[第二章 西涼争乱]

「今日もまだ返事は来ぬか」
 癇の強い声が帷幕の内から響いた。堅い土の上に、僅かながらも草の生えるステップの平原。その中央には小さな泉を備えている。 泉からは渾々と清水が湧きだし、周囲に小さな川を形づくる。その泉に依って、日乾し煉瓦で構築された砦規模の城郭があった。大きさ が小さいとはいえどもその作りは堅固で、内部には幾つもの、布と柱で作られた、折り畳み式の兵幕を備えていた。先程の声はその帷 幕の一つから響いていた。
「いったい、何日が過ぎていると思う。もう三日だ。たかだか補給物資の請求に幾日をかけているのだ」
 再度、大きな荒げた声があがる。兵舎の一つ、司令部と思われる大きさの中から聞こえてきていた。同時に強い、机か何かを叩いたよ うな音がした。
「元昊様、そのように苛立たれても詮なきことですぞ」
 不意に傍らより声があがった。穏やかな、落ち着きを持ったその声は、あの軍師張浦の声に他ならなかった。
「苛立つなと言われても、そうはいかぬ。早く補給を受けねば保たぬ。なのに返事が何時まで経っても来ぬとはどういうわけだ」
 再度強い語調の声が上がる。声の主である青年は、音も激しく腰掛けていた椅子から立ち上がった。強い焦りがそこに見えた。都興慶 府に送った使者は、予定の日数を過ぎても一行に帰って来る様子が見られなかった。苛立つなと張浦に諭されても、この砦を預かる将 である李元昊としては、どうしても焦燥に苅られずにはいられない。
 苛立ちを顕にすると、彼は自身の右手に座っている張浦老人の方を向いた。老人は元昊の苛立った様子を見ると軽く両手で彼を押し 止める仕草をした。
「そうでございますな。これはひょっとすると、拒絶されたのかもしれません」
「馬鹿な」
 元昊は眉間に大きく皺を寄せると興奮に任せて身体を前後に揺すった。
「この懐水鎮を護れないで都を何とするつもりだ。父はいったい何を考えているのだ」
 元昊の声には憤りが見られた。それは解らない事実の詰問であった。元昊は老人の方に目をやって彼の返答を待った。
「徳明様には解らないのです。この懐水鎮の重要さが。興慶府を護るのにこの砦がいかに大切か。この砦なかりせば都は西涼府に依る 回鶻の馬蹄によってたちまち蹂躙されてしまうという事実に」
「しかし補給がなくては我々はここを守りきれん。爺、なんとかせい」
 元昊は憂いの表情を軽く浮かべると歳既に古希を越えた老臣の意見を求めた。継遷の戦死から既に二十七年もの月日が流れようと していた。
 回鶻との戦いで継遷が戦死した後、張浦はその遺命を継いで西平府に戻った。そしてその後彼はしばらく事態の収拾に追われた。
 予定どおり、継遷の嫡男李徳明が夏国王として継遷の柩前で即位した。歳は二十三であった。この徳明王は平和を望んだ。今まで父 継遷が取っていた拡張策を捨て、敵対していた宋に藩属する道を選んだ。これは党項の夏国にとってはしかたのないことであった。継遷 が敗れたために党項はその兵力の大半を失い、宋どころか西方の回鶻の侵略をも支えきれなくなったのである。
 徳明の治世は二股膏薬の外交に終始した。すなはち北方遼帝国に臣従し、夏国王としてその立場を保障してもらうと同時に軍事的援 助を受け、国内の再整備に力を注いだ。そして同時に宋帝国からは西平王として西平府の支配権を認められ、毎年銀万両に匹敵する 経済的な援助を受けた。この背面服従的な精神でもって、徳明王は継遷の死後に混迷した党項、夏国を建てなおしたのである。
 その徳明王ももはや五十路を越えた。継遷が最後の戦いの時にあの岩山の上で軍勢を見せた童子小理も元服し、翌年には三十を控 えた青年になった。名を元昊と名乗り、既に妻をも娶った。徳明王の外交政策から遼の皇女興平公主を迎えている。身の丈は僅かに五 尺余りで、素晴らしいほどの威容があるわけではなかったが、夏国では文武に長じた賢人としての評価を得ていた。
 元昊は徳明王の長子であったが、王太子には据えられていなかった。党項族には特に長子が家を相続するものと決まってはいなかっ た。いや、むしろ長子は真っ先に家を出て独立し、分家を立てるものとされていた。しかもそれが有能な皇子ならばなおさらであった。こ の不文律通り、元昊も成人すると夏国の一方の将軍として軍勢を与えられ、砦の守備を任されたのである。
 徳明王の時代になって夏国は都を西平府から興慶府にと遷都し、ここを拠点として国内の整備に取りかかり始めた。
 興慶府の西にはかつて継遷を敗死させた回鶻族の西涼府があった。回鶻族の進攻を防ぐために元昊は懐水鎮の建設に取り掛かっ た。すなはち興慶府と西涼府の間にあるオアシスを中心として、小さな城塞を建設したのである。元昊が二十歳過ぎの時に取り掛かった それは先年ようやく完成し、懐に水を抱くという意味で懐水鎮と名付けられた。中央に泉を抱え、煉瓦の壁で周囲を囲んだその砦は非常 に堅固な作りを呈していた。それだけ元昊はこの砦の存在を重視し、回鶻との戦いを意識していたのである。ここに元昊は三千の兵と共 に暮らし、寝起きをした。良い水が出る砦。それだけで砂漠の世界では既に難攻不落の要塞であった。
 しかし、いくら水が出る砦といえども、兵糧が尽きれば話にならない。懐水鎮の水を利用して自給自足の屯田制度も行なってはいた が、やはりそれだけでは三千の兵の食料には不足するのであった。
「兵糧が足りぬ…雑穀が。興慶府には今年も宋よりの下賜物が届いているはずではないのか」
「おそらく」
「それが一粒もこちらに回ってこぬ。これでは懐水鎮は支えきれぬ。爺、お前の知恵でなんとかこの問題を取りのぞいてくれ」
「若、あまり年寄りに無理をおっしゃいますな」
「お前にも無理か。夏国随一の知恵者と呼ばれる爺にできないならば、いったい俺はどうすればよいというのだ?」
 元昊は多少含みを込めた視線で張浦の方を見た。彼は既に張浦の言葉の裏にある真意を読み取っていた。張浦がこのような言い回 しをするときは必ず何か策があるということを元昊は知っていた。ただ張浦がその策をすぐに進言しないのは、その策が慎重居士の彼 にとって気に入らないからである。
「何かあるのだろう。申してみよ」
「ないわけではございません。ただ、多少の危険を伴いますので」
「今になって兵糧が尽きる以上の危険があるか。兵糧は僅か一週間分にも充たぬのだぞ」
 季節はまもなく夏を迎えようとしていた。先年は麦が不作であったために、懐水鎮の食料事情は著しく悪化していた。いくら兵士たちが 牧畜の民といえども、毎日が干肉では限度がある。雑穀の不作は兵糧事情に大きな波紋を投げていたのである。
「兵糧が調達出来るならば危険などは厭わん。爺、進言せい」
 元昊は角張った顔の二つの目を輝かせた。気力に満ちあふれた顔つきだった。
「ならば申し上げましょう。奪うのです」
「奪うだと?何処から奪うというのだ」
「隊商よりです」
「奴らが穀物などを運ぶわけなかろう。自身のための食料くらいはあろうが、そんなものはこの砦の兵士の兵糧に到底足りぬ」
「それがあるのです。若殿は沙州の曹氏をご存じですな」
 張浦は幕の入り口に立つと西の彼方を指差した。その方には回鶻の西涼府がある。その遥か西に沙州があった。
 沙州の大守は曹氏であった。民族が混在する西方の辺境において、唯一の漢人の政権であった。当主曹賢順は宋から自治を認めら れ、臣下として振る舞うことで、宋の庇護を受けて沙州を己れが王国としていたのである。ただその存在は小さく、沙州そのものも貧しい 土地であるために、権力者達の侵略の対象にはならなかったのであった。張浦が言っているのはその曹氏のことなのである。
「爺、いくら何でも俺にそのような言い方をする必要はない。この元昊、いくら若輩といえども曹氏を知らなくては懐水鎮の守護はつとまら ん」
「では、その曹氏が大量の穀物を持って宋から帰還することもご存じでしたか」
「なぬ」
 元昊はその事実に対して全く言葉を失った。そんなことは予想できなかった。沙州は貧しいが自給自足は十分可能な土地であったし、 また曹氏にはそのように穀物を宋から持ち運ぶだけの力はないはずであった。だからこの話は元昊にとっては正に寝耳に水であったの である。
 張浦が語るところではこういうことであった。今年の麦の不作は夏国だけでなく、西涼府の回鶻族にも大きな痛手を与えていた。しかし 回鶻が表向きに宋から穀物を得るわけにはいかなかった。回鶻は党項の夏国のように宋や遼に対して臣従しているわけではない。だか ら回鶻が宋から直接交易を行なうことはできないはずであった。
 しかし、この回鶻と宋の間に曹氏が絡んでくれば話は全く違ったものになってくる。曹氏は形式的にだが宋帝国の臣下の一員であるわ けだから、本国からの兵糧の仕入は財力の許す限りで可能であった。もちろんその財力は全て回鶻王の懐から出ている。回鶻は西方と の貿易で莫大な富を築いていた。たとえ金銭でなくてもよかった。珍しい品さえあれば、彼らは宋において十分兵糧を手に入れられるの である。
「そこまでは俺も気付かなんだ。さすがは爺だ。その隊商を襲えば、我々は兵糧の問題だけではなく、回鶻の力も弱めることができる。一 石二鳥とはこのことだな」
 元昊は喜びの声を上げると身体をまた前後に揺すった。彼の興奮はただならないものがあった。彼は帳に羊の毛皮を敷いて座にして いたが、そこからすくっと立ち上がると幕の外に出た。
「すぐ、王朱敏に軍勢を整えさせろ」
 一度決まれば元昊の処置は素早かった。張浦は深々と頭を下げた。何年経とうともこの軍師の頭の冴えは少しも失われていなかった のである。


「若殿よ、出陣の支度はほぼ整った。命令さえあればいつでも出立が可能だ」
 堂々たる体躯のいかにも武人とした呈の男が元昊の前に進み出、武骨なたどたどしい口調で状況を告げた。既に軍装に身を包み、長 剣を携えて王朱敏は元昊に一礼をした。かつて継遷に仕えたこの勇将も五十に手が届く年となっていた。鬢にいくらか白いものが混じ り、顔には砂漠の苛酷な風土によって刻まれた幾本もの皺が深くきざまれていた。しかしその隆々たる筋肉にはいささかの衰えも見いだ せなかった。
 継遷の敗死の時にその軍団はほとんどが壊滅し、僅か数千だけが都城に帰り付いた。勇将王朱敏もその中に居たのである。敗残の 身を晒した彼に中央での働き場所はもはや無かった。そして戦を嫌う徳明王が彼を徴用しなかった。彼は軍師張浦の縁を頼り、元昊の 元で陪臣としての道を歩んだ。そして今、元昊の軍団では最も勇猛な武将としての評価を得ていた。
「どの位の兵力を出すことになる」
「出陣する兵は二千。一千は砦の守備として残すことになるがね」
「兵糧はどの位持たせたのだ」
「各自五日分を準備させている。しかしこれがこの懐水鎮の兵糧のほとんどだ。もし兵糧が手に入らなければ、我々は無駄な出陣で餓え ることになるが…」
「案ずるな。この元昊に爺の知恵が加わればそのようなことなどほんの杞憂にしか過ぎぬ。今に兵士が食べすぎて腹を壊すほどの兵糧 を手に入れてやるわ」
 元昊は威勢よく笑った。度胸がよくて肝が座っているのがこの若き英傑の長所であった。そのような所がある元昊だからこそ、王朱敏 も安心して元昊に仕えることができていた。
 本来ならば王朱敏は夏国の将軍として日の当たる道を進むはずであった。英雄継遷が手塩にかけた党項の軍隊は精強であった。し かし継遷の死後に王位に即いた徳明は、父継遷の息がかかった軍隊を嫌った。周囲との和平を路線とする徳明王には、継遷の作り上 げた戦いの集団は邪魔なだけであった。
 そのため、継遷の軍の生き残りは皆元昊の下に配せられた。王朱敏もその一人であった。しかしそれはこの武将にとっては幸せなこと だった。戦によって道を切り開いた王朱敏にとっては、和平路線を採る徳明王は余りにも物足りなすぎたのである。
「隊商の一団は明日の正午には蘭州方面から西涼府への帰途を目指すようです」
 老軍師張浦が卓の上に大きな地図を広げ、街道を元昊と王朱敏に指し示した。蘭州は懐水鎮の南で、夏国の都興慶府から見ても南 方に当たる。本来ならば宋の長安から夏国の都興慶府を通るのが最短の道程である。しかし回鶻としては敵国の領土内を通るわけに はいかなかった。だから南回りの進路を選択したのである。
 南回り蘭州の道を通るとはいえども、その場合でもどうしても懐水鎮の近くを通ることは避けられない。
「物見の報告では、隊商は五日前に蘭州を発したそうです。行軍速度から判断しますと、やはり明日の正午ですな」
 張浦は筆にたっぷりと朱を付けると、隊商が通っているはずの道に線を引いた。やや多めに墨を付けたはずだったが、乾いた空気の 中でたちまち筆は水気を失い、懐水鎮の西側のところでその線は丁度擦れた。
「ここだな」
 元昊はその朱が途切れた部分に指を乗せた。懐水鎮の西方で、僅かに南よりに下がったところ。そこには小さな泉が書き示されてい た。
「奴らは必ずここを通るな」
「いくら隊商達の駱駝が渇きに強いとはいえ、無補給では勤まりませぬ」
「そうだ、我々と同じようにな」
 元昊は顔を少し傾けると不敵な笑みを微かに浮かべた。笑った顔が祖父の継遷に似ていた。やや感慨の心持ちで張浦は大きく首肯 いた。
「よし、出立は今夜夜半だ。先回りして泉に陣を張るぞ」
 それが元昊の命令であった。軍師、将軍の二人とも大きく一礼して、次なる支度に備えるために、それぞれの持ち場へと戻っていっ た。


 その夜半、元昊は闇に紛れると二千の兵を率いて懐水鎮を出陣した。異変が起こったように見せ掛けないように、東西二つある門のう ち東門より兵を発し、街道には沿わずに南進した。途中から進路を変えて西の方に向かうこと数刻。夜明け近くになってから、ようやく元 昊の鼻孔に水の香りがするようになった。
「着いたようだな」
 そこの地表には名もない湧き水が流れ出ていた。元昊の幕舎の帳でもすっぽりと包めそうな泉源が一つだけあり、その周囲に青々と 生えた草が、この乾燥したステップの荒原の中で風景的な異彩を放っていた。
「馬に草を与え、陣を組め。まだ三刻の余裕はある。戦に備えて兵を休ませるのだ」
 元昊の下知に従い、二千の軍勢は泉の周囲にそれぞれが腰を降ろし、一時の休息をむさぼった。馬があるものは馬に水と草を与え、 徒歩のものはその場に座り、汲んだ水で喉を潤した。
 元昊の軍には馬は少なかった。いくら遊牧を専らとする党項族といえども、所詮元昊は一王子に過ぎない。彼には騎馬軍団を養うだけ の力はなかった。彼の軍勢も所詮総勢で三千に過ぎない。しかもそれが全て党項族のわけではない。何割かは漢族や、北方の契丹族 が交じっている。それらは必ず元昊に服しているわけではないのである。
 これら別れた民族を寄せ集めているのは力であった。力さえあれば人々はその大樹に寄った。元昊の力は決して大きなものではなか った。だから彼の兵は少なかった。ならば力をつけねばならぬと彼は日々思った。それこそが祖父継遷の目指したことであると考えてい た。
「若殿、取り合えずここまで参りましたが、いかなる様に軍を展開すべきでございましょうや。相手は隊商ですが、回鶻の兵が護衛につい ていることは必至ですぞ」
 木陰に床几を組み、腰を落ち着けた元昊の所に張浦がやってきた。今やこの老軍師も鎧兜の軍装に身を包んでいる。そうした姿は矍 鑠としていて、とてもこれが七十を越した老人とは思えないほどであった。
「むう、やはり回鶻がいるか」
「ですから危険を伴うと申し上げたのです」
 考えれば、回鶻が穀物の輸入を依頼したわけだから、それを守るための兵がいることは間違いなかった。しかも物資の量が膨大な分 だけ、かなりの兵力がいるものと予想された。
「そうだな…正午前に軍を二隊に分けて泉の両翼に潜ませるのだ。それとは別に三百騎ほどの別働隊を泉の周囲に潜ませておく。この 役目は王朱敏にやってもらうことにする」
「それでどうなさるのですか」
「王朱敏の三百騎は泉周囲で隊商の一団と交戦するのだ。相手は眼前の王朱敏に気を取られて戦闘にはいるであろう。そこを両側から 我が軍が挟み撃ちにするという戦法でどうだな?」
「お見事です。それで大過はございません。我が軍有利に進むことは間違いないでしょう」
 張浦は断言した。慎重居士の彼が勝利を言い切ることはほとんどない。なのにこの場で敢えてそうしたのは、元昊の策が感心するほど 勝れていたからに他ならなかった。
(やはりこの方は継遷様に生き写しだ)
 時折張浦はそう思う。自身が若年から付きしたがった寂寞たる大地の英雄は四十二にして中途に没したが、その魂は脈々と元昊に受 け継がれている。
「しかし、この戦はどうなるにしろ、回鶻を怒らせることになるでしょうな」
「夜洛隔可汗のことか。あの、戦いだけの鈍物が怒るとならば、少しは面白くなるのだがな」
 くっくと笑い声を洩らすと元昊は回鶻王の名前を出してそれを罵倒する言葉を発した。元昊から見れば回鶻王はその程度の人物に過 ぎなかった。
 回鶻の夜洛隔可汗は四十を少し越えた武人の王であった。回鶻は王のことを可汗と呼ぶ。この戦いだけが取り柄の軍人は回鶻の莫 大な財力をもって次々と軍事費に変えていた。このため回鶻と国境を接する契丹族の遼帝国も、うかつに手出しができなかった。たしか に夜洛隔は強い武将であった。戦場ではその人ありと恐れられていた。しかしその反面で単純過ぎていた。武略にも乏しく、一人の武将 としては優秀でも、戦場で兵卒を纏める総帥の力量はない。
「来るなら来ればよい。懐水鎮がそう易々と敗られることはない。例え奴らが数万の兵で押し寄せても、我ら三千で十分に護りきれる」
 元昊の言葉は自身に満ち溢れていた。それだけ彼は懐水鎮に心を砕いて回鶻との戦いに視線を向けていたのである。回鶻との戦に 勝たなくては夏国の将来はないと元昊は思っていた。この点は彼の祖父継遷と少しも違わない。
 しかし父徳明は全てにおいて融和政策を取り続けた。自身の父親の敵である回鶻とも平和を保っていた。このような徳明王の弱腰が 元昊の気に入らないことを張浦は知っていた。知っていたからこそ、これ以上二人の関係を悪くさせるのは止めたかった。
「回鶻はそれでよいとしましても、この戦は徳明様のお怒りを招くでしょうな」
 張浦は口にはしたが、今更元昊がその程度で志を翻さないということは百も承知であった。なぜなら継遷の遺言通りに元昊を育てたの が他ならぬ張浦自身であったからである。
 張浦は元昊が幼少の頃から継遷の偉大さを話して聞かせた。その強き意志と卓越した戦いの才能を、彼は子供の元昊に対してよく語 った。その結果として今の元昊が出来上がった。それは張浦自身が仕えたかった主君の姿だった。
「父か…あの人はもう、どうにもならんだろうな」
「昔は徳明様も立派な武将でしたが…」
「老いては駿馬も駄馬に劣るという。父はもはや老いた。爺よ、まだお前の方がよほど若々しいわ」
「ご冗談を」
 張浦は苦笑した。しかし、それは当然であると彼は密かに心中で呟いた。何か目的がある間は人はいつまでも若々しく居ることができ る。張浦にはまだ夢があった。この夏国が、若き元昊によって統治され、強勢に成るのを見届けてみたい。それが彼の最後の願望だっ た。いや、二十七年前、仕えていた君主に先だたれ、死に場所を失ってから、それだけが唯一の心の支えとなっていた。
 徳明王はその役目をもう終えられたのだと張浦は思う。継遷が築いた国を護り、育てていくのが徳明の仕事であった。統治すること二 十七年。夏国は安寧であり、国家としての体裁も一応整えることができた。宋に臣従したおかげで宋の莫大な援助を仰ぐことができたた め、人々の暮らしは目立ってよくなってきていた。
 しかし、今はさらに拡大の時期が来たと張浦は軍師的な視点で考える。国家というものは大抵初代の君主が労苦を背負って国を作り 上げる。そして二代目はそれを護り育て、その富をもってして三代目に全盛の時期を迎える。それが張浦の考えであった。思えば漢、唐 もそうであった。高祖劉邦の時に建設された漢は実質二代目の文帝が平和を望み、富を貯えた。そしてかの武帝の時に、貯められた力 を一挙に吐き出して、漢の全盛を創った。唐にしても初代李淵が国を作り、二代目李成民の時に国力を貯えて、その後高宗、玄宗の全 盛を迎えている。
(徳明様の時代も間もなく終わる)
 張浦はそのようなことを考えていた。彼はかつての主君の息子にはほとんど関心がなかった。老臣であるから、彼は徳明王が生まれ た時からその傍にいて、生涯を共に過ごしてきたはずであった。しかしその興味は今の王である人でなく、たかだか懐水鎮という砦の主 人にすぎない元昊に向けられていたのである。
(そのためには、まだこの張浦は老いておれん)
 普段口にしている言葉とは裏腹に、彼は心中で強く自身に言い聞かせた。元昊が自身を頼りにしてくれていることは分かっていた。老 いたと自身を嘆いている場合ではなかった。張浦は足取りも若々しく、自身の率いる隊を指揮すべく、深々と礼をして元昊の前を辞した。


 元昊は軍を三つに分けた。そのうちの一つ、王朱敏率いる三百騎を泉のある窪地に置き、自身はもう一隊を率いた。残るもう一つの部 隊は軍師張浦が指揮を執る。
 泉の両翼に兵を伏せて元昊は時を待った。頼みは王朱敏がどれだけ敵を引き付けてくれるかであった。王朱敏の部隊はあくまでも陽 動である。彼が暴れすぎて敵軍を追い散らしてはいけない。敵に逃げられてはまずいのである。兵糧を積んでいる隊が逃げ出さない程 度に戦わなくてはいけない。しかしまた弱すぎてもいけない。元昊の本体が動くまえに王朱敏が敗走すれば、挟み撃ちどころか、敵に体 制を建て直すだけの余裕を与えてしまう。この役目は重大であった。元昊旗下でもっとも勇猛と讃えられる王朱敏でなくてはできない任務 であった。
 時は流れ、照りつける太陽が南中へと達してきた。一日のうち、最も熱い時刻になりつつあった。そして正午を少し過ぎた頃、王朱敏は 斜面の影に何頭かの軍馬の影を認めた。この泉はさして深くない窪地にあり、摺り鉢よりももっとなだらかな、皿の底のような地形を呈し ていた。その皿の端の部分、斜面が始まる場所に、馬の姿と騎兵達が見えた。それは何頭も連なっており、一大の軍団を形成してい た。
「来たな」
 王朱敏は目尻を下げて嬉しそうに大笑すると自身の矛をつがえた。騎兵達は王朱敏の姿を認めたようであった。皿の淵に次々と騎兵 と歩兵が姿を見せていた。かなりの人数であった。王朱敏は瞬時に目算でその数を七、八百と鑑定した。
「これはよほど巧く戦わないといかんな。若殿も無理をいうわ」
 しかしそんな事を言いながらも王朱敏の顔は綻んでいた。彼は武人であった。今の徳明王の政権である以上、戦争は起こらず武人に は出番がなかった。そのような中で戦いに臨めることが、この初老の将軍にとっては嬉しかった。
 王朱敏は泉の傍の草叢に二百の兵を隠すと、自身は百の騎兵でもって、敵の軍団に近付いた。敵将らしい男の姿はすぐに目に入っ た。王朱敏は攻撃の距離を保ちながら敵将に歩み寄った。
「お前達に恨みはないが、その兵糧は我らがいただく」
 最初王朱敏はそう漢語で喋った。彼は党項語以外にも三つの言語を操ることができた。回鶻語、契丹語、漢語の全てをややたどたど しいながらも使うことができる。それは幾多の民族に挟まれた党項の将としての宿命であった。
 王朱敏は漢語で話したが、敵将からは返事が返ってこなかった。王朱敏はくすりと笑った。そして今度は先程と同じ言葉を回鶻語で話 した。ようやく相手の将はそれを理解したらしかった。その将は回鶻の言葉で返した。王朱敏と違って滑らかな回鶻の言葉であった。
「大切な兵糧をお前たち野盗風情にわたせるか」
「野盗ではない。我らは夏国の軍だ」
「笑わせるな。その程度でか。我らを謀るのも大概にしておけ。命が惜しかったのならばおしなしく引き下がるのだな」
「ほざくな、かかれ!」
 王朱敏は怒号を挙げると傍にいる百騎と、草叢に伏せた二百騎に戦闘の合図を下した。三百の陽動部隊が一度に敵兵に襲いかかっ た。
「小癪な」
 敵もまた、それを向かい討つべく攻撃の命令を下した。半円状に、皿の淵に集まっていた敵兵は大挙して一度に坂を下り始めた。兵力 の多勢を以て王朱敏の隊を包囲するつもりであった。
「よいか、一歩も引くな。引いたら命はないぞ」
 王朱敏は僅かな軍勢を一ヶ所に集めると方形陣を素早く敷いた。目的は敵を打ち破ることではなかった。いかに敵を巧く引き付けてお くかなのである。
「野盗どもを生かすな。ことごとく討ち取れ」
 砂煙が竜巻のように宙に舞い、辺りの日の光はたちまちの内にさえぎられた。王朱敏は視界の悪化した混戦のなかで敵将の声を聞い た。
(討ち取られてたまるものか。今に若殿が来てくださるわい)
 元昊の本隊が全ての頼りであった。それがなくては王朱敏の軍は支えられない。彼は渾身の力で矛を振り降ろした。確かに手応えが し、悲鳴が聞こえた。しかしそれを気に留める余裕は王朱敏にはなかった。彼に任されたのはただ戦うことであった。
「さあ、他に相手はおらんのか。俺は夏国にその人ありと言われた漢、王朱敏。功名をあげたくば俺の首を狙え」
 新なる混戦を招くために彼は再び怒号をあげた。言葉は回鶻語であった。それにつられて、敵の攻撃は呵責を増していった。混戦とい うべきにふさわしい様相であった。


「王朱敏め、まったくあいつには恐れ入るわ」
 窪地より離れた場所に兵を伏せて元昊は戦いの様子をうかがっていた。かなりの距離があるはずなのだが、王朱敏の行動が元昊に は見えていた。それだけ彼は目立ち、勇猛果敢であった。もうもうと上る砂塵の中で、矛を振り回す勇者の影。それが王朱敏その人であ った。
「しかし、関心してばかりもいられんわ。荷駄隊を包囲するのが俺達の役目だからな」
 敵軍の先鋒は皿状の窪地の中で、王朱敏と激しい戦いを繰り広げていた。そこから離れて、何百という車に積まれた輸送隊が、進路 を戦いにさえぎられて、僅かの護衛と共にぼんやりと立ち尽くしていたのであった。
 ほとんどの兵が王朱敏の軍に引き付けられているので、車に積まれた兵糧に付けられた兵は僅かであった。その中に一人、漢人風の 儒服を着て、冠を正しく頭に乗せた文官が場違いにもいた。おそらくこれが回鶻に替わって兵糧を宋から買い付けた曹氏の一族に違い なかった。
「どれ、回鶻と曹氏の連中に一泡吹かせてやるか。紅旗を振れい。爺の軍と協力して輸送隊を襲う!」
 元昊は傍らの側近に命を下した。たちまち地上から一本の紅色の旗が上がり、それが大きく左右に振られた。
「若殿よりの合図だ。全軍、輸送隊に向かえ」
 元昊からの合図を受けてほぼ同時に左右の軍は発進した。一路荷駄に襲いかかり、次々と敵兵を蹴散らしていく。敵の本隊のほとん どが王朱敏に引き付けられていたので、これはたやすい。
「いかん、兵糧が」
 王朱敏の軍勢と対峙していた回鶻の将は変事にすぐに気が付いた。回鶻の兵はさすがに多をもって王朱敏の軍勢をじりじりと追い詰 めつあった。しかしその背後で戦闘が起こったのである。元昊と張浦率いる千七百の兵団は両側から荷駄を襲い、護衛の兵を怒涛の勢 いで駆逐していたのであった。
「まずい、戻れ!兵糧を守るのだ」
 敵将は叫び、軍勢を後戻りさせ始めた。しかしそれは将に元昊の作戦の思う壷に過ぎなかった。
「敵が退く。今だ、攻め寄せよ!」
 もはや王朱敏の周囲には百余りの兵しか残されていなかったが、彼はこぞとばかりに攻勢に出た。敵の兵団は皿の淵にまで下がり始 めた。なりふり構わず背を向けての撤退である。潮が退くように素早く相手側は退いていく。
「いくぞ、切り込めぃ!」
 王朱敏は戦いのうちで使いものにならなくなった矛を投げ捨てると長剣を抜き、残りの兵士を周囲に集めた。兵士一丸となり、突撃の 体勢を整える。
「爺、王朱敏の援護に回れ」
 王朱敏の軍が回鶻軍に突撃を掛け始めたのを見て、元昊は張浦に下知を出した。老軍師は意気逞しく馬上にあり、長剣を以て雑兵た ちを斬り伏せていた。七十一という年など感じさせぬ働きであった。元昊の言葉に張浦は首肯くとその場の手勢をもって回鶻軍に向かっ た。前後より挟み撃ちの陣をとる。
「しまった、挟まれた」
 回鶻の将は今や自身が絶望的な状況に陥ったのを悟った。全て元昊の軍略であった。それに見事なまでに回鶻軍は落ち込んだので ある。こうなると回鶻軍はどうしようもなかった。数的にはほぼ同数だが、前後より挟み撃ちにされては強勢な回鶻兵といえども太刀打ち はできない。しかも王朱敏と張浦という、今や夏国では伝説とも讃えられる将が軍を率いているのである。
「一ヶ所に集まれ!合流するのだ」
 回鶻の将はあらんかぎりに声を張り上げた。しかし時既に遅かった。軍勢そのものが前後より分断され、散々にとなりつつあった。整 然と攻撃をかけていたはずの軍隊は中央から別れ、真ん中の所に兵士の密度の薄い空間が出来つつあった。回鶻軍の混乱は少しも 治まらなかった。
「突っ込めい」
 回鶻軍の間に大きな分け目が生じた。断層のように縦に大きく軍勢の別れ目ができる。そしてその手薄となった所に回鶻の将がいた。 王朱敏は馬に鞭をくれるとそこ目掛けて馬を突入させた。
 突撃して行く砂煙の中、王朱敏は敵将の姿を認めた。もう一度馬に鞭を当てると彼は長剣を身体の正面で構えて咆哮をあげた。
「回鶻の将よ。俺の名前を忘れるな。俺はかつて李継遷にその人ありと言われた王朱敏なり」
 勇将は力強く剣を振り降ろした。たしかに王朱敏の言葉に違いはなかった。彼の狙いは誤たずに敵将を直撃した。肉が切り裂かれる 手応えと骨が砕ける音がして、敵将はどさりと地面に落ちた。
「回鶻の将、この王朱敏が討った!」
 彼は腹の底から大声を出して全軍に勝負の結果を伝える。それで全ての決着がついた。指揮官を失った敵方にもはや戦意は無かっ た。王朱敏の目覚ましい働きにより、戦いは元昊の圧倒的な勝利に終わったのである。


 粗方の敵を打ち払い、降るものは降るにまかせて元昊は戦いを終えた。損害は二百を少し越えたが、それを上回る四百の捕虜を得、 また夥しい兵糧を元昊は手中にした。
「これはまた、凄いものでございますな」
 張浦は一つ一つ荷駄を回り数え、その兵糧がどれほどのものか知って驚きの色を隠さなかった。これほどの兵糧があれば、懐水鎮の 兵が三ヵ月は優に養えるのである。策は見事に成功していた。失敗すれば間違いなく懐水鎮は餓えていたが、今やそのような事は考え なくともよいのである。
「これで朱敏よ、お前も腹一杯食べられるというわけだな」
「まったくだ、爺さん。今日は少し働きすぎて腹が空いたわ」
「まあ、もう少し待つのだな。砦に戻ればいくら気を抜いてもかまわんから」
 張浦は王朱敏と並んで荷駄を数えながら勝利の余韻に浸っていた。すばらしいまでの勝利であった。元昊の言う通りにして全てが巧く 行った。砦の運命を左右するほどの賭けであったが、元昊はそれに勝利したのである。張浦はこの若き主君の才覚と決断力に感心し、 そこにもまたかつての主君継遷の姿を見いだしたのであった。
「おい、爺さんよ。誰かが車の下に居るようだが…」
 王朱敏の言葉によって張浦は現実世界に引き戻された。それは何の変哲もないただの荷駄車であったが、その下の車輪と底板の間 で確かに何かが蠢いていた。
「何者だ、出てこい」
 張浦は抜刀すると武器を構えてよく響く声で警告を発した。車の下にいるのは男のようであった。恐怖のためか身体は引っ切りなしに 震えていた。張浦の言葉にも少しも応じる様子はなかった。
「朱敏、こいつを摘み出してくれぬか」
 王朱敏はうなずくと車の下にと潜り男を掴んだ。さすがに大力の王朱敏である。抗う男にも構わず、易々と彼を車の外にと引きずりだし た。彼は文官の姿をしていた。元昊が戦いの前に見かけたあの男であった。
「むっ?そなたは」
 その男の顔に確かに張浦は見覚えがあった。先年用を得て沙州の曹氏の所に使いした時に、この男を見たような気がした。
「私はそなたに会ったような気がするのだが…曹氏の一族か」
「ひょっとすれば貴方は張軍師でいらっしゃいませんか。私は曹徳観です。ああ、あなた方は夏国の軍だったのですね。なんと酷いこと を。あなた方はこんなことをしてはいけなかったのですぞ」
 そう男は早口で捲くしたてた。曹徳観という名前で張浦は思い当った。沙州大守である曹賢順の甥で、沙州の外交官的役割を果たして いる男であったことを今になって思い出したのである。
「思い出したわ、その名前は。しかし悪く思うな。こうでもせねば我々は餓える」
「何をおっしゃる。一度成立した盟約を破ってからそのようなことをいけしゃあしゃあと」
「盟約だと?」
「先月、夏王徳明様に申し上げたではありませんか。我々沙州が回鶻に食料を供するのを認める替わりに銀五百両をお支払いすると。 既に約束のものを受け取っていながらこの仕打ちとは」
 張浦の顔に驚きと狼狽の色が走った。まさか、と彼は思った。徳明王がそのような事を認めているなど彼は夢にも思わなかった。
 いや、ことはそれ以上の問題であった。夏国は回鶻と盟約していた。これも張浦から見れば許しがたいことである。回鶻は不倶戴天の 仇敵であり、回鶻を退けなくては夏国の発展などありえない。張浦には徳明の考えが解らなかった。たかだか五百の銀に騙されたのかと 思うと悲しく、情けなくもあった。
 しかしそれだけが問題ではなかった。事が真実ならば、夏国は回鶻と沙州の間にかわされていた盟約を破ったのである。何に於いても これは罪が重い。下手をすれば現場の自分達が、朝廷に歯向かったという罪を被る。
 張浦は王朱敏を走らせて、急いで元昊をこの場に呼び寄せた。やってきた主君にことの顛末を詳しく話すと、始めは元昊も半信半疑で あった。
「まさか、そのようなことはあるまい。いくら父が戦に倦んでいようとも、我が祖継遷を殺した回鶻などと同盟をするわけがない。曹徳観と やら、証拠を見せてみよ」
 元昊は威厳を正して言い放った。すると曹徳観は震えながら懐中より何かの書き付けを出してきた。
「これが証拠にございます」
「見せよ」
 元昊はそれを奪うようにして受け取った。それは確かに盟約の書状であった。夏王李徳明の名前で沙州との間に条約を取り交わし、 夏国は沙州が回鶻に物資を売ることを認め、手出しはしないと約束されていた。その替わりに沙州は夏国に銀五百を送るという。確かに 夏王の朱印もあった。紛れもない本物の書状であった。
「お分りいただけましたか」
 恐れ、慄きながら曹徳観は元昊の顔を見つめた。
「分からぬ。なぜ父は仇敵の回鶻などど…」
 元昊の顔は怒りに震えていた。どうしてこのようなことが許されてよいものか。回鶻が夏国にとっての敵であることは、徳明王が分から ないことではないはずであった。
「しかし、これでこの書状が本物であるとお分りいただけたと思います。今からでも遅くはありません。この兵糧を回鶻に運び、謝罪する のです。さもなくば貴方達はただでは済みませんよ」
 書状を認められたことで、曹徳観の言葉には能弁さが戻ってきていた。この男はただ口が立つだけで外交使となっていることを張浦は 知っていた。つまらない男であった。ただ弁があるだけで知略も武略もない。
「喧しい!ただでは済まないだと?そうだな、済まないのは貴様の方だ。見ていろ、半殺しにして沙州に送り返してやる。誰が祖父の敵回 鶻等に穀物を送るものか。たとえ父が許してもこの元昊が許さん。誰か、この口うるさい馬鹿を連れていけ!」
 元昊は騒ぎ立てる曹徳観を睨み据えると大喝した。ひぃと短い悲鳴を上げてこの小人は蹲った。たちまち数人の兵が曹徳観を引きず り、その場から立ち去らせた。
「若殿、本当によろしかったのですか。このままでは徳明様の命に背くこととなりますが」
 張浦は半分気の抜けたような声で元昊に尋ねた。夏と回鶻の間に密約があったのも衝撃であったし、自分たちが命令違反の罪に問わ れる危機に瀕しているのも心に大きな痛手を与えていた。
「かまわん。あんな男を生かしておいては、我々の立場は一層不利になるだけだ。何を喋られるかわかったものではないからな。しかし、 俺には父上の真意というものがわからん。まさか…いや…これを機に回鶻と講和するつもりとしたら…」
 一つの考えに行き当たって元昊は言葉を詰まらせた。徳明王はそういう人間であった。決して無能というわけではないが、この王には 武勇がない。全てにおいて事を荒立てるのを徳明王は好まなかった。常に周辺の諸国と平和を保ち続けた。それが今の夏国の外交で あったのである。
「そんなことはさせん。我が祖父を殺した回鶻だけは決して許せん。爺よ、どうやらこれは一度興慶の都に戻らなくてはならんようだ」
「徳明様にお会いするので?」
「そうだ、会ってこの度の事件の報告をし、父の真意を問いたださねばならん。爺、お前は俺と一緒に来てくれ」
「この老骨をでございますか」
「お前の知恵は俺に必要だ。俺の留守の間の懐水鎮の守備は王朱敏に任せる。しかし濫りに戦いを起こすな。食料は十分あるのだ。敵 が攻めてこようとも、堅く護れ」
 元昊は戦勝の余韻に浸るだけの余裕もなかった。彼は急いで興慶府に向かわなくてはならなかった。そのための用意が彼に必要であ った。命令は全てとどこおりなく行なわれた。一団は夥しい戦果と共に、意気揚揚と懐水鎮に引き上げたのである。ただ、元昊と張浦だ けが、都で繰り広げられるであろう思想の戦いに身を震わせ、迫る危機をひしひしと感じ取っていた。

(続く)三章 遊宴興慶へ