宮嶋いつく短編集

MAD PIERROT

 黒人ボクサーの右フックが俺の横顔に向かって飛んできた。俺は瞬間的にのけぞる。その瞬間、俺はその行動を後悔した。奴の右フックはおとりだと気付いたときにはもう遅かった。左フックが俺の腹を強打した。俺はひどくよろめきながら、奴がサウスポーだったことを思い出した。体勢を立て直して、ファイティングポーズをとる。マウスピースを強く噛みしめる。フットワークは順調だ。右のジャブを連続で奴の上半身を狙って繰り出す。あっさりスウェイされてかわされてしまった。鼻のつぶれた奴の顔が俺をあざ笑うかのように見えた。 『平常心、平常心…』
 
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俺は心の中で念仏のように自分に言い聞かせ、かっとなった俺の心を抑えようとした。何とか、心は落ちついてきた。冷静に場を見きわめる。奴は右ジャブを俺の肩に少し当ててきた。いくらかはガードする。当たっても、大したダメージもないほど軽いジャブだ。奴にとっては遊んでいるようなものだろう。俺は形勢逆転を狙って、奴の鼻面に向かって大きく右ストレートをだした。
 今から考えると、それが敗因だったように思える。俺が右をだしたとき、奴の顔に当たると思ったとき、一瞬早く奴の左アッパーが俺の顎を貫いていた。完全に無防備となったところを狙っていたとしか思えないほどの正確さと重さだったような気がする。俺はコーナーまで軽く吹っ飛ばされ、ダウンした。見事なまでのカウンターアタックだった。
 「ワン、ツー…」
 レフェリーがカウントする声を、俺は少し遠ざかった意識の奥で聞いていた。ゴングがなり、観客席から歓声が上がった。黒人ボクサーの見事なKO勝ちだった。

 結局、俺はどの試合でもサンドバッグ役でしかないのだ。いつものことだ。
 その試合が終わり、俺はいきつけのバー「ペギー=スー」に行き、ウイスキー・ハイボールを飲んでいた。ここは初老のマスターが一人でやっている、小さく、こじんまりした店だ。俺はこういった雰囲気の店が好きだ。クラブなどは俺は好きじゃない。ネクラな奴とか、活動的でネアカな奴という意味で兎というのと対照的に、亀とかいわれても仕方はないが、その方が性にあっている。
 俺はコウイチ・ピート・ライス。日系三世で、シアトルで生まれ育った。ハイスクールのころからボクシングジムに通って練習している。プロになるまでにはまだ道は遠い。それで、今のところはアマチュアの選手権にでたり、酒場やたまり場の賭けボクシングのボクサーとして日銭を稼ぎ、経験を深めようとしているが、結果はたいていさっきのようなものだ。
 だが、俺はいくら殴り飛ばされ、痛めつけられ、試合で負けがこんでも、ボクシングの道に進むことに悲観的になったことはない。先は長いのだと常々思っている。俺はまだ二十歳になったばかりだ。まだ十分なまでに若い。練習さえつめばプロボクサーになることも可能だ。それに、俺も自分自身がだんだん経験をつみ、腕も上がってきたことを少なからず感じている。
 俺のとなりにいつ店にはいってきたのか、老人が座っており、静かにウイスキーを飲ん でいた。老人は俺の方を見た。
 「ああ、さっきの日系人ボクサーじゃないか。ナイスファイトではあったがなあ」
 老人は俺に向かってそう言った。この老人はメキシカンらしい。それにしてはだんご鼻で、目の周りがパンダみたいに黒い。ピエロのような顔であり、気さくそうな表情だが、目は妙にクールな感じだ。 老人はドナルドと名乗った。ワシントン州を中心に西海岸を巡業するサーカス団の一員であり、道化師だということだ。なるほど、彼の顔はピエロにあっている。愛敬があって、どことなく抜けている。だが、がっしりとした体格は、ただのピエロではなさそうだ。
  「コウイチ」
 彼は俺の名を呼んだ。
  「なんだ、ドン」
 親しくなったつもりで、彼に答えた。
 「さっきのお前のボクシングをわしは見ていたが、わしからみると、惜しかったな」
  「え?あんな見事なKO負けが?」
 俺はドナルドの言葉を疑って、聞きなおした。愛敬のある彼の顔が、俺をじっと見ていた。
  「あのカウンターだが、あれがヒットしたのは、まぐれだ。あの時、あの黒人ボクサーは完全にびびって、目をつぶっていたんだ。あのアッパーも、自分では見えていなかったはずだ。お前のストレートが入っていたら、奴はダウンしていただろうな」
  「あれは、乗るかそるかの賭けだったんだ。結局、そってしまったけれどな」
 俺はウイスキー・ハイボールを一口、口に含んだ。 「お前はどこのジムで練習しているんだ」
 彼は俺に聞いてきた。俺は、通っている「バイソンズ・ボクシング・トレーニング・ジム」の場所を彼に教えた。彼は苦笑して、 「場所を聞いてもいないのに…」 と呟いた。俺も、苦笑い。
  「まあ、わしもトレーニングに行くかもしれない。ボクシングは好きだからな」
 ドナルドはそういって、俺と同じようにウイスキーを一口、口に含んだ。

 
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俺の通っているジムは、シアトルの市街から少し離れたところにある。ボクシングジムとしては少しちいさめの建物だ。
 今日はチームの仲間の大半が州の選手権大会に出るため、コーチであるオーナー共々出払っている。今日は俺しか練習にきていない。
 サンドバッグを殴る。バシン、バシンと、いい音がジムに響いた。普段よりパンチの威力に元気が出てきている。
  「やっているな」
 入り口で声がした。俺は手を止め、そっちの方向を見る。
  「ドン、来たのか」
  ドナルドが入り口に立っていた。彼は無言で入ると、グローブを彼のショルダーバッグから取り出し、俺の横のサンドバッグを叩いた。
 バシンッ!  バシンッ!
 ずいぶんと力の強い、重たい音がジムに響いた。老体だが、がっしりしている彼の身体は、若いときから鍛えていたというような身体だ。
 俺が手を止めて、彼のサンドバッグを殴るグローブを見ていた。ドナルドは俺の方を見て、微笑んだ。
  「なんだ、休憩か」
  「………」
 俺は答えなかった。またサンドバッグを殴りはじめる。ドナルドほどの重たい音は出ない。 『待てよ…』  俺はまた手を止めた。隣ではドナルドのパンチ音が重たく響いていた。俺は顔を彼の方に向ける。 『このフォームは、だれかに似ている』
 俺はそう思った。彼のフォームをじっと見続けた。おそらく、フォームの研究中に、ビデオでみたことがある。だが、思い直すと、似ているのではなかった。まるで一緒なのだ。俺の覚えている、昔のボクサーと。確か、メキシカンのボクサーで、一撃必殺の鋭く重たいパンチが売りものだった男だ。
 「マッド・ドナルド」
 俺は無意識に声が出た。彼はサンドバッグを叩き続けている。俺もそれを見て、また、練習を再開した。
 ドナルドは、サンドバッグを叩き続けていた手を休めた。
 「今日は、これだけ流すほどだな」
 彼はそう言い、シャワーを浴び、ショルダーバッグにグローブをしまって、ジムを出ようとした。
  「おお、そうだ」
 彼は振り向いた。
 「明日は日曜日だな。わしのサーカスを見に来てくれ」
 ドナルドはそれだけ言うと、去っていった。俺は、筋力トレーニングを10セットばかりやって、それから、アパートに帰った。

 日曜日。俺はシアトルの市内にテントをはったサーカスを見ることにした。ドナルドが出ているサーカスだ。サーカスを見るのは、本当に久しぶりだ。  開演し、中国女の曲芸や、着飾った犬の曲芸などに続いて、ピエロのメイクをしたドナルドが入ってきた。
  「さあ、我らがサーカス団の名物男、マッド・ピエロをお目にかけましょう」
 でっぷりと太った燕尾服のサーカス団の団長が、高らかにいった。俺を含め、観客はみんなが拍手する。
 ドナルドが玉乗りをはじめた。幾らかうまく玉に乗りはじめたかと思うと、前に転がった。大きな玉乗り用のボールが、彼の上に乗って転がっている。観客は俺を含めて、どっと笑いだす。ドナルドは調子に乗って、逆さまの玉乗りを続ける。なぜおもしろいのか。彼の真に迫った演技が、おもしろいのだ。玉乗りのボールを彼は蹴飛ばし、今度は、一輪車に乗った。
 俺は、彼の演技に見とれていた。笑うのを忘れていた。彼の真に迫った笑いは、俺の目をくぎ付けにした。何だか変な表現かもしれないが、本当に、そうとしかいいようがなかった。
 観客は彼の滑稽な動きに、ただ狂ったように笑い続けている。今度は彼は一輪車からティンパニに飛び込み、シンクロナイズド・スイミングをはじめた。これがハイスクールでやっているなら、ただの馬鹿としか見られないが、彼はそれを超越していた。
 俺に言わせると、彼の演技は、かの喜劇王、チャップリンにも匹敵する演技だと感じた。彼はちょこまかと、まさにチャップリンのような動作で舞台を出ていった。観客は笑いながら、嵐のような拍手を彼に送る。俺は、拍手することも忘れるほど、彼の演技に惚れ込んでいた。
 彼の、マッド・ピエロの名は、伊達じゃないと、俺は思った。

 俺はその晩、バー「ペギー=スー」でまた飲んでいた。しばらくして、ドナルドが風のように入ってきて、俺のとなりに座った。
  「ドン、おもしろい演技だったぜ」
 俺は彼にそう言った。彼は柔和そうな顔で俺を見て、
  「お前のいうことは、半分はあっているだろうな、コウイチ」
  「どういうことだ」
  「わしのあのショーは、全てが演技じゃない。演技では、本当にマッド・ピエロとなることは出来ない。全てをつぎ込むことにより、演技を超越するのさ」
 彼はそう俺にいい、ウイスキーで唇を濡らした。 「わしはMAD PIERROT(狂ったピエロ)だ。観客を狂ったように笑わせるために、わしも狂ったように、本物のコメディーを演じるのさ。わしは、自分をピエロと化して、ピエロになる。そうすれば、観客は皆、本当に笑ってくれる。わしは、それがうれしいのだ。そのうれしさを味わうため、わしは、自分を捨て、ピエロに徹する」
 ドナルドは俺に諭すような口調で語った。俺は、彼の話にただ、耳を傾けていた。
 「ドン、あんたが全てをぶつけて、マッドとなるのは、これでふたつめだろう?」
 俺の呟き声は、彼にも聞こえていた。
  「ああ」
  「やっぱり、そうだったか」
 俺は納得した。
 「やっぱり、あんたは、元全米ミドル級チャンピオン、マッド・ドナルドだったんだ。トーピード・ブローを武器としていた」
 「いかにも」
 彼はうなずいた。
  「いかにも、わしはマッド・ドナルドだ。といっても、かれこれ三十年ばかり昔の話だがな」
  「あのパンチは、衰えてないようだな」
 俺は、この元チャンピオンにいった。彼は、苦笑しながら、
  「実力をだしても、今のわしじゃあ、お前にも勝てないかもしれん」
 「そんなはずがないじゃないか」
  「いや…」
 彼は、俺の反論を否定した。 「今のわしは、ボクシングの技術があっても、わしはボクサーに徹することが出来ない。今は、マッド・ピエロだからな」
 彼はそう言い、
  「だから、お前が自分を捨て、ボクサーとなるなら、お前は負けを返上できるさ。お前が勝てないのは、ボクサーに徹していないからだ」
 彼の言葉は、俺の心に一閃の光が差し込んだかのような衝撃があった。自分は、ボクサーに徹していない。これは、自分では感じないが、おぼろげながら、わかる。勝てないことはない。そう思うと、明後日のロサンゼルスのチームとの試合でも勝てるという希望が見えてきたような気がした。
  「ドン、ボクサーに徹するということは、どうすれば出来るんだい?」
 ドンの笑い顔が目に映った。
 「コウイチ、それはお前が知ることだ。ただ、ひとつだけいう。自分が好きなことを一心に、我を忘れるほど打ち込むとき、それに徹することが出来るのだ」
 彼のいうことは、わかった。そうなれば、ボクシングの試合の時に、自分はコウイチ・ピート・ライスという奴を忘れ、一人のボクサーとなるなら、勝てるのだ。
 「ありがとう、ドン」
 俺は彼に向かって言い、グラスを重ねた 。

 バシンッ!
 俺の右フックが、ロサンゼルスのボクシングチームのフィリピーノのボクサーの顔面に入っていた。その瞬間、一瞬、どよめきが聞こえた。俺が相手に当てるとは、チームの奴でも思いにもよらなかったみたいだ。
「俺は、ボクサーだ」
 俺はそう心のなかで呟き、さらに相手に殴りかかる。相手は、相当動揺しているらしい。これまで働いたことのないような勘が、急に働きだした。
 フィリピーノはストレートで顔面を狙ってきた。俺はとっさにスウェイしてよける。次の行動は、自然に身体が動いた。
 俺は気付いたときには、すでに鋭いフックを奴の腹にたたき込んでいた。重たい感触!奴は身体をふたつに折った。
 あのマッド・ドナルドの最大の武器、トーピード・ブローが見事に決まっていた。奴はそのまま、くずおれ、ダウンした。
  「ワン、ツー…」
 レフェリーがカウントをはじめた。俺の中にたまっていた負けを発散させた、会心の一撃だ。そう、なかなか起きあがれるものではない。
 ゴングが鳴る。初めての勝利だった。俺の右手をレフェリーがつかんで、高く掲げる。ただ、チームのみんなも、相手チームも、ただ呆然とこの光景を見守るだけだった。

 その晩、俺はまた「ペギー=スー」でウイスキー・ハイボールを飲んでいた。勝利の美酒ではない。やけ酒だ。
 「コウイチ、飲み過ぎはよくないよ」
 マスターはそう言ってくれるが、そうすぐに聞かれるものではない。
 「コウイチ、どうした。そんなに飲んで」
 風のように店に入ってきたドナルドが、俺に声をかけてきた。
  「聞いてくれよ、ドン」
  「何があったんだ」
 彼は俺のとなりに座って、マスターのだしたウイスキーで唇を湿らせながら言った。
 「俺は、自分を捨ててボクサーとなって、ロサンゼルスのチームのボクサーにKO勝ちしたんだ。俺はうれしかった。そりゃ、初めての勝利だからね。でも、俺のチームの先輩達がな…」
 俺はそこで、また悔しさがこみ上げてきた。
 「お前はサンドバッグなんだ。出すぎた真似はするな。調子に乗るんじゃねえって言いやがったんだ。畜生!」
 俺はグラスを強く握りしめた。少し、グラスに亀裂が入るのがわかった。
「ドン、俺はこれまでどんなに殴られても、負かされても、ボクシングをやめようとは思ったことがねえよ。だけど、今回ばかりは、俺は何のためにボクシングをやっているんだと思ったよ!」
 俺の言葉の最後のあたりは、のら犬の吠えるかのような言い方だった。俺の顔は、悔し涙でべたべただった。
 そんな俺を、ドナルドは優しい眼差しでじっと見つめていた。そして、彼は 「コウイチ、お前はひとつだけ、やらなければならない課題があるな」 と言った。
  「コウイチ、お前はボクシングが好きだろう。好きなボクシングに打ち込み、自分を捨て、そこでマッド・ボクサーとなれると言った気がする。でも、もうひとつあるのだ。自分を捨てながらも、自分に従うことだ。他人の戯言など、右耳から左耳に流せばいい」
 
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彼はそこでひとつ息をおくと、グラスに口をつけ、ウイスキーを喉に流し込んだ。
  「それに、お前はボクサーであって、サンドバッグではないだろう?ロスのチームのボクサーと試合して、勝ったといったじゃないか。勝ったからには、サンドバックは返上だ。自分は、ひとりの立派なボクサーなんだからな」
 俺ははっとした。あいつらのいうことは、結局戯言に過ぎないのだ。俺は、自分の道を進むべきだ。自分のことは、自分でできる。
 「そうすれば、お前はプロになれる」
 彼の最後の言葉は、俺を強く動かした。俺の顔には、固い決意があった。
  「俺は、必ず、プロボクサーになって、活躍する。どんな障害も乗り切ってやる。そして、マッド・コウイチとなる」
  「それがいいさ」
 ドナルドは苦笑しながら俺に言い、俺にグラスを渡してくれた。ウイスキーを注ぐ。目が合った。俺の顔には、笑顔が戻っていた。
  「のちのマッド・コウイチのために、乾杯!」
  「マッド・ピエロに、乾杯!」
 俺たちはそう言って、グラスを合わせ、お互いに笑い合った。やけ酒は、勝利の美酒に変化した。

 あれから五年たつ。俺はプロになって、全米ライト級で活躍している「マッド・コウイチ」となっている。今では、マッド・ドナルドの再来ともてはやされることになった。彼の必殺技、トーピード・ブローを、俺は武器としている。
 今は東海岸のフィラデルフィアに住んでいるので、ドナルドには会わなくなった。でも、彼も元気にマッド・ピエロに徹していることだろう。そして、遠くからこの俺を見ていてくれていることだろう。  俺も、彼ぐらいの歳になったら、ピエロになって、五年前の俺みたいなアマチュアボクサーに出会っているのだろうか。

(完)

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