宮嶋いつく短編集

ジョカのバナナ園


 少年ジョカは、マヌエル爺さんと一緒に山岳地帯に暮らしている。
 赤道付近P国の、標高1500m級の山々が連なる山岳地帯。へんぴな農村のそのまたはずれにある山の小屋で、バナナを育てながら暮らしている。
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 ジョカはこの国の首都で生まれたが、衛生環境の悪い都会の下町でたびたび身体をこわしたので、両親からマヌエル爺さんのもとに預けられて、大自然の中で育っている。町に住んでいたときは、熱や喘息や下痢にたびたび冒されたジョカだったが、山の空気と自然の中で健康を取り戻している。山岳地帯の気候は時に厳しい表情をむき出しにするが、自然の厳しさに磨かれて、都市に住んでいたときよりたくましくなっている。
 住んでいる村は、電気は来てはいるがたびたび停電し、水道も下水道もない。ジョカは毎日、川から水を汲み、薪に火をおこし、小さなランプに光をともす、文明から取り残されたような生活をしている。山に来たときにはとまどったが、慣れると不便とは思わなくなった。
 むしろ、太陽が昇れば鳥のさえずりに目を覚まし、太陽が沈めば星の光の下で床につく、そんな暮らしが心地よく思った。

 マヌエル爺さんとジョカは、住んでいる山のすそ野を切り開いて、バナナ園を作っている。
 P国には、バナナの大農場がいくつもあり、国の主産業にもなっているが、二人のバナナ園はそのようなものとはほど遠い、小さな小さなバナナ園だ。山すそを少しずつ切り開いて、何年、何十年かけて作ってきた。
 低地の平野であれば、バナナは苗を植えて12ヶ月程度すれば、高い木の上にバナナの房がつく。標高1500mの高地は平地よりも気温が低いため、定植して収穫できるまでに18ヶ月かかる。時間はかかるが、そのぶんじっくりと太陽光を浴びて成長するので、甘みがいっそう増す。
 マヌエル爺さんが育てているバナナは、海外輸出用の品種ではない。国内で消費される生食用の品種だ。この品種は食味がとても甘いので国内では人気があるのだが、劣化が早く日持ちがしないので海外に出回ることはない。国内取引しかないのでそれほど高く売れることはないし、しかも栽培には手間がかかる。この品種を手がける農家は数少なく、大規模なバナナプランテーションではまず作られない。
 しかし、マヌエルはかたくななまでに、この品種を作り続けている。しかも、大農場はもちろん多くの農家が、化学肥料や農薬を使用しているにもかかわらず、マヌエルは緑肥だけを使い続けている。
 理由を尋ねると、「そのほうが甘くておいしいから」と答える。
「手間であろうが、じっくりと世話をしてやれば、必ずバナナは美味くなる。おれは甘くて美味いバナナが作りたいだけなのじゃ」
 バナナ園を見渡す尾根の上、マヌエルがぼそりと言った言葉を、早採りしたバナナをむしゃむしゃ食べていたジョカは、食べる手を止めて見上げた。
 爺さんの目は、甘くておいしいバナナを作り続ける夢に、年甲斐もなく輝いていた。

 マヌエルには左足がない。
 左足のひざから下は、木と天然ゴムでできた義足になっている。
 その足で、マヌエルは山を上り下りし、バナナを世話し、収穫もする。
 ジョカは最近は、バナナの木に登って収穫を手伝う。これまでは不自由な足をなんとか使って木にも登っていたマヌエルは、手伝う孫に助けられ喜んでいる。
 何十年も前のこと、この国で独立戦争が起きた。宗主国の植民地軍は訓練された軍隊で装備も充実していたが、独立運動を進める現地人たちは、旧式の銃や手製の銃、斧や鉈などの刃物まで持って義勇兵となって集まった。
 若かったマヌエルも、義勇軍に加わって独立戦争を戦った。
 ある激しい戦闘のさなか、宗主国軍の迫撃砲弾がマヌエルのそばで炸裂した。至近弾の破片がマヌエルの左足のひざから先を打ち砕いた。味方陣地にすぐさま収容されたマヌエルは、医者によって左足を切断された。
 以後、マヌエルは戦線に立つことができなくなったが、義勇軍に残り、兵站補給を手伝った。四年間の戦いの末、P国は植民地から独立した。
 マヌエルはよく、ジョカに独立戦争の時の話をする。
「おれたちは勝利した。戦いの末に、この土地に生きる者の自由を勝ち得たのだ」
 そういうマヌエルの顔は、決して笑わず、そして言葉を続けた。
「だが、望んでいた自由は求めていた希望とはほど遠かった。おれらの仲間の多くが戦争で死んだが、戦争と多くの犠牲の上で得たものは、それほど多くはなかったよ」
 独立戦争のことを話すと、マヌエルの顔は曇りがちになる。彼は独立を勝ち取ったときの栄光を見たが、独立した政府や義勇軍の分裂や腐敗も見てきている。
 果たして、独立政府は不安定でたびたびクーデターが起こり、政治経済は混迷が続いて、国民は混乱の中で塗炭の苦しみにあえいだ。役人の間では汚職がはびこり、税金の水増しや賄賂の要求、公費横領などは公然と行われていた。義勇軍の指導層が政治家や国軍幹部に転身して豪華に暮らす中、義勇兵だった者たちは市井で困窮していたが、同志だった彼らを顧みようとする上層の者はいなかった。戦線で「名誉の負傷」をしたとその時は謳われたマヌエルも、出世栄達を求めるようになった義勇軍指導層から顧みられることは二度となかった。
 独立政府に幻滅したマヌエルは山岳地帯に引きこもり、静かに暮らすようになった。かつての義勇軍の仲間とは連絡を絶ち、黙々と山を切り開き、バナナ園を作り続けた。
「戦争が起こると、どの軍隊にも正義や大義が掲げられるものだ。だが、戦争が終わるとそれはただの飾りであることがわかる。正義や大義を信じて軍隊に加わったものは、それがただの、空っ風のような言葉であると後になって気付くものだ」
 自分の経験から彼は断言し、そしてジョカに続けて言うのだった。
「戦争には行くでないぞ。傷つくだけで何も得るものはない」

 雨季が終わり、熱帯の強い日差しが照りつける季節になった。
 枝株をとって定植した苗は、十八ヶ月の時間を経て成長し、大きな房を実らせて、高いバナナの木にぶら下がっている。まだ青い房だが、これを黄色くなるまで樹上で熟させ、完熟の頃に収穫する。
 熟させたバナナは、口の中でとろけるような甘さを持つ。それまで成長させていくのがマヌエルのバナナ栽培だった。
 その収穫の時が間近に迫っていた。不自由な体を押しての重労働が報われるときが近くなると、マヌエルの表情も明るくなる。
「じっちゃん、もうそろそろおいしいバナナができあがるね。おれも収穫手伝うからね」
 ジョカの表情も熱帯の太陽のように明るく、心待ちにしている収穫について楽しそうに話すのだった。
 学校は休暇の時期に入り、ジョカはバナナ園に入ったり、山をかけたり、また村に住む同級生たちと遊びに出る毎日だった。
 村に遊びに行ったジョカを見送り、小屋の中でマヌエルは一休みしながら、中古で手に入れた、時代遅れなラジオのスイッチを入れ、チューナーを回した。
 甲高い雑音が収まると、ラジオから国営放送が流れた。
 地方でゲリラ活動をしている反政府勢力と国軍の戦闘が起こり、反政府勢力が劣勢になって後退したとの情報だった。
 そして、敗走した反政府勢力は、N州の山岳地帯に逃れた模様だとアナウンサーは伝えた。
 マヌエルはラジオのスイッチを切り、腰掛けに座って、難しい表情で考え込んだ。
 P国において、安定しない国内情勢はとりわけ辺境における反政府勢力の跳梁に表れていた。かつては大規模な内戦になって、反政府勢力が政府軍を押し込んでいた時期もあったが、外国の援助を受けた政府軍はやがて反政府勢力を圧倒するようになった。組織的戦闘はすでに十年あまり前に終結し、内戦は収まったことになっているが、今でも小規模なゲリラ勢力が辺境にいて、政府軍との散発的な戦闘が続いている。
 今回敗走が伝えられた反政府勢力は、反政府勢力の末端をなす位置にある武装集団だった。イデオロギーもなく、強盗団とも見まがうような集団だが、反社会的行為で政府に抵抗している者だけに、その勢力がN州の山岳地帯に入ってきたとなれば由々しい問題だとマヌエルは考え込んだ。
 N州の山岳地帯とはまさに、マヌエルたちの住んでいる所なのだ。
 彼らが村にやってくれば、掠奪に遭う危険があるだろう。
 だが、それにも増して憂慮することがあった。
 武装集団は政府軍と戦闘をして敗れている。戦闘によって兵力に損害が出ているはずである。武装集団が勢力を保つためにすることは、兵の徴発であることはすぐにわかる。実際、僻地をゆく武装集団は、行く先々の村々で人々を脅し、金品物資を奪ったり、一味に引き込んだりしている。
 そして昨今、徴兵の標的になるのは……。マヌエルはあごを撫でた。
『かたわの老いぼれであるおれなど、彼らには役に立たんでくの坊だろう。だが、ジョカは彼らにとって好都合の標的になる』
 夕方になってジョカが小屋に戻ってくると、マヌエルは何日か分の食料を籠に入れ、彼に渡し、言った。
「ジョカ、薪を切り出す山に入って、山小屋に五日間隠れているのだ。じっとしていて、山小屋から出てはいかん。火をたくことも明かりを使うこともならん。わかったな」
 ジョカはマヌエルがいつになく厳しい表情をして言うので、事情を必ずしも飲み込めてはいなかったが、すぐに言うことに従って、夕闇のうちに、山の中に潜り込んだ。

 ジョカを山の中に送り出してから四日後、村に反政府武装集団が侵入してきた。
 州都から遠い村は警察組織も治安部隊も即応できない位置にいる。武装集団は村を闊歩し、家々に侵入しては物資を奪略し、抵抗する者に暴力を振るった。
 村はずれの山の中に住むマヌエルの小屋にも、武装集団の小隊が乗り込んできた。
 腰掛けに腰を下ろしたまま、マヌエルは落ち着き払って武装した男たちに応対した。
「この小屋に何の用じゃな? この通り、ここには足の悪い老いぼれしかおらん。金目の物も渡せるような食い物もこの小屋にはない。わざわざここまで来たのにすまんが、おまえさん方の欲しそうな物は何一つないぞ」
 義足をこれ見よがしに示しながらマヌエルは男たちに答えた。
「ここに男のガキがいるはずだろう。そいつを出せ」
 武装集団の小隊長と思われる男がドスを利かせた声でマヌエルに言った。
「見当違いもいいところだわい。ここは年寄りの一人暮らしじゃと言っておろう」
「とぼけるな。おれたちは学校を襲撃して、名簿を手に入れているんだ。この小屋にジョカというガキがいることはわかっている。そいつを今すぐつれてこい」
 小隊長は威圧的に要求した。小隊長に従っていた武装集団のメンバーが、小銃をマヌエルに突きつけた。
「おらおら、この銃が見えねえか!」
「言うことを聞かねぇと、てめえの命ねえぞじじい!」
 武装集団メンバーが口々に脅し文句を浴びせる。鈍く光る小銃の銃口を向けられながらも、マヌエルは落ち着き払って深々とため息をついて見せた。
「やれやれ。だとしたら一足違いだわい。確かにジョカはうちで暮らしておったが、学期が終わった一週間前に、親のいる首都に帰したところなのじゃよ」
「嘘つけ! とぼけねぇでガキを引っ張ってこい!」
 メンバーの男が怒鳴り、銃口をマヌエルの額に当てた。
「ここにおらん者を引っ張ってこれるはずがなかろう。首都まで出向いて行くわけにもいくまい。それほどまでにジョカが欲しければ自分たちで首都まで行けばいいのじゃ。もっとも、お前たちは政府に追われているから、首都に近づくこともできんじゃろうが」
「このじじい!」
 マヌエルの答えに怒ったメンバーは、小銃のトリガーに指をかけた。
「待て。無駄弾を撃つな。じじいひとりに弾丸を使うのももったいない」
 小隊長が低く言うと、メンバーは小銃を引いた。だが、武装集団の面々は怒りの目をマヌエルに向けたままである。
「ガキが確保できねえならしかたない。だが、おれたちに手向かった奴にはそれにふさわしい仕置きを加えてやろう。やれ」
 小隊長がそう言うや、メンバーのひとりが小銃の台じりでマヌエルの頭を殴った。前屈みになる彼の横面を別のメンバーが小銃の台じりで殴る。マヌエルの身体を腰掛けから吹っ飛んで、土間の床に投げ出されて這いつくばった。倒れた彼の背中を、別のメンバーが乱暴にけりつけた。
「ぐっ……!」
 したたかな暴行を受けて、年寄りのマヌエルは苦しそうに顔を歪めている。それに同情することなく、武装集団メンバーのひとりが彼の脇腹を蹴り上げた。米つきバッタのように身体を折った彼を、メンバー二人が抱え起こすと、もうひとりのメンバーが小銃の台じりをマヌエルのみぞおちにたたき込んだ。
「ぐぅぼっっ……!!」
 マヌエルは血反吐を出して土間の上にうつぶせに倒れ込んだ。ぐたりと倒れながらも、かすれる声で武装集団たちに言った。
「……お前たち、年寄りは大切にするもんだと小さいときから聞かされてなかったか?」
「このじじい、まだ口をきく余力があったか」
 メンバーのひとりがせせら笑い、小銃を向けた。
「小隊長、こいつはまだおれたちに抵抗しそうですぜ。殺しときましょうや」
「やめておけ。半殺しになったじじいだ、ほっとけばくたばる。それより、夕暮れには村から出て、次の村に急ぐぞ。政府軍の連中が追ってくると面倒だからな。もうここには用はねぇ、村に下りるぞ」
 小隊長の命令で、武装集団メンバーたちは小屋から立ち去った。
「やれやれ……年寄りに乱暴を働く奴らが成功するはずはないわ……」
 倒れたまま取り残されたマヌエルは、苦しそうな息の中でつぶやき、起きあがる余力もなく、その場で意識を失った。

 戦時下、紛争下の国や地域に於いて、年端もいかない少年少女が兵士に徴られるという事実は現代、由々しい問題になっている。反政府武装組織のような非合法の集団によるものもあれば、政府の軍隊による場合もある。少年兵の数は全世界で30万人を上回るとされ、さらに増えているとも言う。18才未満の少年の徴兵を禁じる条約に多くの国が批准しているものの、そのような紙の上の協定というものは、紛争下という混乱の中に投じられると意味を失う。それは珍しいことではない。
 
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貧しさや、戦争状態しか知らなくて育った少年が戦争に身を投ずる場合もあるが、武装組織によって強制的に徴兵される場合も少なくない。その時は残酷な手段で少年たちを兵士に引き込む方法がとられることもある。目の前で家族を殺し、場合によってはその子供に自分の親を殺害させる。子供を恐怖心で呪縛するためだ。
 少年兵たちは概して従順な「良い兵士」だ。突撃銃のような軽火器であれば、少年でも一人前に扱えて、大人と対等に戦えるし、少年は大人ほどに給料を要求しない。貧しさゆえに兵になった少年なら、食料や欲しい物を与えれば従順になつく。イデオロギー教育を受ければ素直に受け止める。少年たちが「仲間」また「家族」に受け入れられたいという気持ちが強い場合−一般に子供たちは大人たちに受け入れられたいと願う−、イデオロギー教育の必要もない。大人ほどに、死への恐怖もない場合も少なくない。恐怖で心を縛られた少年兵になると、他の人間を恐怖に陥れるようになり、大人の兵士でも躊躇するような残酷な任務も躊躇なく実行する。それゆえ、大人の司令官たちに利用され、決死の突撃兵や刺客、生きた地雷探知機として歩かされることさえある。都合のいい使い捨て兵として利用されるのだ。
 大人たちの都合によって、戦争に深く関わることによって心に深い傷を負い、たいてい命を使い捨てにされ、兵役から解放されたとしても、戦場で歪められた精神状態や良心の深手、学問も生計の技術も持たなかったゆえに無為な日々、先行きのない人生観など、社会復帰におおくの困難が伴う。
 少年兵たち、彼らも戦争の犠牲者である。

 山に隠れていたジョカが小屋に帰ってきたのは翌日の夕暮れ時だった。人気が消えたように静まり返る小屋の様子に不安を抱えながら戻ってきた彼の目に飛び込んできたのは、土間に力無く倒れ伏している、血だらけあざだらけになったマヌエルだった。
「じっちゃん! じっちゃん!!」
 ジョカは叫びながらマヌエルのもとに駆け寄り、その身体をさすった。
「……ぬ……、おお、ジョカ、帰ったきたか」
「じっちゃん! どうしたの! だれがじっちゃんにこんなことをしたんだよ!」
 涙をあふれさせながら、ジョカはマヌエルの身体を揺すり、耳元に叫んだ。
「騒ぐでない。この通り、おれは生きておるわ。おれは老いぼれじゃが、若いときは戦場のジャングルを駆け、今でも山を行き来しておるんじゃ。武装集団に襲われても生き延びる、それくらいには鍛えられておるわい。ジョカ、肩を貸してくれ」
 ジョカはマヌエルに肩を貸し、よれよれになっているマヌエルをベッドに運んだ。ベッドに横たえられたマヌエルの身体は、銃の台じりで殴られたり軍靴で蹴られたりしたところが青黒いあざになっており、あざの上から皮膚が裂けて血がにじんでいるところもある。
 ジョカは急いで井戸に行って水を汲み、冷たい水にタオルをつけて固く絞り、マヌエルの傷を洗い、熱を持っている打ち傷に塗れタオルを当てた。それから、薬箱を取ろうと小屋を探したが、
「じっちゃん、薬箱がないよ。取られてしまったんだ!」
「用はないと言っていながら、めぼしいものは取っていったか。ジョカ、庭先に湿布薬になる薬草が生えておるから、それを積んで、石臼ですりつぶしてから、おれの傷に貼っておくれ」
 マヌエルはジョカと山やバナナ園を歩きながら、山に生えている薬草を教えていた。ジョカはランプを取り、急いで庭先にでて薬草を摘み、石臼ですりつぶしてから、マヌエルの傷口にあてがった。
 それから数日数晩、ベッドから起きあがることのできないマヌエルを、ジョカは寝ることなく看病し続けた。打ち身だらけで火照る身体と、傷負けして高い熱を出すマヌエルの身体を冷やすために、塗れタオルを熱くならないうちに交換し、傷が膿まないように、傷薬になる薬草や膿取りの薬草を摘んではすりつぶして、マヌエルの傷にあてがった。起きあがれないマヌエルに水や重湯を飲ませた。
 看病の間、ジョカは泣き続けた。悔し涙が止まらなかった。
「じっちゃん、おれ……」
 熱が下がってきて顔色の回復したマヌエルの耳元で、ジョカは言った。
「じっちゃん、おれ、兵士になる。じっちゃんをこんなにした奴ら、許せない。兵士になって、奴らをやっつけてやる!」
 そう言い放ったジョカの手を、マヌエルが握った。半殺しにされて倒れていた人間とは思えない、強い握力だった。
 腫れぼったい目を開けて、マヌエルはジョカを見つめた。
「ジョカ、兵士にはなるな。奴らと一緒になってはならん」
「でも、じっちゃん! おれ、奴らが憎いよ。じっちゃんをこんなにした奴らのことを許しておけないよ!」
「奴らが憎いなら、奴らと同じになってはならん。憎しみは憎しみ、暴力は暴力しか生まん。奴らを憎んで兵士になって暴力を振るっては、奴らと同じレベルの人間になってしまうぞ。ジョカ、兵士にはなるな」
 マヌエルの目は哀願に近く、だが声は、床に伏せっている者と思えないほど毅然としていた。
「じゃあ、じっちゃん。おれはどうすればいいの!? じっちゃんをこんなに傷つけた奴らが憎くてたまらないのに、おれはどうしたらいいって言うの!?」
 泣き叫ぶように言うジョカの手を、マヌエルはゆっくりと力を入れて握った。孫の瞳をまっすぐ見つめ、彼はゆっくりと言った。
「ここでバナナを作れ。うんと甘くておいしいバナナを作り続けろ」
「バナナを作る……。なんで!?」
 バナナを作ることと、愛する祖父の仇をとることとは無関係じゃないか。ジョカはマヌエルの言葉をいぶかった。
「いいかジョカ。人が人を憎み、それが戦争を生む。戦争はさらに憎しみを生む。哀しいことじゃ。お前が人を憎んで戦争に加わったら、今度はお前を憎む誰かが現れて戦争に加わることだろう。巻き込まれないように、踏みとどまらんといかん」
 マヌエルはジョカの手を握る手を緩め、目を天井に向けた。
「人間は、人を愛していても憎んでいても、腹が減る。だが、何かを食べている時と、食べて満ち足りた時は幸せになる。幸せな気分の時は、人を憎まん。甘いものを食べている時はなおさらだ。甘いものを食べている人間はおしなべて笑顔になる。甘いものを食べながら、人を殺したいほど憎む人間はおらん」
 ジョカは祖父の目を見つめた。腫れぼったくつぶれた瞼をかすかに開けた祖父の目は、バナナ作りの夢を語るときの輝く目だった。
「おれが作りたいのは、それを食べた人が幸せを感じるバナナじゃ。幸せな気分になって、恨みや憎しみを忘れてしまうくらいの、甘くて美味いバナナを作る。それが、おれが独立戦争から帰ってきた時に、思い描いた夢なのじゃよ」
 腫れぼったい顔を傾けて、マヌエルはジョカのほうを向き、微笑みを見せた。
「ジョカ。おれの夢に乗ってくれんか。戦争を起こす人間と争いが争いを生む時代にあらがう、人々を幸せな気分にするバナナを作っていきたいのじゃよ」
 マヌエルの手を、今度はジョカが強く握り返した。
 そして、涙を払って、大きく首を縦に振った。
 マヌエルは満足そうな表情を見せ、また目を閉じた。

 マヌエルは数週間寝込んだ後、身体が回復して、またバナナ園の世話を続けるようになった。高齢の上に暴行を受けた後遺症があって、以前にも増して自由に身体を動かせない状況だったが、成長したジョカが懸命に働いて、マヌエルを助けていた。
 6年後、マヌエルは世を去った。
 残されたジョカは首都の親元に帰る選択肢もあったが、マヌエルとの約束を守るため、山にとどまり、バナナ園の世話を続けた。育てたバナナを売りながら通信教育で高等教育課程を履修した。自然農法の本などを取り寄せ、工夫を重ねながら、人を幸せな気持ちにする、甘くておいしいバナナを作る努力を続けていた。
 やがて、ジョカは立派な青年農園主になった。彼の育てたバナナは国の評判になった。
 その評判を聞きつけた、外国のバイヤーが山岳地帯に足を踏み入れ、ジョカのバナナ園を訪れた。甘くておいしいと評判のバナナを海外へ輸出する、その打診のためだ。
 輸出の話を持ちかけるバイヤーに、ジョカはかぶりを振った。
 
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ジョカの育てるバナナが、海外輸出に向かない品種であることが理由かと思ったバイヤーたちは、その品種でも、状態を最良に保ったまま輸送できる手段があることを伝えて説得しようとした。だが、ジョカが納得することはなかった。
「おれは、人を幸せな気持ちにする、甘くておいしいバナナを作ることが使命なんです。樹上でしっかり熟させることで、この上なく甘みが乗る。おれが納得するこの味が出ないと、きっと、おれの気持ちや願いも伝わらないと思うんです」
 日本からフェアトレードの話を持ちかけたバイヤーに対して、ジョカは答えた。
「海外の人に、おれのバナナを食べて欲しい、おれのバナナで幸せな気持ちになって欲しいと思わないわけじゃないですよ。だけど、海外に輸出するためには、まだ青いままで収穫しなければいけない。あなたたちはそれでも、自分たちの国に届く頃には十分な甘さになると言いますが、それではおれの気持ちが乗らないのです。完熟まで気持ちを乗せて育てたバナナにこそ、おれの願い、おれの祈りが乗ると思っているのですよ」
 ジョカはそう説明し、丁重に断ったところで、来客に自分のバナナ園で育てたバナナを差し出した。客のバイヤーはそれを食べてみた。
 もぐもぐと食べるビジネスマンの口元が、自然とほころんできた。
 柔らかい口当たりだが、甘みはすぐには伝わらない。だが、もぐもぐと噛んでいるうちに、奥の方からほんわかとした甘みがあふれ出てくる。甘い芳香が鼻腔を柔風のように抜けていく。幸せな気分が自然な甘さと共に、脳に立ち上っていく。
 農薬も化学肥料も使わない自然の土の力と、熱帯の輝く太陽の力、それらが織りなす、地球の味だった。
 それはもっとも普遍的で、そしてもっとも幸せを呼ぶ味であるかもしれない。あまねくすべての人の心に、平和を願う気持ちが普遍的にあるように。

(完)

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