吸っても不健康にならないタバコ。
そんな売り込み文句を聞いたとき、寒川は耳を疑った。まったくもって信じられなかった。タバコというものは、健康に害がある。ずっとそう思っていた。タバコを売って二十年のタバコ商人、寒川商店社長である彼の信念は確固たるものだった。
と、いうわけで、そんなたわごとのような話を彼はあっさりと忘れ去ろうとした。しかし、まてよ、と思い直した。もしそれが本当ならば、ひどく左前になりつつあった会社の業績を、なんとか持ち直せると彼は思った。
タバコの専売公社が解体されて、全国に無数の販売会社ができてから十年が過ぎていた。町の駄菓子屋兼タバコ屋であった寒川商店も、このタバコ販売自由化を機にタバコ産業に参入した。しかし、折からのタバコ葉の大幅値上げと、嫌煙運動のダブルパンチを食らって、経営は文字通りの青息吐息なのだった。
タバコの販売は自由化されて値段も自由になった。しかし、タバコの葉は海外からの輸入に頼るしかない。寒川の会社のような零細企業は、円高円安の影響をモロに受ける。その上、健康にタバコが悪影響を及ぼすということで嫌煙運動は年々厳しくなるばかり。自身も愛煙家である寒川にとっては、個人的にも会社的にも苦難の時代であった。
先月、危ういところで不渡りを出しかけた寒川の会社であった。こんな次第で、寒川はなんとか会社を建て直そうと、社長室の椅子に腰掛けて、プカプカタバコを吹かしていた。はっきり言って考えはまとまらなかった。まとまるような有能な社長なら、とっとと経営危機からは脱出している。
「どうやったら、会社が助かるだろうか」
寒川の考えは考えにもなっていなかった。具体策も何もなかった。ただ、どうすればいいかということを、思っていたにすぎなかった。そんな時、かろうじて声で性別が判定できる社長秘書の魔江永が、来客があることを告げたのである。
「来客だと」
「はい、名刺を持ってこられました」
声だけは女らしい、というか、声でようやく女であるらしいとわかる魔江永は、一枚の紙片を差し出した。奪うようにして寒川は受け取った。
タバコと人間研究家 香美野 品助
こんな、インチキ臭い肩書きが名刺には書かれていた。会社をやっていると、こんなわけのわからない人物が、本当にたまにだが訪れる。今度もその口かと寒川は思った。丁重に、しかしきっぱりとお引き取りを願おう。そう思った寒川だったのだが、名刺にくっつけられていた小さな紙片に目がいった。そこに先ほどの冒頭に述べた文句が書いてあったのである。
吸っても不健康にならないタバコなら、十分に商品価値はある。寒川は決断した。本当ならば、すごいことだと思った。タバコの販売が自由化されてから、いろいろなタバコが日本に登場していた。しかし、未だ健康に害のないものは作られていない。
「よし、会おう。魔江永君、応接室を準備してくれ」
そんな経緯で、寒川は客と対面することを決めた。無能な社長ではあるが、この点彼の決断は早かったのである。
十分後、寒川は来客である香美野氏と応接室で対面していた。
香美野氏は、見たところ五十代前半の男だった。インチキくさい名刺の割には、ビシッと灰色のスーツを着ていて、髪型もきっちりと整えていた。頭の中央から両脇に垂らした髪の毛は、ロマンスグレーといってもいいほどに落ち着いていた。
「早速、興味を示していただき、ありがとうございます」
香美野氏は、なにか、蚊の鳴くような声で言った。
「あいさつはいい。なにか、すばらしい、タバコをお持ちのようだが。それを、我が社に売り込みにこられたのかね」
初対面の人間に対するものとは思えない横柄な態度で寒川は対応した。個人商店とはいえ、彼の父の代では寒川商店はかなり儲けていて、壮年になるまで彼はさしてる苦労をしたことがなかった。今の会社を立ち上げた時には、父と祖父がたくさんのお金をつぎ込んでくれたので、全く苦労はなかった。まあ、世間でいう、典型的なボンボンであったわけなのである。
「はい。その通りです。このタバコは、いくら吸っても不健康にはならないのです」
「まさか」
「本当です。少なくとも、このタバコからは、発ガンの可能性はすべて取り除いてあるのです」
「そんなことはないだろう。今まで多くの会社が開発しようとしたのに、それはできなかったんだぞ。タールとニコチンが存在する限り、その可能性は常に起こる。そして、その二つがないものはタバコではないんだぞ」
寒川はまくしたてた。タバコに含まれる有害物質のタールとニコチン。それを極度に押さえた商品は作られていた。しかし、この二つを押さえると、タバコとしての味わいがなくなってしまうのも事実だった。
「それは、本当にタバコなんだろうな」
「もちろんです。アパラチア山脈の斜面で栽培された極上のタバコを使い、タール1mg、ニコチン1mgを含む、たいそう味わいが深いものです」
「割合強いタバコだな。どうやって、そのタバコからニコチンを取り除いたんだ?」
「それは、当方の秘密ですからお教えすることができません」
当然だった。そんなことを相手が話すわけもない。企業の秘密を易々と教えるような好人物では、資本主義の市場経済ではやっていけない。
「なるほど。しかし、そのタバコが、健康に害がないという証拠でもあるのか」
「それは、お宅で実験でもしていただければすぐにわかりますよ。私がでたらめなど申していないことはすぐにわかるはずです」
「ふうん」
寒川は思索に走った。決断が求められる。四十になるまで、ほとんど頭を使ってこなかった彼にとって、これだけ考えたのは五日前、昼飯のラーメンにチャーシューを乗せようかどうか悩んだとき以来である。つまり、会社よりラーメンの方が悩む要素が大きいというのが、寒川という社長なのである。
彼の至極鈍重な思考力で考えてみると、この話は非常に怪しく思えた。健康に害がないタバコ。本当ならばたいへんな発明である。タバコを吸うと肺ガンのリスクは格段に上がる。また、発生する副流煙が、吸わない人にも害を及ぼす。そんなリスクが一切ないタバコは、まさに夢のタバコである。しかし、本当にそんなうまい話があるのか。健康にはリスクがなくても、話の方にリスクがあるのではないか。
「せっかくだが…」
断ろうとした寒川の前に、香美野氏は、指を二本突き出した。それは、まるでVサインのように見える。
「な、なんだね?」
「私どもからの卸値は、一箱あたりこれほどで」
「なに?」
「二百円です」
寒川は驚いた。相次ぐ嫌煙運動と、政府の愛煙家圧迫政策で、タバコの価格は一箱八百円にもなっていた。もし、香美野から一箱二百円で仕入れることができれば、かなりの安売りを断行できる。たとえ健康にリスクのないタバコでなくとも、価格の安さはユーザーを引きつけるに違いない。
「よし、契約しよう」
文字通り、手のひらを返して、寒川は香美野氏の手を握った。こうして、「タバコと人間研究家」と寒川タバコは手を握ったのである。香美野はその中年の油ぎった手で、強く香美野氏の手を握りしめていた。ねちゃねちゃと、二人の中年の油ギッシュな握手がしばらく繰り返されていた。
その後寒川の依頼で、某大学の研究所において実験が行われた。それは例のタバコをマウスに吸わせて、その結果を確かめるというものであった。実験動物はデリケートであり、かつ脆弱なのですぐに薬品などの影響を被る。
結果は完璧だった。このタバコを吸ったマウスには、全く健康の異常が認められなかった。寒川は驚愕した。そして、すぐに香美野氏と本格的な特約を結んだ。
効果が実証されて、すぐにこのタバコは販売されることになった。銘柄名は「スーパー・ヘルス」。健康に一切害のないタバコ。そのような売り込み文句で、華々しくこのタバコは流通世界に出回ったのであった。
「スーパー・ヘルス」は飛ぶように売れた。一箱五百円というリーズナブルな価格もよかった。ほかの社のタバコは一箱八百円前後だったから、安さもあって爆発的な売れ行きを記録した。
あっという間に寒川商店は、業界のトップに躍り出た。左前だった業績など、どこ吹く風であった。調子に乗った寒川は新しくキャンペーンを実施した。「スーパー・ヘルス」を千箱以上吸ってガンになったものには、一億円の保証金を出すというものである。
これで、全国の愛煙家は、そろって「スーパー・ヘルス」に手を伸ばした。保険金の申請は「スーパー・ヘルス」のパッケージが千枚必要であったので、彼らは吸った後も大切にパッケージを保管していた。わずかではあるが、その分ゴミも減ることになって、寒川は清掃局からも感謝された。
まさに日の出の勢いで寒川商店は業績を伸ばしていった。調子に乗った彼は、東京のお台場に新しく本社を建設することにした。全面がガラス張りで四角い菱形の建物は、どこかで見受けられた怪しい建物に似ていた。この点彼の悪趣味ぶりがよく出ていた。まあ、それはともかく、寒川は得意の絶頂にあった。
他の会社がリストラを断行し、社長といえども報酬を自らカットする中、寒川は派手な遊びを繰り広げていた。毎日のように横浜まで繰り出して、料亭をハシゴする日々だった。コース一人あたり五万円はざらの店で毎日食事をし、その後はバーへ繰り出して、最高級のブランデーをバカスカ注文した。周囲にはホステスを侍らせて、彼は飲酒を楽しんだ。タバコを吸わなくても不健康になるような生活をしていたのだが、社の業績は上向きだった。
香美野氏は月に一度、タバコを持って会社を訪れる。彼はきっちりと、注文通りの数をそろえて倉庫に納入しにきていた。そして、代金の手形を受け取ると、どこともなく姿を消す。注文はいつもファックスで行われた。ある番号に寒川が必要なタバコの数を書いて電送すると、納入日にはきちんと指定数を香美野が持ってくるのであった。
実際、香美野氏がどこに住んでいて、彼が何者なのかは誰も知らなかった。そして、寒川もそんなことにはこだわらなかった。儲かれば、彼はどうでもいいと考えていた。ある時、重役の一人が、興信所を使って香美野氏を調べようと提案した。寒川が料金はいくらだと聞いたら十万だという。彼は拒絶した。そんな金があったら、横浜に飲みに出ればいいと思った。
こうして、謎の香美野氏との関係は続けられていた。しかし、特に不自由もなかった。タバコは相変わらず好調な売れ行きであったし、その効果のすばらしさも証明されていた。ニコチンとタールを含むのに、いくら吸っても害の無いタバコ。他の社の製品を席巻して、飛ぶように「スーパー・ヘルス」は売れ続けていた。
寒川商店が莫大な利益を挙げて、寒川の名が長者番付に載ろうかというくらい、絶頂期であったある日のことである。
「なにか、ツいていないな」
寒川は、ふとそう思った。何がとはいえないが、どうもこのところ、彼自身が不運なのだった。
とはいえ、会社の方は相変わらず業績を上げ続けていた。これ以上は無いほどの好景気だった。しかし、寒川はどこかツいていなかったのだ。
些細なことだが、彼は不運だった。まず、駅のトイレに入ったら、紙が無かった。道を歩いていたらガムを踏んづけた。昼食に頼んだフランス料理が、オーダーミスで届かなかった。
本当に、小さなことでしかないのであるが、彼は実にツいていなかったのである。それが、致命的なダメージではないだけに、余計に彼を苛立たせた。夜に、町に繰り出しても、彼が一番行きたかった店は、なぜかしら突然の急用で休みになっているのだった。もっとも、次の店に行ってみれば必ず入れるので、さほどの打撃ではない。しかし、そんなほんの些細なことが彼をますます苛立たせるのだった。
ある日、彼はふと気づいた。どうも、その不運の度合いというのは、タバコを吸った本数に影響しているようなのだ。
元々から寒川はヘビースモーカーだった。一日に四十本以上吸うことはざらの愛煙家だった。その、矮小な人間性と同じくらいセコい彼は、「スーパー・ヘルス」の発売に伴って、自分もこのタバコを吸うことにしていた。健康に害がないというのが普通の人間には大きな理由だが、寒川にとっては、値段の安さが大きな理由だった。
だいたい寒川は日に二箱から四箱タバコを吸う。四箱吸ったときには、少しだけ不幸の度合いが強くなった。たとえば、行きつけの店の、彼のお気に入りのホステスが、その日に限って急病でいなかったなどの、不満度が高まる不幸である。そして、二箱で喫煙を止めていたような日の不幸は、好物のおかずを床に落としてしまうくらいの、ささやかな不幸だっだ。
どっちにしろ、不幸なことは変わりがなかった。そして、寒川がスモーカーである限り、毎日わずかに不幸が訪れるのだ。寒川はたまらなかった。わずかなものとはいえ、毎日こう、小さな不幸が訪れるのはいらいらがたまる。その日一日、どんな不幸が訪れるのかと思うと気が気ではなかった。
かといって、タバコを吸わないでいると、極度のスモーカーである寒川は、もっといらいらしてくるのだった。寒川は困った。吸っても吸わなくても結局いらいらされられる。実にストレスのたまる日であった。会社が絶好調なのに、寒川は急に絶不調になってしまった。
「どうしたんですか、社長」
声紋によって辛うじて性別が判断できる女秘書魔江永が心配そうに、イラついた顔の寒川をのぞき込んだ。不意に嘔吐を催して寒川は咳き込んだ。まさか、お前の顔のせいだとは言えなかった。
そういえば、こんなこともうまくいかないと彼は思った。金は有り余っているのだから、社長秘書も、もっと見目麗しいピチピチな人物に換えたいところである。しかし、うまくいかない。実はこの魔江永秘書は父の代から懇意にしている取引先の娘さんなので、そう易々と配置転換できないのだった。もっとも、魔江永の実務能力としてはまったく合格ラインにあるので、仕事の上では少しも不自由がしない。しかし、思い通りに行かないということが、確実に寒川の精神を切り刻んでいた。
(いかん、気を落ち着けよう)
寒川は机の引き出しからタバコを取り出した。それが、スーパー・ヘルスであることは言うまでもない。素早く秘書の魔江永が火を付けてくれる。その、すごみのある顔が接近して、またもや寒川は咳き込んだ。
咳き込んだ途端、机の上から灰皿が弾みで転がった。そして、床に落ちて散らばった。タバコの灰が社長室の絨毯の上に飛散する。
「あら、いやだわぁ。きれいにしなくちゃ」
声だけはかわいらしい魔江永がしなを作る。寒川は寒気がした。同時に苛立った。こんな、ほんの些細なことが、タバコを吸うと起きる。それは致命的ではないのだが、確実にいらいらする出来事なのである。
「いや、魔江永君。掃除はいい」
「そうですか?」
それよりも自分自身の顔を綺麗にしてくれと思いながら、その言葉を寒川は飲み込んだ。そんなたわけたことより香美野氏を呼ぶべきだ。か細い判断力がそう告げている。
「それよりも、すぐに香美野氏に連絡を取ってくれ。至急、会いたいと」
「はい」
魔江永は急いで、連絡を取るために出ていた。寒川はほっとした。ほっとして、彼は火を付けたタバコを再度吸った。吸った途端に寒川のベルトがパチンと音を立てて弾けた。腹筋の運動によって膨張したウエストがベルトを弾けさせたのだ。近所のスーパーで買ったバーゲン品だった。実に小さな損害だった。またもや寒川は苛立った。気を静めるためにタバコを吸った。すると、また小さな不運が起こる。そんな繰り返しがこの後しばらく続けられた。
やがて香美野がやってきた。ついでに、大量の「スーパー・ヘルス」も彼は持ち込んできた。相変わらずこの銘柄は売れ続けていた。それは、寒川商店の売り上げの99パーセントを占める主力商品となっている。
「毎度毎度、うちの「スーパー・ヘルス」をお買いあげくださいまして」
香美野は相変わらず、きりっとした灰色の背広に身を包んでいた。灰色の香美にそぐわない血色のよい顔つきだが、今日はいっそうそれが若々しく見えている。確かに、どこか最近の香美野は若返っているように見える。
「その、「スーパー・ヘルス」のことで話があるんだがね」
「どうかしましたか?」
「気のせいかもしれんが、このタバコを吸うとな、いや、ほんのちょっとしたことなんだが、あまりよくないことが起こるのだ」
「ほう」
「偶然と思うには、あまりに出来過ぎてていてな」
「いやいや、お気づきになられましたか」
香美野は少しだけ気まずそうに笑い、その銀色頭をボリボリとひっかいた。せっかくまとまったていたロマンスグレーが乱れて波打った。その態度は、寒川の指摘が図星であるということを示していた。
「そうなんです。我々は、スーパー・ヘルスから、健康への害を取り除きました。しかし、世の中には質量保存の法則というものがあります。社長、ご存じですか」
「いや、知らんが」
寒川はあっさり否定した。親の金で大学まですべて裏口で卒業していった彼に、そんな物理学上の話が通用する次第もなかった。
質量保存の法則は、フランスの科学者ラボアジェが唱えたものである。化学反応の前と後で、物質の質量は等しい。どのようなことがあろうとも、結果的に物質の質量は恒に一定で保たれている。こういう理屈だが、香美野の唱えた者は、それとは少しく違いがあった。
「…つまりですね、この世の中で、品物の量は、常に保たれているという法則です。一つ悪いことが起これば、どこかで良いことが起こる。こうやって世の中のバランスは保たれています」
「そんな、宗教勧誘みたいな話じゃなくてだな。「スーパー・ヘルス」について教えてくれ」
「ですから、我々は、このタバコから、健康への害を取り除くことには成功したんです。その代わり、このタバコには、幸運の害という要素ができてしまったのです。これが、質量保存の法則です」
「つまり、なんだ。このタバコは吸っても、健康に害がないが、吸うと不運になるわけか」
「そうです。ご理解が早い」
「困るじゃないか。わしはタバコを吸った後で、不幸が起こるかもしれないと思うといらいらするんだぞ」
「とはいっても、些細な不幸ですよ」
「しかし耐えられん。かといってタバコを吸わないでいるのもいらいらする。実は、このタバコは欠陥品じゃないのか?」
ついに我慢できなくなった寒川は苛立ちながら、「スーパー・ヘルス」を手に取ると火を付けた。そして、口に運んだ。肺腑まで大きく煙流を吸い込むと、やっと落ち着いた。途端、タバコの火種が転がり落ちた。それは机の上に置かれていた寒川の左手の甲を直撃した。
「あちち!」
大声を挙げて寒川は飛び上がった。
「大丈夫ですか?」
特に表情を変えるでもなく、香美野が側に寄ってのぞき込む。
「ほらみろ、この通りだ。こんな小さな不幸だが、わしはこのことに耐えられん。なんとかできんのか。明らかにこのタバコは欠陥品だぞ」
「そうはいわれましても。少なくとも、健康に害がないという売り文句に偽りはありませんから」
香美野はいけしゃあしゃあとした。そう言われるとさすがに寒川も何も言えなかった。確かに、香美野の言うとおりであり、しかも自分でこのタバコの採用を決めたのである。今更何かあっても、それは社長のせいでしかない。
「しかし、これではあまりに精神衛生上よくない。なんとか、できんのか」
「そうですね。では、一つ提案があります」
「なんだ」
「社長は、他社のタバコを吸えばいいんです。そうすれば、不幸も起きないし、いらいらもしません。うちのタバコを吸うから、不幸が起こるんです」
「なるほど!しかし、他社のタバコは高いぞ」
香美野から仕入れるタバコが二百円なのに、他社のタバコは一箱八百円もしていた。明らかに高かった。そして、社長のくせに妙にみみっちい寒川は、そんなことを気にしていたのだ。
「社長はお金持ちでいらっしゃる。そんなことは気にされない方がいいでしょう。少なくとも、他社のタバコを吸っている間は、不幸にはなりませんよ」
「まあ、そうだな…」
寒川は納得した。翌日から、彼は他社のタバコを買って吸い始めた。一箱八百円のタバコは確かに割高だったが、それで窮乏するような社長の収入ではなかった。タバコを変えたことで寒川には不幸が訪れなくなった。これで、めでたし、めでたしのように思われた。
「スーパー・ヘルス」が全く売れなくなったのはその直後だった。返品が相次ぎ、寒川産業の倉庫には、「スーパー・ヘルス」の返品があふれ始めた。
「なぜだ!なぜ売れないのだ!」
豪華なマホガニー製の机を叩いて寒川は吠えた。いくら考えても彼には解せなかった。いままでこれほど売れていた大ヒット商品が、売れなくなったのが全くわからなかった。
わからなかったのは寒川が愚かなだけで、理由そのものは判然としていた。売れるわけがない。吸ったら不幸が訪れるタバコなど。人々はようやく、「スーパー・ヘルス」の招待に気がつき始めていた。
いくら安くても、確実に不幸が訪れるものに、人々は手を出そうとはしなくなった。高くても、健康に害があるかもしれなくとも、愛煙家たちは普通のタバコを好んだのだ。
こうなると、今までの反動も手伝って、寒川商店は急速に斜陽し始めた。
「どうして売れないんだ!」
豪壮な社長室で、最近お気に入りにしているハバナ産の葉巻一本千円を山のように吹かしながら寒川は吠えた。人々が、自分が嫌った理由とまったく同じ理由で、「スーパー・ヘルス」を厭っていることが彼にはわからなかった。愛煙家たちはガンの危険をも顧みず、また普通のタバコに手を出し始めた。
人間とは不思議なものである。いくら小さいものでも、確実に訪れる不幸は、たとえそれが小さくとも好まない。しかし、「訪れるかもしれない」という大きな損失は、自分には決してそれがこないと信じている。手痛い目に遭うまで人間は、自分だけはそうならないと信じて無茶をやるのだ。
「なぜだ!このままでは会社が…」
わめき、騒ぎながらも寒川は贅沢を止めなかった。人間、一度身に付いた習慣を変えるということはそうそうできない。彼はハバナ産の葉巻を日に四十本は吸い続けた。
この、寒川の贅沢も手伝って、みるみるうちに寒川商店の借金は膨らんだ。雪ダルマ式に借入金が膨らみ、ついに手形が不渡りを起こした。そして、倒産。後は破産宣告。気がつけば、寒川はすっかり財産を亡くして、一文無しになっていた。
会社にも倉庫にも、すでに差し押さえの札がペタペタ貼られていた。性別が女らしいかった秘書魔江永も去っていった。社員も全て逃げていった。そして、明日はこの敷地からも立ち退かなくてはならない。自宅はとっくに抵当として取り上げられている。寒川には一度にすべてを失ったのだった。
自分の行き場所さえもなくした寒川は絶望していた。ものすごい不幸が彼を一度に襲ったのである。それは、彼の生きる気力をも奪ってしまうほどの不幸だった。
脱力して椅子に腰掛ける寒川の前に、気がつけば誰かが立っていた。香美野だった。
「やあ、社長。どうも、この度はたいへんなことになりまして」
「ああ…君か…」
もはや寒川はしゃべる気力もなかった。タバコさえも吸う力がなくなっていた。もっとも、商品のタバコもすべて差し押さえられて、彼の自由になるものは一本たりともなかったのだが。
「しかし、こうまで、効果があるとは思いませんでしたな」
あちこち差し押さえの札が張られた社長室を香美野はぐるりと見回した。その言葉を、ほとんど生ける屍となっていた寒川の鼓膜が捉えた。
「効果?どういうことだ?」
「いえ、質量保存の法則って奴です」
「前にも君からそんな話を聞いたが」
「世の中、悪いことの反対に良いことがある。その反対もしかり。こうして、世の中はバランスを保っている。以前に申し上げましたよね」
「ああ」
「実は、「スーパー・ヘルス」というのは、そのバランスを保たせようとするタバコなんです」
「なんだと?」
「タバコというのは、元々害があるものです。それから健康への害を取り除いたら、今度は幸運への害を植えつけないといけない」
「やはり欠陥品だ!そんなおかしなタバコのせいで、うちの会社は潰れたんだ!」
感情的に未熟な寒川は立ち上がった。そして、泣きながらわめいて香美野につかみかかった。社長であり、四十を超していながらも、人間はまるでできていない。困った男である。
「まあまあ、仕方がないんです。そうやって、世の中はバランスが保たれている。そして、社長、あなたは「スーパー・ヘルス」で大もうけをしたでしょう」
「それも一時のことだ!会社はだめになっちまったじゃないか!」
「あー、つまりですね。それも、バランスなんです。良いことがあった後には不幸があったでしょう。それも、バランスを保とうとする、「スーパー・ヘルス」の機能なんです」
「詭弁だ!こんなインチキ商品を持ち込んできて!うちの会社をかえせよぉぅ。わああ、わああ」
寒川は泣きわめいた。まったくもって見苦しいとしか言いようがない姿だった。こんな社長が率いる会社が、一時とはいえ利益を挙げたことが実はすでに奇跡であったかもしれない。
「ずいぶん、わからない人ですね」
「わかるもんか!」
「いいですか。この世は質量保存です。つまり、世の中には、福の神もあれば、その反対の神もある。社長、あなたは企業家なのに、そのことを全くおわかりでない!そう、私の正体も!」
不意に香美野は激しい口調で言い放った。今までの柔らかな物腰はどこへやら。その態度の豹変ぶりに、幼児退行していた寒川は泣くのを止めて、眼を丸くして香美野を見つめた。
「ど、どういう…」
「社長、この期に及んでも、まだ私の正体がわからないかね?」
そういうと、香美野氏の姿は何か別のものに変わり始めた。たちまち、彼の姿は、どこかで見たような、あるイメージに変化しつつある。貧相な和服姿に銀髪の長髪。貧乏たらしいその姿は、時折絵本に登場してくる、ある種の神様によく似ていた。
「ま、まさか?」
「そう、私は貧乏神」
今、はっきりと寒川はわかった。何が、小さな不幸だと思った。このタバコは自分の会社に、特大の不幸を運んできた疫病神だったのだ。そして、このタバコを吸った自分の会社は、見事に大きな不幸に巡り会った。会社は何本タバコを吸ったのだろうか十万本?それとも百万本?それだけの不幸が我が社に…寒川の意識は次第に遠のいていく。
「社長、見事にご破算でしたな」
そう言って貧乏神は、いや、債権者の一人香美野品助として、差し押さえ札を寒川の着ているサンローランのスーツにペタリと貼り付ける。
「うっ!」
極度の興奮とストレスによって、その直後寒川はひっくり返った。心臓発作だった。それが寒川商店のレクイエムであった。小さな不幸も、積み重ねると大きな不幸になる。最大の不幸が寒川を直撃した。何もかも、このタバコは持って行ってしまった。健康に害を与えないはずのタバコであったのに、結果的に寒川の健康までも奪っていったのである。
(完)