「バンケットホールへようこそ…」


 僕の目の前には、きらびやかな世界が広がっている。
 シャンデリアに照らされた豪華なバンケットホール。その会場はとても広い。和洋中華のみならず、世界中のありとあらゆる国や地域の美食珍味が、食卓の上に所狭しと並べられている。高価な美酒も取りそろえて用意されている。
 そして、そのフロアの中を行き交うのは、世界に名の知られた著名な男女。政治家、財界人、宗教界の重鎮、芸能人、その他あまたの有名人が、タキシードやイブニングドレスに身を包み、優雅に、あるいは絢爛に装って、並べられた美食美酒に手をつけている。
 よくみると、著名人や大物ばかりがそのホールにいるのではない。老若男女問わず、あらゆる人がバンケットホールを行き交い、並べられた料理に手をつけている。その数は数え尽くすことができない。これだけ多くの人がいて、皆が皆食べたり飲んだりしているのに、料理が全く尽きることがないのも奇妙だった。
 このきらびやかな光景を目の当たりにし、立ちすくんでいる僕に、ひとりの男性が近づいてきた。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、あなたもお入りください」
 タキシードに身を包んだ紳士は、口元に笑顔を浮かべて僕を誘った。
「僕なんかが入っていいんですか。なんか……場違いなところに来てしまった気がするのですけど」
 たじろぐ僕に、にこりとほほえみを浮かべながら紳士は答えた。
「とんでもありません。このバンケットホールはすべての人をお招きしています。あなたももちろん。遠慮することはありません。どうぞお入りなさい」
 紳士はそう言って手を差し伸べた。僕は誘われるままに、きらびやかなバンケットホールの中に足を踏み入れた。
 一点のシミもない、ふかふかの赤絨毯。まばゆい照明。豪華な調度品に品の良い器、グラス。そして何より、かぐわしい香りを漂わせている世界の美食。
 かつてどんな富豪、どんな皇帝や王侯貴族もこれほどの宴席を設けたことはないだろう。 しかし。どれをとっても、高価そうだ。
「もしや、お代金のことを気になさっておられるのですか」
 料理を目にしながらただ立ちつくしている僕に、紳士が声をかけてきた。
「ええ。これだけの料理だから、きっと代金も高いんでしょう?」
 僕の質問に、紳士は笑顔を浮かべながら首をゆっくりと横に振った。
「いいえ。ここにあるものはすべて無償でご提供しています。ビュッフェ方式ですから、いくらでも自由にお取りいただけますよ。ですから、どうぞ心おきなく食事をお楽しみください」
「えっ! ただなんですか!」
 僕は驚いて叫んでしまった。驚かないほうがどうかしている。こんなきらびやかな世界に招き入れられ、しかも見たこともないような美食珍味が食べ放題で、しかも代金がいらないなんて。
「信じられない……ほんとに」
「はい。どうぞ、いくらでもお召し上がりください。遠慮はいりませんよ」
 紳士は笑みを浮かべながら続けた。
「ここにあるものは世界そのもの。いくらでも、好きなだけお取りなさい。取れるだけ取ってかまいません。尽きることはありませんから」
 僕は紳士の顔をまじまじと見た。
「世界そのもの、ですか」
「そのとおり。このバンケットホールは世界そのもの。世界の提供する物は、誰もが得られるだけ得ようと望めばよく、ものにしてよいのです。これらは誰の物でもなく、すべてが自分の物なのですから」
「……」
 僕は呆気にとられて、ビュッフェスタイルの宴席をぼう然と見ていた。そこにあるのは、誰も彼もが遠慮会釈なく食べ物や飲み物を取っていき、平らげていき、遠慮なく次の目当ての物を取っていく姿だ。
「皆さんには楽しんでいただいているようです。生きると言うことは、何かと絶望や挫折や空虚感を味わうもの。飽くなき欲望に疲れながらも、それを追い求めていくもの。ここでは、絶望も挫折も空虚も忘れ、ただひたすら、飽きることなく欲求を満たしていただく場なのです。わたしの設けさせていただいた、一つの救済の場とお考えください」
「救済の場、ですか。あなたはいったい……」
 臆面もなく、救済の場を設けたと言うこの人物は何者だろう。僕は尋ねてみた。
 すると、紳士は軽くほほえみ、答えた。
「そうですね……、世界の支配人、とでもお答えしましょう」
「もしかして、神様、ですか?」
「そのようにとらえられて結構です」
 彼は曖昧に認めた。
「さあ、あなたもこの宴会を堪能なさい。食器はこちらです」
 僕はとりあえず、大皿とフォークを手に、宴席全体を見て回ることにした。

 タキシードのぼたんがはじけ飛んだ。
 あちこちで、男性客が着込んでいる上質の生地でできたタキシードが、ぼろ布のように破れ、ぼたんがはじけ飛んでいる。その音が、ぽん、ぽん、と宴席のほうぼうから聞こえてくる。
 みんな、宴席の食事を貪って、それで、男は皆が皆、肥満体の人間が無理やり七五三の服を着たかのような姿に成り代わっているし、女の着ているカクテルドレスやイブニングドレスは、ぶくぶくのからだを申し訳程度に覆うボディコンのようになっている。
 それでいて、皆、食べる手を止めないのだ。
 みんな、満腹中枢が壊れてしまっているのか。それとも、豚のように太ってしまっても、ちっとも満腹にならないのか。  自分の皿の上に、牛肉のステーキとロブスターを置こうとした僕は、その手を引っ込めた。もしかしたら、一度食べたが最後、僕も彼らのように、豚になってしまうのかもしれない。
「おや。宴席を楽しむのを躊躇なさっているようですね」
 僕のところに、世界の支配人を名乗る紳士が現れた。
「……ええ。だって、みんなおかしくなっているじゃないですか。豚のようにぶくぶく膨れ上がっているのに、さらにこの料理を貪ってる。もしかして、この料理には何か仕掛けがあるのでは……」
「ご心配なく。この料理は全くふつうのもの。何か薬品や添加物が混ぜてあって、人の満腹中枢を破壊する、とか言うものではありません」
 紳士は薄いほほえみを浮かべながら僕に言った。
「むしろ、これは宴席の客の欲求の結果です」
「欲求の結果、ですか」
「そう」
 紳士は、バンケットホール一杯に広がり、御馳走を貪り続ける豚たちを僕に指し示した。
「誰しも、この世の中で得られるものをできるだけ獲得したい、と考えます。この宴席はその縮図。彼は山海の珍味でその身を満たします。そうなると、身体は食べた量に従って成長して、どんどん膨れ上がる。そうなると、さらに食べたいと思うわけです。いや……」
 紳士は、ちょっと黙り、言い換えた。
「食べたいと思うというよりも、食べなければならないという強迫観念に駆られるのです。そうでなければ、その身体を維持できないのです。さらに言えば、食べ続けてさらに膨れなければ、この宴席に生き残れないと考えるのです。あれをご覧なさい」
 彼は僕に、宴席の中で起きている、客同士の争いを見せた。どちらも、これ以上ないくらいの肥満体になっていながら、一つの肉のかたまりを巡って、つかみ合いのけんかをしている。それをどちらが食べるかで争っている。
 そんな争いが、そこ一箇所だけでなく、御馳走を囲んであちらこちらで起きている。つかみ合いのけんかをしているところから、我先にと争って御馳走を奪い合っているところから。
「人間は、欲望によって動いているのです。欲望は際限なきもの。追いかけても追いかけても満たされることはありません。それでも、人間は追い続ける……。ですが、考えてみてください。人間社会というのは、その欲望を原動力にして動いているのです」
「そして、膨れ上がった人間は豚になっていく」
 僕はつぶやいた。
 僕は、醜い豚にはなりたくない。
「それも結構。どうされますか、この宴会からご退席なさいますか」
 紳士は薄い微笑みのまま尋ねた。
「いや、もう少し、ここにいたいと思います。御馳走がこれだけ並んでいるのに、食べないで出ていくのはちょっと気が引けます」
「それがよろしいでしょう。では、ごゆっくり」
 紳士はそう言うと、僕のそばから離れた。
 僕はとりあえず、先ほど取ろうとしたステーキを皿の上に乗せた。

 バンケットホール内を周回していると、豚に成り代わってしまった客の中で、人間の身体を維持し続けている人々の集団に出会った。一様に、白い衣服に身を包んだ彼らは、この御馳走に口を付けていないようだ。だから、飽くなき欲求の虜になってしまうこともない。
 僕はうらやましくなった。その人たちが、強い人たちに見えた。
「こんにちは。皆さんは、この宴席を楽しまれないのですか?」
 僕はその集団のリーダーらしい女の人に話しかけた。
「ええ、そうです。あなたは、この宴席の参加者が、幸福であると感じましたか?」
 彼女は、逆に僕に尋ねた。
 答えは、幸福ではない。だれも、欲望の虜になってしまっていて、それに支配されている。そんな人たちが幸福であるとは思えない。
「あなたは聡明な方ですね。そのとおり、ここにいる人たちには、幸福も平安もありません。あるのは、欲に駆られた醜い姿と争いだけです」
 彼女はそう言って、悲しそうな表情を見せた。
「この世界には不幸しかありません。そして、救いも存在しないのです。人間自体がこの世界に不幸を作り出しているのですから」
「……」
「わたしたちは、別の世界に旅立とうと思っています。貪欲と争乱にまみれた世界から、人が救われる世界に。どうです? あなたもご一緒に来られませんか」
 僕は、首を振った。
 すると、その女の人は、心底哀れんだ表情で僕を見つめ、涙を流した。彼女の後ろで、白い服を着た人たちの一団が、そろって、哀れみに満ちた目で僕を見ていた。そして、やはり、僕のことを思って泣いてくれた。
「残念です。あなたには、救いの見込みがあると思っておりましたのに……。それでは、わたしたちはこれで。もう、お目にかかることはないでしょう」
 そう言い残すと、彼女を先頭に、白い服の人たちは一列に並んで、バンケットホールの片隅に向かって歩いていった。
 そして、みんな一斉に、かき消すように姿を消した。
 僕はその様子をただただ見つめて、思った。
 世界の縮図とか称したこの宴席は、参加者の貪欲にまみれて、争いも起こる、とても幸福とは言えない状況だ。
 けれど、そこから強制退場するという選択も、僕は幸福だとは思えない。
 それなら、この宴席で幸せになるならどうすればいいのだろう。きっとそれは、欲に支配されないようにしながら、テーブル一杯に並べられた、彩り豊かな、ありとあらゆる世界の美味珍味や美酒を味わうことなんだろうけど……
 ああ、欲に負けないことは、なんて難しいんだろう。
 僕はまた一つ、丸鶏のグリル焼きを、一羽丸ごと皿に盛って、それにかぶりついた。
 それでも僕は、この宴席の中では、スリムな体型を維持していると思うのだけど。

 バンケットホールを眺める一室。
 世界の支配人を名乗る、この宴会の主人である紳士は、カウチに身を沈めてグラスを傾けながら、物憂げな表情で、眼下にある宴会の様子を見ていた。
「諸行無常は、この世の真実……」
 彼はぼそりとつぶやいた。
「この宴席も、いずれ終了するときが来る。その時、ここにいる、貪り合う豚どもは、いったいどうするんだろうね……」
  そうつぶやきながら、彼は唇をゆがめて嘲いを見せた。