宮嶋いつく短編集

終発便 十九時発羽田行き

 時計が十八時を過ぎた頃。薄暗くなった滑走路に夜間照明がともり、一日の終発便フライトへのチェックと準備が行われている。
 春分の日を過ぎた侯とはいえ、まだ日が暮れる時間は早い。
 利用圏内人口の少ない地方の空港で、ターミナルも滑走路も規模は小さく、発着する便数も少ない。毎年、航空会社の経営改善策のために縮小が検討されるような所だが、金曜日の終発便羽田行きは、それなりに利用者が多い。
 ターミナル内は搭乗手続きをする人々や、出発を待ってロビーで待機する人、東京への土産を物色している人などの姿が見られる。
 ただ、ターミナルの片隅、滑走路に面した小さな区画にあるカフェラウンジには、初老のマスター以外に姿はなかった。
 外では、終発便の飛行機が地上誘導員に誘導されて、牽引車で移動している。牽引車のライトが、カフェラウンジ内に差し込んで、去っていった。
 客のいないカウンターの中で、マスターはコーヒー豆を手回しのミルで挽いている。ポットには火がかけられ、コーヒーカップとソーサーがひとつ分、用意されている。
 ラウンジのドアが開いた。
「いらっしゃい。待っていましたよ」
 顔を上げて、マスターが入ってきた客に微笑を見せた。
 客はこのラウンジの数少ない常連。金曜日の終発便の前に必ずやってくる、五十前後の男だ。初めて会ったのは二年前。国家機関の支局長を務め、東京に家族を残して単身赴任をしていると聞いた。
 お互い口数多くしゃべるわけではないが、このラウンジでカウンターをはさんでいると、不思議と、長年の交友があったかのような和やかな雰囲気がある。
「いつものを、お願いします」
 客はスツールに腰掛けながらマスターに言った。
 マスターは「はい」とうなずき、先ほどからしゅんしゅん湯気を立てていたポットを火から下ろし、まず、カップに白湯を入れて温めた。
 ミルから挽いたばかりのコーヒー豆を、ネルのフィルターに入れた。カップからお湯を捨て、温まったコーヒーカップの中に、ネルフィルターを通して、じっくりとコーヒーを抽出していく。入れ終わると、そこに小さじ一杯のブランデーをそそいだ。
 コーヒーをまず客に出すと、次いで、厨房に入り、皿に軽く海鮮ピラフを盛って、客に差し出した。海鮮ピラフはマスターの手で作るもの。その地方の海で獲れる新鮮な魚介類を使う。
「マスターの海鮮ピラフと、ブランデー入りのコーヒー。東京に発つ前に、どうしてもほしくなるんですよ。これが、わたしにとっての、この地方のソウルフードと言いましょうか」
 客はゆっくりと、ピラフを口に入れた。
 今日の海鮮ピラフには、朝どれのイカと、サザエと、この地方でのみ食べられている海老の一種が入っている。客は黙々とピラフを食べ、ブランデーの香りがほのかに立つコーヒーを口に付けた。
「今日は、意外にゆっくりされますね」
 マスターは客に言った。いつもはもう少し早く食が進んでいるのだ。
「ええ。普段に増して、マスターの味を確かめたい気分なので」
 客は、口の中に広がる、ふわりとしたバターの風味に包まれた、しっかりと主張しながらのくどさのない、海鮮の味わいを確かめるように咀嚼していた。
 皿が空になり、客はコーヒーをのどに流し込んだ。そして、ゆっくりとカップをソーサーに戻し、マスターの顔を見上げた。
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「これまで訊いていなかったのですが」
 客は話を切り出した。
「マスターにはご家族は」
「いましたよ」
「いました?」
「ええ。妻と、子供が二人」
 マスターは、遠くを見るように、視線を窓の外の滑走路に向けた。終発便の飛行機は最終チェックを終え、整備士たちが去っていこうとしているところだった。
「もしかして、訊いてはいけなかったことでしたか」
「いえいえ。死に別れたわけではありませんから……。妻と別れたのは二十年近くも前です。子供も、妻のほうに引き渡しました」
 視線を滑走路、いや、もっと遠くの夕闇に向けながらマスターは言った。
「気がつけば、妻が他人のように遠くなり、そのまま別れてしまった。悲しかったが、気付いたときにはどうしようもなかった、と言うところでしょうかね」
「些細なことから、夫婦が壊れたと」
 客の言葉に、マスターは天井を見上げた。
 何が夫婦関係を終わらせた原因だったのか、それは自分もよくわからない。ただ、その当時の自分が、妻や子供を本当に気にかけていた、本当に愛していたと、言えるかというと、肯定できない。肯定できていたら、別れてはいなかっただろうから。
「些細なこと、ではなかったですね。永遠の誓いを立てたのを破棄しているわけですから。……重大なことでしたよ。今となっては思い出せないくらいの」
 マスターは、自分専用のカップにコーヒーをそそぎ、口を付けた。
「子供さんとは今は?」
 客が訊くと、マスターは微笑みを浮かべて客を見た。
「子供は今でも、連絡をくれます。子供も成人して、かつての家族は皆方々に散ってはいますが、それでも、わたしを父親として思ってくれているようです」
「それは、いい子供さんですね」
「果報ですよ。それに、わたしなりに子供にはなんとかしたいと思っていました。妻とは別れて他人になりましたし、親権も譲りましたが、子供らにとってはわたし以外に父親はいないですから。それを、元妻も承知してくれまして」
 
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マスターの話を聞いていた客は、「コーヒーをもう一杯」と追加注文した。マスターは一杯分のコーヒー豆を、ミルで挽いた。
 コーヒーを待つ間、客は口を開いた。
「わたしは国家公務員として、〇〇省の一機関に勤め、珍しく地方移動もなく長く東京圏内にいて、家族を東京に住ませています。出世コースとはもともと縁がない身ですから出世へのこだわりはありませんが、ここの地方局長に辞令が下りたときは、正直、地方に飛ばされたという気がしました。来た当初は、いい気分はしませんでしたよ」
「まあ、この通りの田舎ですからね」
 マスターは、挽いたばかりの豆をドリップしながら答えた。
「けれど、ここの土地は、東京にいたときには考えられないほど、ゆっくりと時間が流れます。都会のせわしなさだけを味わってましたから、これほどゆったりできる土地があるというのは新鮮で、だんだんと心地よくなりました」
 コーヒーが客の前に差し出された。立ち上る湯気と共に、入れ立てのコーヒーの良い香りが、客の鼻をくすぐった。
「できれば、家族もここに呼び寄せることができればと思っていたところでしたが、わたしの子供は高校生と中学生で、どちらも受験を控えています。ここで環境を変えるのは子供たちにもよくないと思い、単身赴任でわたしだけここにいます。でもね、本当は、家族で一緒にいるのが一番だと思うのですよ」
「そうでしょうね」
 客はコーヒーを一口飲んだ。
「先頃、東京の本庁で移動の内示がありました。本部長格で、シンガポールへの赴任という話でした」
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「海外赴任、ですか」
 客はうなずき、コーヒーを口にしてから、深く息をついた。
「わたしのキャリアで海外本部長は確かに出世です。ですが、それだと、現在の状況よりも、家族と疎遠になってしまいます……。それが心苦しかった」
 客も、窓から見える外の景色を、いや、外に広がる、深くなりつつある闇を見つめた。
「子供も、多感で問題の多い年齢です。その時に、仕事のためとはいえ、家族をほっぽりだして海外にいていいのだろうかと思いましてね。ゆっくり考えました」
「それで?」
「ええ。これを辞退して、仕事からも身を退こうと思います。家族の所に戻るのがいい。そう思うんです。この便で東京の家族の元に帰ったときに、家族にそう伝えるつもりです」
 そういう客の顔は、ほっとしたような安堵の表情だった。
「それでいいんですね」
「いいんです。仕事の上ではわたしの他にも、海外本部長を勤めることのできる人間はいます。ですが、マスターもさっき言われましたね、子供たちにとって、父親はわたし以外いないですから」
 客はコーヒーを飲み干した。マスターは、グラスをとって水を入れた。
「友人に頼んで、次の仕事にも就くことができます。今よりも少々生活は切りつめることになるでしょうが、家族が一緒に暮らすことができれば、それも甘んじるべきだと思います」
 ターミナル内にアナウンスチャイムが鳴った。
「十九時発羽田行き、搭乗手続きを行っています。ご搭乗のお客様は速やかにお手続きをお願いいたします。まもなく搭乗手続きを……」
「そろそろ、行かなければ」
 客は代金をカウンターに置くと、席を立った。
「ゆっくり落ち着いたら、今度は家族を連れて、こちらに旅行に来ますよ」
「ええ、いつでもお待ちしてますよ」

 滑走路を速度を上げて走る、羽田行きの飛行機は、高い音を響かせて、徐々に陸地から離れていった。
 主翼のライトが闇の中に線を引くように伸びていく。
 見る見るうちに高度を上げていく飛行機は、地上からはやがて、いくつかの光の点だけを残して小さくなっていく。
 客のいなくなったカフェラウンジに一人、マスターはカップに自分用のコーヒーを入れ、窓から外をうかがい、羽田行きの便を見送った。
 夜闇の中に飛行機は機体を消し、光の点が徐々に消えていくのを、マスターはずっと眺めた。
「旅の幸運を」
 マスターは視界から去っていく飛行機に、コーヒーカップを掲げてつぶやいた。

(完)

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