[第三章 遊宴興慶]
夏国の都である興慶府は黄河の畔にある都城である。黄水を挟んで南岸にはかつての都である西平府がある。かつて興慶府は興州、西平府は霊州と呼ば
れ、それぞれが地方の一州に過ぎなかった。しかし継遷によって西平府が夏国の都城となると両都の開発は進められ、徳明王が対岸の興慶府に遷都すると首
都の開発は積極的に推し進められた。二十数年もの時間が経つと、荒寥としていた砂漠の都城も立派な首都としての様子を整えてきた。さすがに宋の都である
開封府ほどの賑わいはないが、それでもこの首都は新しい活気に充ち溢れていた。
周囲は一面の砂漠だが、興慶府の周囲だけ、緑の平原が広がっていた。ここには数本の短い川が流れ、それが揃って黄河に注いでいる。川を起点として漢代
から掘られた幾本もの渠によって、渇れるはずの大地は瑞々しい沃野となった。水によって砂漠は緑地にと姿を変え、城の周囲では農耕をしている人々の姿も見
ることができた。
興慶府の城郭は高くそびえ立ち、四方に設けられた門によって人々の通行が行なわれていた。多分に洩れずこの城も街全てが城の総郭型の城塞であった。長
方形に築かれた城壁の内側が興慶の街である。
「ここは来る都度活気が増しているようでございますな」
額より流れ落ちる汗を張浦は拭うと、もう一度周囲を見回すために首を左右に動かした。興慶は幾多の人々による多彩な賑わいを見せていた。
徳明王はその治世の大半をこの街の建設に費やしていた。継遷の時代には砂漠の城だった興慶は今や一流の都市にと変貌していた。水の利用と交通の便を
考えて徳明王はこの街を夏国の首都に据えた。英雄とは言えないにしても、この王の内政の治績は群を抜くだけの力があった。周囲との融和を目指した徳明の
おかげで街には幾多もの人種が溢れて栄えた。月に数度開かれる市一つをとってもそれは漢地のものは明らかに違う。中国商人が白く地味な陶磁器を売れば、
その店のすぐ隣でイスラムの商人が煌びやかな絨毯の商売をしている。道ゆく人々も様々であった。呉服を着る漢人もいれば、儒服に身を包んだ契丹人もいた。
「まったく、この街はどこまで成長するのかな。これだけは父の手腕に感服せねばなるまい」
元昊は訪れるたびにその様相を変えていく興慶の都に驚き、父徳明の政治力を素直に認め、受け入れた。徳明王は武略は大したものではなかったが、国の手
綱を取って周囲と外交政策を行なう上では一流というべきであった。継遷の死後、これまで戦いらしい戦いは起きていない。徳明王の宋、遼への二面服従政策に
よって夏国は両方の帝国の援助を受けている。膝を屈し、平和を誓うことで、夏国には莫大な金が転がり込んできた。その資金を惜しみなく徳明王は夏国建設の
ために注いだ。
それは間違った方策ではなかった。確かに元昊もそのことを認めている。しかしあまりにも長い間夏国の人々は平和でありすぎた。三十年近い平和のために、
人々は徐々に戦のあった時代を忘れつつあった。そして平和を求めたために、敵対国ではなくなった宋の経済と文化が徐々に夏国の人の生活を侵しつつあった
のである。
宋では先年新しく仁宗皇帝が即位した。この仁宗期に宋の経済力は全盛期に達していた。後代で慶暦の治として讃えられる、宋が力を最も持った時期のがこれ
である。その経済力の凄まじいことは、平和の代価として隣国遼帝国に毎年金銀十万両を送っても、その国家財政が揺らぎもしないほどであった。遼が得ている
宋よりの歳物は、遼の歳入の半ばに近い。宋は多額の供物を遼に送ることで平和を購った。夏国もそれよりは遥かに少ない金額だが、宋に対して膝を屈すること
でその莫大なる経済力の援助をもらっている。宋は辺境での争いより、金品を与えて平和を保つ方針を取った。そのため、夏国は戦わずして多くの品々を手に入
れることができた。
宋よりの歳幣のおかげで夏国の人々の暮らしは豊かになった。毎年送られる多額の銀によって都城ができた。人々の暮らしは豊かになり、毎日羊や馬を追って
暮らしていた貴族たちは興慶の街で貴族らしい優雅な遊びに没頭している。黄河に流れこむ川の一本が興慶の宮殿を通るように流路を変えられ、宮殿中に船遊
びができるほどの池も創られた。宮廷制度も整えられたが、そこにはかつての党項一族のしきたりは失せている。替わって礼儀作法に長じた人達が宋風に儒服
位冠を付けて、文官然として宮廷、市中を闊歩しているようになった。
「街は大きくなりましたが、その分宋かぶれが増えましたな。漢人の真似をする連中がたくさん…これではまるで私たちの方が場違いのようですな」
「爺よ、お前は漢人なのにそういうことを言うのか。まさかお前がそう言うとは思わなんだわ」
「私は漢人ですが、継遷様に従ってほぼ五十年になります。今更あのような格好はできませんよ」
張浦は少しだけ真面目な表情で、自身の着ている麻と獣の皮で織られた胡服の肩口を引っ張った。不恰好ではあるが、絹で織られた漢地の服よりもはるかに
実用性に富むものである。そのような遊牧の民の服装も、宋の文化の侵略によって次第に失せつつあった。逆に、この主従二人のような格好をしている方が珍し
かった。
「このままでは夏国は宋と同化してしまうな。草原の民の誇りは失われてしまう…」
元昊はもう一度辺りを見回すと大きくため息をついた。その言葉を裏付けるかのように、市の店先では党項族の官僚と思われる一団が儒服に身を包み、冠を
正しく被って、陶磁器の値定めに熱中していた。時折聞こえる漢語の取引の交渉のなかに大きな数字が交じるのは、かなりの金持ちであると元昊に推測できた。
「このままではいかぬわ。なんとかせねばな」
元昊は大きな皺を眉間に寄せた。党項人の漢化は大きな懸念となって彼の心底に残り続けた。
「急いで父に会わなくてはならんな」
その呟きに全てをまとめて、主従の二人は興慶の王宮へと足取りを向けたのである。
「兄上、お久しぶりでございますな」
王宮の一室に身を落ち着け、朝廷の儀礼用の服へと着替えた元昊と張浦の所にやってきたのは歳の頃二十歳の生白い顔の青年であった。宋風の衣服を身に
つけ、髪も小綺麗に整えた姿は、どこから見ても漢人そのものに思えた。ほっそりとした色の白さは、中原の文官を思わせる文弱さであった。しかし、細く切れ上
がった眼と、高いとはいえないが筋の通った鼻に、辛うじて党項族の特徴を見いだすことができる。
「成遇ではないか。いったい何用で来たというのか」
元昊はしかた無しと思えるような緩慢な動作で視線をこの異母弟に向けた。感情が出やすいのは彼の欠点の一つであったが、この日はそれが露骨に出てい
た。虫の居所が多少悪かったせいもあったが、まるで弟が来たことを咎めるような口調で彼は応対していた。
「なんでも、兄上が回鶻の兵と戦われたと聞き及びましたが」
「おう、我らの大勝であったわ。捕虜を得るのも多数であった」
「そのこと、父上は快く思っていらっしゃいませんぞ」
青年は生白い顔に憂いの表情を浮かべたが、それが決して本心のものでないことを元昊と張浦の二人は見抜いていた。若者の口元には微かに笑いの表情が
浮かんでいた。元昊が主君の不興をかったのを喜んでいる様相であった。
「もう聞き付けたのか。早耳だな」
「それは、もう」
狡い笑い顔のままで成遇は笑った。元昊はその顔を見ていると、不快の気分を通り越して、次第に全身の血液が煮えるような怒りを覚えてきた。
李成遇は夏国王徳明の次男であり、元昊にとっては弟に当たった。弟と言うが、母親は違うし歳も大分離れている。元昊とは九つ違いの、今年ようやく二十歳に
成ったばかりの青年であった。苦闘期の夏国に生まれた元昊とは違い、成遇は徳明が国を保ってから生まれた息子であった。成遇が物心ついた時には既に夏
国は安定期に入り、宋よりの物資を元にした豊かな生活が自然となっていた。
元昊は平和な時代に成長したと言っても、まだその少年期には継遷の遺風が国内に流れていたし、早くから地方に出て軍人としての精神を持つようになってい
た。しかし成遇は生まれたときから宮廷に育ち、戦嫌いな父王の元で溺愛に近い育てられ方をした。同じ継遷の孫でありながら、その形質には天と地ほどの開き
がある。
徳明王はこの成遇を愛した。柔弱なこの王子は戦を厭う父のやり方を支持していた。そのような経緯から、夏国では次期の王太子は成遇であると囁かれてい
た。徳明王は既に五十だが王太子を定めていない。その長子である元昊がもはや而立の歳を控えているのに太子に立てられないのは、この成遇が二十歳を迎
えるのを待っていたのではないかと廷臣達の間では噂されていた。
元昊はこの弟が嫌いであった。父徳明の考えは受け入れられなかったが、彼は父が決して嫌いではなかった。むしろその政治家としての才覚には深い尊敬さえ
抱いていた。しかしこのような弟は彼が最も軽侮すべき人間であった。ひたすら甘えの中で生まれ育ち、現場の苦労も知らずに勝手な事を放言した。宮廷で元昊
の評判が良くないのもこの弟のためだといえた。彼は目の端を釣り上げると、この小煩い弟を睨んだ。
「確かに父上の御不興をかったと承知している。しかし他に我々は方策がなかったのだ。兵糧が尽きれば兵が餓える。餓えれば都の守りもできなくなるのだ」
「しかし余りにも軽率でしたな。よりにもよって、友好を結んだはずの曹氏の使節を襲うとは。兄上にはもっと大局的なものの見方をしていただきませんと」
さも得意そうに成遇は捲くしたてた。口を尖らせ、舌鋒で彼は囀った。そして不用意な彼の言葉は元昊の逆鱗を突いた。
「軽率だと、おのれ、都でぬくぬくと暮らしている存在でこの俺を軽率と罵るのか」
荒々しく元昊は立ち上がった。何を勝手なことをほざくと心中で大きな叫びをあげた。所詮こんなものかと彼は思った。立ち上がって彼は勢い良く成遇の胸元を
掴んだ。そして激昂に任せて彼は右手で弟を殴り付けていた。
「元昊様、いけません」
「むっ…」
しかし、元昊の拳は敵を叩きのめすには至らなかった。瞬時にして二人の合間に張浦が割って入った。老人とは思えない力で彼は元昊の手を打った。成遇の顔
を目掛けていた拳は大きくずれて上方に流れ、成遇の冠を叩き落とすに止まる。
「爺、なぜ止める」
「我々が密約に反したのは確かなのです。徳明様のお許しがあるまで、迂闊なことはできませぬ」
張浦は元昊の両手を自らの身体で押さえた。ちらりと背後に視線を送ると、そこには成遇が震えながら腰を抜かしているのが見えた。所詮この御曹司には、武
人元昊の威圧に抗し得なかったのだ。張浦はゆっくりと、成遇に聞こえるように口を開いた。
「成遇殿下も口が過ぎますぞ。さあ、早く御立ち去りくだされ。いつまでもこの張浦が元昊様を押し止められると思われないように」 張浦の警告の言葉もそこそこ
に、落ちた冠も拾わずに成遇はあたふたと逃げ出した。それは実に滑稽な姿であった。とても夏国の王子とは思えない不様な呈であった。
「…すまなかった」
成遇が立ち去ると元昊は一つため息をついて寝台に腰を降ろした。今までの怒りもどこかに消えていた。沈んだ顔に悔いる表情が浮かんでいるのを張浦は認
めた。
「爺の言うとおりであったわ。まず父上に申し開きをしてからだ。許されればあのような馬鹿者を相手にすることもない」
元昊は足元に転がっていた成遇の冠を取り上げてそれを暫らく改めていた。冠には強い香の匂いと、贅を尽くした装飾が施してあった。
「このような物に金を使わなければ、懐水鎮の兵糧が送れたはずなのだが。そうすれば今度のような事も起きなかったものを…」
無念そうに元昊は俯き唇を噛み締めた。さすがの張浦にもそれを慰めるだけの言葉は見つからなかった。とりあえず明日には徳明王に会って釈明をせねばな
らないのである。
翌日、主従は眠れない一夜を過ごした後で、揃って参内し徳明王の前にその姿を見せていた。いつもは軍装、もしくは胡服姿の二人も、この日は宮廷人らしく中
原の官人様式である儒服に着替えている。張浦は元が漢人であり、貴族の家系とも言われるだけあって、このような朝廷においてもそれなりの格好はついてい
た。しかし、元昊はそうではなかった。この男はやはり人を指揮する立場にあってこその元昊である。儒服に着替えても、生粋の党項族である彼には、どうしても
軍人の風体が漂う。慣れぬ服を多少持て余しながら元昊は王の前に進み出た。
「不肖元昊、事の顛末を釈明すべく参じました」
儀礼の言葉もなく、元昊は本題を突いた。徳明王はさも分かったという体で首を一つ振った。夏王徳明は五十を過ぎて、中年らしい肉付きの付いた体を気怠そ
うに持て余している。かつては英雄継遷の長子として、党項の希望を一手に担った人物であった。その期待どおり、党項族の興隆という目的は果たしたが、彼の
手によって党項そのものの文化は次第に失われていた。朝廷での漢服の採用もその一つである。王自身も、宋より送られた漢風の衣装に身を包んでいた。それ
はこの王が、宋では西平王として遇されている故の行為でもあったのだが。
「だいたいの報告は聞いている。そなた、沙州の曹氏の一族を捕らえたそうだが、それはどうした」
「懐水鎮に捕らえてございます」
「そうか…ならば急いで釈放すべし。今、我々は沙州と事を構えるつもりはないのだ」
「沙州の背後に憎むべき回鶻があってもでございましょうか」
元昊の口調はやや熱を帯びていた。徳明はそれに対するように冷たい一瞥を元昊にくれた。
「それでもだ。わが国は近隣との平和を守らなくてはならん」
「回鶻とわが国は決して相容れない存在ですぞ。東方の宋。これは強大です。無闇に戦ってはいけない事は識っております。北方の遼、これも強勢です。となれ
ば、我々は西方に触手を伸ばし、回鶻と沙州を駆逐せねばなりません。我々の当面の敵は回鶻です」
口を開くたびに元昊の口からは熱を帯びた言葉が飛び出してきた。徳明王は黙って息子の言葉に耳を傾けていた。一つ、一つ言葉が出るたびに、王は悲しそう
に首を振った。
「お前の言うことは分かる。しかしそれはただの理想だ。その理想のためには兵を動かさなくてはならん。そうすればまだ幾多もの死者が出る」
「ならば祖父殿の敵も見逃せというのですか。父上はそのことをお忘れか」
「わしは忘れておらん」
徳明王の声には抑揚がなかったが、どこかに淋しさを含んだ冷たさを備えていた。元昊は父の顔を見つめた。温和そうな初老の男の顔であった。
「しかし、それに何時までも拘っていては、支配者としては務まらぬ。わしはもう二度と戦いなどしたくはないのだ」
「何を気弱な事を」
「お前は知らないのだ。わしは若年の頃から父上、そうだな、お前にとっては祖父に当たる継遷殿に従って各地を転戦した。重なる戦いの間で、幾多もの戦友たち
が死んで行った。わしは辛かった。途轍もなく悲しかった。今の平和はそういうもの達の屍の上に築かれたものだ。彼らの犠牲を無駄にしないために、この平和が
破られてはならんのだ」
徳明王の声は淡々としていたが、どこか人を強く揺り動かすものがあった。元昊は心中に軽い衝撃を覚えた。しかしそれでも父の言葉に全面的に賛同する気は
起こらなかった。「元昊、了見したか。お前はもう少し身を慎め。しかしここでお前を処罰すれば、また国内に大きな波紋が及ぶ。お前は暫らく都に留まり謹慎せ
よ。後の事はわしが巧くやっておこうではないか」
徳明王の処断はそうであった。元昊はただ俯いて無言のままであった。いくらその言葉に従い難いとはいえ、主君であり父である人の言葉を聞き入れないわけ
には行かなかった。寛大な処分といえばそうも思えた。ともあれ、国家の約定を破った彼を謹慎程度に済ませたことは、徳明王の、事を構えることを好まない性格
から来たものであった。この王には果断な処分は無理である。
「お待ちください、徳明様」
その時、今まで黙っていた張浦が口を開いた。彼は元昊とは対照的に頭を起こした。そして正面からかつての君主の息子の顔を凝視した。
「この度のことは傅役である私の過失でございます。私はどのような罰でも承けますので、どうぞ元昊様の謹慎だけは御取り下げ下さい。元昊様の懐水鎮は西方
回鶻より興慶府を守る重大な役目を背負っております。守将無くては砦は護りきれません」
張浦は自身でその罪を被ろうとした。懐水鎮は元昊であるからこそ成り立っていた。確かにそこには名将王朱敏がいる。しかしこの男は元昊にしか扱えない。他
の者が替わって命令しても、王朱敏はそれを拒むに違いない。元昊無くては、懐水鎮は砦として成り立たないのである。そうなれば西方からの回鶻の脅威を誰が
防げるというのであろうか。
「張老人、そなたの想いは解る。しかし、罪は明らかにしなくてはならん。予定どおり、元昊には謹慎を申し付けることにする。元昊、黙してこれに服せ」
徳明王はそれにはまったく取り合わなかった。張浦がいくら傅役としての自身の非を前面に押し出しても、徳明王は事の責務は元昊にあるとした。実際のとこ
ろ、これが張浦の責任では無いことはさすがに徳明王も弁えている。この後の処理をするためには、張浦を責任者にしては納まらない。逆に言えば、継遷の時代
からの宿老である張浦軍師も、朝廷においてはその地位を軽んぜられていたということである。所詮この老人は一陪臣に過ぎない。
「元昊よ、そなたは今日から都に留まり、邸に蟄居せよ。張軍師の罪は問わない。追って沙汰を下すことにする。では、下がれ」
徳明王は後は何も取り合わなかった。これ以上抗弁の機会もなかったし、あってもそれは無駄なことであった。最初から決められたように、元昊は罪を被る事と
なった。何一つ釈明もできずに、元昊は謹慎の身となり、懐水鎮に戻ることはできなくなったのである。
元昊はその後しばらくを煩悶として都で過ごした。謹慎とはいっても、懐水鎮に戻ることを禁ぜられただけで、都の城の内では自由に動くことができた。彼には滞
在用の屋敷が与えられ、数人の召使が付けられた。元昊はこの屋敷に軍師張浦と共に寝起きし、日々嘆を囲った。
「これでは牢獄と少しも変わらんな」
「申し訳ありません。せめて若殿だけでも御救いしようと思ったのですが…」
「爺のせいではない。どのみち、こうなるのは仕方がないと思っていた。回鶻との密約に我々は背いたのだからな」
元昊はそんな事を言ったが、言葉とは裏腹に諦められない様相であった。いくら元昊に武事の才覚があっても、篭の鳥では辣腕の奮いようが無い。
滞在している興慶の屋敷はかつて中国商人が住んでいたといわれる所で、調度も全て漢地風に創られていた。それに対して違和感があった訳でもないし、特別
に不自由しているというわけでもなかったが、元昊はやはり懐水鎮での生活の方が自身に向いていると思った。
「今頃王朱敏は困っているであろうな。俺が謹慎させられたことをあいつは知っただろうか」
「何かの命令は伝わったと思います。しかしその後移動があったという事を聞き及びませんから、おそらく手付かずにはなっているでしょう」
「さすがの父も、懐水鎮が都の防衛に対して役に立つということ位は承知しているようだな」
自嘲気味に言うと元昊は中庭の東屋にある椅子に腰を下ろし、ぼんやりと西の方の空を見つめた。やがて夏を近くにする興慶の空は雲一つなく晴れ渡ってい
た。
「しかし、何時になれば俺の謹慎は解けるのだろうか。俺はここで大人しく待っていても無駄なような気がして仕方がない」
「兵糧を奪われた回鶻王夜洛隔の怒りは大変なもので、大々的に軍勢を召集し始めたとの話です」
「やはりそうか。父は巧く誤魔化すと言っていたが、所詮無理であったな。回鶻との戦いは避けられない」
「よろしいではございませんか。回鶻を倒さなくてはわが国の栄えはありません」
「ああ、確かにそれは望む所だ。しかしこうなったからには、やはり俺は前線に出なくてはならん。結局戦は起こるだろう。その時になれば俺も戦に出られるという
ものだ」
「残念ですが、それは決してございますまい」
張浦はゆっくりとかぶりを振った。彼は東屋の下で控えながら静かに羽扇を扇いだ。長く伸びた白い髭が風にたなびいた。軍師である彼は、幾ら戦局が悪化しよ
うとも、元昊が戦に出ることはないであろうと予測する。元昊は張浦の言葉に対して顔を朱に染めた。そのような事を考えなかったために、怒りは激しいものだっ
た。彼は呼吸も荒いままで椅子より立ち上がった。
「なぜだ、爺。なぜ俺は戦に出れん」
「背後で成遇さまが糸を引いていらっしゃいます故…」
張浦は事の次第を説明した。そもそも、元昊が謹慎させられたのも全て成遇のためであるという。元昊は勝れた将であった。夏国の現存する将軍の中ではほぼ
随一の戦上手である。そのような男が軍を率いて戦場に出れば、夏国が勝利を収める可能性は高い。
しかし、徳明王は長子元昊よりも次男の成遇を後継ぎに据えたがっている。次男を後継者にするためには長男があまり勝れていては困るのである。元昊が戦
場で戦功を立てれば、もはや成遇の出番はない。だから徳明王は元昊を謹慎させておいた。こうして元昊を閉じこめておけば、いざ戦局が不利に成ったときにに
も、元昊の命で和を購うこともできる。その場合でも徳明王は成遇を合法的に後継ぎにできるのである。そう張浦は考える。ここまで来ると、徳明王の平和政策
は、ただの個人的な欲でしかない。
「成遇めが仕業か。あの小人がよくもそこまでやったものだな」
「徳明様も老いました。昔とは違い、物事を正常に判断する力は衰えていらっしゃいます。すぐ傍に居る人々の言葉に心を動かされ、正しい道から外れることもご
ざいます」
ぽつりと張浦は言った。この軍師はまだ自身の方が老いていないのが不思議であった。しかし年月は確実に流れていた。かつての青年王徳明はもはや老いて
の安楽と妄執に捉われたただの男に過ぎない。元昊は張浦の話で益々怒りを募らせた。怒気を顔中に浮かべて怒鳴るようにして彼は叫んだ。
「俺が戦に出なくてなんとする。この戦いの端緒を開いたのは俺だ。俺は責任を取らなくてはならんし、俺にはその権利もあるのだ。何のために懐水鎮を築いたと
思うのだ。全てこれ回鶻と戦うためだ。なのにこんな所で謹慎を受け、戦いにも出られないのなら、俺は死んだ方がよほどましだ」
元昊は忌ま忌ましそうに東屋に据えられた木製の卓に拳を叩きつけた。木が軋んで裂ける音がし、大きな亀裂が板上に走った。
「爺、俺が戦場に出られる策はないのか」
元昊は張浦に視線を向けた。この漢人の老軍師は白い鳥の羽で造られた扇を持って、忙しそうにそれを動かしていた。漢人風の衣装を着たこの老人は、昔の
三國時代の名軍師のように見えた。
「策…でございますか。無いことはございませんが」
「あるならばそれを行なえ。こうしていても、俺は何も出来ぬ」
「しかし、危険が付きまといますぞ」
「危険が何だ。ならば戦場に出るのは危険ではないと申すのか。俺は武人だ。武人が死ぬならそこは戦場であるべきだ。こんな所で飼い殺しに遭うなど、俺は後
免だ」
元昊はその言葉を吐き捨てた。張浦は深い感慨を覚えずにはいられなかった。思えば二十七年前の戦いで自分は出撃できずに死に場所を失った。死に場所
を失った将はただ元昊だけを心の支えとして生きてきた。その支えがここで潰えるのは自身としても本意でなかったし、それは亡き継遷の意志にも背くものであっ
た。ゆるゆると張浦は言葉を吐いた。軍師として彼は策を語った。どうすれば元昊が戦に出られるか。そのための方法を張浦は理解していた。
「方法はただ一つです。徳明様を怒らせることでございます」
「なんだと?」
元昊は険しい表情を更に険しくした。怪訝な声を彼は発したのだが、それ以上に彼は不思議を感じていた。その感情が昂じて顔は怒りを保ち続けていた。
「何をおかしな事を申すのだ。俺は父の怒りをかってこんな所に謹慎させられているのだぞ。何故父を怒らせることが俺の出陣に繋がるのだ」
「徳明様の心境は複雑です。成遇様に糸を引かれ、こうして若殿を閉じこめていますが、その反面で、元昊様の罪をなんとか許したいとも考えているのです」
「父が後のことはまかせろと言ったのは嘘ではなかったのだな」
「はい。おそらく徳明様の本心でしょう。しかしあの御方にはもはやそれを遂行するだけの気力も判断力も欠けていらっしゃいます。若殿を救うために行なったやり
方は、全て成遇様によって都合の良い方に捻曲げられてしまいました。徳明様の優しさが、今は貴方に不利になっております」
「だから父を怒らせよと?」
「はい。それで若殿の出陣は可能になるでしょう」
張浦は確信を持った口調で断言した。この男が言葉を言い切るということは、その策が成功する可能性が限りなく百に近い時のみである。元昊は満足気に微笑
んだ。戦場に出られれば彼はよかった。彼は張浦の進言に対して至極満足であった。
ただ、そこには一つだけ疑問があった。それはいかにして徳明王を怒らせるかであった。徳明王は温和な性分であった。しかも事を荒立てる事を好まない性格
である。出陣には大きな怒りが必要だと張浦は述べた。しかし元昊には、どのようなやり方で徳明王の怒りを被るべきかが解らなかった。
「爺、お前はその策もやはり用意しているのであろうな」
含みを持った視線と言葉で元昊は張浦に探りを入れた。老軍師は涼しげな笑いを目尻に留めたまで、返答もなくにこやかに扇を左右に動かすだけであった。
元昊が張浦と策を語った翌日の晩、宮廷では徳明王の主催による宴が開かれ、華やかにして賑やかな様相を呈していた。管弦の調べは辺土の砂塵に彩を添
え、城の外で時折捲き起こる旋風にその音を乗せる。興慶の王宮より流れ出る美しい旋律に、市井の人々は酔い、想いを馳せる。
徳明王が平和政策を採り、宋との友好を深めるように成ってから、興慶の酒宴も次第に漢人の風習を取り入れ、宮廷に一同が会して酒宴を行なうようになっ
た。
継遷時代の酒宴とはほんのささやかなものであった。布で編まれた行軍用の幕の内で貴族とは言えない格好をした、毛皮の服に身を包んだ王族、将軍が集ま
り会して、風雅も何も気にせずにただ酒を飲むだけであった。
しかし今や興慶の宮殿では文明という名前に飾られた酒宴が酣であった。人々は競って酒を注ぎ、そして酔った。あるものは知識人たるべく漢詩を作り、あるも
のは琴をひいてその腕前を披露した。どこまでも漢地の酒宴と違わないものがそこにあった。ただ酒だけは米のものではなく葡萄、麦などの寞地風のものであっ
たが、その程度の差異は所詮肺腑の内に入れば少しも用を為さないのであった。
宴席では先程から管弦の競いが続いていた。ここ数年で夏国の人々も宋の音楽に親しむようになり、琴を始めとした異国の楽器をたしなむ者も増えてきたので
ある。
丁度一人の男が琴をひきおわった。拙い演奏であった。しかしその場にいるものがそれを的確に評価するほどの耳を持つには至らなかった。よく解らないまま
に人々は拍手を贈った。その後、宴席の中心に一人の青年が立ち上がっていた。
「今度は私が笛を吹こう」
それはあの李成遇であった。生白い顔は酔いのためにいささか紅色に染まっていた。少し言葉遣いは覚束なかった。この男が次の主役となろうとして待ち構え
ていた。
成遇は柔弱だけでなく、宋かぶれでもあった。宋の偉大な文化、富に常に彼は憧れ、ほとんど崇拝に近いものも抱いていた。そんな夏国の王子は下手な笛と漢
詩で日々を過ごしていた。しかし誰も宋の歌に詳しくはないので、それが拙いものとは知らなかった。
「私の曲は長江の流れを意識しているのだ。水の都である杭州を想像してくれ」
成遇は宋のある州都の名前を言った。そこが宋の文化の中心であることは広く知られていたが、実はそこにいる誰もが杭州に赴いたことなどなかったのだ。徳
明王でさえ宋の副都洛陽に赴いたことが一度あるきりで、本当の宋の文化になど触れていない。
「では」
成遇が自分の曲を説明して笛をいざ口に当てようとした時であった。宮殿のどこからか、物悲しい調べが聞こえてきた。美しい、しかし淋しさを含んだ旋律であっ
た。それは、その場にあるどの楽器のものでもなかった。しかし、貴族達の間で、五十の歳を越えているもの達にはそれがなんであるかはっきりと分かっていた。
遠くから羊を集めるための笛の音であった。日暮に吹くこの曲は寂寞たる大地に凍み渡り、荒寥たる場所に独り居る淋しさを思い起させた。ただ一つの音色が奏
でる空気の切音に対して年配の貴族達は懐かしさを想い出さずにはいられなかった。彼らは若い頃皆放牧に出て、夕刻になればこの曲を吹いたものであった。
「何者だ。私の演奏を邪魔するとは不粋な奴だ」
色めき立った成遇の前には薄暗い宮殿の闇があった。その中に姿を隠すように独りの男が立ち尽くしていた。葦の茎で造った簡素な、笛とも言えない中空の管
を口に啣えて男は宴席に進み出た。その服装はその場に居る人々とは様相を異にしていた。他のものは皆布で造られた呉服であるのに、彼だけが独り毛皮を付
けていた。頭に付ける被りものまで毛皮で造られていた。その様子はどこから見ても草原の民の服装であった。男は額の下までを覆っていた狼の皮を少しまくり
上げ、その顔を皆に見えるようにした。男は元昊であった。
「元昊、その服装は何か」
徳明王は困惑した顔つきで元昊を見つめた。元昊は不貞不貞しいまでに落着き払っていた。彼は足取りを上座の成遇の方へ向けた。そしてその傍に来ると葦の茎
を啣えたままで屈み、狼狽する成遇を尻目にしてどかりと腰をその場に降ろした。彼は当然の権利の用に上座に、徳明王のすぐ傍らにその位置を取った。王を挟
んで反対には成遇の席があった。王を央ばにして二人の王子は互いに見つめあった。成遇は全てに於いて宋の風俗で身を固め、反対に元昊はどこまでも党項
の民の姿であった。元昊は口から葦笛を離すと態とらしい困惑の表情を見せた。もちろん、それは張浦と相談して仕組んだ演技の顔であった。
「はて、何と言われても困るものだ。せっかくだから宴に興を沿えようと思い、こうして来たのだが」
「誰も兄上など呼びはしておりません。招かれずに来るとは不作法もよいところです」
苦々しい顔つきで返答する成遇を元昊は一瞥した。侮蔑を含んだ、人を馬鹿にしたような目付きであった。ここまでは予定どおりであった。何もかも、尊大に出
ることで、宴席の価値をぶち壊しにしなくてはならないことを元昊は知っていた。
「ほう、呼ばれなくては宴席に出られないのが漢人の作法か。おかしなものだな。我々の宴席は、そのようなことに拘らずに参加できたと聞き及んでいるか」
「そのような未開の時代のことなど存じません。しかも何ですか、そのような野蛮な格好で来るとは。招かれずに来るのは容赦しても、そのように奇妙な格好で来
るのは父上に対しても不敬ですぞ」
「何が奇妙だ。この格好を咎められる父上や貴様がそもそもおかしい。この服装こそ、本来の我々の正装である。党項の民として最高の儀礼を守った事が咎めら
れるとはおかしな時代だ」
言いたい放題のことを元昊は言った。言いながら彼は視界をちらりと徳明王の方に向けた。王はほとんど表情を変えていなかったが、拳を強く握り締めていた。
拳先が微かに震えているのに元昊は王の怒りを認めた。
「さあ、ここに居る貴族の諸君よ。もう一度考えて見たまえ。我が祖父継遷の時代はかくのごときではなかったはずだ。もっと自由に党項族らしい風習を守ってい
た。しかし今は違う。皆宋にかぶれている。所詮宋は敵にすぎん。そのような格好をして居ることが恥ずかしいことと思わないか」
元昊の言葉に対して成遇は真っ赤になったが、所詮底の浅い男のために、彼は何も言い返すことができなかった。かといって自身の面目を守るために武力でも
って元昊に訴えかけることも、この臆病な王子はできなかった。元昊はその姿を見て意地悪い笑いを浮かべていた。
衆は皆黙り込んでいた。宴席に気まずい沈黙が訪れようとしていた。
「元昊、乱心したか」
静寂の中、やや感情の隠った徳明王の声がした。王は自身の席から立ち上がった。立ち上がるとこの王は非常に大柄であった。さすがに若年の頃から培った
威風はこの期になってもまだ人を畏怖させるだけの力を残していた。しかし元昊は微動だにしなかった。
「乱心?乱心しているのは父上の方でしょう」
「なに、予が乱心していると。何故じゃ元昊。訳を述べてみよ」
徳明王の語気には力が入り、いつもは温和な眼差しは険しく釣り上がった。怒りの感情が込められたものであった。
元昊は父の顔から目を離さなかった。彼は軽く呼吸を継いだ。吐いた息はそのまま彼の言葉となって宴席に流れていった。
「よろしいですか。かつての我々はこのように毛皮に身を包み、草原の民らしく暮らしていたのですぞ。しかし今は皆宋にかぶれ、我々の衣服を捨てて、珍妙なる
宋の服装を最上のものと思っている。そのような人々を作り出したのは父上、あなたです」
徳明王は何も言わなかった。ただその視線は一層険しくなった。元昊の言葉は更に続いた。
「父上が戦いを恐れられるから、わが国には成遇のような馬鹿の臆病者が生まれるのです。そして仇敵である回鶻に対しても頭を低くするような腰抜けの有様と
なっている。何故戦わないのですか。この元昊独り居れば、回鶻の者など悉く砂漠の白骨に変えてやるものを…」
「元昊、いい加減にせい」
徳明王はついに口を開いた。語気は荒く、そこには大きな怒りが込められていた。温和な王もさすがに元昊の放言に対して平静でいることはできなかった。
「お前のような若造が何を言うか。口を慎め」
徳明王は何時になく厳しい言葉でこの息子を制した。しかしそれは元昊に効くものではなかった。始めから彼は徳明王を怒らせるために語っているのである。元
昊の狂ったような言葉は更に続いた。
「口を慎めですと。これでも慎んでいるのですぞ。率直に申し上げれば、宋や回鶻と友好を保つ等、愚策に過ぎないということですよ。我々は断固戦うべきです」
徳明王は唇の端を少し皮肉気に上げた。そういう顔をした時に、この王の怒りが高潮に達しているということを元昊は知っていた。もはや父が憤怒にも等しい気
持ちを堪えていることを意識しながら、元昊は侮辱の笑い顔で徳明王の言葉を待った。王はゆっくりと口を開いた。声には乱れがなかったが、語気は一層荒さを
増していた。
「回鶻や宋と戦うべきと?ならば聞こう。回鶻と和平を保つおかげで我々は平和な日々が過ごせるのだ。なぜ敢えて戦いに挑む」
「西方の脅威を取りのぞかなければ夏国の発展はありえません」
元昊の言葉は正鵠を射ていた。回鶻は西方貿易の富で軍備を整え、夏国の存在を脅かしている。回鶻と雌雄を決するときはいつか必ず来ると少し世情に通じ
たものならば誰もが気が付いていた。徳明王の政策はそれを避けて来ただけにすぎない。
「しかも回鶻は夏国の祖である継遷殿を弑した憎むべき敵です。父上、貴方は自身の父の敵と好を通じようと言うのですか」
喋り続けているうちに元昊の声は次第に興奮に満ちてきた。それは感情的なものであったが、不思議と人の心を揺り動かす力があった。息子の反論を徳明王
は渋い顔で聞いた。しかし王は更に続けた。
「ならば宋と戦うというのはどうなのだ。我々は宋に臣従したおかげで毎年莫大な財を手に入れている。宋のおかげで夏の暮らしはよくなった。何を好んで戦に迎
う?」
「これは笑止!」
元昊は一際高い声を張り上げた。一瞬、宴席に針のごとくの緊張が走った。臆病ものの成遇などは元昊の声にすっかり意気地を無くしていた。彼の声には確か
に君主に相応しい器量の片鱗があった。
「宋の助けなど必要ありませんぞ。お考えくだされ。宋も我らが土地を狙っている存在なのです。ただ我らが強勢であるため、懐柔の策に出ているにすぎません。
金品などに騙されて我ら一族の心を忘れてはいけません。祖父継遷殿の時は、誰もが毛皮の服に身を包み、羊を追い、泉の畔の農耕で慎ましく暮らしておりまし
た。それで良いではありませんか。なぜ宋に跪いてまで宋の暮らしが欲しいのです。我々は戦わなくてはならないのです。このままでは夏国の未来はありません
ぞ」
元昊の言葉は終わりに近付くにつれて熱を帯びてきた。興奮が極まってきたのか、彼の全身は左右に小刻みに揺れていた。彼の言葉は将に継遷の遺志とも言
え、新たな若者達の理想であるともいえた。その場は鏡面のこどく平たく静まり、誰もが俯いて言葉を発するものもなかった。ただ徳明王が最後の波紋となって元
昊の眼前に居た。元昊が言葉を全て発し終えてから、ほとんど永遠かと思うべき沈黙があった。誰もが王の言葉を待ち、そして恐れた。この王が何を語るか。何
でなくても王の言葉は必要であった。
「戦うだと。たとえ貧しくても戦えと言うのか」
王の言葉は穏やかではあったがその分凄味を増して皆の耳孔に届いていた。元昊は爽やかに笑った。いかにも我が意を得たりという風であった。彼は宴席に
立ったまま大声で叫んだ。
「錦衣、何ぞ用を為さんや。英雄の業、将に王覇あるのみ」
錦の衣がどうしていいだろうか。英雄たるもの、党項を率いる者の仕事は覇者の道を貫くことだけである。それが元昊の言葉であった。ここに来て徳明王は大き
なため息を継いだ。この息子には何を言っても無駄であるということを王はようやく悟った。
「元昊よ、よくもそこまで広言したものだな。回鶻との関係を壊すという愚をしでかしてそこまで言うか。よいだろう。どうやら回鶻との戦いは避けられない状況となっ
て来ている。回鶻の王夜洛隔が出陣の準備をしているという話を聞き及んだ。しかし敵兵は強兵である。だが、こちらは戦に慣れておらん。予はこの興慶城で回
鶻を迎え撃つつもりであった」
宴席一同から感嘆の声が上がった。戦いはほぼ二十七年ぶりに現実として持ち上がっていた。その場の者達の中では年寄達が前代の戦を経験していた。しか
し彼らはもはや老いて戦場に出ることがない。若者たちはそのような戦いを知らない世代であった。かつてを知るものたちの驚きと、何も知らない世代の恐怖の声
が、宴の場に混じってそのような声と成り果てていた。
「我々はこの首都で回鶻を防ぐ。しかし元昊、お前はこの興慶に留まることは許さん」
「ほう、では何をせよと申されますか」
「お前は自慢の懐水鎮とやらに戻り、回鶻と戦え。先程の言葉どおり、見事回鶻を打ち破ってみよ。ただし兵はお前の手持ちの分だけだ。夏国軍は興慶の守備に
回さなくてはならん。兵糧も手持ちの分だけでやりくりせよ。これは命令だ。すぐに興慶を発ち、持ち場に戻れ」
徳明王は宮殿の門の方角を指差し、元昊の退出を促した。苛酷な命令であった。だが元昊の顔には喜色が浮かんでいた。到頭、公然として戦いに臨めるので
あった。
張浦の計略は見事に的中した。徳明王を怒らせ、懲罰的な形で戦に出る。王を怒らせるためには満座の中で王に恥をかかせる。それが策であった。危険な賭
けであったが、元昊はそれに勝った。彼は喜びの顔のままで両手を胸の前で組み、一礼をした。
「では、これより部署に戻らせていただきます。皆の衆、ご安堵なされい。必ずやこの元昊が回鶻を打ち破り、興慶には一兵たりとも近付けませぬ」
元昊の言葉には喜びと自信が充ち溢れていた。誰にも咎められず、彼は堂々と宮廷からの退出を果たした。これで彼は公然とこの都から抜け出すことができる
のである。その夜半、彼は軍師張浦を連れて、再び軍務に服すべく懐水鎮へと帰投したのである。
(続く)第四章 一路敗走へ