「実はね、今度、星に還ることになったんだよ。ああ、そうだ。地球征服は完全に失敗でね。その責任をとって、私は更迭されたってわけだ」
部屋中を金ぴかに輝かせたこの悪趣味な部屋で、薄汚れた白衣の、頭が半分はげ上がった冴えない中年男は唐突に言った。
「はあ、つまり、帰郷されるんですか」
普通の感覚では理解できない発言に対して、朝売新聞デスク長である依田龍宇一は、至極適当な答えを返すしかなかった。
「ああ、そうなんだよ。私が地球に送り込まれてから13年が過ぎた。その割に地球の黄金化は進行していないと本国では判断してね」
「…で、いつ、お帰りに?」
「明日の夜だよ」
「また、急ですね」
「それだけ、私の失策に対して本国ではいらだちを募らせているということかな。明日の夜半にプルトンロケットで屋敷ごと引き上げるつもりだよ」
「はあ…」
どう見ても地球人としか見えない薄汚れた中年に対して、依田は困ったような笑いを作るしかなかった。同じ中年でも依田の顔は溌剌として精気に満ちあふれるものであったが、笑うとそれでもどこかくたびれたような表情が出た。しかし、こんな訳の分からない言葉を聞いたら、誰でも無理に笑いを浮かべるしかなかったろう。
「それで、もっとも親しい地球人だった君に、何か贈り物をしようと思うんだが」
なんなんだろうか、この男は。本当に自分が「宇宙人」とでもいうのだろうか。こんな話を聞いて、依田はますます愛想笑いをするしかなかった。確かにこの男は金持ちで、朝売新聞にとっては大きな広告主だった。彼は気前よく金をばらまいてくれた。ただ一つ、こんな訳のわからないことを言う癖さえなければ最高だったがと依田は思った。
辣腕デスク長の依田が、この自称「宇宙人」である白衣の中年と出逢ったのは十年前。まだ彼が朝売新聞の平の記者で、毎日忙しく働いている時代のことだった。当時、地球緑化運動の団体を立ち上げたばかりの依田は、公私ともに忙しかった。新聞社が地方のローカル社であるために、その資金繰りも当時のデスク長から頼まれていて大忙しだった。
そんな時に面会を申し込んできたのがこの薄汚れた白衣の男である。初対面から彼はいきなり自分を宇宙人だと名乗った。依田はさっそく電話機に手を伸ばして、近くの病院から脱走した患者がいないかどうか確かめた。
脱走者が誰もいないことがわかると、依田はあきらめて話を聞くことにした。すると男は突然、こぶし大の金塊の固まりを机の上に置いたのである。
「自分は黄金星から、人々に、金色の美しさを教えるためにやってきた伝道師だ。このお金で、貴社に広告を出して欲しい」
あまりの唐突さに依田は面食らったが、当時の朝売新聞はかなり左前で、広告の注文ならどんなものでも欲しい時期であった。というわけで、やりたくはなかったが依田が窓口になって、それから10年間、朝売新聞に、「黄金色はすばらしい」という、わけのわからない広告が毎日載ることとなったのである。
今日にいたるまでの10年間、依田はこの男とつきあい続け、自称「秘密基地」であるこの家にも何度か足を運んだ。彼の家は一面が金色で塗りたくられていて、夏の暑い時などは陽光がギラギラ反射して不気味に照り輝いていた。
男の出身地であるという黄金星は、一面が金色をしていて、人々は黄金色をことのほか好むという話であった。星中を黄金色で塗りたくり、人々の皮膚も頭も黄金色で統一してしまった結果、もはや黄金で塗る部分が星になくなってしまった。それで、他の星にも黄金色のすばらしさを教えようと、自分が伝道師に選ばれて地球にやってきた。依田が何度か訪問している間に聞いたのはこんな話である。
もちろん依田はそれを信じるような頭の構造ではなかったし、当然ながらこの男のことを至極疎ましく思っていた。しかし、彼が朝売新聞にとって大きなスポンサーであるのは確かであったし、新聞社に持ち込んだ黄金塊も確かに本物であったので、嫌々ながらもつき合わなければならなかったのである。
それから十年。ほぼ毎日のように朝売新聞には、一面のカラー広告が載り続けていた。黄金色に塗られたその紙面では、切々と黄金色のすばらしさが語られていた。こうして、マスコミの力によって、黄金色の美しさを地球上に広めるのだと彼は言った。
当たり前だがまったく地球上に黄金色は広まらなかった。人々は黄金そのもののすばらしさを知ってはいたが、黄金色そのものに価値は見いださなかったのである。結局、男の広告作戦は、朝売新聞社という会社を、黄金で富ませたくらいしか効果をもたらさなかった。
最近は男が払う広告の費用が減りつつあって、依田としてもそろそろ潮時かと思っていたが案の定であった。まあ、仕方がないとも彼は思った。この10年間、朝売新聞は彼の広告費で潤ったし、依田も功績でデスク長にまで出世した。大口のスポンサーを失うのは手痛かったが、これ以上この男の妄言につき合う必要がないと考えると同時にうれしさも感じていた。
「それでね、君には、地球上を色で染める装置をあげようと思うんだよ」
薄汚い白衣の男が唐突にそんなことを言ったので、依田は回想の世界から、どちらかといえば避けたい現実に引き戻された。
「色で染める?」
「そうなんだ。我が星の、地球黄金色化計画のために開発したんだけれどね。残念ながら、効果がなくて」
それはそうだろうと依田は思った。そんな機械が本当にあってたまるかと思った。あったらあったで素敵な話ではあるが、そんな訳のわからない妄想を信じるほど、彼の精神は捩れてはいなかった。
「いや、これはなかなかのものなんだ。セットしておくと、機械の周囲からジワジワと物体の色素を変色させていってね。一年もあれば、一つの惑星の色を全て変色させることができる」
「でも、この地球は黄金色になっていませんが」
まともに相手にするのは危険だと思いながらも、依田はその台詞を口にしてしまった。とはいえ、もうこの男から金を絞ることはないのだから、多少機嫌を損ねてもかまわないだろうという投げやりな態度があったことも否定出来ない。
「いや、それが、この機械はね。なぜかしら黄金色だけ発色できないんだよ。他の色は出来るんだけれどね」
「緑色でもですか?」
「ああ、緑ならきちんと出るさ。設置しておけば、1年後には緑の地球ができあがるよ」
「ほお…」
緑色、という言葉に、依田は強く反応した。彼は、次々と衝動がわき上がってくるのをはっきりと感じていた。実を言えば依田にも色へのこだわりがあった。幼稚だとは思っているが、彼は自分の夢が実現するかもという、非現実的な空想をやおら浮かべ始めた。
「それでは、いつその機械を取りにいけばいいんですか」
依田は身を乗り出した。目は強い興味の色が浮かんでいる。彼は強い期待を抱き始めていた。それは、宝くじに対する程度のはかない期待であったが、ともかく彼は強い興味を持っていた。
「明日の夜、取りに来てくれ。そうだ。十二時過ぎだな。そのころにはもう屋敷はなくなっているはずだ。跡地に、君がよく知っている形状にして置いておいてあげるよ」
「それはどうも…」
「まあ、これを使って地球を君の好きな色に変えてくれ。黄金色に変えられなかったら、私にはもうどうでもいいんだ」
男はひどく投げやりな口調で言うと、座っていたソファーに深く背を沈めた。ひどく疲れた様子であった。それを機会に依田も屋敷を辞した。こうして、朝売新聞社から一人の大きなスポンサーが消えたのだが、依田の心は妙に晴れやかだった。彼はこれから起こるかもしれない、地球緑化計画のことを考えると、胸が躍って、とてもまともに物事を思考できなくなっていたのである。
依田龍宇一にとって、緑というのは平和であり、心の安らぎ以外の何者でもなかった。それは、四国の山奥から東京へ出て来て三十年経ち、新聞の社会部のデスク長となった今でもまるで変わることがなかった。
龍宇一の育った田舎は、四国の盆地にある田園地帯で、一面が田んぼと山に囲まれた、緑一色の土地だった。春になると山は緑色に萌え、龍宇一の好きな季節が始まる。夏になると緑は濃さを増して、木の葉が日々固くなって色を増していく。それを見るのが龍宇一は好きだった。子供の頃は一日中、窓際に座って山の緑を眺めていた。それほどの緑好きが彼であった。
とにかく、緑という色に彼は魅せられていたのである。そんな彼が、朝売新聞の社会部に入社して東京に出て来たのは何の過ちであったのか。
最初彼は東京の緑のなさに驚いた。黒いアスファルトとビルの灰色のコンクリートが彼に絶望感を与えた。首都高速道路にひしめく色とりどりの車という奴は、更に彼の神経を痛めつけた。緑がないということが彼にとっては苦痛以外の何者でもなかった。
とはいえ、彼は自然保護そのものには格別興味を示さなかった。単に彼は緑色が好きだったのである。自然は別にどうでもよく、とにかく緑があればよかったのである。コンクリートのジャングルも、緑色の色で塗りたくられていれば、彼にとっては幸せであったのである。つまり、依田は、この点では変な奴以外の何ものでもなかった。
彼にとって不幸であったのは、緑という色は、建物にはとにかく使われない色であった。自社のビルは鮮やかな茶色の煉瓦風で彩られていた。人々はそのビルがモダンであり、センスがいいと褒めそやすのだが、彼にとってはそんな色など悪趣味以外の何者でもなかったのである。彼としては自社の朝売新聞ビルが真緑であることが望ましかった。夜中にこっそりペンキでビルを塗りたくっておいたら、翌日自分がどんなに幸せであろうかと思ったことは幾度となくある。ただそれを実行しなかったのは、一時の精神的な幸福を得ることが出来ても、社会的な不幸が彼を待ち受けているということをよく承知していたからである。
仕方がなく、彼は自分に許される範囲で、その、緑に対する嗜好を満足させるしかなかった。しかし、困ったことに、緑という色は、洋服にも使われにくく、緑色の背広やシャツなどは望むべくもないのであった。もっとも、真緑のシャツで通勤してくるような会社員を雇うような企業がこの世にあるとも思えなかったが。
彼に許された、緑を満喫する方法は、せいぜい自分のネクタイを緑にするとか、靴下を薄緑にするくらいの方法しかなかった。また、自分の部屋に緑色の壁紙を貼り、外には着ていくことの出来ない服を自分の部屋で着るくらいしか方法がなかったのである。
これほどまでに緑を愛する依田は、三十八才の時に「地球緑化」の団体を立ち上げたのである。それは、「地球を緑で埋め尽くす」というスローガンを掲げていた。普通の人間なら「緑」を植物としてとらえるところだが、依田の思想は違った。とにかく、緑であればよいのである。植物を使うのは、緑色を普及させる手段にすぎないが、少なくともこう唱えておけば変な人間とは思われない。町を緑に塗るのはただの変態だが、町に植物を増やすのは、熱心な運動家として尊敬の念を浴びることとなる。
このように、依田は世間的な体面を保ちながら、自分の個人的な欲求を満足させてきたのであった。体面を保つことに腐心したために、彼は熱心な植樹運動家としてその名前が知られるようになってきた。全ては彼が限りなく緑を愛するためである。この点、彼は「地球黄金色化計画」のことをまるで笑えなかった。ただ、うまく世論を利用している分だけ、依田の方が一枚上手であったといえよう。
そんなわけで、男が指定した時間に、依田はのこのこと装置とやらを取りに現れたのだった。彼のことを妄想狂だなんだと馬鹿にすることはたやすい。しかし、自身が熱望していることならば、僅かな望みにでもすがってしまうのが、この、人間というヤツの愚かな所である。
男が指定した時間に、再度屋敷に彼は出向いた。そして驚いた。先日までは古い洋館だった屋敷は僅かの間にすっかり消えていた、後には一面の緑が広がっていた。
随分早い解体工事だと依田は思ったが、考えればこれはおかしい。屋敷を解体したなら、後は更地で、地面が露出しているのが当然である。こんな風に、一面の緑など広がらない。
しかし依田はそのような矛盾に気づかなかった。彼は夢中だった。自分の夢を叶えてくれるかもしれない素晴らしい装置が、この草むらのどこかに隠されているのだ。彼は地面をかき分けた。一面の緑色の地面には、なぜだか草の感触はほとんどなかった。少ししめった地面をかき分けていくと、その中に何かが落ちていた。
「なんなんだ」
依田はそれを拾い上げた。長方形の立方体に、大きなダイヤルがついている機械だった。ダイヤルには60分とか30分とかいう文字が刻まれていて、目盛りが等間隔に付けられている。そのダイヤルを依田は捻ってみた。捻ると、ジーという機械的な音を立てて、タイマーが作動しているように思えた。
なんのことはない。これは、多くの家庭で主婦が使用している、いわゆるキッチンタイマーである。
「ばっ、ばかばかしい」
依田は少しつっかえながらも叫んだ。やはり、ダメだったかと思った。少しでも期待していた自分が恥ずかしかった。まるで当てにならない言葉なのに、サンタを信じる子どものごとく、無邪気に願った自分が恥ずかしかった。齢五十路にも近い男が、である。
依田は怒りを込めて、そのキッチンタイマーを投げ捨てようとした。空には月は無かったが、いくつもの明るい星が焼いている。その空向かって、依田は持っていた機械を放り投げた。
いや、投げなかった。彼の行為は、その時に寸前で遮断された。彼は気が付いた。今まで空に明るく赤く輝いていた星があった。夏の星座、サソリ座の星。アンタレスという名を持つその赤色巨星は、その寸前まで、赤く、激しく輝いていたはずだった。
しかし、今は違った。依田は目をこらした。不思議だった。真っ赤な星火星にも比せられるサソリ座一等星のアンタレスが、今は緑に輝いている。
「え…」
依田は短い音節の発生の後で絶句した。そして放り投げようとしていたキッチンタイマーに酷似した機械を再度しげしげと眺めた。
タイマーはジーと音を刻んでいた。そして、空の星は緑色のままである。
「まさか、本当に?」
独り言を言って、依田はキッチンタイマーを強く握った。そして彼は再三夜空に目をやった。確かに星は緑だった。アンタレスだけではなかった。夏の星座、こと座のベガに、わし座のアルタイル。それらの星々も、今は緑色になって、輝かしい光を地上に投げかけている。依田はさして天文学には詳しくなかったが、それでも、それらの星が、緑色ではないことくらいはよく承知していた。
まだ半信半疑であったが、依田はその機械を捨てることを止めた。そして、少しだけ期待をしてみることにした。ひょっとすれば、自分の望む理想郷が到来するかもしれない。その期待は、この機械を拾った時に比べれば一層強いものとなっていて、まだ疑惑の粋は出ていないものの、かなり強い希望となって彼を捉えていた。
結局彼はそのタイマーを持ち帰った。そして、ダイヤルを60分の所にセットした。分数に意味があるかどうか解らなかったが、とにかく彼はそうしたかったのである。そのようにタイマーを設定すると、依田は仕事の疲れのせいで、崩れるようにベッドに倒れ込んで眠ってしまった。
翌日、依田はいつも通りに目を覚ました。タイマーの目盛りは、昨日と同じく60分のところにあって、特に動いている様子はなかった。
そして、何も変わっていない部屋の状況にも彼は気が付いた。部屋はいつも通り、緑のグッズで埋め尽くされていて、パッと見る限りまるで違いは見あたらない。
「やっぱり、嘘だったか」
予想通りであったものの依田はやはり落胆を禁じ得なかった。宝くじも、当たらないとは思いつつ、外れた時には精神の挫折を覚える。依田も同じだった。
「まてよ」
そこで彼は思い返した。部屋が変わっていないのも当然である。なぜなら、元々が緑なのだから。
(ひょっとすると…)
依田は軽い興奮に、常人が絶対に感じない期待を踊らせて、慌ててマンションの外に出た。彼が住んでいるのは都心のワンルームマンションである。彼には妻も子もいない。まあ、このような奇特な趣味を隠匿しているような男と家庭を持ちたい者もいないし、依田の方もそれを望まなかったのだが。
「うわぁ!」
マンションの十三階。外に面にした渡り通路に足を踏み入れた依田は、年甲斐もなく童心に返っていた。今まで見慣れた風景は、見たことがない不思議なものに変わっていた。
昨日まではここから池袋駅の煩雑なターミナルが眼下に広がっていて、色とりどりの電車がそこに出入りしているのが見えていたはずである。彼の好きな山手線の、黄緑ラインの車両も走っていたはずであった。しかし今はそれが一面の緑になっている。線路も、車両も、ホームまでもが緑色を帯びていた。わずかに地面と、ターミナルビルが元の灰色を保っていたが、それも灰緑というべき微妙な色となって、他との違いを僅かに出しているのみである。
その西手に広がる板橋の住宅地も、また一面の緑色になっていた。屋根の瓦やトタンがそれぞれ緑色になっていた。瓦は濃い緑で、トタン屋根は黄緑色になっていた。元々緑青錆で緑色だった寺院の屋根はそのままだったが、かえってこちらの方が自然な緑色を視界に落としているのだった。
「まだ、屋根には統一性が欠けるな」
緑色が不揃いな処に依田は少し不満だった。しかし、ともかく理想の世界は到来したのである。彼が長年望んでいた理想郷が、こうしてここに出来上がったのだ。
「うへ、うへへ」
彼は不気味な笑い声を発しながら、眼下に広がる都心を眺めた。目の焦点は既に定まらず、崩れた相好は、いつも新聞社で見せている、辣腕デスク長の彼とは思えない。
「そうだ!」
次の瞬間、依田は真顔になって自室に駆け込んだ。彼はこれまで自身の欲望が満たされたことに満足していたのだが、そこで初めて気が付いた。一夜のうちに町が、この東京が緑色になってしまったのだ。人々はきっと混乱をきたしているに違いない。
的確な読みであった。彼はすぐにテレビをつけるとニュースに目をやった。七時になってニュースが始まる。いつもの音楽が流れてきて、全身が緑色になった、不気味なニュースキャスターが現れた。皮膚の色まで緑に見える。人間までも緑になったのかと依田は感心しながらも、どのような混乱が起こっているのかを察知するために精神を集中した。
何も起こっていなかった。町はいつもの通りに動き始めていた。ニュースキャスターは、夏の到来を、ヒマワリの花の映像と共に流麗に語った。ヒマワリの花は緑色だった。依田は変な感じがした。次にニュースは、川で水遊びをしている子どもを映した。川の水は緑色で、カメラに向かって飛んでくる水しぶきまでもが緑色だった。しかし人々は動揺などせず、カメラの向こうで笑っていた。依田はますます変な感じがした。水遊びをしていた子どもがカメラに向かって笑いながらピースサインを送ってくる。緑色満面の笑顔だ。依田は少し気分が悪くなった。そこでテレビを消して、再度ベッドに潜り込んだ。なんなんだ、と彼は思い始めた。どこか、狐につままれたような感じがした。
今日はこのまま出社を見合わせようかと思ったが、彼は思い出した。今日は彼の主催する、「地球緑化」団体の会合が、朝売新聞社大ホールである。依田が司会者となって、団体の、今後の活動について話し合わなければならない。抜け目ない依田は、自分の勤める朝売新聞社を、自分が主催する団体の後援者とさせることに成功していた。その分依田の責任は重かった。だから、今日はなんとしても出社する必要がある。
そういうわけで、彼は出版の準備をするために白いカッターシャツに袖を通した。シャツは薄い緑色をしていた。依田は軽い目まいを覚えた。ネクタイを手に取った。ネクタイは薄緑と黄緑のストライプになっていた。依田はくらくらした。最後に夏の背広をクローゼットから出すと、鮮やかな青緑色になっていた。誰がどうみても異様な色のコラボレーション。依田は大きく溜息をついて、それらの仕事着に袖を通した。
不安な気持ちを覚えながら、依田は朝売新聞社へ出社した。この新聞社は地下鉄日比谷線は広尾駅の近くである。依田のマンションからは、池袋の駅まで出て、山手線で恵比須下車。そこから地下鉄に乗り換えて広尾で下車し、地上に出るのである。
池袋の駅は、彼が階上から見た時よりも、一層緑色をしていた。ホームと電車の区別は辛うじて付くが、それも緑色の違いだけでしかない。
いや、もっと甚だしいのは駅の構内である。一面が緑になってしまった建物は、何が改札口で、何が階段なのかが実に判別しがたくなっている。
依田は定期券を持っていたので、切符を買うという挑戦には及ばなかった。しかし、気持ちを落ち着けるためにコーヒーを買わなければならなかった。緑の箱形のものがあったので、ポケットから小銭入れを探った。一面が緑色のコインが五枚あった。何がなにやらわからなかったが、一番大きなコインが五百円玉だと思われたので、なんとか箱の投入口を捜していれた。また困った。見本のドリンクがどれも緑色で、何の飲み物かわからない。仕方なく見当でボタンを押すと、ガコンと音がして缶が出てきた。プルタブを引いて缶を開け、飲み下してみるとコーヒーだった。しかし色は思い切り青汁だった。
依田は次第に恐怖に駆られ始めていた。初めは緑色に喜んだものの、こうまで全てが緑だと実に変な感じがするのである。今飲んでいるドリンクだって、味こそはコーヒーなのだが、こうまで緑だと気分はほとんど青汁か野菜ジュースだ。
コーヒーを飲み終えると、依田は電車に乗り込んだ。山手線の車両は、銀色の車体に黄緑色のラインが入ったものである。いや、あったといったが正しい。今は全身黄緑の車両が入ってきた。もっとも、それは昔の山手線の車両がそうだったから、そこでは依田はひるまなかった。ひるんだのは、通勤客でごったがえす車内に突入してからだった。まず、緑色である。薄緑色の空間の中に、濃い緑、青緑、そして、顔の凹凸が微妙に濃淡が違って、かろうじて顔が判別できる人々が、蒸し暑い車内で押し合いへし合いしている。
さすがにこれには依田も恐れた。緑が偏執狂的なほどに好きな彼ではあるが、こうまで全てが緑であると、何がなんだか解らなくなってくる。
また、おかしく、恐ろしいのは、町行く人々がこの突然の変化を、少しも不思議に思っていなかったことだ。一面は緑だし、人々の服装は緑だし、他に色の入る余地が無い。それなのに誰もがこの状態を変に思っていないらしい。
ひょっとすると、自分一人がおかしくなっているんじゃないだろうか。町は本当は緑になってなんかいないで、自分だけがこのようにものを見ているのではないだろうか。
異常な人間ながらも頭脳は鋭敏な依田がそんな事を考えたのもまた正しいことである。依田は会社のある地下鉄広尾の駅に着くと、階段を上って地上に出た。広尾の駅から有栖川公園への道を徒歩で一分そこに朝売新聞社がある。
新聞社の途中に小さな果物屋があって、贈答品の高級果物を店に並べて売っていた。それらの果物も鮮やかな緑色である。依田は目を丸くした。店に並んでいるのはつややかな曲線がきらきらと輝く、外見だけはリンゴに見える物体。いや、おそらくリンゴだろう。しかし色は思い切り緑である。
「なんだ、これは」
思わず依田はそれを手に取った。やはり、緑だった。
「なんだって、あんた、リンゴじゃないか」
店前に立っていた店主が、リンゴを手にした依田向かって不審げに言う。
「この色、変じゃないのかね。リンゴにしては」
依田は、慎重に言葉を選んだ。ひょっとすると本当はこのリンゴは緑色じゃないのかもしれない。それを確かめるために、慎重に慎重を重ねた発言だった。
「変って、緑色でもいいだろう」
「そうかい?」
店主の台詞には、特に緑色を怪しんでいる様子は無かった。依田は口元が震えるのを感じた。やはり、世界は他人にとっても緑色に見えているようだ。しかも、それが他の人には可笑しく思えていない。
「それはそうと、そのリンゴ、買うのかね。触ったからには、買ってほしいが」
「あ、ああ。もらうよ。ちょうど腹が空いていたところだ」
動揺のせいか、わけのわからない答えを依田はしてしまう。彼は代価を払うとリンゴを受け取った。そして、かぶりとかぶりついてみる。やはり、味はリンゴだった。かじりついた中身も緑色だったが、味はとにかくリンゴだった。
「いかんな。早く慣れないといけないな」
そんなことをいいつつ、依田はリンゴをかじりつつ、朝売新聞社に出勤した。しかし、決意とは裏腹に、彼は著しく動揺していた。そんな感じだったから、その日は仕事場についたものの、まともに仕事ができるわけがない。結局その日は、「地球緑化」団体の会合が終わると、彼はとっとと早引きをして家に帰ったのである。
さて、依田がリンゴを買って新聞社に向かった時まで時間を戻す。彼の不審な千鳥足を見送りながら、果物店の店主はこう呟いていた。
「緑って、青リンゴだから緑でもいいじゃないか。うちの商品にケチつけやがって」
その日依田は早退して、とっとと寝込んだ。何しろ目の前がチカチカするわ、緑色は押し寄せてくるわで、まともに仕事はできず、精神的に激しく動揺するばかりで終わったのである。いつもなら熱っぽく、緑化運動について話すはずの、「地球緑化」の会合も、代表の依田が乗り気でなかったので、実に味気なく終わってしまった。
翌日、依田が目覚めると、緑の勢いはもっとひどくなっていた。元から部屋中は一面が緑であったのだが、その様子はいっそう酷くなっていた。
まず、トイレに立って出すものを出してみると、思い切り緑の液体が出てきた。依田は気分が悪くなった。水道の蛇口をひねると青汁としかいいようがないものが出て来る。飲んでみると確かに水だが、色のせいか、どこか生臭い感じがする。気のせいだと思いながらも、水を飲んでいるという感覚はしない。
高熱を出した病人のように、依田はガタガタと震え始めた。いけない。これはいけないと思った。彼の後悔は次第に強くなり始めた。どうして、自分は、世界が緑になるように望んでしまったんだろうと思った。地球全体が緑になるなんてばかげたことだ。
そんな風に後悔をしていると、あっという間に出社時間が迫って来た。休んでしまいたかったが、今日はまた、部長から叱責のために呼び出されることが確定していて、休むなどという大それた事はとうてい出来ない相談であった。理由はわかっている。昨日の「地球緑化」の会合でへまをやったためだ。「地球緑化」は近々大規模な植樹キャンペーンをすることになっていて、朝売新聞社は全面的にその後援をすることになっていた。しかし、昨日の会議では、代表の依田はほとんどふぬけで、緑化運動にまるで熱意が見られなかった。その叱責である。そして、それは相当厳しいものになるはずであった。
しかし、何でこうまで何もかも緑色になってしまったのか。自分の初めの欲求とは裏腹に、依田はそんな不届きなことを考え始めた。勝手なものである。
(そうだ、あの装置だ)
依田はそのことを思い出した。そうだった。あんな装置を信じて使ったから、世界が緑色になってしまったのだ。話は早い。ダイヤルを元に戻せばいいじゃないか。
彼は素早くベッドの横のサイドテーブルに置いておいたキッチンタイマー似の機会を見た。タイマーは相変わらず60分のところにセットされていて、目盛りそのものは動いていないが、
ジーという機械音を発していた。これを元の、0分に戻せば視界は元に戻る。依田は信じた。とにかく、今は元に戻って欲しかった。彼は力を込めてタイマーのつまみを握り、数値を0にセットした。
何も起きない。変わらなかった。タイマーはまだジーという機械音を発している。そして視界に全く変化は起こらない。世界は相変わらずの緑一色である。
(変だ)
変だと依田は心中で呟いた。少なくとも、機械を作動させたときは、短い時間のうちに変化が起きていた。星はすぐに緑になって、翌朝視界は見事なまでに緑一色になった。しかし、タイマーを戻したというのに、視界には特に大きな変化は見られない。部屋の中は相変わらず緑である。
(と、いうか、部屋は元から緑なんだ)
依田はそのことをやっと思い出した。途端、携帯電話がけたたましく鳴った。画面に流れる文字は、朝売新聞企画部長室である。依田は身もだえした。今は緑よりも、部長の叱責の方がまだ恐ろしい。
そんな訳で、依田は今日も叱られる為だけに朝売新聞社に出勤したのだった。部長室に行くと、思い切り緑の企画部長が待っていて、緑色の険しい表情で依田を叱責した。ここまで叱られるというのは、入社一年目以来の屈辱だった。しかも、緑色が怒っているのである。依田は自分のミスを棚に上げてひたすら腹を立てた。彼はまた、緑が嫌いになったように感じていた。
そんなこんなで、部長に叱られるのが終わると、依田はとっとと帰宅した。家に戻ると、布団はほとんど一枚の牧草のように緑色になっていて、頭から被るとなんだかチクチクした。もう嫌だ、と彼は思った。頼みの綱はタイマーが逆に作動して、元の通りの視界に戻ってくれることだった。
年甲斐もなく、布団をひっかぶっている内に、依田は気を失った。そして夢を見た。緑色の夢だった。牧場かどこか解らない場所に彼は居て、緑色の羊と山羊が、彼の身体をムシャムシャと食べる夢だった。「俺は牧草じゃねぇ」。そう叫んで依田は意識を取り戻し、また失神した。夜明けまでそんな精神喜劇が幾度も繰り返された。
ダイヤルを逆に回したので、依田の視界はようやく元に戻り始めた。
と、いうのは彼の希望的観測で、15度目に意識を回復した時には、緑の視界はもっと酷くなっていたのだった。草のにおいがしてきそうな鮮やかな部屋で依田は実にさわやかでない目覚めをした。昨日帰った時のままの服装、カッターシャツにネクタイ、素盆の姿だったが、やはりそれらは緑だった。全身が汗びっしょりで、ベッドから降りると汗が滴った。緑色の汗だった。
「ぎゃああ」
依田は悲鳴をあげた。慌てて洗面所に行って自分の顔をのぞき込むと、昨日はまだしも土気色に見えていた自分の顔が、腐った死体のような緑色になっていた。依田は絶望した。
「ダメだぁ!」
彼は一頻り叫んだ。しかしどうにもならなかった。しばらく叫び続けると、ようやくそこで依田はあきらめた。
叫んでもどうにもならない。とにかく疲れていて、今はどうにもならない。このまま仕事も休んでしまいたかった。しかし、デスク長である彼には、今日も重大な使命があった。今日は、依田の取り仕切る緑化運動の関連組織の長と会わなければならないのだった。
リヒテンシュタインに本部を置くというその組織は、自らを「緑騎士団」と名乗り、世界をかけて地球植樹運動に取り組んでいる。森林伐採や焼き畑農業に頑強に抵抗して、時には座り込み運動だけでなく、暴力にまで訴えるという過激な組織である。しかし、こっちは本当に植物を大事にしているので、依田の組織よりはまだまともな理念であるといえよう。
この、過激組織とコンタクトを取ることができたのも、ひとえには依田の緑に対する情熱からだった。この団体はほとんどの人には知られておらず、取材に対してもかたくなに門戸を閉ざしていた。ところが、その団体が依田の、長年に渡る交渉によって、今回初めてインタビューに応じるというのである。これは、朝売新聞にとって特ダネであったし、デスク長の依田の功績以外の何ものでもなかった。普段の彼ならその成功を誇りとして、謙遜などなく人々に自慢をするだろう。しかし、今回はもう緑など見たくもないのだ。
しかし出社しないわけにもいかず、加えて今日のインタビュアーは依田自身だった。そして、今回の会談に、社としても期待するところが大きかった。依田は確かに変人であったが、新聞記者としての腕は抜群だった。自分の得意分野でその能力を最大に発揮したという点で、彼は奇人で有りながら偉人だった。しかしそんな偉人も、今日という今日は、緑をこれ以上見たくないという嫌悪感に激しく支配されていた。
今日という日が終わったら、しばらく休養しよう。そして、この緑一色を解決する方法を考えよう。依田はそう思った。ともかく今日という日を無事に終えてからの話ではあるが。依田はもう、何も食べずに出社することにした。テーブルの上には、昨日飲み残したオレンジジュースが青汁になって置いてあった。まだしも昨日は多少黄緑色をしていたジュースだったが、今では完全に濃緑の液体に変わり果てていた。依田は緑を呪った。
森だかなんだかよく解らない駅に入って、これまた緑の電車に乗って、依田は朝売新聞本社に出勤した。新聞社ビルは、もう完全に緑色だった。昨日は制服を着ていたように見えた守衛も、今日は全身青カビに包まれた、怪人のようにしか見えない。なんなんだ、と依田は思った。とんでもないことになってしまった。依田は心底、緑を呪った。そして、宇宙人を呪い、自分にこんな機械を押しつけたあの男を恨んだ。そして、緑を好きになっていた自分をも恨んだが、事態の変化はまるで無かった。
緑の塊となってしまった朝売新聞社に入り、依田はひたすら自分のデスクで時間を待った。早くインタビューを終えて、とっとと上に帰って眠りたかった。家だ。自分の部屋だ。そうだ。あの、緑一面の自分の部屋…依田はまた気分が悪くなってくる自分を感じた。
「デスク、お茶をどうぞ」
全身緑の、制服まで緑色をしている女がお茶を持って依田の机に置いた。声でなんとかそれが、「トニオ」と部内であだ名されている極めつけの醜女、革原針子と判別できた。しかしこうも緑では、いつもの醜さも色あせてしまう。いや、取りあえず濃い緑色で着色されてはいるのだが。
「ああ、ありがとう」
依田はそう湯飲みを取った。のぞき込むと、中には緑色の液体があった。
「緑か…なぜだ…」
思わず、依田はそう口にする。
「え?ええ?」
不審に思ったトニオこと革原は、声だけは可愛らしく返答する。
「どうかされたんですか?」
「いや…なんか、不思議にならないかい。こうも緑色だと」
「そうですか?緑色なのは当然じゃないですか」
「そうかな?」
「そうですよ」
やはり、緑色だらけの世界はおかしくはないらしい。しかし、なぜこうもみんな、緑色だらけなのに冷静でいられるのか。依田はそれが不思議だった。おかしいのは自分だけなのか。世界が緑色なのはみんなにとって、もはや当然になってしまったのか。なのに自分だけがおかしく感じている…依田の背筋は震え始めた。自分だけがそう思っているということが恐かったし、世界に順応できていないらしい自分もまた惨めだった。それが自分の望んだ世界だけにその思いはなおさらだった。
そんな風に震える依田を尻目に、編集室の流し場にたった革原は一人ブツブツと呟いていた。
「緑茶が緑色なの、当たり前じゃない。何言い出すのかと思ったら。変なデスク長ね」
ついに、時間はやってきた。依田はそれでも威儀を正してネクタイを締め直し、メモとテープレコーダーを持って、談話室に向かった。既に緑一色でなんだかわからなくなっている社員らしい塊の話では、既に「緑騎士団」のメンバーは到着しているということだった。談話室は十六畳の絨毯張りの部屋で、ソファーと机が置かれていた。ソファーは三人がけの長いもので、その反対側に、机を挟んで、新聞記者のかけるソファーが置かれている。
ソファーには三つ、緑の塊が座っていた。それでも辛うじて目鼻が陰影で判別できて、人間であるということがわかった。依田はソファーに座った。横には通訳とおぼしき緑の塊が座る。もうこの時点で依田は逃げ出したかった。しかし、彼の、職務に対する使命感が、辛うじてその場に彼をとどまらせていた。
「デスク、まずは何から言いましょうか」
通訳の声がした。声で辛うじて、その塊が通訳の稲川と分かった。
「そうだな。ええと…まず、緑化運動に対する、「緑騎士団」の役割について聞こうか」
気を取り直すと、依田は通訳の稲川にそう命じた。彼は早速、変になまったドイツ語で語りかける。依田にはドイツ語はよくわからなかったが、それでも話が通じているらしいのは、緑の三つの塊が動いているので判別できた。
「ええと、まず向こうが紹介してきました。右から、「緑騎士団」の顧問グリンデワルト氏、真ん中が会長のミドデリゼッカー氏。左が広報のラスリミド氏だそうです」
稲川が、ソファーに座っている三つの物体を指さしてそんな事を言った。依田は聞き違いかと思ったが、確かにそれは彼らの本名だとのことだった。そういえば、ドイツならあり得ない名前でもない。しかし、依田は寒気がしてきた。なんでこうまで緑なんだろうと思った。
仕方なく依田も自己紹介をした。依田龍宇一。龍宇一はリュウイチと読み、漢字では緑一とも当てられる。そんな事を依田は稲川を通じて言わせた。言わせると三人は大きく感嘆の声を挙げた。依田の名前の不思議さに向こうも感心したようである。お互い様かと依田は溜息をついた。
「今回わざわざインタビューに応じたのは、ミスター依田が、「地球緑化」という団体の代表を務めているからだ」
話は本題に入り、「緑騎士団」の会長ミドデリゼッカーが稲川を通して話し始めた。そして彼らは熱心に、緑化運動の大切さを説明した。
「我々は、緑を守らなければならない。しかし、この日本の首都東京では、少しも緑化運動がされていない。それどころか、山林の切り開き、森林の伐採が今もなお行われていて、先進国の中ではもっとも緑が少ない町となっている」
ミドデリゼッカーはそういった。緑が少ないだと。依田は舌打ちした。こんなに全体が緑になっているのに、お前らは気が付かないのか。依田は、自分の視界の不思議さを、どうしてこの塊達が理解してくれないのかいらだち始めていた。
「今こそ、我々は共闘しなければならないのだ。選択の余地はない」
「共闘ですと?」
依田の疑問語を、素早く稲川が通訳してミドデリゼッカー氏に伝える。ミドデリゼッカー氏は、我が意を得たりという風に喜色満面で、またしゃべり始めた。
「そうだ。貴君の団体、「地球緑化」と、我が団体「緑騎士団」は手を組み、この東京の緑を守る必要がある」
「ええ!」
そう叫んだのは、通訳の稲川と、依田当人の二人だった。
「だ、そうですよ!あの武闘派緑化擁護団体「緑騎士団」が「地球緑化」に同盟を!こ、こいつはスクープだ!すごいですよ、依田さん」
若い稲川は興奮に弾んでいた。謎の、しかし実力は世界に冠する団体が、こんな日本の、しかも変な新聞記者が主催する団体に同盟を申し込んできたのである。それは素晴らしく栄誉あることで、そのネタをつかんでいるのが今のところ朝売新聞だけ。彼が興奮するのも無理はなかった。
反対に依田は、別の意味で興奮を感じていた。冗談ではないと思った。これ以上、緑が増えてどうなるのだと思った。いや、いつもの、今までの依田なら、ミドデリゼッカー氏と、「緑騎士団」の申し出を受けて、自身の緑大好き人間ぶりを堂々と宣言したであろう。しかし今は違うのだ。もう緑なんて視界から全て追いやってしまいたいと考えているのが、現在の依田なのである。
しかし、この申し出をまさか断るわけにもいかない。「緑騎士団」は武闘派で知られる緑化団体である。彼らに反対したある小国の内閣が、彼らによって密かに始末されたという噂さえあるほどだ。
いったいどうすればいいのか。依田の背筋をツウと冷たい汗が走った。握った手に汗が滲んで、甲がに水滴が噴き出してきた。その水滴までもが、しわり、じわりと緑色の濃さを増してくる。
「手始めに、まずは都営地下鉄の進捗を止めようと我々は考えている。武蔵村山市の工事現場に座り込み、重機を破壊して、我々の戦いを宣言するつもりだ。ミスター依田。名前までもが緑に由来する貴君は、我々と同盟する資格がある。嫌とは言わせないし、言わせたくもない」
稲川が、ミドデリゼッカー氏の、高圧的な台詞を日本語に訳して告げた。都営地下鉄の阻止だと。しかも重機を破壊?依田の辛うじて残っている正常な精神が作動していた。馬鹿な、と彼は思った。そんな運動をしたら、依田は間違いなく投獄されて、全ての地位を失う。
緑が好きなんて、異常な人間のすることだ。緑だと?消えろ!消えろ!消えてしまえ!依田のシナプスの中でそんな声が執拗に、心臓の鼓動の様に繰り返され始めた。
「ミスター依田。迷うような余地はないと思う。我々のような団体と貴君の団体が同盟するのは大変意味があることだと思う」
両側に座っていたグリンデワルト氏もラスリミド氏の二人が立ち上がった。彼らは見下ろすような形で依田を威圧した。そしてミドデリゼッカー氏も立ち上がる。依田の前に緑色の大きな壁が立ちふさがった。
「さあ、ミスター依田。我々と一緒に、緑を広めるんだ」
ミドデリゼッカー氏のその言葉はドイツ語だったが、確かに依田の耳には日本語に聞こえた。緑だと?依田は叫んだ。
ふざけるな。もう、緑なんか全てこの世界からブチ壊してやる。
依田も立ち上がった。彼は手を強く握りしめた。それを、握手の合図と思ったミドデリゼッカー氏が、満面の笑みで握手するための手を差し出す。
「うおらぁ!」
その顔面に向けて、依田は渾身のパンチを込めた。ボスッと音がしてミドデリゼッカー氏が後ろに転がった。その場を見ていた稲川の話では、紅の大河が応接室に流れたという。しかし、それは依田にとって、ただの青汁にしか見えない液体だった。
「この野郎!血までも緑か!緑人間め!」
たちまち依田は奇声を挙げると後の二人、グリンデワルト氏とラスリミド氏に襲いかかった。不意を衝かれて彼らはほとんど同時に床に転がった。そして依田はその上に馬乗りになって彼らを殴り続ける。
「なんだ!緑め!消えろ!消えろ!」
「ど、どうしたんですか、依田さん!」
この時点でようやく稲川は事態の急変に驚いて慌てて人を呼んだが、全ては遅きに失していた。守衛が駆けつけて依田を取り押さえるまで四分と二十六秒。その後、医師団が駆けつけるまで更に七分と二十一秒。しめて十一分と四十七秒の間依田は暴れに暴れた。そして、朝売新聞の応接室は、文字通り、紅というべき惨状にふさわしい状態に成り果ててしまった。
その後、依田は緑の救急車で運ばれて、隔離病棟に厳重に移された。彼は病室でも騒ぎ続けた。シーツが緑だ。壁が緑だ。あまつさえ壁に頭を打ち付けて、流れる血まで緑だと大騒ぎをした。
精密検査の結果、彼の眼球に異常が発見された。光の三原色の青赤緑のうち、緑色しか感知しなくなる奇病に彼の目は犯されていたのである。医者は原因を過度のストレスと診断した。
つまり、ものが全て緑に見えたのは装置でもなんでもなかったのである。屋敷の跡地が緑の草地に見えたのも、全ては依田の眼球の故障が原因だったのである。
療養すること数ヶ月。秋風が涼しく吹き付ける頃、依田はようやく落ち着きを取り戻していた。それに伴って視界は少しずつ元の色を取り戻し始めていた。それがまた依田に、精神の平穏を与えるのだった。今の依田にとっては、緑色はもはや厭わしいだけの色でしかなかった。
退院したら部屋の緑は全部捨てよう。そうだ。「地球緑化」の会長も辞職だ。もう緑なんかまっぴらゴメンだ。名前の龍宇一も変えてやる。この名前は緑を思い起こさせるから嫌だ。赤一でも青一でもいい。緑以外ならなんでもいい。
あまりに酷い目にあったために、依田はそんなことを考えていた。またそれも偏った思想であった。一つの色だけはよくないのと同様に、一つの色だけをダメにしてもよくないのにである。結局、彼は深くは学ばなかったのだ。
しかし、こういう訳であるとすると、あの機械は一体なんだったのか。そして、あの男はどこに行ったのか。穏やかな日々が続くに従って、依田はそんなことを冷静に考える余裕を取り戻してきたのである。
やがて緑に対しての拒否感という一条項を除いて、依田の心は以前と変わらない程度に落ち着いてきた。緑色のみに見えていた視界も次第に元の視界に戻りつつあった。幸い、秋になって周囲の木々が皆紅葉して、緑が視界からなくなったのも依田の回復には助けになった。
そして、医者は退院が近いことを依田に告げた。もうほとんど以前とは変わらないくらいに回復した。そのころになると、躊躇していた新聞社の人間達も、しばしば依田の見舞いに訪れるようになった。彼の代行としてデスクをやっている山口から、依田は自身が経営していた「地球緑化」が、「緑騎士団」の攻撃によって壊滅したことも知らされた。しかしその報告は依田にはかえってせいせいしたという感覚を与えたに過ぎなかった。
退院を一週間後に控えたある日である。依田は病院の中庭の運動場で、一心不乱に雑草の芽を抜いていた。あれから、目の前に一片の緑でもあることが許せなかった。そういう点では完全に回復したとはいえない依田なのだが、ともかく彼はそんな行為を続けていた。
「おや、依田さん」
その時、ふと依田の前に立った男が居た。名前を呼ばれて顔を上げると、そこには見知った顔があった。妙に脂ぎった中年の笑顔。どう見ても地球人にしか見えない宇宙人。そう、依田に、緑にできない機械を託した、あの自称「宇宙人」の彼である。
「また、別の星でお会いできるとは思いませんでしたよ」
彼はそんな事を言った。依田はきょとんとして目をしばたたかせた。
「別の星って…」
「嫌ですねぇ。ここはアンドロメダ第八星雲のM47太陽系の第7惑星じゃないですか」
「はぁ?」
「おっと、私の任務についてはここでは口外しないでくださいよ。何しろ、この前の「地球黄金化」では、情報の乱れも作戦失敗の原因でしたからね」
男の言っていることがよく解らずに依田は首をひねった。ひねった拍子に、男の後ろに病院の介護職員が立っているのが分かった。彼は心配そうに、自称「宇宙人」の彼を見守っていた。そして、依田は気が付いた。この自称「宇宙人」は、「自分と同じ病院の服」を着ている。
依田は愕然とした。そして怒りがジワリとこみ上げてくるのを感じた。途端、眼球に強い痛みを感じた。また、あの現象が起ころうとしている。
「前回の装置をあれから、火星と木星の重力場で再研究しましてね。今度こそ、この星を完全に「黄金色」に染めることができますよ」
「あ、あんた…」
「はあはあ、わかりました。依田さんはわざわざ、地球から、私の活躍を取材しに来てくださったんですね。では、見ていてください。今からこの星全体を黄金色に変えてみますから」
男は懐から何かを取り出した。それが何かは一目で知れた。ストップウォッチ。そう、
ボタンを押すことによって、時間を計るあれである。依田は目をこらした。ストレスはまた酷くなって行った。目の前の男。介護職員。そして地面がまた、依田が嫌いで嫌いで仕方がないあの色に変化し始める。
「では、いきますよ。スイッチ、オン!」
目の前で男がストップ・ウォッチのボタンを押したのと、依田の視界が全面緑色になってしまったのはほぼ同時だった。
「やめろぅぅぅ!!!」
依田が奇声を発して男に飛びかかったのはその直後であった。その後の惨状は、それを眺めるしかできなかった介護職員と、慌てて駆けつけてきた精神保健福祉士によって克明に記録された。しかしそのひどさは、とてもこの場において描写できるところではない。
伝えることが出来るのは、周囲がいわゆる「朱」一色に染まったということと、依田の退院が永久に無くなったという事実のみである。
(終)