[第四章 一路敗走]

「爺。そなたの計略、悉く的中したわ」
 久方ぶりに帰還した懐水鎮の幕中。元昊は卓を張浦と王朱敏と囲んでいた。王朱敏は元昊の姿を見ると安堵の笑顔を屈託なく振り撒いた。この武骨な男にして は珍しいほどの爽やかな笑いだった。
「若殿が帰って来てくれて、俺は本当に嬉しい。何しろ、回鶻王夜洛隔が直々に出陣してくるという話だったから。若殿無しではどうしようもないところだった」
 朱敏は元昊が都に抑留されたままで帰ってこないことをずっと恐れていたのである。
「ほう、ついに猛将夜洛隔が出てくるか」
 元昊もまた笑いの表情を崩さなかった。ようやく彼が待ち望んだ状況に成ってきていた。敵を一度に叩くことが元昊の望みであったが、これまで夜洛隔王が直々 に出てくるような戦況にはなかった。
 回鶻王夜洛隔は王ながら武芸に勝れた男で、軍勢を率いては回鶻の並み居る武将の中でも屈指と噂されていた。慎重六尺を越える大男で西方の汗血馬に跨 がり、長剣を扱っては無敵とされた武将である。それが出てくるということは、今度の事変に対して、回鶻の怒りがそれだけ大きいということである。
「随分気楽なことをおっしゃいますな。夜洛隔は西涼府に軍勢を続々と集結させておりますぞ」
「爺、してその数はいかほどだ」
「おそらく…三万から三万三千というところですか。我々の軍の十倍以上にも値しますぞ」
「かなりのものだな。正面きって戦うわけにはいかんな。何か策を講じなくてはな」
 元昊は机の上に手を伸ばした。卓の上には再び懐水鎮周囲の地図が置かれていた。西に回鶻の西涼府を控え、東に興慶の都を構えた懐水鎮がどう動くかで 回鶻との戦局は変わってくるのであった。しかし現状は正に衆寡敵せずである。何か策略でもなければ元昊の不利は覆らない。
「本来ならばなにか調略を考えるべきでしょうが、ここまで優劣がはっきりしていると、寝返りも引抜きも効きませぬ。若殿、貴方は大変な戦を引き受けられました な」
 張浦は悲観的な推測を述べた。しかし彼の目は笑っていた。これでいいのだと彼は思っていた。昔、何度もこのような戦場に放りこまれてきた。継遷が始めに夏 州で旗揚げした時には張浦以下僅か数十騎の兵しか従えていなかったのである。しかし継遷は夏州で戦いを繰り広げ、ついには夏王の称号を得るまでになっ た。
 全ては継遷殿の軍略であった。そう張浦は思う。勝れた統率力に策略と知勇を兼備した英傑が継遷であった。
(元昊殿はあの継遷殿が見込まれた孫だ)
 張浦は心の中でそう呟いた。元昊に継遷のような英傑の才があるならば、みすみす虚しく散ることはないと彼は考えていた。虚しく散るならば所詮この張浦一人 であるのだと、彼は最後にそっと言葉を添えた。
「爺よ、この戦が不利なのは解る。しかし、この戦で勝てば、我々は西涼府から回鶻の勢力を駆逐できる。それは夏国の将来を切り開いてくれることだ。夏国のた め、そして俺の武人としての名誉のために、この戦を避けるわけにはいかん。いや、実は俺は嬉しいのだ。このような大事な戦の指揮を執れる自分の幸運さが な」
 元昊は拳を上げて喜びを顕にしていた。まったくあの時と同じであると張浦は思った。あの時もそんな事を継遷が言っていた。夏国の将来のため、いつか回鶻と 乾坤一擲の戦いが行なわれなくてはならなかった。
「若殿の気持ち、お察し致します。しかし、嬉しいのはこの張浦も同じ。私はかつて継遷殿に従い各地を転戦しましたが、最後の戦いにだけ継遷殿の命で参戦でき ませんでした。おかげで私は死に場所を失いました。しかし今度は若殿に従ってこの老骨は再び戦場に出られるのです」
 張浦は深々と頭を下げた。その横では王朱敏が少し伏し目がちにして、張浦の肩に手をかけていた。
「爺さんだけじゃない。俺だって同じだ。あの時、継遷様を失ってから、俺達軍人には戦いの場がなかった。若殿、どうが存分に戦ってくれ。俺の命はあんたにやろ う。たとえ負けても俺は恨みを残すことなんかない」
 王朱敏は激情に任せて口を開いた。普段は無口な男だが、この時ばかりは溢れる感情を押さえきれなくなったのか次々と言葉が口を突いて出た。高揚した気 持ちはこの武骨な将軍を不思議なほどに多弁にさせていた。張浦はそんな王朱敏がとても頼もしく思えた。
「両名とも、その忠誠は有り難く押し戴こう。しかし、気概だけではどうにもならん。眼前に積み上がっている問題は、どうやってあの回鶻軍と勝負するかということ だ」
 張浦、王朱敏の両名が戦に奮えているに対して元昊はその溢れる感情を押し留めさせた。彼とて戦は嬉しかった。夏国二十七年ぶりの戦いである。しかも国家 の趨勢を決めるほどの戦いであれば、興奮するのも無理はない。しかしいつまでもそれに酔うわけにはいかなかった。肝心なのは勝利を収めることであった。いく ら奮い、勇猛に戦えど、所詮この戦力差では限界があった。となれば、やはり策に頼らなくては戦いにならないのである。それを立てるには冷静な感情が必要で あった。
「…これは失礼しました…年がいもなく燥ぎ過ぎたようです」
「いや、いいのだ。それより爺、奇襲の策を検討しなくてはならんが」
「はっ。承知いたしました」
「西涼府の周囲の地形は把握しているな」
 元昊はさもかし当然のように張浦に尋ねた。期待通りに張浦は深く首肯いた。その程度の初歩的な不備を犯す張浦軍師ではない。
 この砂漠が広がる西域において、都城は常に水の利を考えて造られていた。興慶府が黄河の畔にあり、大きな沼沢、水脈を抱えているのはその典型である。 西涼府もその例には洩れなかった。城の周囲をいくつもの大河が囲み、それは丁度円のようになって西涼の都城を包んでいる。城の北方は幾つもの岩山があ り、城の北には幾つかの泉がまとまって沸きだしてオアシスを形づくっている。南方は荒涼たる砂漠。西は回鶻の治める甘州へと続く街道となっている。
「城の北側に水源があるのだな」
 元昊はそのことをもう一度確認した。
「この泉そのものが城の水源ではございませんが、幾つもの泉が集まっていることは確かです」
「泉の北に山か。明け方は冷え込みそうだな」
「初夏の今でも相当冷え込むはずです。そのため明け方になるとこの時期はよく霧が出ます」
「なるほど」
 よしとばかりに元昊は手を叩いた。それで全てがよかった。彼が待っているのはその霧なのであった。彼は一か八かの奇襲を行なうことを決意していた。しかし 不意打ちは、自軍を隠すどこかがないことには話にならない。元昊が待っているのは霧であった。霧さえあれば軍勢を隠して行軍することが可能である。
「この岩山へは北側から回り込んで行けるな」
「はい、それは…」
 張浦の脳裏に過去の記憶がまざまざと甦った。それこそあの岩山であった。二十七年前に彼が継遷と共に登り、後事を託されたあの場所であったのである。
「そこはよく存じております」
「なに」
「昔、今は亡き継遷殿から、若殿の将来を託されたのがその場所でございました」
「祖父殿が…」
「継遷殿も同じ考えだったのですよ。岩山を影にして軍勢を城に引き寄せ、一気に勝負を決める…あの時は敵将の藩羅支が寝返らなかったので大敗に終わりま したが…」
 張浦の記憶には当時のことが少しも色褪せずに焼き付いている。あの時も継遷がこのように動いていた。継遷は勝れた将軍であった。しかし、ただ一度だけの 致命的な敗北が英雄の命を奪っていった
 当時の戦局は生き残って帰ってきた王朱敏が全てを語ってくれた。北門から突入した継遷軍は城内に閉じこめられ、寝返るはずの敵軍の不意打ちを受けて大 混乱に陥った。継遷はその中でも必死に軍を立て直していた。しかし、どこからともなく飛んできた一本の矢が彼の胸を深々と貫き、彼は混乱の砂塵の中にその 生涯を終えたのである。
「大殿は立派な最後だった」
 沈黙を保っていた王朱敏が感慨深く言葉を洩らした。この勇将は当時の生き残りの一人であった。
「そうか、俺は祖父殿と同じ考えをしていたというわけか。ならば、これは祖父殿の無念を晴らす弔い合戦でもあるわけか。ならばなおさら負けるわけにはいかん な」
 確かに、と張浦はうなずいたが、この軍師自身もそれがほとんど勝ち目のない戦いであるということは承知していた。いくら奇襲策を採ったとしても敵は強大であ る。結局の所、我が方の不利には変化がない。張浦は伺い見るように元昊に視線をやった。若き主君は少しだけ寂しそうに笑った。
「若殿、それで、その岩山へ進軍して、どのように攻撃をかけますので」
「それか。まず我々は岩山の背後に陣を置くのだ。そうすれば城方には気付かれない。後は斥候を出して、敵の出陣を待つのだ。奴らが城から出てきたら、霧に 紛れて背後から攻撃をかければよい」
 それが元昊の作戦であった。張浦は一つ一つ軍師としてその策を吟味してみた。岩山の背後に兵を伏せる。これは攻撃をかける前に敵に見つからないためで ある。そして霧に紛れて奇襲をかける。作戦としては上出来だと彼は思った。いや、張浦の頭をもってしても、これ以上の良策は思いつかなかった。所詮こちらは 圧倒的に不利なのである。奇襲の策以外に最上のものなどあるはずがなかった。「私は、それでよろしいと」
 張浦はただそれだけを言った。いつもならば何かの修正案を出すこの老人も、もうそれ以上のことが考えられなかった。
「爺がそう言ってくれるなら、この戦の勝ちは間違いないぞ。ならば全軍に伝えよ。出陣して西涼府に向かう」
 元昊の決定で全ては片付いた。軍師と将軍は二人ともそれぞれ頭を下げて、出陣の支度をすべくそれぞれの部署に戻っていった。


 元昊軍は一路岩山を目指した。懐水鎮の兵を見張り以外全て出撃させ、ほとんど全ての兵力を持って彼は回鶻との決戦に及んだ。それはあまりにも不利な戦 いであった。回鶻王は万夫不当の勇者で、しかも近隣に名の知れた戦上手である。なのに我彼の兵力差が十倍以上と成れば、元昊軍の士気があがらないのも 当然であった。
 だが、兵士たちに逃亡の術はなかった。それだけよく訓練された兵ではあった。それは夏国随一とも言える兵であった。二十数年の間、夏国の兵は戦を経験し ていない。僅かながらも戦を経、激しい訓練に身を任せた兵は彼らだけであった。それだけ夏国は軍事力に乏しかったといえよう。
 行軍すること数日、夜半過ぎとなって元昊軍は目的となる岩山の背後に到着することができた。扁平な岩山が数キロに連なって壁となり、元昊の軍を西涼府か ら遮り隠してくれている。元昊は岩山の麓に陣を張った。岩山の南側は沼沢地帯だが、北側のこちらは草が疎らに生えるだけの荒地である。三千の兵はそこに 腰を落ち着けた。元昊は早速斥候を発した。今のところまだ回鶻軍が城を発したという情報は聞かれなかった。しかし彼らが出陣を間近にしていることだけは間 違いなかった。
「爺、いよいよだな」
 斥候を送り出し、遅い夕食を取ると元昊は幕の中に身体を横たえて休息の体勢をとった。いよいよ、乾坤一擲と言えるべき決戦が待ち構えているのであった。 戦いを前にして元昊は自身をなるべく保とうと務めていた。
「まだ、戦いは始まっておりませんよ。将として泰然自若としてください」
「ふふ、俺はこれでも冷静なつもりだ。いや、自分でも不思議なものだ。勝ち目の薄い戦いというのに、妙に落ち着きはらっている自分がな」
 やはり、と張浦は思った。元昊もこの戦いに勝てるなどとは思っていなかったことを改めて認識した。しかしそれを悔いる風はなかった。元々、この戦いそのもの が死に場所というものにも等しかった。張浦も元昊も王朱敏も皆が軍人であり、戦いに身を燃やす武将であった。戦を避ける武人など居はしなかった。どのような 状況でも戦わなくてはならないのが武人であった。
「爺、この戦いにもし勝てば、夏国はどうなると思うか」
 元昊は床に横たえた身を半身に起こした。幕舎の中は薄暗く、ぼんやりと動物の油で造られた灯明が燈っているだけであったが、主従にはお互いの姿がよく見 えていた。張浦はどこか、強がりのような笑いを元昊に感じた。
「勝てば、ですか。そのような皮算用は止されたほうが」
「いや、ほんの気休めだ。爺よ、俺には一つ考えがあってな」
「何がですか」
「この戦いに勝った夏国が益々精強となり、遼、宋と並んで天下を争うのが俺の夢だ。天下三分の計とでも言うのか。俺はそんな事を考えていた」
「天下三分の計でございますか」
 多少軍略を学んだものならば、誰もがその有名な計を識っていた。もちろん、張浦がそれを知らないわけがなかった。
 天下三分の計とはかの有名な大軍師諸葛亮の考えた策であった。それは八百年もの昔である。当時の中原は戦乱で別れ、北方の魏国、南方の呉国の二強国 が争いを続けていた。この二つの国の争いに付け込み、諸葛亮は君主である劉備を補佐して戦いを繰り広げ、三国の一つである蜀を建国することに成功したの である。
 蜀は他の二国に比べれば遥かに脆弱な政権で、通常ならばいつ滅ぼされてもおかしくはなかった。だが鼎のように三つになった国々は微妙な勢力の均衡を必 要とした。二国ならば単純に一対一の関係だが、三国ならば二つが連合して一つに当たることもできる。こうして三つの国は分裂したまま大陸の覇権をかけて争 い続けた。史上に名高い三国時代である。
 そのようなことを元昊はやるという。張浦にはそれがどのような図になるか手に取るように解った。北方の軍事大国であった魏はすなはち現在の遼帝国にあた る。南方の経済力豊かな呉は宋帝国になり、最も弱小で自然の要害のみがとりえであった蜀がすなはち夏国に当たるのであった。
「…そのようなことまで考えていらっしゃったのですか」
 張浦は元昊の策を皮算用と言い放とうとしたが、かえってその着眼点の鋭さに驚かされた。元昊は何者にも支配されない夏国のことを考えていたのに相違なか った。遼の支配を受けず、宋に脅かされない帝国の姿がそこにあった。夏国が回鶻さえ倒せれば、夏国は中原に対する第三の国として名乗りを挙げることができ る。単に宋と一対一、遼と一対一では間違いなく夏国に勝ち目はない。しかしこの二つの国の間に夏国が入れば、そこは丁度鼎の三本脚のような体勢となる。そ うなれば不用意に脚を一本潰すわけにはいかなくなる。三本のうちの一つが倒れれば、他の二国に与える影響は計り知れない。よって夏国が宋、遼に劣れど、無 闇な手出しはできなくなるのだ。元昊はそれを狙っているのである。
「そのためには、どうしても回鶻は完膚無きまでに叩き潰さなくてはならない。奴らはまだ今の夏国でも十分に戦える。奴らを追い払い河西回廊を支配下に置け ば、西方との交易路が確保できる。そこから莫大な徴税を上げることもできるし、塩池の青白塩も幾らでも輸出できる」
 強い調子で元昊は言った。回鶻にさしたる土地や城都がないのにその勢力が大きいのは、西方との交易で莫大な収益を上げているからであった。絹の道を通 って多くの品物が東西を行き来していたが、回鶻は隊商達からそれぞれ一割程度の物資を税として巻き上げていた。回鶻の勢力がなくなれば、彼らが隊商から 巻き上げていた収益はそっくり夏国のものとなる。
 また、利益はそれだけではなかった。夏国は内陸部の国だが、その領地内に塩分を含んだ塩池と呼ばれる池を幾つも持ち、ここからは青白塩と呼ばれる良質 の塩を生産していたのである。
 塩は人々の生活には必需品であった。故にどうしても必要となるので、どこの国でも専売品として高い値段で取引されていた。回鶻さえいなくなれば、この市場 に夏国の塩が入っていけるのである。そうなればその収益もまた莫大なものになるだろう。
「回鶻さえ倒せば、夏国はもっと大きくなれる。宋、遼の二大強国に肩を並べることもできるやもしれん…ああ、なんとしても回鶻に勝ちたいものだ」
 元昊の魂は見果てぬ大きな夢に向かっていた。この人はやはりただ者ではないと張浦は感じた。継遷も確かに回鶻との戦いの必要性をしきりに提唱していた。 しかしそれはここまで大きな見通しがあってのものではなかった。ただ回鶻が夏国の勢力拡大の邪魔になっていたに過ぎない。元昊のような細かい計算はそこに はなかった。
「む…醜態であったな。爺、気休めの戯言だ。忘れてくれ」
「戯言ですと。戯言にされてはたまりませぬ。こうなれば若殿にはなんとしても勝ってもらわなくてはなりません」
 張浦は興奮を顕にしていた。まさかこれほどのものとは思わなかった。仮に元昊の言うとおりに勝利を収めれば、夏国は強力な経済力で二帝国の争いに割って 入ることができる。中原の覇権を争うことも決して夢ではない。
「こうなればこの張浦、この白髪頭にかけて勝利を掴んで見せましょう」
「爺」
「この度の戦、私の命を賭しましょう。どうか悔いのないように戦いください」
 高揚した精神のままに張浦は平服した。それはこの老軍師が主君に対する最大の敬意であった。彼は酷く元昊の投げた構想に対してうち奮えていた。そして何 が何でも勝たなくてはならないという義務感に対してまた身を震わせるのであった。


「元昊様、夜明けと共に回鶻軍は西涼府を発つようです」
 時刻は宵も回り、あと数刻のうちに夜明けを控えるようになった頃、密偵の一人からそのような連絡が入った。
「まことか」
 元昊は土の上に羊の毛皮を引いて休んでいたが、その言葉を聞くとがはっと立ち上がった。彼の動きの激しさに毛皮が地面と擦れて小さな土煙が上がった。
「はい。回鶻の兵三万が明け方に北門から出陣するようでございます」
「夜明けまではどれだけの時間がある」
「あと一刻半ほどでございます」
「霧はどうなっている」
「ここではそう見えませぬが、西涼府の周囲は濃霧に包まれております。視界は非常に悪く、一丈ほど先も見えません」
「時は来たな。爺と王朱敏を呼べ」
 密偵は伝えるべきことを伝えて幕舎より去り、替わって王朱敏と張浦の二人が幕内にと入って両手を組んだ。なるべく平静な口調を保ちながら元昊は二人に言 った。
「時は至った。遂に戦いだな」
「騎兵一千、歩兵二千は既に出撃の体勢を整えている」
 王朱敏の口調はそっけないものだったが、そけだけに確実なものとして聞く側を安堵させた。元昊は右手をかかげると岩山を指差した。岩山はそこに聳えてい た。この向こう側に目指す西涼府がある。
「王朱敏、お前は騎兵一千を率いてこの山の向こう側に回れ。馬蹄の音には注意せよ。敵に気取られないようにして霧に身を隠し、夜明けを待て。敵の動向を伺 いながら潜伏するのだ。敵が城門を出て懐水鎮の方へ向かったら、一気に突撃をかけろ」
「承知した」
「爺、お前は俺と一緒に歩兵を率いてこの岩山に登るのだ」
「それはどういうわけで」
「王朱敏が戦端を開いたら、我々は一気に岩山を駆け下り、敵陣に突撃するのだ。霧の中だ。両側より攻め立てられれば、敵は包囲されていると思うに違いな い」
「なるほど、解りました」
「その他のものは各自俺が出す下知に従うのだ」
 全ての指示を元昊はてきぱきと終えた。もはや矢は弓を放たれたのである。戦いの結果がどう転ぶかは解らなかった。しかしこれで最前だと張浦としては思うし かなかった。後は天運に全てをまかせるしかなかったのである。
 元昊軍三千は動き始めた。敵はあまりにも強大であった。しかし逃げることはできない。戦うしか術はなかった。元昊の策に従うより他はなかったのである。
 だが張浦は心のどこかで小さな不安が生じているのを覚えていた。それは迷いなどでは無かった。これが勝ち目の薄い戦であるということは百も承知していた。 気持ちの上ではとうにふっ切れていた。
 なのに彼の心中を一抹の心配がかすめるのであった。彼は何かを忘れているような気がしていた。それは昔彼が身を持って体験したことであるようだった。なの に彼はそれを思い出すことができなかった。
(たいしたことでなければよいが…いつもの取り越し苦労かもしれんがな)
 張浦は自分にそういって無理遣りに言聞かせ、不安を心の奥底に押し込んだ。今になっての迷いはあまりにも危険すぎた。そんなことをしていては兵卒の統率 や判断に狂いが生じてくる。迷うことはできなかった。彼は年がいもない大声を挙げて歩兵の一団を統率にかかった。
 張浦の心に軽い不安を残したままで元昊軍三千は作戦を開始した。後は来たるべき時間を待つばかりであった。


 そのまま何事もなく一刻余りが過ぎた。王朱敏の軍勢は一足先に宿営の場所を発ち、山の向こうを包む霧の中へと向かって足を進めていた。元昊と張浦は歩 兵を率いて岩山の頂上へと足を進めた。
 霧は時刻と共に深さを増していった。岩山も今やすっかりと濃霧に包まれ、視界を著しく落としていた。厚い水の粒子に遮られて一寸先も明瞭に見えず、ただ兵 達の足音とぼんやりとした形だけが水の空気の中に浮かんでいる。
「すごい霧だな、爺」
 元昊は鎧の肩口に付着した水滴を払いながら登山の足取りを進めた。彼の鎧には寒さを防ぐために首から肩にかけて狼の毛皮が取り付けてあったが、それも 霧に取りつかれて、一面に露を滴らせていた。
「この濃霧に乗じませんと」
「うむ、今となっては王朱敏が頼りだ。鬨の声を頼りにしないと、我々も身動きがとれなくなる」
「上手く行くでしょうかね」
「向こうは大部隊でこっちは少数だ。少数故に動き易い。それが吉と出るのを祈るばかりだわ」
 大軍では混乱した時の収拾がつかなくなる。それを狙うのが元昊の作戦であった。霧の中で奇襲を受ければ回鶻軍は恐慌を呈する。それを狙えばいかにこち らが寡兵でも勝つとはできる。
「問題は、霧がいつまで持つかですな」
「これほどの濃霧だ。そうは晴れまい。しかも時を経るごとに濃くなっている。濃くなるからこそ、軍全体の統率が重要となってくるのだ」
 張浦は霧のことが気になっていた。この霧が元昊軍の唯一と言ってよい味方であった。霧が出ている間だからこそ寡数のこちらにも勝機が残されていたのであ る。この霧が出ている間に勝負をかけなければ負けであった。勝つためには王朱敏が早く接敵し、敵を混乱に陥れなくてはならない。しかしそれだけではない。そ の後素早く元昊達の歩兵部隊が戦場に到着しなくてはならない。この二つが敏速に行なわれることが肝心であった。全ては霧が出ている間が勝負であった。
 しかし張浦の危惧とは裏腹に、霧は益々濃いさを増してきているようであった。もはや足元がぼんやりと見え、山の斜面が微かに識別できる程度にまで視界は 衰えていた。確かに、これだけの濃霧ならば、霧が晴れる時期を危惧するよりも、視界の悪い状況での軍団統率が重要になってくると思えた。
 しかし張浦は今だに不安を拭えなかった。それはもはや理屈ではなく、軍師として彼が長年培ってきた直観的なものにも近かった。なにかがまずいと彼は感じ た。しかしその頭に残る不気味な感覚を言い表わせるほどに言葉は整理されていなかった。
「頂上です」
 先頭の兵士の言葉が微かに霧中に響いた。声さえも霧で鈍らされているようであった。張浦はその平たい岩山の上の大地に腰を落ち着けた。起伏に富んだ岩 山の上は霧によって濡れて、地面の岩も黒みかがって変色していた。視界はほとんど利かなかった。まさに耳だけでしか王朱敏の別働隊の動向は判別できな い。
「斥候を飛ばせ。王朱敏の軍勢の戦いの音を見逃すな。戦いが始まれば全軍一度に岩山を駆け降りて回鶻軍に突撃をかける。勢いを失うな、迷うな、怯むな。一 瞬でも迷えば我らに勝機はない」
 元昊は確認としての命令を兵卒に飛ばした。誰もが神妙な面持ちで首肯いていた。元昊が鍛えた兵士たちは彼の手足のように動けるだけの練度を備えてい た。勇猛果敢な軍勢に対して彼はその奮起を期待すべく話し掛ける。
「回鶻は大軍だが、それゆえに一度混乱すれば収拾がつかなくなる。何も考えるな。ただ敵めがけて突っ込むのだ。突っ込み、敵陣を分断すれば、敵は混乱の内 に敗走する」
 もはや全ての準備は整っていた。あとは突撃を待つばかりであった。元昊達幕僚はその場でひたすら時を待った。時を経るごとに霧はまだ濃くなっていき、呼吸 をするのが息苦しいほどにその重さを増していた。もはや視界は眼前数尺ほどにもなくなり、白い煙のように固まった水の粒子が、どこかにあるであろう夜明けの 朝日の欠片に照らされて僅かな光を乱反射していた。
「伝令でございます」
 待ち続ける元昊の元に伝令の報せが届いていた。元昊は床几に腰を降ろして使いを待った。王朱敏の軍の伝令役であった。
「何とした」
「はっ、回鶻軍が北門を発しました。街道に乗る前に勝負を賭けると王将軍のお言葉です」
「場所は」
「ここよりやや南東の沼地の傍でございます。南に行くと街道が沼によって湾曲しております。王将軍は敵軍を沼沢へ追い詰める形にされるとの事です」
「南に下って、我々が沼沢に入り込む危険はないのか」
「このまま真っすぐに下れば街道が湾曲する場所に到着いたします」
「よし」
 元昊は座っていた床几を蹴飛ばして立ち上がった。身の丈五尺程度の彼は痩身短躯であり、見栄えからすれば指揮官としては不適に思えるのだが、その声の 持つ威厳は不思議と多くの兵卒を動かすのであった。彼は隊を整列させた。いつでも突撃ができる体勢にと軍を整理させたのである。
「まもなく王朱敏隊が回鶻軍に突撃をかける。我々はここより駆け下り、王朱敏を助けなくてはならない。鬨の声が上がったときが勝負だ。一同奮戦し、手柄を立 てることを大いに期待するぞ」
 兵士たちは一様に神妙な面持ちで首肯いた。兵卒達までもが元昊の醸し出す悲壮な雰囲気に巻き込まれ、その中で自身を奮わせて戦いに赴こうとしていた。 兵士たちに怯えは見られなかった。さすが元昊が手塩にかけた精鋭であった。
 待つことしばし、足元の方で怒声が上がった。やがて馬蹄が響き、遠くで剣戟が打ち鳴らされる音が聞こえてきた。後は攻めるもの、守るものそれぞれの発する 掛け声と悲鳴、下知の声らしき咆哮と軍勢のぶつかる轟音であった。戦いは始まった。王朱敏隊が先鋒として攻撃を掛け始めたのだ。
「前軍、突撃せよ」
 元昊は全ての兵士に岩山を降りるように命令した。遂に、一か八かの、元昊の運命を賭ける戦いが始まったのである。


「集結しろ、錐状陣を張れ!」
 並走して走る騎馬の姿もおぼろげにしか見えない霧のなか、王朱敏は手持ちの騎馬軍団に突撃体勢を取らせた。騎馬隊は次々と縦に連なり、錐のような隊型 をとった。まるで板を針が打ち抜くがごとくの陣形である。これで一気に敵の壁を打ち抜き、混乱に陥れるのが王朱敏の役割であった。
「行けい!」
 怒号と共に部隊は走りだした。全て騎馬隊で構成された一千の兵が一度に駆け出していく。馬蹄の音が激しく大地を削り、轟音が空気を引き裂いていく。そして 軍団の先鋒、いわゆる錐の先は、厚い壁を造る回鶻軍に差し掛ろうとしていた。
 王朱敏軍は回鶻軍との先端を開いた。針の先に当たる騎馬隊が回鶻の軍勢の壁の中に打ち込まれていく。たちまちのうちに悲鳴があがり、鮮血が散った。倒 れた兵士たちの傷口から流れた血が霧の粒子と入り交じり、所々に紅に染まった空気が上がる。血煙となったそれが次々に敵陣を切り裂く王朱敏軍を包み、駆 け抜ける騎馬軍団の疾風に巻き上げられて天に散っていく。
(若殿の策は当たっているな)
 王朱敏も今や敵陣の真っ只中にいた。躊躇や臆病はたちまちの死を招く。こちらが寡兵であることは決し悟られてはいけなかった。彼は馬上で長剣を奮うと、歩 兵と覚しき影を見付けて片端から切り掛かった。さすが剛勇の王朱敏である。彼が剣を奮えば立ち所に辺りに血が舞い、雑兵たちの骸の影が落ちる。英雄李継 遷の残した武将は今だに現在であった。
 ほとんど規則正しく響き渡る蹄の音は大軍である回鶻軍を確実に恐慌へと追い込んでいた。敵の反撃はあるにはあるが、それは僅かなものに過ぎない。敵の 小隊長達は必死に軍を収拾し、王朱敏に抗しようと務めている。しかしそれは無駄な努力に過ぎなかった。この閉ざされた視界のなかで、敵の戦力も詳細も解ら ずに立ち向かうのは余りにも無駄なことであった。
「回鶻の兵よ、我が名を聞けい。俺は李元昊旗下にその人ありと言われた王朱敏だ」
 彼は回鶻語で雄叫びを挙げた。これも所詮は策の一つであった。濃霧と乱戦で視界は遮られているものの声は届く。視覚ではなく聴覚によって敵に恐怖を与え る作戦であった。王朱敏の勇猛は回鶻も十分承知している。その名前を聞いて敵兵が怯えないはずが無かった。
 王朱敏は馬を走らせた。僅か一千の騎兵隊は、確実に三万の大群を押しはじめていた。恐慌に陥った兵達は敗走し、踏み留まるものでもじりじりと戦線を後退 させている。そして混乱の極みにある敵陣の中を王朱敏の騎馬軍団が駆け抜ける。
 逃げ惑う敵兵の先端から再度悲鳴が上がった。逃走する彼らは王朱敏の狙いどおり、沼沢地帯に追い込まれていた。霧は完全に視界を遮っていて、遁走する 彼らには沼地の存在は解らなかった。再び恐怖の声が起こり、後は阿鼻叫喚の世界となった。泥沼に回鶻軍ははまり込み、そこに落ち込んだ兵士たちは離脱も ままならず、次々と押し寄せる新しい敗兵の重みにつぶされ、沼地にその姿を消していく。
「ええい、慌てるな。逃げればかえって敵の術に陥るぞ」
 霧の中から太い声が聞こえ、うっすらと馬上の巨大な影が浮かんだ。王朱敏も大柄な男であったが、それよりは一回りも大きいであろうか。影は忙しなく剣を振 って下知を下し、混乱する回鶻軍の収拾に力を注いでいる。(いかん、夜洛隔だ)
 王朱敏の軍は敵陣の最深部にまで切り込んでいた。今までは破竹の勢いで敵を駆逐していたのだが、突如としてその勢いは緩やかになった。今まで易々と差し 込まれていた錐の先は固い岩盤に打ち当たり、その進む速度を明らかに緩めていた。急に敵兵が強くなったように王朱敏は感じた。それは回鶻王夜洛隔の親衛 隊一団であったのである。
「どこだ、王朱敏とやら。夏国の外れ者の将軍よ。この夜洛隔と勝負する自信があるか」 霧中から何度もそのような叫びが響いてきた。しかし王朱敏はそれには 応えなかった。ただ彼はひたすらに剣を振り降ろした。悲しいかな、彼は自分の腕が夜洛隔に及ばないことを承知していた。いや、仮に戦えば勝てるかもしれな い。しかしここで彼が負ければ、援軍として合流する元昊軍の運命は尽きる。(勝負は若殿が合流してからよ)
 軽く舌打ちをして自分の心に納得をさせてか王朱敏は再度馬に鞭を当てた。
「進め!」
 彼の周囲に居た騎兵達も一度に突撃をかけ、親衛隊の壁を一気に打ち破った。再び部隊は雑兵との戦いに身を委ねた。柔らかい板の部分に躍り出た錐の先 はそれらを打ち砕き始めた。所詮雑兵は雑兵でしかない。鍛えられた元昊軍の前に屍を晒して、王朱敏の進撃はまた始まる。
(そろそろか)
 王朱敏が攻撃の間合いを計った丁度その時に再び回鶻兵の悲鳴が上がった。王朱敏の隊の方へ向かって回鶻兵が敗走してくるのが解った。
(来たか)
 元昊軍の攻撃が始まったのだと彼は理解した。素早く王朱敏は戦線を整理した。敵中に切り込んだ騎兵隊を整理し、元昊軍の到来を待つ。
「援軍だ!合流してのち、再度追撃せよ」
 今や戦はまったく元昊の有利にと傾いていた。霧の隠れ蓑の中で元昊の精鋭たちは縦横無尽に暴れ、その力を見せ付けていた。回鶻の兵は虚しく逃げ惑うし かなかった。完全に、ここまでは完璧な勝利が続いていた。


「爺よ、俺の策は当たったようだな」
 歩兵二千はやはり錐のように長く延びて回鶻兵を駆逐していた。王朱敏の騎兵と丁度十字の形に交わり、東西南北に元昊軍は駆け抜けた。回鶻兵の恐惶は 一行に治まらなかった。
 元昊は歩兵と騎兵が交わる中点の所に本陣を置き、それそれに下知を出した。歩兵と騎兵は交互に敵陣に切り込んでいた。騎兵が敵中深くに入り、退却をす る。次には歩兵が切り込み、波状攻撃が行なわれる。これも寡兵を多可に見せる手段であった。
「策そのものは成功でございます。しかし我が軍に伸びがございません」
「なぬ」
「あまりにもこちらが無勢なので、とても数回の突撃で敵を全て敗走させられないのです。これまで大凡二万の兵は打ち崩したと思われますが、まだ夜洛隔本陣と 一万の兵は健在です」
「なに、この勢いならばそのうち崩れるわ。まだこの様子では霧も晴れぬ。後は時間の問題よ」
「それは…」
 ふと、張浦は以前に感じた不安が頭をよぎったのを悟った。確かに霧は濃いままであった。これが一度に晴れることはないと思えた。そのような兆候があれば視 界にもう少し差が出るはずだが、突撃開始の時より霧が薄くなった様子はなかった。
(しかし、どうも気になる。そろそろ朝日が昇る頃だが)
 ふと、時間の経過を思い出して張浦は後方の岩山を仰いだ。水の微粒子の中に光は少しずつだがその姿を見せていて、朝日の片鱗をそこに宿らせていたが、 太陽そのものはまだ昇ってきていなかった。張浦は目をこらして岩山の上を見た。岩山の上では風が渦巻き、山頂を覆っていた白い水の粒は吹き流されて視界 を明瞭にと変えていた。
「いけません、若殿。もう時間がございませんぞ」
 張浦は自分の嫌な予感がなんであったかを今はっきりと自覚した。全ては二十七年前のあの時であった。
 あの時も確かに厚い霧が大地を包んでいた。しかしそれは黎明と共にたちまちのうちに晴れ渡り、明らかな視界の元に西涼府が姿を表していた。その時に張浦 と継遷は岩山の上で西涼の城を眺めていたのである。
「馬鹿を申すな。この霧は晴れん」
「いいえ、晴れます。山の上で風が渦巻いております。あの風がこちらに吹き下ろしたときにたちまち…」
 そこで張浦は言葉をつまらせた。山頂に吹き付けていた風は一度にその向きを変えて山の斜面を滑り降りてきた。突風とも言えるべき強い風が兵士たちを襲っ た。流れ落ちる風は元昊軍を覆っていた隠れ蓑を凄まじい勢いで剥がし始めていた。
「急いで下知を」
「むむ、しかし、どうしようもない」
「とにかく退くのです。このままでは我々は敵陣にとり残されますぞ」
 しかし張浦が献策のために言葉を選んでいる合間にも、自然の力は恐ろしい勢いで霧を押し流しはじめていた。張浦の言葉に従って元昊が下知を下す間もな く、視界はどんどん晴れ渡っていく。
「こ、これは…」
 言葉を失った元昊の絶句が終わると共に、霧は完全に晴れ、元昊軍は孤島のように敵の中にとり残されていた。十字架の形に広がる歩兵と騎兵。それを取り 巻いて、まだ混乱を残す回鶻軍がいる。その数は計って一万以上。単純でも三倍以上の兵力差があった。
「霧は晴れた!敵は寡兵だ。包囲して討ち取れい」
 形成は一度に逆転していた。回鶻王は隊の整理を一度に行なった。さすがは軍事力に勝れた王である。隊の整然とした親衛隊を基軸として、今で逃げ惑っていた兵団が徐々に混乱を収めて平静に戻っていく。
「いかん。もはや突撃はできん」
 王朱敏は騎馬軍団の歩みを止めさせた。しかしそれだけである。それ以上のことはできない。長く延びた一団を収縮させ、元昊の居る本陣周辺に軍を集めるの が精一杯の士気であった。
「来る、来るぞ」
 王朱敏は叫んだ。回鶻の陣はまるで嵐の前の水面のように静まり返り、一辺の乱れも無いほどに整えられていた。硝子の表面のように乱れがなく、静まり返っ た敵軍は、これから始まる反撃の激しさを想像させた。
 そして一瞬の呼吸を置いて、水面の上には津波が走った。夜洛隔王の怒号が響き渡り、雪崩が村落を押しながすかのような怒涛の勢いで回鶻軍は元昊軍を包 囲していった。
「支えろ」
 軍の先頭に立つ王朱敏軍は無駄とは知りながら押し寄せる回鶻軍を留めようとした。錐状陣を横に広げ、騎馬隊の壁を彼は造った。しかしそれはあまりにも脆 弱な壁であった。一千の兵をもって一万の敵全てをを支えることなどできない。
 回鶻軍は平静を取り戻した。残存していた騎馬隊がまず王朱敏の軍を襲った。先程までいいように追い散らされていた敵兵は仕返しとばかりに威勢に燃えて、 執拗なまでの突撃を繰り返してくる。一度、二度、三度と波状攻撃が行なわれる。疲れ果てた王朱敏の兵は抗するだけの力を既に失っていた。攻撃の度に騎馬 の壁は崩されて、その向こうの元昊が居る本陣に敵兵が近付いていく。
「王朱敏が危ない。援兵を繰り出せ」
「それはいけません。多数の敵と正面からぶつかれば、やがて我々に敗北が訪れます」
「しかし奴を見殺しにはできん」
「では、私がまいります。この張浦、老骨といえどもかつては継遷殿旗下で一方の将を務めておりました。少しは足しになるでしょう。よいか、前衛は私に続け。王 将軍を助けるのだ。後衛は方陣を取れ。若殿を守るのだ」
「待て、爺よ。俺に何もさせぬつもりか」
「そうではございません。私と王朱敏で血路を開きます。敵軍に再度亀裂が生じたら、後衛を突っ込ませてください。我々も後衛と共に脱出いたします」
 張浦は徒歩姿のまま抜刀して剣を構え、前衛の兵を自身の周囲に引き寄せた。眼前では幾度も繰り返される回鶻軍の波状攻撃を防ぐべく王朱敏が騎馬の壁 を纏め、必死に防戦に務めている。
「これより王朱敏に加勢する。敵を一瞬でよいから怯ませろ。若殿、よろしくお願いしますぞ」
 張浦は突撃を開始した。しかしその数は歩兵千にも満たない少数であった。張浦軍は王朱敏の軍勢の後についた。騎馬軍団はもはや半分以下に減り、王朱敏 は今にも崩れ落ちそうなその防御線を守らんとして必死の奮戦を続けている。
「朱敏、援軍に参った」
「爺さん、ありがたい」
「この援軍とお前の軍で再度突撃をかけるぞ。敵軍に亀裂を入れ、若殿を逃がすのだ」
「解った。横陣を解く。錐陣に変えるぞ」
 王朱敏の命令で。横一列の騎馬軍団はたちまち縦の列に組み替えられ始めた。それはまさに錐の形にふさわしかった。錐の針の部分を少数の騎馬隊が務 め、そこを王朱敏が指揮する。錐の握りの部分は張浦率いる歩兵が構成する。
「うおおお」
 王朱敏は怒声と共に敵軍の中核に突っ込んだ。蝗のように押し寄せる回鶻軍の一角に、脇目も振らない突撃がかかる。一度、二度、三度と突撃がかかる度 に、直線を保っていた敵の戦線が徐々にへこみ、錐に打ち抜かれるように孔が開いていく。
「退路を開け」
 王朱敏が開いた亀裂の間に張浦は歩兵を突っ込ませた。戦線の割れ目を更に広げるための突撃であった。歩兵は敵兵の裂目に取りつき、収拾されようとする 空間、すなはち退路を確保すべく両側から押し寄せる回鶻兵を力の限りで支えている。
 張浦もまた剣を振り、力のかぎりに戦いながら元昊の突撃を待った。道はようやくにして開かれていた。あとは最後の段取りの通りになるばかりであった。
 元昊は張浦の言葉に違えなかった。張浦の歩兵軍団により退路が開かれた瞬間、残る兵と元昊は一度に三度目の突撃をかけた。瓶の口から水が流し込まれ るように、敵陣の空白を元昊は駆けた。
「岩山を目指せ!」
 開かれた道の先には先程彼らが駆け降りてきた岩山があった。そこが最後の集結地点であった。岩山の上ならば敵の騎馬軍団は使用できない。こちらもその 条件は同じだが、王朱敏の軍団はほぼ壊滅に近く、もはや騎馬軍団に頼るほどの数がない。
「爺さん、道が開かれたな」
「ああ、我々も岩山を目指すぞ」
 王朱敏は張浦を拾い上げて馬の背に乗せると最後の一鞭をくれて馬を走らせた。もはや彼の周囲は数十騎の騎兵しか残されていなかった。張浦の歩兵は退 路を確保すべく亀裂の両壁に張りついていたが、元昊軍が退却すると同時に力を失い、回鶻の大軍に呑まれ、駆逐されていく。
「負けだな…」
 元昊は張浦の造った退路により脱出には成功した。しかしそれは潸々たる結果でしかなかった。既に兵力の三分の二は失われ、残るものも著しく疲れ、負傷者 も多い。彼は大きくため息をつくと残兵を纏めて岩山へと足を向けた。戦いが始まってから僅か一刻余りしか過ぎてはいなかった。夜明け前の太陽が既に昇り尽く し、朝の淡い光を大地に投げ掛けていた。その中でただ回鶻の大軍だけが地上を埋め尽くしていた。
 元昊軍は一路岩山に向かった。重い気持ちに浸る間もない遁走であった。敵中に残された僅かの兵が奮戦し、回鶻軍の動きを食い止めていたが、それも時間 の問題であった。
 ようやくにして岩山に辿り着いたときには、三千の兵は七百を僅かに越える程に減っていた。しかし元昊には感傷に捉われる余裕はなかった。彼は将として、次 に採るべき方策を決めなくてはならなかったのである。

(続く)第五章 砂中一笛へ