「あれ?漁が解禁されたにしては、ずいぶん高いね」
市場に来たわたしは、なじみの魚屋に言った。
「そうだろ?」
魚屋も、白髪頭をがしがしかきながら困惑顔で答える。
地元の〇〇湾で獲れる岩ガキは今が旬。来客に備えて旬の料理でもと思い、市場に出かけたわたしだが、思わぬ高値に買うのを躊躇した。牡蠣そのものは型も大きく、艶やかで、食材に申し分ないのだが、例年に比べて一桁は値段が高い。
「都会で買うならともかく、地物がここまで高いなんてことはないだろう。第一、おやじのところは安いことで評判じゃないか。ふっかけているんじゃないだろうね」
「まさか」
魚屋のおやじはかぶりを振った。
「うちなりに安くしてこの値段さ。ほんとうに、牡蠣が揚がってないんだよ」
ふうむ、とわたしはあごに手をやってうなった。
「ここ数年、水揚げはどんどん減っているらしいね」
「そうだよ。ものがないから、値段は高くなるし、うちも四苦八苦してるよ」
「一頃に比べてずいぶん海はきれいになったと思うのだが」
わたしは仕事と趣味の釣りを兼ねてよく海のほうに行く。都会と違って重化学工場もなく、もともと美しい海で知られていた〇〇湾周辺だが、周辺集落からの生活排水などで一時期ひどく汚れたときがあった。集落の下水道事業や、漁港からのヘドロの浚渫などを行い、かつてのきれいな海はその姿を戻しつつある。海底の岩や海草まで確認できる、透明度の高い海がそこにはある。
「また海が汚れてきているんじゃないのかね」
「そうだろうか…?」
わたしは結局なにも買わず、疑問を頭に抱えながら家に帰った。
一見美しく、豊かに見える海に異変が起きている。なにか原因があるに違いない。帰宅すると、わたしは新聞のスクラップを入念に調べた。
話は6年前にさかのぼる。
〇〇湾に注ぐ一級河川●●川の水源地である××村。森林に覆われた山村である。人口は年々減少し、住民の半分近くが高齢者という過疎の村だ。
●●川の水源地帯は杉や檜などに覆われた、広大で深い雑木林である。かつては良質の木材で知られたところだが、国産林業の低迷と働き手の減少および高齢化で、ほとんど森林の手入れはなされていない。線の細い、ひ弱そうな木が茂る山になっている。
そのような、人もあまり入ることのない山林だが、ある筋には有名だった。
山地に分け入った未舗装の林道脇、その谷間の山林は、不法投棄された廃棄物に埋め尽くされている。人があまり入らない場所であることをいいことに、個人や業者が廃棄物を投げ込んでいくのだ。
たいていは粗大ゴミ。工業機械のスクラップや廃車もある。中には毒劇物の入ったドラム缶や一斗缶、自動車用のバッテリーも投げ捨てられている。
その年の五月下旬。まとまった雨が一月近く降らず、県下にはほぼ毎日、乾燥注意報が出されていた。
廃棄物の中にあった一台のガスコンロ。それにはまだ電池が入っていて、点火用の火打ち石がかちかちと音と火花をたてていた。
その火花が、一般家庭から投棄された古紙に小さな火をつけた。その種火は、折から吹いてきた南風によって徐々に大きくなった。
廃車に残っていた軽油、機械に残っていたオイルに引火し、火勢はさらに強くなった。投棄されて積み上げられた、自動車の廃タイヤに引火すると、それらは黒煙を上げて、猛烈な勢いで燃えさかった。一斗缶に入っていた油性塗料にも引火した。
劇薬の入ったドラム缶は、熱による膨張で破裂し、中身がぶちまけられた。
自動車のバッテリーは、外装の樹脂が焼け熔け、塩酸が流出した。
不幸なことに、その日は強い南風が吹き、強風注意報が出されていた。不法投棄されたゴミから上がった山火事は、瞬く間に広大な雑木林を舐め尽くしていった。山火事が鎮圧されるまでには一週間以上を要し、消し止められたときには、水源涵養林だったその山林を半分以上焼失していた。
財源不足に悩む××村も県も、この山林火災の復旧に関する良策を施行するにいたらず、広大な禿げ山になってしまったかつての雑木林は、そのまま無為に放置された。
その年の八月下旬、超大型の台風が県を直撃した。
一時間に200ミリに達するような豪雨が××村で記録された。
それまで、森林が根を張って水を確保していた雑木林は、山火事によってその力を失っていた。豪雨は禿げ山の表土を流し、土石流が●●川に流れ込んだ。××村をはじめとして、●●川流域は水害によって手ひどい被害を受けた。死者・行方不明者は30人以上、床上浸水は約2000棟、床下浸水も5000棟以上、橋は流失、道路は寸断、農地や農作物も甚大な損失を被った。
翌年の県議会で報告された資料によると、●●川の水位が著しく変動していることが明らかになった。降水があったときには水位が高くなるのに対し、しばらく降水がない場合だと、水位が著しく低下するのである。これは前例のないことだった。
理由は、水源涵養林が焼失したことにあった。
森林の木々は、雨や雪と行った降水を幹の中や根の間に蓄える。それらの水は葉から蒸散されたり、また徐々に山の地下水脈に入って、川に交わり、海へと下っていく。
その木々が失われた結果、雪解けの水も山々に降る雨も、山肌を通って直接川に流れていく。そのため、川の水位が安定しなくなってしまったのである。
さらに報告では、●●川にある砂防ダムの堆積土砂が著しく上昇していることも明らかにしていた。これもまた、水源涵養林を失った結果だった。降水が、山々の表土も押し流してしまうのである。実際、かつての広大な雑木林は、岩肌の露出した荒れ地になってしまっている。
●●川は県下の貴重な水源のひとつであることから、安定した供給を図るためにプロジェクトが施行されることになったが、その中心になったのはダムの建設だった。野党側から、巨額の建設投資よりも水源涵養林の再興が先決であると反論なされたが、一度失った森林は元通りにするのに何十年とかかる。育林事業も長期プロジェクトとして採用されたが、水源確保と防災面で重要プロジェクトに位置づけられたのは、新しいダムの建設事業のほうだった。
●●川漁業組合からの報告を見ると、洪水のあった年から年々、漁獲量が減ってきていることがわかった。
ここはアユ漁でも有名なところである。遊漁権を持つわたしも年に一回か二回はアユの友釣りに挑戦する。
水位の異常な変動はおいたとしても、見る限り、川がひどくにごっていると言うことはない。
地元の釣り情報誌に小さなコラムがあった。アユなどの魚が減少したことも、山林火災が原因になっていると、環境の専門家が分析していた。
山水には、腐葉土などから溶け出した栄養物が含まれている。それらは川を、そして川を伝って海に届き、プランクトンや藻類を、さらには多くの魚介類の栄養となってめぐっている。山林が焼失した現在、●●川に流れ込む栄養物は減少している。これは流域のみならず、○○湾にも影響を及ぼすだろう…。
スクラップを眺め続けたわたしは大きくため息をついた。
山で起こった環境破壊が、海に影響を及ぼしている。自然環境というものは、みなつながっている。その鎖が壊れると、関係するすべてが壊されていく。
この件は小さな県のある一ヶ所で起きたことだが、地球規模でも同じことが言える。
たとえば、熱帯雨林の消失は日本では関係のない話に聞こえるかもしれない。だが、熱帯雨林は温室効果ガスである二酸化炭素を光合成によって消化する役割があるゆえ、それを失うことは地球の温暖化に拍車をかける。地球の温度は上昇し、氷河の溶解によって海面が上昇する、海水温の上昇によって引き起こされる台風の大型化、生態系の変化などを招く。まだある。消失した熱帯雨林のあとに熱帯特有の激しい雨が降り注ぐとき、表土は瞬く間に押し流され、下流に洪水をもたらし、その後には森林のあと一帯を不毛の地に変えてしまう。そうなると、熱帯林にはぐくまれていた栄養素はもはや河川を通じて海に注がれることはない。よって、海洋資源は衰えていく。それに、(特に東南アジア方面の)熱帯林の消失には、日本向けに木材やパルプを輸出する目的で切り出される面もある。それらは工業原料、そして廃棄物として焼却されるとき、温室効果ガスである二酸化炭素を排出する…
環境破壊は単独では存在しない。自然の成り立ちがすべてつながっているように、環境破壊もいろいろなところでつながっている。
しかし、このことにいったいどのくらいの人が気付いているのだろうか…
翌日、わたしはもう一度市場に行き、なじみの魚屋に立ち寄った。
主婦らしき女性が買い物をしていた。
「あらぁ、旬だというのにずいぶん高いのね、岩ガキ」
「そうなんですわ。年々揚がらなくなってましてねぇ」
「あらまぁ。海がそんなに汚染されてるのかしら」
そんな会話が聞こえてきた。