のように封印が解けたのである。その結 果、彼は一文無しで路上に放り出されることになった。 百五十年ぶりの世界は勝手が違っていた。世界は平和であった。とりあえず、食わないと飢 える。仕方がないので、最初は適当にその日暮らしの仕事をしていたが、次第に面倒臭くなっ た。そこでヤードは、自分の子孫に面倒を見てもらおうという、姑息な手段に出たのである。 ヤードの孫に、ミリアという奴がいた。これがエルフとのハーフで、百五十歳を越えてもまだピ ンピンして生きている。昔、面倒を見たこともあるから、きっと助けてくれるに違いない。そういう 甘い考えをして転がり込んだヤードは、ミリアが自分の直系であることを思い切り思い知らされ ていた。 やっぱり、ミリアという奴も、怠惰で借金大王の大酒飲みであった。当然金などない。仕方な く、ヤードはこういうインチキアクセサリーを抱えて行商に出た。というより、ミリアにゲンコツで 殴られて、生活費を稼ぎに出させられたのである。 と、いうわけで、かつての英傑はこんな所で、まず売れる当てもないガラクタを抱えながら、帰 ってどうやって言い訳しようという情けない思案を繰り返していたのである。 「ふう」 ヤードは大きく息を継いだ。結論は一つ。黙っておとなしく殴られることである。なにしろミリア という孫、それは恐ろしい女である。正面から歯向かって得なことはあまりというかほとんどな い。 これ以上、ガラクタは売れる当てもない。おとなしく帰ってブン殴られよう。そういう情けないこ とをヤードが考え始めたその時である。 「ん?」 ふと、ヤードは一風変わった人の姿を行き交う人たちの間に認めた。それは、僧侶の姿をし ていたのである。 僧侶と言っても、そのタイプはいくつかに別れる。ときどき、冒険に出掛けて神のために財宝 を稼ぐ、いったいお前は何者だという僧侶もいないことはない。しかし、全般的に言えばそんな 僧侶は珍しい。たいていの僧侶は品行方正である。従って酒場などの盛場に来ることはあまり ない。 「しかも、神官戦士タイプか」 やつれた頬を右手でゴシゴシとこすりながらヤードはつぶやいた。雑踏の向うから歩いてくる 毅然とした姿。高級な作りの金属性の胸あて鎧を着込み、腰の周囲に装着された板金のプレ ートには神への信仰の対象であるホーリーシンボルが刻まれている。剣と書物を重ね合わせ たものをモチーフとしたそのシンボルは、古の英雄を祭る教団のものだ。 「うん、オレのタイプだな」 今度はヤードは深々と首肯いた。別に神官タイプだったからではない。その神官が彼好みの タイプだったからである。そう、神官は女であった。 年は二十台の後半から三十の前半という所だろうか。やや憂いを含んだ細い目と、短く切り 揃えられた金髪が印象的な知的美人である。額には同じくホーリーシンボルをはめこんだサー クレットを装着していた。どこから見ても、完璧な神官戦士タイプであり、美人であることがヤー ドのタイプであった。 「おい、ちょっと、ねぇ!そこの美人のあんた、買っていかない?」 思い切り下心丸出しの声を挙げると、ヤードは座り込んでいた道端から立ち上がって威勢の 良い声を挙げた。 「あら、あたし?」 ふと、手前の薄汚い酒場の女将がヤード方をクルリと振り向く。 「ヤードの名にかけてお前なんかじゃねぇよ!」 素早く左手の甲でマダムを跳ねとばすと、ヤードはいそいそと神官戦士の前に駆け寄った。 ふと、女が怪訝な表情を見せる。ヤードは右手に持った、ヘンテコなペンダントを持って女の目 の前に突き出した。 「ど、どうだい?このハリガネアクセサリーは?」 「貴方、今、何と?」 「あ、いや、ハリガネじゃなくて、この真鍮線を曲げて作ったネックレスはどうかなと…」 訳のわかない言い訳をヤードはかました。ハリガネでも真鍮線でも、結局は同じものである。 「そんなことより、今、貴方は何と仰いました?何にかけてと?」 女は細い目の端に瞳を寄せて、心持ち震えるような口調でヤードに問い掛ける。ヤードはき ょとんとして首を前に突き出した。そして、再度自分の台詞を反芻する。 「あ、そうそう、あのババアに言った奴か。『ヤードの名にかけて』ってオレは言ったんだ」 「では、貴方を同士と見做してよろしいわけですね?」 「はぁ?」 訳がわからずに半分口を開けた間抜けた表情で首を傾げたヤードの鼻先に、女は額のサー クレットを外して突き出した。瞬間、刻まれてたホーリーシンボルが強く輝き始める。「やはり、 貴方はヤードを信じるもの。このホーリーシンボルもそう告げています」 「な、なんだ?」 また訳がわからずに表情を固まらせたヤードの目の前で、女は一礼すると澄んだ声で高ら かに名乗りを挙げた。 「私は古英雄教団の神官カザリンと申します」 「オレはその教団はよく知らないが、いったいどんな教団だ?」 一刻の後、街の郊外にあるこじんまりとした神殿にヤードは連れられていた。石作りの小規 模な、しかし真新しい神殿がいつのまにか作られていた。それはまだ街の人の噂にも昇ってい ないほどに新しく小綺麗さを保っていた。 「古英雄教団は、昔の英雄を信じるべき神として扱います」 神殿の一室、白い丸テーブルの置かれた談話室で白湯を啜りながら、カザリンと名乗った女 は左手を横に大きく広げた。 その先には幾つもの石像が置かれていた。それは、かつての戦争で功なりとげた英雄たち を模ったものであった。世界に冠たるバランヒルト帝国の初代皇帝フョードルから、悪の大魔 法使いフィルデまで、様々な石像が置かれている。 「こりゃ、たいしたもんだ」 「今は亡きこの英雄を信じ、自身をそれに擬することで、彼らは新たな神となり、私たちに力を 貸してくれるのです」 抹香臭い説教のような台詞を、女は甲高い、やもすればヒステリックに取れるような口調で言 い放った。 神に仕える僧侶は、奇跡と呼ばれる一種の魔法を起こすことが出来る。それは、神とする対 象への信仰心が大きく関わってくる。英雄崇拝も一種の信仰に等しい。古英雄教団は、そのよ うな昔の英雄を神としてあがめるのが趣旨とカザリンは語った。 (まてよ、まさか…) ヤードはカザリンの話に首肯いて相づちを打ちながら、密かに居並ぶ石像を見やった。そし て予感は的中した。偉大なるドラゴン王フィーローズの横に、タキシードを着て、ミラーシェイド のサングラスをかけた魔法剣士の彫像が、しっかりと安置されていたのである。 (あ、オレだ。しかし、本物より格好いいのはちょいとどうかな?) サングラスで石像の顔は隠れていてわからい。これはしめたと思ったとき、丁度目の前でカ ザリンの説教が終わっていた。 「で、あんたはこのオレにどうして欲しいわけだ?」 長々とした説教は不要である。要は幾らもらって何をすればよいか。元は一個の英雄であっ たこの男の才覚はまだ死んではいない。 「ある人物を殺してもらいたいのです」 カザリンは一文字に結んだ唇の僅かな間から、冷たい、ぞっとする台詞を口にした。 「そりゃ、穏やかじゃないな。神官が人殺しとは聞き捨てならんね」 ヤードは白湯の入ったティーカップを口に含んで喉を潤した。本当はコーヒーかなにかが欲し いところだが、刺激物を口にしない主義というカザリンがそれを拒んでいた。 「失礼しました。いえ、それは人であって人でナシなのです」 「なに?」 ヤードは一瞬、下宿で頭から湯気を立てている孫ミリアのことを思い出した。半分妖精の血 が流れているその孫は、色々な意味で人であって人でなしである。 「そのものは、我らが教団の敵なのです。我らが教団の存在価値を貶め、かつての英雄の名 前を傷つける不届き者…」 カザリンは再度説教を始める。ヤードはぼんやりとそれを聞き流しながらカザリンを上から下 まで眺め回していた。一見して気の強そうなキツイ表情と整った顔立ち。年令はそれなりにあり そうなのに、男に対して免疫がなさそうなのがいい。 「よし、OKだ。なんか知らないが、その人でなしをブッ殺せばいいんだな?」 ヤードはティーカップをテーブルの上に置くと、腰の左側に吊した剣を数度気味良く叩いた。 貧乏と悲惨な生活で多少衰えてはいるが、まだ剣の腕前は全盛期と大差はない自信がある。 「おお、さすがはヤードに見込まれた男!」 カザリンが白顔を薄紅色に変えて、やや興奮した口調で身を前に乗り出した。綺麗な顔がヤ ードに近付く。好色漢は嬉しそうに、心のなかで舌を出した。見込まれたも何も、その本人がヤ ードである。 「では、ヤード様に誓ってくださいますか?」 「おう、誓いでもなんでもするぜ」 「そういえば、また貴方のお名前をうかがっていませんでしたね」 「そうだな。オレのことはアドルフ、通称アルとでも呼んでくれりゃいい」 ヤードは平然と偽名を使った。いや、実際の所それは偽名でもなかったが。彼の本名はヤー ド・アドルフ・カジネット。アドルフは単にミドルネームなだけである。 「アドルフ殿ですか。あの英雄、ヤード・アドルフ様と同じ名を持つとは、やはり貴方はヤードに 見込まれたお方」 もはやカザリンはどこか尊敬のような眼差しで、このインチキ詐欺師を見つめた。その視線 は期待に満ちている。もちろん、ヤードも別な意味で期待をしていた。 「おお、偉大なるヤード様。このアドルフ殿が貴方の名を傷つける悪漢を退治されるそうです」 カザリン神官はやおら石像のヤード像の前にひざまづいた。彼女は両手を組み、神像の前 において祈りを捧げる。ヤードも内心笑いながら自分の石像に祈りを捧げる。 「おお、ヤード様の像が!」 目の前の石像はぼんやりと明るい光を放ち始めた。それを見て驚愕したカザリンが叫ぶ。 「私たちの決意にヤード様も応えてくださっています!」 カザリンは真摯な面持ちで嬉し涙を流す。ヤードは笑いを抑えるのに必死であった。御本尊 の当人が側に居れば、奇跡が起こりやすいのは当然である。 よじれるような笑いをなんとか腹の内に治めて、ヤードはカザリンを押し止めた。 「まあまあ、そう興奮するなよ。それより、オレが殺すっていう相手を教えてもらえないか?詳し いことを聞かないと、ヤード様に対しての奉仕はできないぜ」 かつてのプレイボーイよろしく、女の肩を抱くようにしてヤードはカザリン落ち着かせた。女に してはやや高めの身長だが、細い肩幅は微妙に抱き心地が良い。 「あ、そうでした。相手はこの人でなしです」 ヤードの言葉に自分を取り戻したカザリンは、クルリと背を向けて部屋の片隅に走っていく。 その身体を掴み損ねたヤードは自分で自分を抱き抱える形となった。かなり悲しいポーズであ る。 やがてカザリン神官は、机の引き出しから一枚の似顔絵を取り出した。そこにはボサボサ頭 のハーフエルフの顔が描かれている。 「相手は、この女です。ヤード様の直系の子孫でありながら、その存在を傷つける憎むべき存 在!」 カザリンは熱っぽく、憑かれたような口調でその絵を指差した。ヤードはごくり、と唾を飲ん だ。そして、彼はそのまま地獄へ落ちていった。 もちろん、その似顔絵は、恐るべきミリア・カジネットであった! 「なにやってんだ。まったく、ジイさんの奴、遅いな」 何もない殺風景な宿屋の一室。ベッドの上で一人のハーフエルフが薄汚いシャツに半ズボン でゴロゴロ転がった。本当にやることもなく、怠惰に任せて寝転がっていたのである。 「まさか、売り上げ持ってトンズラしたんじゃないだろうな?」 あまり考えられない確率の事項を、悪い頭で考えだすと、ハーフエルフはボサボサの後頭を 気怠そうにボリボリと引っ掻き回した。 ミリア・カジネットはハーフエルフの女剣士である。古 の英雄ヤードを祖父に持ち、自身でも凄腕の剣士としてその名を響かせていた。 ただ、剣の腕前も抜群であったが、無軌道放埒な生活ぶりと、怠け者な所もその名を轟かせ ていた。そういうわけで、本当ならば一財産を築いているところが、冒険者相手の安宿に寄宿 し、家賃を平気で数年滞めるという、自堕落の極みのような生活を送っていたのである。 そんなところに、祖父とか名乗る若い男が転がり込んできた。言うまでもなくヤードである。ミ リアは即座に思い当った。そして、ヤードは即座に下僕として認定された。 ヤードをコキ使うことで、本当に時々だが、インチキアクセサリーが売れて現金も手に入る。 食料は市場にクズ野菜を拾いにいけばいい。家賃は大家を恐喝して諦めさせ、口があれば土 方の日雇いに出る。そういう、どこが剣士だと突っ込みたくなるような日々を性懲りもなく過ごし ていたのである。 「ま、あのジイさんに持ち逃げするような度胸はないか」 かつての英雄をアゴでこき使い、あまつさえジジイ呼ばわりしながら、この自堕落剣士は女王 さまよろしくベッドの上に寝そべるのであった。とはいっても、板張六畳一間のとんでもない安 宿に暮らすゴキブリ女王だが。 「ふぁ〜」 だらしなく怠惰な声を挙げると、ミリアはごろりとベッドの上で寝返りをうった。場所は宿屋の 三階。外は旅人や船乗りが行き来する路地である。幾多もの人々が行き来する中で、ミリアの 猫目は一人の人物を見付けていた。 「あれ、なんだ、ジジイめ。ノコノコと帰ってきたのか」 そう、通行人に交じって、見慣れた顔が宿屋の玄関をくぐるところであった。一応美形だが、 着ているものはボロな服。アンバランスが一目で解るののがヤードの特徴である。「なんだい、 しかも女連れ?」 そのヤードに寄り添う様にして、一人の女が宿屋の門をくぐるのも見逃さなかった。ミリア・カ ジネットは世間では物凄いバカと噂され、実際にその通りなのだが、勘はやけに鋭い。 「さては、この部屋をラブホ代わりにしようって魂胆か?」 しかし、その勘が当たるかどうかはまた別の問題である。 「女なんか口説いているヒマあったら、とっとと生活費稼いでくりゃいいのに」 まるで個人の権利を無視した事を言い放つと、ミリアはベッドから飛び降りて、オンボロの剣 がぶら下っている壁ぎわに近付いた。そして、その、鍛冶屋の失敗作を泣き落としてもらってき た剣を抜いて正面に構える。 「あのジジイ、あたしがちょいと甘い顔をしていると思って付け上がってるね」 いや、そんなに甘い顔でも生活でもない。ミリアはハーフエルフ特有の猫目を細めて意地悪 そうに笑うと、ヤードをシバくべく準備を始めた。暫らくすると、コツコツと階段を上がってくる重 苦しい足音が響き、ガチャガチャと鎧が擦れ合うような音が廊下に響き渡る。やがて、その足 音はミリアの部屋の前で止まった。 「ここですか?」 耳をそばだてると、女の怪訝な声が聞こえてくる。すぐに追従して、ヤードの上擦った声が響 いてきた。 「そ、そうだ。しかし、オレとしてはあまり気が進まないんだがな」 「ヤード様に見込まれた男が何を今更。いいですか、こうすればよいのです」 ドアの向うで女が大きく息を吸い込んだのが聞こえた。そして高らかと、大きな声が響き渡 る。 「たのもーう!」 女がそう言った瞬間、ミリアは待ってましたとばかりに扉をカチャリと開ける。 「おう、いらっしゃい。金貨十枚でお泊りにしてあげるよ」 ミリアは汚い歯茎をむいて笑うと、右手に剣を構えたポーズで、左手に金を意味する丸マーク を作ってみせた。扉の前で女の顔が引きつったのが見えた。 「な、なんですか、この女は?」 カザリン神官は下唇を突き出した表情で戦慄き、ゆっくりと背後のヤードの方を向いた。ヤー ドは「いゃぁ、まいったね」とでも言いたそうに後頭を掻いている。 「おい、それはこっちの台詞だ。ここはあたしの部屋だぞ。そういう、アンタこそいったい何だ よ」 「私は古英雄教団の神官、カザリンと申します」 カザリン神官はすぐに冷静さを取り戻した。短く切り揃えた美しい金髪をさらりと撫でると、彼 女は恭しく、目の前のバケモノ向かってお辞儀をする。 「あ、こりゃ、ご丁寧に、どうも」 吊られてミリアも頭を下げる。 「さて、貴女が噂のミリア・カジネットですか?」 聖職者としての威風を漂わせながら、怜悧な顔に僅かな緊張を浮かべて、カザリンはミリアと の間合いを詰めた。不意に殺気が神官の身体を包む。 「だから、どうしたってんの?」 「古の英雄の名を汚す貴女は死んでもらいます!」 ほとんど居合い抜きの瞬間で、カザリン神官は腰のメイスを手に取ると、電光石火の素早さ でミリアの頭を一撃した。その瞬間、鈍い音がして、悲鳴と共に破片が床に散乱した。 「きゃぁぁぁ」 狭い室内に女の悲鳴がしていた。そう、実に女らしい、オクターブの効いた、どこか色香まで 含んだものである。 それはミリアの悲鳴ではなく、カザリン神官の悲鳴であった。 神官戦士である彼女の一撃はたいしたものであった。見事にミリア・カジネットの頭部を、鋼 鉄製のメイスが直撃していた。しかし、その直後、メイスは大きな音を上げて四散した。 「あいたた…」 両肘を地面に付けてミリアは蹲った。殴られた後頭部がズキズキ痛む。しかし、決して破壊さ れてはいない。石頭に生んでくれた両親に感謝である。 「ぶ、無事?」 信じられないという表情でカザリン神官は惚けた。まさかのまさかである。メイスで頭を直撃し ても無事なのは、大馬鹿野郎のトロールくらいなもんである。 「なにやってんだ!躊躇したら負けだ!」 カザリンの動きが止まったのを見て、後方からヤードは突っ込んできた。あわてて剣を抜き 放つと、優雅なステップで一気に間合いを詰める。しかし、ミリアの回復はほとんど両棲類並み であった。まだジンジン響く後頭部を抑えながら、紙一重の差で真後ろに向かって飛びのいて いた。 「あたたた…なんかと思ったら、やっぱりジジイの仕業か。あんた、最近アタシが甘い顔してる からって、女と計ってアタシを亡き者にしようとはいい度胸じゃないの」 部下の裏切りを見付けた悪の親玉のように、ミリアは唇を突き出して皮肉に笑った。つい、と ヤードの背中を冷汗が流れ落ちる。ほとんど、蛇に睨まれた蛙の状態だ。 「い…いや…そうじゃない…」 「じゃあ、このザマは何だってんだよ?」 「と、とにかく、今はオレが泣きたい…」 笑っているのか泣いているのか解らないヤードの目から涙が切れ切れに落ちていった。こん な無謀な戦いは挑だけ損だ。賢明なヤードはその事を知っている。ミリアなんて奴を倒そうとす るのは自分で自分の死刑執行書にサインするようなもんである。 しかし、ヤードはうっかりとこの依頼を引き受けてしまっていたのだ。それは、カザリン神官が あまりにも好みのタイプであったからに他ならない。おかげでうっかりと神に誓ってしまった。そ う、いわゆる石像の自分自身にである。 基本的に神に誓ったものはその誓いを破ることはできない。破ると精神的に大きなペナルテ ィーを受けて発狂することもしばしである。ヤードは珍妙なことに、自分自身に誓いを立ててし まった。神が自分に誓った事を破るわけにはいかないし出来ない。ややこしい話だが、とにかく ヤードは誓いを破ることはできんのである。 前門のミリア。後門の誓い。というわけでにっちもさっちも行かなくなったヤードは、見目麗し い瞳から涙を滂沱と垂れ流しながら、言葉とは裏腹の攻撃を行なうしかないのである。 「頼むから、オレのために死んでくれ!」 「アホか!テメエこそ死ね!」 普通の女ならその言葉で息絶えるかもしれない口説き文句をあっさり振り払うと、ミリアは素 早く宙返りをしてヤードとの間合いを取った。ほとんど装備がない身軽な戦士だからできる体 術である。 「ジジイめ。一月ものうのうと暮らさせてやった恩を忘れるとは、なんて奴だ!」 ミリアは右手に持ったナマクラ剣を構えると、それをヤードの方へと向かって突き出した。物 凄い殺気が電撃のように飛びかう。ほとんど悪の大魔王のごとき戦慄がその場に吹き荒れて いた。 「な、な…おいっ、神官さん、このままじゃ、オレ達はミリアに殺されちまうぞっ!」 ヤードは先程のショックでまだ呆然としたままのカザリン神官をゆさぶった。 「あ…あ?」 「あ?じゃないぜ!あれを何とかしてくれ!あんた、神官戦士なんだろうが?」 目元を強ばらせ、口を引きつらせて恐怖にうちふるえながら、ヤードは目の前で恐ろしいオー ラを放つ孫のハーフエルフを指差した。 「ふふふ、まずはそのねーちゃんの鎧を矧いで鉄クズ屋に売り飛ばして…」 目の前で邪悪なハーフエルフはすでに戦後処理の金勘定をしていた。普段は足し算さえもア ヤシイ脳味噌のくせに、こういう計算には知力が回る。 「は!そうでした。私はヤードの名にかけて、ミリア・カジネットを成敗せねば!」 カザリン神官は気合いと共に自分を取り戻した。美しい金髪が闘気のオーラととともに微か に騒めく。細く釣り上がった鋭い眼差しの奥には燃えるような闘争心が浮かんでいた。 「おいおい、そんなヤードじいさんごときにかける価値なんかないよ。本当にしょーもない男だ よ」 ミリアは猫目を細め、カラカラと笑った。当たり前だが、ことの真相をこいつは理解していな い。 「なにを!子孫の分際で祖先を馬鹿にするとは不届きな!」 「え…だって、ヤードじいさんって奴は、スケベーの女たらしの嘘つきで…」 「言うなっ!」 怒りの力で全ての闘争心を膨れさせると、カザリン神官は接近戦の構えを取った。主武器の メイスはなくしたが、背中にはまだ予備のクラブが二本装備されている。長さ六十センチ程度 の、黒檀で出来た棒である。 「このクラブが貴女をたたきのめす!」 白い頬に怒りの色を染めて、カザリン神官はミリアとの間合いを一気に詰めた。両手をクロ スさせて肩に回すと、黒檀のクラブが音もなく抜ける。そして逆手にそれを持つと、間髪入れず ミリアの懐に飛び込んでいく。 「おっと」 慌ててミリアは剣の柄でクラブを弾く。専門戦士の余裕で軽やかにそれを受け流した、と思っ た瞬間、再度からもう一本のクラブがうなりを挙げる。 「あたっ!」 瞬間、カーンといい音がした。見事に黒檀のクラブがミリアの側頭部を直撃したのである。 「うひゃっ!」 危険を感じてミリアは即座に背後に飛びのいた。何か微妙に頭がぐらぐらするのは、少ない 脳味噌が頭蓋骨の中で移動したのかもしれない。 「両手使いとはやるじゃないか」 結構響くダメージを食らって、ミリアはよろけながらも頭を振って視界を元に戻す。 「この、聖なる黒檀のクラブが、貴女に罰を下すのです」 「ほう、聖なるバトン?」 突然、ミリアの猫目がギロリと光った。怪しげな欲望を湛えた笑みである。 「おい、ジイさん、あのバトンって幾ら位になる?」 ミリアは、カザリン神官の背後で立ち尽くしているヤードに向かってアゴをしゃくった。 「あ、ああ…金貨百枚くらいにはなるか」 全てに於いてオールマイティーなヤードは武器の価値も鑑定できる。金貨百枚とは結構な値 段だ。普通に暮らしても半年は十分に持つ。 「よし!元気でたぞ!」 算出された価値は、まさに馬の前の人参効果を生み出した。いきなり、ミリアは手に持ったソ ードを投げ捨てる。 「な、何を!」 「いや、剣なんか使って、その高価な棒に傷つけても嫌だしね」 ひどく舐めたことを言うと、ミリアは部屋の隅に転がっている、壊れた椅子の脚を取って構え た。このまえ腹いせに、ヤードをブン殴った時の被害の一部である。 「椅子壊して損と思ったけれど、こういう時に役に立つとは思わなかったなぁ」 椅子の脚を棍棒のようにして構えると、再度ミリアはファイィング・ポーズを取る。だらしない 顔が一度に引き締まった。いくら怠惰で大馬鹿ものでも、こいつは強い。 「さて、いくとするかっ」 軽い仕事でも片付けるかのように、ミリアは椅子の脚で殴りかかっていった。そして、怒涛の 戦闘タイムが始まるのであった。 勝負はすぐに見え始めた。それはもう、カザリン神官側の明らかな不利であった。 「とりゃぁぁ!」 ミリアは奇声を挙げると、椅子の脚でカザリン神官に殴りかかった。長さ六十センチほどの木 片を片手で力強く振り回す。ブンブンと空気を切り裂く音がして、木片同士がぶつかり合う小気 味よい音が響く。 「はあ…はあ…」 カザリン神官の腕前も、ほとんど一流の戦士に等しいレベルがあった。一度に四回の攻撃 を、両手に構えたクラブから繰り出してくる。しかし、それをことごとくミリアの椅子の脚が弾き 飛ばしていた。 「そりゃ!」 ミリアは椅子の脚を水平に薙ぎ払い、カザリン神官の鎧の胴の部分を狙う。すばらしいスピ ードは、女神官の間合いの隙を狙った。カーンと小気味よい音がして鎧に椅子の脚がブチ当 たる。 「きゃあぁ!」 艶やかな悲鳴を挙げて、カザリン神官は引っ繰り返った。相手は名うての馬鹿力である。鎧 の上から殴られても、ダメージは相当なレベルだ。 「ア、アドルフさん…」 地面に俯せに臥した体勢で、カザリン神官は首を上げてヤードを見上げた。苦痛と絶望に歪 んだその顔が、助けを求めているのをヤードは悟った。 「ほう、ジジい、これ以上あたしに楯突こうってんの?」 しかし、目の前では悪魔のような子孫がその猫目を光らせている。つう、とヤードの背中に冷 汗が浮かんだ。普通に戦ってもミリアには到底勝てない。 「あんまり遊んでいると、あたしの必殺ストレートがドテッ腹をえぐるぞ」 岩をも握り潰すという左手の拳をミリアは突き出した。ヤードは無意識に膀胱の括約筋が弱 まるのを感じ、慌てて尻に力を入れた。「い…いや…その…な…」 ここで裏切るわけにもいかないが、目の前のバケモノと戦うのは得策ではない。ヤードの懸 命な思索が始まった。神に誓ったからには何とかしなければならない。それに、すがってくる美 人を無下には扱いたくない。 「わかった!スマン!オレが悪かった。お前に逆らおうなんていうオレが間違っていた!」 ヤードはプライドもなく、その場にひれふすと土下座を始めた。意外な展開にミリアはきょとん とし、カザリン神官は美しい顔に絶望の色を浮かべる。 「オレはお前と戦おうなんて思わない。なあ、勘弁してくれ」 「そ、そう?わかりゃいいのよ、わかりゃ」 勝者の余裕か。そして、金貨百枚のクラブを自由に扱えるための心の豊かさか。ミリアはや や苦笑しながらも、舌を出して地面に転がる二人の男女を見下ろした。 そこに隙が生まれた。瞬間、ヤードはダッシュするとカザリン神官の頭の側にかがみこむ。 「ヤードの名にかけて、傷を癒せ!ヒール!」 ヤードは素早く叫ぶと右手を平手にしてカザリンの額の上に乗せた。一気に生命エネルギー が流れこんで、カザリン神官の生命力が飛躍的に躍動する。 「こ、これは?」 一瞬の後、カザリン神官はスクッと地面に立ち尽くしていた。りりしい顔立ちは戦地におもむく 訓練された兵士のたくましさを見せていた。今までとは何かが違っていた。 「これがオレの僧侶呪文よ。ちょいと消耗は大きいがな…」 ヤードは大きく息を継ぐと、腰から崩れ落ちて地面に座り込んだ。 僧侶の奇跡は神という対象を信じることで、その力がフィードバックして魔法として形成され る。したがってそこには信仰心が不可欠となる。しかし、ヤードの場合、自身が神なので、無神 論者のくせに奇跡を起こすこともできるのであった。その代わりに消耗は激しい。ほとんどの力 を使い果してカザリンに力を与えた御本尊は、そのままお休み時間に突入していく。 「こ…この力は…」 カザリン神官はエネルギーの満ちあふれた両手を驚きの眼差しで見つめた。今までのカザリ ンでは考えられないほどの力がそこに宿っていた。当たり前だ。神本人に癒してもらえば、僧 侶はそれは強くなる。 「もはや、遅れは取りません!」 異様なほどのエネルギーがほとばしる拳を握ると、彼女は素早く床に転がっている黒檀のバ トンを拾い上げた。 「くっ、ジジいめ、余計なことを…」 燃えつきた闘士よろしく、壁にもたれていびきを掻いているヤードを見やってミリアは忌ま忌 ましそうに舌打ちをする。 「これで私はヤード神に対する職責を果たせます。全力で貴女を打ち倒させてもらいます」 ゆっくりとカザリン神官は息を吸い込んだ。目を閉じて気を練り始めると、全身から次第に薄 い光のような闘気が立ち上る。 「な、なんだ、あんたは。急に強くなんな!」 今までのカザリンとは格段差を感じて、ミリアは思わず仰け反った。 「私にもよくは解りません。しかし、これは全てヤード神のお導き。そして、ヤード神との誓いを 果たされたこのお方のおかげ…」 そう言ってカザリンはいびきを掻いているヤードの方を肘で指す。 「おかげって、そりゃ、そいつがヤードその…」 「たぁっ!」 呆れて間抜け面になったミリアの隙を突いて、カザリン神官は再度突っ込んでくる。戦いのオ ーラが、両手に持ったクラブにまで宿り、刃のような迸りを見せながら、轟音と共に弧を描い た。 「ほうっ!」 間一髪でミリアは海老ぞりに体を曲げると髪一重でクラブの一撃を躱した。しかし、わずかに 闘気の刃がその右こみかめを切った。俄に顔の右側に生あたたかいものが流れ落ちてくる。 「げっ!こ、この…」 「かすりましたか。しかし、今度は逃しはしません」 この部屋に飛び込んできた時より遥かに風格と威厳のある落ち着いた口調でカザリン神官 は間合いを詰めた。ミリアは背筋に寒気が走るのを知った。これが同じ人間かと思うほどその 威力がアップしている。 「てめー、どういうこった!」 驚きと不審に顔をしかめさせてミリアは吠えた。と、眉間の傷口から、ピューとばかりに血が 吹き出して噴水のようになる。こういうときに、頭に血が昇りやすい体質は考えものである。 「私にはヤード神様が付いているということです」 両手を広げ、クラブを水平にして、まるで自身が十字架のような体型を取って、高らかにカザ リンは宣言した。神の加護を受けた神官。それは最強である。 「あー、だからヤードってぇのは…」 「問答無用!」 後に居るバカのことだぞと説明しようとしたミリア目掛けて、再度クラブの重い一撃が放たれ る。そう、それは重いものであった。わずか一キロ程度の軽量なクラブは、今や重苦しいうなり を上げて振り降ろされていく。一撃、二撃と鋭い攻撃が繰り出されていく。その回数、片手で三 回ずつという素早さだ。併せて両手で六回。熟練の戦士でも回避はまず無理な回数である。 「うひょっ、あっ、はっ、たっ、よっ、とっ!」 しかし、ミリアは歴戦の古強者ファイターである。コミカルな叫び声とともに、ヒラリヒラリとクラ ブの攻撃を躱していく。最後の六回目ではさすがに体術が怪しくなったが、それでもなんとか皮 一枚の差で避けて、カザリンとの距離を保つ。 「ふ、ふう。なんとか躱したぞ!」 「では、次はこれを!ヤード神様と一体になったこの私には貴女は適わない!」 武器での攻撃に埒があかないと思ったカザリン神官は、両手を併せると、それを素早く額の ホーリーシンボルに重ねた。ホーリーシンボルは剣に重なった書物。この聖印は僧侶が奇跡を 起こす時に必要な品物である。 「おお、我が偉大なるヤード神よ!そのお力を私に貸してください。その美麗なる尊顔を表し、 悪しき血脈を噛み砕きたまえ!」 両手の先を額に当てて、カザリン神官は奇跡を引き起こすために神に祈った。とたん、眩し い光が起こりはじめた。なすすべもなく、ミリアはそれを見守るしかない。 「神の顔を!」 カザリンは叫ぶと、宿屋の天井を仰いで両手を高々とかかげる。すると、閃光がその指先か ら射出され、天井の板の付近で、何やら大きな顔のようなものをつくり始める。 「げぇっ!」 そして、ミリアはほとんどアゴを外さんばかりに口をあけて愕然としていた。空中に形づくられ た、まるでホログラフィーのような巨大な頭部。さわやかに笑うそれは、勝手知ったるヤード・カ ジネットその人のものであったのである! 「げっ!そ、その顔は!」 ミリアは喚いた。当たり前といえば当たり前である。なんでそんな所にヤードの顔が出てくる のか。 「ふう…はあ…」 大きな奇跡を引き起こし、カザリン神官は消耗で両膝をガックリと突いた。奇跡が神の力を 借りて行なうものでも、僧侶の体力はやはり必要となる。当然、それが大業であればあるほど 消耗は大きい。 「ふう、で、出来た!初めて出来た!」 わずかに視線を上げると、カザリン神官は、自身の頭上に顔のようなものが浮かんでいるの を見て喜びの声を上げた。「ゴッドフェイス」の呪文の完成である。これは、神の顔を現実に限 りなく近い物質として具現化し、それでもって攻撃を行なうという恐ろしい技である。当然、大技 中の大技で、彼女はいまだかつて成功したことがない。 「な、なんでだ…」 空中に突然現われたヤードの巨大な顔。ニヤリと笑った好色軽薄そうな顔は、まぎれもない 色男ヤード・カジネットのそれである。 「ふふふ、驚かれましたか?ヤード神の偉大なお姿を見て、声も出ないようですね」 まだ片膝をついて、荒い呼吸を整えながら、カザリンは自身の勝利を確信した。目の前のミリ アは声も出ない。勝った。そう思い、彼女はチラリと上目遣いで神の「尊顔」を見やる。 「えっ!」 そしてカザリンも別な意味で驚愕した。 「な、なぜアドルフさんが…」 自信は一度に失望に変化した。苦々しげにカザリンは細い目を固く、悔しそうにつむる。 「くっ…失敗か…まだまだ私には修業が足りない…ヤード神も力を貸してはくださらないのね …」 そんなことは全然ないのだが、カザリン神官はそのことには気が付かない。頭上の顔はヤー ド・アドルフ・カジネットその人である。 「ぐかぁぁぁ…すかぁぁぁ…」 そして当の本体は幸せそうな寝息を立てる。まるで不似合いな雑音が、対峙する二人の女の 間に流れていた。 「いや…その…だから、そいつがヤード…」 「ああ!なんてこと!いくらアドルフさんが美しい男の人とはいえ、神でない人の顔を映し出して しまうとは!まだ私には修業が足りない!煩悩の固まりなのです!」 至らない自分を責めるように、カザリン神官は大声を張り上げる。まあ、確かに彼女はもう少 し聞く耳を持った方がいい。 「う…」 苦悩と自責に捉われたカザリン神官は、女にしては節くれだった両手の指で顔を覆った。そ れと同時に、カザリン神官の、戦いに対するオーラが抜け出、弱り始めるのが傍目にも分かっ た。 「力が…」 カザリンはうめく。僧侶の類は信仰の力が強いほどその力を発揮する。言い換えれば、神に 対して敬虔であるという自負が僧侶の奇跡を引き起こしているのだ。この理論では、自分が不 信心と思ってしまうと、僧侶は力を失ってしまう。 「うぉっしゃ!その鎧はいただきだ!」 相手が急に弱ったことを悟ったミリアは、素早く右手に椅子の脚を持って突撃した。要する に、こいつもそういう奴である。 「とぉう!」 水平に椅子の脚を薙ぎ払い、神官の横っ腹に狙いを定める。フルパワーのうなりを挙げて椅 子の脚が襲い来る。 「あ…」 ふらり、と足元をよろめかせながらカザリン神官は辛うじてそれを躱す。しかし、もうそこには さっきまでのフットワークのよさは見られない。 「まだよっ!」 ミリアは一声叫ぶと間合いに飛び込んだ。カザリンの懐に飛込み、ほとんど密着するほどに 接触する。 「うぉりゃ」 そして平手で、バチーンとカザリンの鎧の上から一撃を食らわした。バーンと、楽器のシンバ ルを鳴らしたような音が室内に響く。 「ごほっ」 唾液混じりの呼気を咳と共に吹き出して、カザリンはがっくりと地面に崩れた。両膝を投げ出 す形で地面に座込み、肘を膝の上に置くことで、辛うじて正面を見やっている。 「よし、とっとと金属製品を出しな。そうすりゃ見逃してあげようじゃないの」 悪魔のごとき所業を達成せんため、ミリアは堂々と立ち尽くすと、椅子の脚を持って、気の毒 な神官の正面に立ちふさがった。とはいっても、椅子の脚に汚い半袖半ズボンが装備では、い ったい何者かわかったものではないが。 「そ…そんな…この、カザリン・アークがこんな所で敗れるとは…」 絶望に身を震わせ、彼女はガクリと首をたれて視線を床にやった。地面にはクラブで殴り付 けて開けた穴があちこちにあいている。この修理代でも相当なものだが、それを回収しない辺 りもミリアというバカらしい。 「ほらほら、諦めてとっとと脱ぎなってば」「く…くう…」 悔しさに体を打ち震わせて、カザリンは顔を上げた。ふと、視界の端に、さっき自身が召喚し たものがちらりと掠めた。 「!」 カザリンは一縷の希望に目を広げた。空中には、ヤードの顔が浮かんでいた。そう、さわや かと好色の両方が同居したニヤけた顔で、巨大な顔がプカプカと浮かんでいる。 「まだ…望みは…」 最後の力を振り絞って彼女は床の上に直立した。ゆらりと影がゆれるような挙動だ。 「な、なに?なにかする気か?」 「偉大なるヤード神よ…目の前のものを打ち倒したまえ!」 カザリンは両手を合わせ、瞑目してヤード神に祈りを捧げた。本尊は相変わらず部屋の隅っ こで、何する物ぞと眠りこけている。こんな神を信仰する方も信仰する方だが、とにかく本人は 必死である。 とにかく、彼女はヤード神に祈った。すると、頭上の顔が一際大きく揺れ動き始める。「な、な にぃ!」 信じられない展開にミリアは後ずさる。それとほぼ同時に、ヤードの顔がけたたましい笑い声 を上げ始めた。 「いやあ、はははは。そのね、わははは」 さわやかスマイルに高らかな笑い声。どちらもヤードのトレードマークである。その特徴ある 奇声を発しながらヤードの巨大なフェイスは砲丸のようにミリアめがけて突っ込んできた。 「な、なんだ、そりゃ!」 未だかつて目にしたことがない攻撃のパターンにミリアは戸惑い面食らう。ヤードの顔が空中 の左右から執拗な攻撃を掛け始めた。鉄球のように動くそれは、放物線を描いてミリアにアタ ックを繰り返す。 「ぐはっ」 巨大ヤードのアゴがミリアの頭を直撃した。本当に訳の解らない攻撃が見事に命中し、汚い ハーフエルフはゴロゴロと床を転がってベッドに頭を強かに打ち付ける。 「あいたた…な、なんだ…そんな変なもんにあたしは負けるのかぁ…」 一瞬、さしものミリアも敗北を覚悟した。目の前にはさわやかヤードのアップが不気味に迫っ ている。しかし、その眼が殺意に燃えていることは、散々いじめ倒した本人にのみ解る。 「さあ、その不遜な女を食らい付くし、骨の髄まで神の力を見せ付けるのです!」 主役転倒。巨大ヤードの後で、すっかり元気を取り戻した神官が、諸手をあげて命令を下し ていた。二メートルはあろうかという、巨大なアップがじわりと迫ってくる。こんな不気味なもの が近付くと、さしものミリアもわずかに涙目になって座り込むしかない。 「さあ、そん女に、神の奇跡を!」 カザリン神官は高らかに叫んだ。そして、次の瞬間、奇跡が起こった。 「え?」 今度はカザリン神官が呆気に取られる番だった。巨大ヤードの顔はクルリと向きを変え、背 後のカザリン目掛けて襲いかかったのである。 「女〜、女〜、女〜」 ヤードの好色振りを丸出しにした鼻歌を巨大フェイスは発すると、大口をあけてパクリとばか りにカザリン神官に噛み付く。 「きゃああ!」 短い悲鳴を発して、カザリン神官は巨大マウスの内部に吸い込まれた。唇のはしから、バタ バタともがく脚だけがコミカルにはみ出している。 どうやら勝ったことが解るとミリアは、一つ大きく息を継いで立ち上がった。目の前では巨大 な顔に、神官戦士が銜え込まれてもがいている変な光景がある。 パンパンと服の埃を払ってミリアは立ち上がると、こいつにしては珍しく鋭い洞察に基づいた 見解を口にした。 「女を罰しろっていうけれどさ。ジイサンはあたしのことを女として見てないから、その場合は襲 うのはあんたになるわな〜」 「あの、すまんが、ミリア。なんでオレはこうまで殴られなきゃならんのだ?」 顔に青タンを作り、切傷をあちこちに拵えたヤードは、ロープで縛られた格好悪い姿で首を傾 げた。 「ほう、何か言ったか、裏切り者」 唇をヘの字に曲げて、不機嫌そうにミリアはぺたぺたとヤードの頭を叩く。 「いや、そのさ、確かに悪かったと思っているぜ。でも、オレがやったのは回復魔法を使っただ けで…」 「まあ、その、色々あってね。罰として、あたしが飲みに行っているあいだ、そうしときなよ」 そういうと、ミリアは右手に、金貨が詰まった袋を持って、廃墟と貸した下宿を出ていった。金 貨はカザリン神官の武器防具を売り払って手に入れたものである。それで飲みにいくのはいい が、またこのボロ宿に帰ってこようとする辺りがよく解らない。 バタンと扉が締まり、俗物根性丸出しのハーフエルフは階下の酒場に下りていった。部屋に は後手に縛られたヤードと、同じく縛られたカザリン神官が座り込んでいる。そこにはもう神官 の神々しさは見られない。装備を全てはぎ取られ、下着のシャツとパンツだけにさせられたか わいそうな女がいるだけである。 「ふう、ミリアめ。行ったか」 階段の下に足音が消えたのを知ると、ヤードは器用に、肩を数度揺さ振った。コキコキという 間接が軋む音がしたかと思うと、ヤードからハラリと縄が解けた。全てにオールマイティーなヤ ードは縄抜けなどの、シーフとしての技も心得ている。 「さて」 ヤードは立ち上がって間接を填めると、地面に色っぽく座り込んでいる元神官に目をやった。 ニヤリ、といやらしそうな目付きでヤードはカザリンを見下ろす。 「ま、助けてやるか」 相手がいい女であることを確認した神は、手早く女の縄を解いた。カザリン神官は恥ずかし そうにうつむいていた。プライドは完全に傷つけられてしまっている。 「ううっ…申し訳ありません」 「ま、泣くなよ。綺麗な顔には涙は似合わないぜ」 歯が全部浮いて抜け落ちるような気障な台詞を吐くと、ヤードはベッドに腰を降ろした。カザリ ンは相変わらず泣きながら床に座り込んでいる。 「ううっ…ヤード神に申し訳が立ちません。あのような悪魔の子孫をこの世に存在させてしまう とは」 「そんな事はいうけれどな。ミリアに歯向かっても、いいことなんか何一つもないぜ。世界の平 和とオレたちの平和のためには、あれとはうまく付き合っていくのが一番なんだ」 ヤードは窓の外に目を向け、宿屋の玄関口に耳を傾けた。こういう宿屋はたいてい一階が酒 場である。判で押したかのような、階下から酔っ払ったミリアのがなる声が聞こえてきた。 「だから、そこまでして、あいつにこだわらなくてもいいじゃないか。そりゃまあ、ちょいと手は焼 く奴だが」 「こ…このままでは、ヤード神に申し訳が…」 「そこまでしなくても、あんたは立派な神官じゃないか?」 「でも、それでは、我が先祖、ヤード・カジネット様に申し訳が…」 「は?」 何か聞き慣れない言葉を聞いて、ヤードはさわやかスマイルのまま、顔を強ばらせた。額に はうっすらと冷汗が浮かんでいるが、表情だけは笑い顔に見える妙な顔だ。 「ヤードが、ご先祖?」 「ええ。我が遠祖はカタリーナ・アーク。ヤード神の十二人の妻の一人です」 「カタリーナ・アークって、昔ドルチヒの街でやっていた薬草師か?」 「よく、ご存じですわね」 「いや、その…」 思い切り思い当ってヤードは横を向いて口笛を吹いた。昔、そういう女と関係したこともある。 清楚だが端正で怜悧。ヤードのモロ好みのタイプであったためによく記憶している。 「傍系とはいえ、私はヤード神の血を引くもの。なんとしても、あの神の名を辱める、直系のミリ ア・カジネットを倒さねば…」 「はぁぁぁ〜」 ヤードは思い切り大きなため息をついていた。なんというか、オレの人生、どこまでも子孫に 振り回されるのか。そういった複雑な気持ちがそこにこめられている。 「このままでは済まされません。ヤード神の名誉を保つためには、再度あの女にリベンジを…」 調子が出て来たのか、カザリン神官の口調は熱みを帯びてきた。ヤードは困惑の顔でそれ を見つめていた。取り敢えず、この場をなんとか丸め込んで収めてしまいたい。これ以上ミリア に喧嘩も売りたくないし、自分が酷い目に合うのも勘弁である。 しかし、相手はいい女。と、なれば。割りと計算高いヤードの頭は結論を素早く弾きだしてい た。 「なあ、もう、ミリアなんて奴を倒すのはいいんじゃないか?」 少し甘えたような声を出すと、ヤードは床に座り込む女との距離をじわり、と詰めた。その目 には今までとは違う鋭さが宿っている。 「え…しかし…」 「もう、きっとヤード神もミリアのことに関しては不満足だぜ。それより、神はあんたに他にして 欲しいことがあるはずだ」 じわり、またじわりとヤードは少しずつ間合いを詰めていく。しかしカザリンはことの重要さに 未だ気付いていない。 「なぜ、貴方にそんな事が?」 不思議そうに、端正な顔を上げた瞬間、ヤードと女の視線が鉢合わせした。 「このオレが、ヤード本人だからさ!」 「えっ!」 その間隙を縫って、ヤードはダイビングすると神官に襲いかかる。そして、後はお決まりの、 欲望丸出しのパターンに突入していく。 「いやぁぁ!止めてください。神様、助けてください」 「はっはっは、オレがその神だ。オレ様のホーリーシンボルをたっぷり食らうんだな!」 下品な台詞をブチまけながら、ヤードは邪な欲望を充たすために神官に襲いかかる。言い換 えれば神との合体だが、そんないいもんではない。 「いやぁぁぁ!」 ほとんど廃墟と化した宿屋の三階に、可哀相な神官の悲鳴が響き渡る。神は神でも、信仰し ていた奴はオオカミであった。そんなこんなで今日も一日が過ぎていく。街は今日も変わらず平 和であった。 (おしまい!) |