「あなたの願い事はなんですか」
「あなたの願い事はなんですか。お伺いしましょう」
突然にエム氏の目の前に現れた男は、丁寧な口調で言った。
エム氏はぼう然と、目の前の男を見た。スーパーで買った、割引の寿司だけが置かれた夕食のテーブルを挟んで、人間の男のような何かが立って、自分を見下ろしている。彼はとりあえず、目をこすってから、もう一度見たが、やはり男型の何かがいる。幻影ではないようだ。
「……あんた、誰?」
「天使です」
男は答えた。
「……」
エム氏は、ただまじまじと天使を名乗る男を見るしかなかった。
男の言うとおり、彼はただの人間ではない。身体からは光を放っているように見えるし、頭の後ろからは後光が差している。身にまとっている者は、ギリシャ神話に出てくる男子が着るような衣装であり、背中には大きな羽が生えている。天使というのはどうやら間違いなさそうだ。
ただ、その天使のなりをした男は、筋骨隆々としたマッチョマンで、しかもスキンヘッド。だから、天使を名乗られても、すぐにはしっくりこない。
頭の後光も、本当はスキンヘッドが光を反射しているのかもしれないと思った。
「なんか、天使のイメージと違うなぁ。天使って言ったら、子供のような姿で、弓を持っているようなイメージがあるんだけど」
「それは、ローマ神話のキューピッド神の影響を受けて、後世の人間が考えだして描いたものですよ。本来は、この姿のほうが正しいのです。大天使ガブリエルも『神の強健な者』という意味の名を持ちますし」
天使は答えてから、付け加えた。
「もっとも、本来我々は肉体を持たない生命体。普通は人間に姿を見せることはありません」
エム氏は思った。
天を、この天使のようなムキムキの男たちが飛び回っているのが見えたら、恐いな。
見えなくて、正解だ。
気を取り直すために、一度軽く咳払いをすると、エム氏は天使に話しかけた。
「えっと……さっき、『願い事はなんですか』って訊いたよね。もしかして、願い事を叶えてくれたりするわけなの?」
「願いを叶えてくださるのは神です。わたしは『福音の天使』に過ぎませんから、できることは限られています。それでも、わたしの力の及ぶ範囲でしたら、願いを叶えることもできるかもしれません」
「ふーん。天使だからといって、何でもできるわけではないのか」
「我々は神の僕に過ぎませんから、与えられた権限を越えるわけにいかないのです。人間の願いも、それが神のご意志にかなうものでしたら、神は叶えてくださいます。ですから、誰かを傷つけるとか殺すとか、悪事に関わる願いでしたら聞き届けるわけにはいきません」
「いや、そのような願いはないからいいんだけど」
エム氏は少し考えた。願い事がないわけではない。
彼は、目の前にある、スーパーで買ったさびしい夕飯に目を落とし、それから天使に言った。
「じゃあ、僕の願い事を言っていいかな」
「どうぞ。お伺いしましょう」
「僕も、三十を過ぎて、1DKマンションに独身一人住まいなんだよ。正直、一人暮らしのわびしさを感じるんだよね。仕事から帰って、こうやって飯を用意するのも正直面倒だし、スーパーで総菜を買って帰る毎日も味気ないさ。だから、仕事から帰ったら飯を作って待っていてくれる嫁さんがほしいなって思ってるんだ。そう言う願いは叶うかな」
エム氏は期待のこもった目で天使を見た。なんと言っても、彼は天使だ。縁結びの願いを叶えてくれてしかるべきじゃないか。
天使は、しかめ面を作って腕を組み、うーんとうなった。
「それは、正直難しいですね」
「えっ。難しいの?」
エム氏は驚いて、思わず大声になった。
「そうですね。人と人との出会いは縁であるので、それを結びつけるのはそれほど難しくはありませんが、問題はそのあとです。結婚とは、かつてエデンにおいてアダムとイヴを神自らが引き合わせて取り決められた神聖な事柄であり、安易に解消することの許されざるものです。しかし、結婚とは赤の他人二人が一つになる取り決めゆえ、持続させる上で数々の困難がつきまといます。出会って結婚まで至る課程より難しいと言えます。その困難を乗り越えるだけの資質を、今のあなたが持っているかどうかが難しいところですね。一人暮らしに飽きて、飯を作るのが面倒になったという理由で結婚したいと願う人に、その資質があるとは判断しかねますが」
「……君も冷静な顔をしていやなことを言うね」
エム氏は実にいやそうな顔をした。
「わかったよ。じゃあ、今のは取り消す。それじゃ……お金持ちになりたいという願い事は叶うのかな?」
「金持ちになりたい……微妙ですね」
「……」
「そもそも、金は天下の回りものと言いまして、巡りめぐるものなのです。世の中に活発に流れれば好況、不活発になれば不況です。そのレールの中で、自分の懐に金が流れ、金が出て行くだけの話です。お金持ちになりたければ、自分のほうに流れてくるお金が増えればいいことですが、往々にして出ていくお金も増えるのですから、総合的に考えてお金持ちになれるわけではありません」
天使の答えに、エム氏は口をへの字に曲げた。
「それに、聖書も申しております。富もうと思い定める人は全身を苦痛で刺される、と。富を得れば、それに伴って維持するための経費も増えますし、一度得たものを失うまいとして、気苦労も増えることになります。金持ちになる前以上に気苦労や不安がつきまとうことになります。幸せになれるとは限らないのですよ」
「……」
「お金持ちになりたいという願いは、流れ込むお金を月に7万円くらい増やすことならなんとかできないこともないですが、少々正道を踏み外すことにもなりますし。おやめになったほうがいいと思いますよ」
「いいよ。月に7万円増えるくらいでそんなに不安に駆られるようになるなら叶わないほうがいいよ」
エム氏はため息をついた。
「じゃあ、僕の願い事は叶わないわけ? 天使の君のそう言われたら、僕は一生幸せになれそうにないじゃないか。僕だって幸せになりたいと願ってるのに」
「幸せになることはできますよ。それは、思っている以上に難しいことでもありません」
天使は言った。
「幸せになるには秘訣があります。一つは、今の置かれている状況にある程度満足すること。満足を知らなければ、欲望に際限なく支配されることになりますから。もうひとつは、神を求めることです。そもそも、神は人間の幸福を望んでおられますし、神は御手を開いて、生きるものすべての望みを叶えられると聖書にも書いてあります」
「それこそ難しいじゃないか。僕は神を信じてきたこともないし、頼ったこともない。……そりゃ、困ったときには頼ったこともあるかもしれない。それに、さっきの願い事でもわかっただろう。僕は俗な欲しか持っていない」
天使はほほえみをエム氏に向けた。白い歯がきらりと光った。
「いいえ、あなたにはよいところがあります。だからこそ、わたしは現れたのです。わたしは福音の天使。人々に良いたよりを告げるよう、中天を飛び回る者。世界中を行き巡っていますが、神を求める心のない人に現れることはありません。あなたは自分の願いが俗な欲であることに気付かれた。それでは幸せになれないことにも気付かれた。それだけでもすばらしいことです。多くの人は、それに気付かないか、気付いても改めようとしません」
「そうなのかな」
彼が、まんざらでもない顔で首を傾げた。
「けど、やっぱり願い事が叶わないと、幸せになれた気がしないよ」
「幸せとは、些細なところで気付くものですよ」
ぼそりと答えた天使は、天井のほうを見上げた。
「長居をしてしまいました。わたしは次のところへ行かねばなりません。ですが、せっかくですので、何かあなたの願いがあれば、最後にそれを伺いましょう」
「といっても、願い事はもうおおかた言ったし……」
エム氏はふと、食べようとした寿司を見下ろした。そして、寿司についているしょうゆの小袋を、今日は取り忘れてしまったことに気がついた。そして、食卓のしょうゆ差しを取り上げたが、空であることに気付いた。
「じゃあ、願い事じゃなくて頼み事でいいかな。しょうゆ差しにしょうゆを入れてきてほしいんだ」
「お安いご用です」
天使はしょうゆ差しを取って台所に引っ込むと、それをしょうゆで満たして戻ってきた。
「では、わたしはこれで失礼します。あなたに会うことがあるかわかりませんが、心によいところのある人として覚えておきましょう。それではごきげんよう」
天使はふわりと宙に上がると、光と共に、かき消すように姿を消した。
「……せっかく天使にあったのに、いいことがあったという気がしないよね。いったい何だったんだろう。なんだかよくわからないや」
エム氏はしきりに首を傾げながら、小皿に先ほど天使が入れてくれたしょうゆを入れ、少しかぴかぴになった寿司に少しつけ、口の中に放り込んだ。
一口食べて、彼は思わず「おっ」と声を出し、顔がほころんだ。
「あ。安物しょうゆが、料亭仕様のたまりしょうゆになってる」