[第五章 砂中一笛]
時を経るにつれて、岩山の上には少しずつ敗残の兵達が集まってきていた。あの激しい戦闘をようやくにしてくぐり抜けた強者たちは、導かれるままに岩山にその足を向けた。しかし、幾ら兵が集まれども、元昊軍の寡勢には変化は無かった。集結した兵を全て統合しても、その数は千にも満たなかった。
一方で回鶻軍の方も散々となった兵を集め、二万はあると思われる大軍で岩山の周囲を囲み始めていた。蟻の這い出る隙間がないほどぎっしりと包囲するその形は、回鶻王がこの戦いを中途半端には終わらせないという意志の表れてあった。
「爺、大事は去ったか」
元昊は床几に座り、膝のうえに肘を乗せて頬杖を付くと大きく嘆息をついた。今や敗北は明らかであった。完膚なきまでに叩きのめされ、そして退却もできないほどに敵軍に囲まれていた。
「回鶻の再攻撃までどのくらいの時があると思うか」
「はい、今は一息を入れて、再度の攻撃の準備を整えている所ですから、多く見積もってもあと半刻足らずかと」
「半刻か…」
それだけの時間が、元昊に残された最後の猶予であった。彼は集まってきた兵士たちの顔を見回した。誰も疲労の色が甚だしく、生気のあるものは皆無に等しかった。
元昊は疲労に浮腫んだ足で立ち上がった。気が付けば足首に付けていた鉄鋼に一本の矢が刺さっているのが解った。彼は何気なくそれを手に取って抜いた。軽い痛みがして装甲の下の皮膚から鮮血が滴った。怪我のことなど気付かないほどに彼は疲れ果てていた。元昊は刺さった矢を手に取って見た。戦闘の激しさで矢は中程から折れ曲がっていた。
矢折れ力尽きるというのはまさにこのような状態のことであった。戦は予想の通りに負けてしまっていた。元昊はぼんやりと矢を見つめた。矢じりの先も傷つき、もはや矢としての役目も為さない代物に過ぎなかった。
彼はその矢を天空に放り投げた。回りながら矢は中を舞い、岩山の間の亀裂に姿を消した。二度、三度と岩を打つ音がして暗く淀んだ割れ目の奥底に矢は姿を消した。
カラン。
不意に矢の消えた底から乾いた音がした。それは何かがぶつかったような音であった。元昊は目を凝らして、先程矢の落ち込んだ谷間を見つめた。一丈ほどの深さの小さな隙間の間に風によって舞い上げられた砂が溜り、岩の黒い色との対象を為していた。僅かに岩の亀裂から漏れている陽光のおかげで裂目の底まで視界は届いていた。
「なんだ、あれは」
元昊の目は砂の中に半分以上埋まった何か管のようなものを見つけていた。彼は裂目の淵に腹ばいとなってその黒い管のようなものを掴もうと手を伸ばした。さしたる苦労はなかった。彼は易くその黒い管を拾い上げることができた。
「笛…?」
それは一本の笛であった。黒く煤けた竹で造られた簡素なものであった。飾りたてなど一切していない、遊牧の民が吹く笛の一つであった。
「なんだ」
彼はもう一度その笛を投げ捨てようとした。そのようなものに興味を向けている余裕はなかった。元昊は笛を捨てようとして右手を振りかぶった。
「お待ちください。それは継遷殿の笛でございませんか」
右手を掲げた元昊を張浦は止めた。
「なに」
「お見せください」
張浦は震える手でその矢を主君より押し戴いた。瞬間、彼の脳裏に遥か昔の光景がよみがえった。寂寞とした荒野の英雄李継遷の姿がはっきりとした映像となって、この老人の意識の中に再び姿を表していた。
「ああ、間違いありません。これは継遷殿の笛でございます。二十七年前、継遷様が最後の戦の時に吹かれた笛でございます」
張浦にはあの時の戦場の光景がまざまざと思い起された。やはり、あの戦も勝ち目の薄い戦いであった。そして継遷は自らを奮わせるべくして笛を吹いた。戦いは負けた。継遷は死んだが、主人を失った笛はこうして砂に埋もれたまま、少しも変わらずに時を過ごし続けていたのである。
「若殿はまだ御幼少でしたから記憶にございますまい。継遷様は最後の戦いに臨まれる時に、若殿のことをこの老骨に託され、この笛を吹かれたのです。あの時この笛は砂の中に捨てられましたが、まさかこのような所で見つかるとは」
張浦は感慨に捉われて笛を恭しく胸中に抱いた。老人の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。涙は岩の亀裂に溜まった砂地に落ちて、一点の曇りをそこに見せ、乾いた世界を潤していた。
それは正に運命が結びつけたとしか思えない所業であった。祖父が最後の時に演奏したその楽器は、時を経て後代の者達の窮地に姿を見せたのである。
「祖父殿のものか……皮肉だな、爺。祖父殿の最後を飾ったこの笛が、孫の俺の最後も飾ってくれるとは思わなかった」
元昊は力の無い笑いを浮かべると足取りを兵士たちの中央に向けた。兵士たちは誰も疲れきってその場に座り込んでいた。元昊は笛を手にしたままで彼らの間を進んだ。最後の命令を下し、将たる務めを果たそうと、元昊は兵士たちの真ん中に進み出た。
「皆のもの、よく今日までこの元昊に従ってくれたな。残念だが、戦は負けだ。俺はここで死ぬが、皆にはそれは強制せぬ。降りたいものは降れ。命を粗末にすることはない」
士気を失っていた兵士たちは一同驚きの顔で自分たちの総大将の姿を仰いだ。それはこの剛毅な若者が部下の前で始めて見せる弱さであった。誰も声を出すことができなかった。ただ張浦だけが驚愕の表情のままで口を開いた。
「若殿、何をおっしゃいますか」
「爺、お前も行け。この戦は全てこの元昊の責任だ。俺は死んで夏国に詫びるが、他の者に責はない」
元昊の声からは既に威勢は失われていたが、声だけは朗々と澄んで響き渡り、その場に居るものに深い感慨を呼び起こさずには居られなかった。兵士たちは俯き、顔を上げることができなかった。
「若殿よ、何を言う。継遷様はそのような事を言われなかった。弱気になってはいけない」
激する感情に耐えられないのか、王朱敏は目を真っ赤にして元昊に掴みかかった。彼は主君の両肩を掴んで強くその体を揺さ振った。だが、元昊の顔色は穏やかで少しの表情の変化も見られなかった。
「すまんな、王朱敏。しかし全ては終わった。もはや勝ち目の無い戦で無駄死にせずともよい。死ぬのは俺だけで十分だ」
元昊の声にはいつもと違う響きがあった。それは人が死なんとする時の、悟りきった澄んだ心が醸し出す、抗いがたい響きであった。王朱敏はどうしようもなかった。彼もまた他の兵卒のように頭を垂れて、悲しみに震えて唇を噛んだ。
「我が祖父継遷殿と同じく、俺も戦場に消えるとしよう。皆には何もしてやれなかったが、これはせめてものはなむけだ。一つ、曲を皆に贈ろう」
元昊は祖父の笛を手に取った。軽く口に当てて二、三度息を吹き掛ける。笛は少しもそこなわれて居なかった。美しい調べがそれから流れてきた。
元昊はあらん限りに息を吸い込むと指を動かしてある曲を奏で始めた。それは二十七年前に継遷がこの場で奏でたあの曲であった。もちろん幼い元昊がその歌を耳で聞いて覚えているわけではなかったが、祖父の最後を幾度も張浦から聞かされて育った彼は、その曲がなんであるかを承知していた。
遠い旋律が岩山の上に流れていた。時折流れるように吹く風が僅かに砂を運び、その内に物悲しい調べをこめて音を周囲に運ぶ。黄昏を思わせる寂しさを含んだその演奏を、兵士たちは俯いて聞き入っていた。
「継遷様だ…」
不意に誰かがぽつりとその言葉を口にした。後は堰を切るように兵士たちの間で口々にその言葉が発せられていた。僅か数十の兵で、完全と侵略者に立ち向かい、夏国を起こした英雄李継遷。その名は兵士たちの心の奥底に刻まれていた。彼らには笛を吹く元昊の姿が継遷に映っていた。
かつてあの場に侍した年配の兵士は当時を思って涙し、父祖よりその光景を聞かされて育った若年のものは、伝説を再び目のあたりにして感動に打ち震えて涙を流した。継遷は民族の誇りを取り戻すべく、困難な戦いに身を投じ、激戦を戦いぬいた。兵士たちの心には再び勇気が蘇っていた。元昊はあの英雄継遷の孫であり、その意志を継ぐものであった。彼らは立ち上がると元昊をとりまいた。もはや兵士たちに退く心はなかった。彼らは自身が自分たちの民族のために戦っていることを強く思い出し、心を奮い起こしたのである。
風が流れるように調べは進み、元昊の独奏は終わりをつげた。気がつけが彼は兵士たちに囲まれていた。数人の小隊長達が進みで、元昊の前に膝をついた。
「元昊様、我々は戦いますぞ」
「なに」
「元昊様の姿を見て我らは継遷様のことを思い出しました。元昊様は継遷様の意志を継がれていらっしゃるお方。我々が元昊様を見捨てるということは党項の誇りを捨てることです」
「そなた達は死を恐れないのか」
「我々の父祖も死を恐れず、継遷様と共に戦いました。党項の誇りを賭けて強大な敵と相対したのです。我らもその意志を継がなくてはなりません」
彼らは口々にそのような事を言った。そして兵士たちは一同に涙を流した。彼らの父や祖父もまた戦いの中に身を置いていた。党項の自立を賭して継遷に従い、四方の強敵と戦いを繰り広げた。彼らは今先祖の誇りを思い出していた。
「そうか。止めても無駄なようだな」
元昊は彼らの表情を見回した。そこには臆病さはかけらも見えなかった。勇気に溢れた強い人間の顔がいくつも連なってそこに並んでいた。
「ならば皆の言葉に甘えさせてもらうぞ。これが最後だ。一同を挙げて回鶻に切り込み、我ら夏国の兵の強さを思い知らせてやろうではないか」
元昊の言葉に兵士たちは雄叫びを挙げて奮い立った。それは敗兵の落ち込んだ士気などではなかった。死を決意した人間が持つ強さと、希望に奮えた人間が持つ勇気が合わさった、途轍もない力の固まりであった。
「これが最後の戦いだ。皆の者よ、今のうちに十分に別れを惜しめ。また黄泉の元で再会しようではないか」
「はっ」
兵士たちは一同に両手を胸の前で組み、元昊を再拝した。誰もの両眼からは涙が滴り落ちていた。これが本当に最後の戦いであった。皆が死を覚悟していた。
「武器を取れ。そして山を駆け降り、夜洛隔の本陣を目指す!」
それが元昊の最後の下知であった。再び軍は動き始めた。負け戦だが、兵士の士気は勝った時のそれのように高揚し、蓄積された疲労もどこかに吹き飛ばしていた。
今や無謀としか言いようのない突撃が始まった。それは誰もが死に場所を求めた最後の戦いであった。
「突っ込めい」
王朱敏の威勢の良い大声が引き渡り、前衛の兵士三百は壁のように連なって包囲する回鶻軍の一角に突撃を開始していた。最後の一矢に等しいその攻勢は回鶻軍の表面の統制を確かに破った。再び混乱と殺戮の戦いが展開された。しかし、それは末期のものに相応しく、小さな規模のものでしかなかった。
「よいか、党項の勇者としての名を辱めるな。何があろうとも決して退くな!」
王朱敏は太刀を両手に握り、回鶻兵の壁を切り崩すべく奮戦を続けていた。馬は先程の敗走で失われていた。もはや歩兵だけとなった元昊軍一千足らずは、徒歩でのみの突撃で回鶻軍と最後の決戦を開いたのである。兵達の巻きおこす砂煙は濛々と天に昇り、凄まじい戦場の光景を奏でていた。そしてその舞い上がった砂塵が、彼ら死ぬべき兵に与えられた最後の砦であった。
元昊は兵を三段に分けた。先鋒に王朱敏、中軸に軍師張浦、そして最後に元昊の本陣を置いて指揮を執った。目指すは敵の総大将である夜洛隔王の首であった。もはや他には何も必要ではなかった。華々しく戦って、最後の戦果を上げることだけが、この死にそびれた人間達が求める結果であった。
「総大将たる夜洛隔のみを狙え。他の将には目をくれるな」
それが突撃の前に元昊が全ての兵に下知した内容であった。その言葉に従おうとして王朱敏は敵本陣を目指すべく、再度路を切り開こうとした。
回鶻軍は次々と押し寄せてきた。僅か三百の王朱敏軍は湖の孤島のように囲まれ、敵兵の波によって凄まじい勢いで浸食されていく。人海が大地の鼓動のように揺れて、抗う小さな集団を飲み込もうとした。二度、三度と大軍の胎動がし、怒涛と共に元昊軍を飲み込もうとする。しかしそれは元昊軍の精鋭に弾かれてもとの姿に戻る。しかしその波が押し寄せる都度、確かに元昊軍はその数を着実に減らしていった。
「さあ、名を上げんとするものは俺にかかれ。李継遷、李元昊二代の臣たるこの王朱敏の首を持っていけ」
既に先鋒の前面の兵士は悉く打ち倒されて、王朱敏の周囲も敵兵が囲み始めた。彼は全身の力をこめて太刀を奮った。草を苅るようにその大刀を彼は薙ぎ払った。回鶻兵の体が切り裂かれ、返り血が幾度も王朱敏の体にかかった。
今や鬼神のごとき表情をして王朱敏は戦い続けた。切り払えども切り払えども敵は次々と新手を繰り出してくる。王朱敏は息を継ぐ暇もなく剣を振るった。
「駄目です。夏国軍の将にはとても近付けません」
敵が回鶻語でそのようなことを言うのが彼の耳に入った。しめた、とばかりに王朱敏は敵陣を突き進んだ。今が好機とばかりに、彼は馬に鞭を激しく当てた。強い痛みは馬の嘶きを誘い、素早い跳躍を見せる。砂埃をあげて王朱敏は奥へ奥へと馬を進める。
もはや周囲の味方はほとんど残されていなかった。彼が突き進んだ後には屍の山が残り、その部分だけが敵陣の亀裂として鮮明に残されていた。
「ええい、腰抜けめが。なぜ、この儂の手を患わせる」
舞い上がる砂塵の向こうに、巨大な黒い馬に乗った影が見えた。大きな男の影であった。甲冑に身を包み、手には槍を握り締めた将の姿であった。
(あれが夜洛隔だ。やっと見えて来おったわ…)
限度なく襲ってくる敵を斬り伏せながら、王朱敏はそちらの方を目掛けて足を進ませた。しかし思うように足取りはいかなかった。夜洛隔の影との間には幾多もの回鶻の親衛隊が連なっている。それらはまだこの突撃による被害を受けていない士気のある兵であった。
しかし王朱敏は既に体力の大半を使い果していた。呼吸は荒く上がり、胸の辺りがやけに息苦しかった。先ほどから剣を振る手の握力がやけに落ちているのも彼の不安の一つになった。しかし眼前に浮かぶ砂埃の中にはどこまでも敵兵の影が連なっている。
「路を開けろ!」
王朱敏は怒声と共に無我夢中で剣を振るった。たちまち地獄絵図がそこに展開した。児戯のように回鶻兵の首が飛んだ。脇目も振らずに王朱敏は駆けた。僅か人一人分の路を彼一人で切り開いていた。包囲する親衛隊の間を彼は駆けた。なんとしても夜洛隔の所まで辿り着かなくてはならない。しかし疲れは着実に王朱敏を蝕んでいた。走りは歩みにかわり、そして止まった。まるで根が生えたように足が動かなくなった。
疲労でほとんど動かない体を彼は無理に動かした。前面の敵を彼は切った。切って切りまくった。さしもの親衛隊も怯み、そこには隙ができる。
「出てこい、夜洛隔」
死を決意した彼の迫力に親衛隊は押された。たちどころに夜洛隔の本陣までに小さな路が開いた。開いた路の先には大きな黒駒に乗った、体躯堂々とした一人の将がいた。
「夜洛隔、俺との勝負に応じろ」
もはや王朱敏の足は鉛のように変わり、一歩もその場から動くことはできなかった。しかし彼は仁王立ちとなり、正面の敵将を睨み据えた。
「お前が王朱敏か。儂が回鶻王夜洛隔だ」
開いた兵士たちの路を馬は進んだ。威風堂々たる王の威厳がそこにあった。背の高い、筋骨逞しい壮年の武将。黒塗りの鉄甲防具を身に着けた悪鬼が、近隣に最も猛き勇者と名高い回鶻王の姿であった。
「おう、俺との一騎打ちに応じろ」
もはや王朱敏は立っているのがやっとに過ぎなかった。崩れ落ちそうな気力だけで彼は自分を支えていた。
「満身創痍の貴様が儂にかなうと思うか」
鼻で括ったような敵将の声を王朱敏は聞いた。夜洛隔は王朱敏の傍によった。もはや王朱敏には抗う力はない。
「かなうとは思っていない。しかし、せめて一太刀を受けてもらう」
「なぬ」
最後の気力を振り絞って王朱敏は足を前に向けた。たしかに走ったと自身では感じていた。しかしそれには余りにも鈍い足取りであった。彼は肩口に構えた剣を、夜洛隔に向かって振り降ろした。
「馬鹿な、この程度」
軽く夜洛隔は槍を振るった。金属が打ち合わされる鈍い音がして太刀と槍先が交わった。
「うっ…」
ほとんど力を無くしていた王朱敏の太刀は、強力の夜洛隔王によって易々と弾き飛ばされてしまった。太刀の握りは手より離れ、刃は王朱敏の眼前に落ちた。しかしもはや王朱敏はそれを拾うだけの力もなかった。
「うぐっ」
間髪入れずに夜洛隔の槍が王朱敏の胸を貫いていた。何も抗う術のなくなった王朱敏の傷は致命的なものとなった。槍先は深々と彼の胸を刺した。肋骨が砕かれ、傷口から赤い血が滴り落ちる。
何も言わずに彼は大地に崩れ落ちた。そしてそれがあれほどの勇将であった王朱敏の最後であったのである。王朱敏の歳は四十八であった。
「夏国の将、王朱敏をこの夜洛隔が討ち取った」
夜洛隔は勝ち名乗りをあげた。彼は党項の言葉でそれを言った。たどたどしい口調であったが、それはたちまち中軸の張浦と本陣の元昊の元に伝えられる。
「王朱敏が…」
元昊はその報せに愕然としたが、すぐに自分を取り戻すと後陣を前進させた。王朱敏の軍が全滅した以上、次に控えているのは張浦の軍であった。元昊軍はいつてもその後に続かなくてはならない。余計なことを考える余裕はない。いや、むしろこれを好機とすべきであった。王朱敏の捨身の攻撃で、夜洛隔本陣までの路は開かれた。あとはそれに続くばかりである。
「張浦の軍に加勢せよ。王朱敏の敵討だ。路はできた。夜洛隔の本陣を狙え」
王朱敏の後を受けて張浦軍が今度は敵本陣に突撃をかけていた。元昊はその加勢をして、一気に敵本陣まで詰め寄ろうとした。
しかし所詮無勢の悲しさであった。王朱敏が開いた血路はたちまち回鶻兵によって縮小され、戦線は整理されていく。張浦は敵の亀裂が閉じないように必死でその裂目に取りすがって突撃路を保っていた。
矍鑠たるこの老人の武勇は今だに健在であった。かつて継遷に
「その知勇で天下を動かすだけの地位につけてみたい」
とまで言われたこの名将は、後詰めのために突破口を開くべく僅かな敵の裂目に飛込み、死地とも言える場所に身を置いていた。
「爺を助けよ」
元昊軍は突撃を繰り返し、張浦軍の後にその位置を置いた。両側から押し寄せる兵士の壁に飲み込まれそうになる戦局を、張浦、元昊の両軍は奮戦によって支えていた。しかしそれも時間の問題と思えていた。
数度の激しい攻撃が元昊と張浦の両師団に打ち寄せる。僅か二個の軍団はようやくにしてそれを押し留めている。しかし、それももはやこれまでのように感じられた。次の攻撃が加えられれば陣は間違いなく壊滅する。
軍師張浦はここを最後の場所と見切った。彼は急いで馬を元昊の本陣に近寄らせた。もはや元昊の周囲には僅かな諸将しか残されていなかった。もうもうと上がる砂塵の中で、張浦はようやく元昊の姿をとらえると、その傍らに馬を寄せた。
「若殿、ここは私の軍で支えます。どうか夜洛隔本陣を目指してください」
張浦は自身の隊に伝達を下して防戦の指揮を取りながら、元昊の進むべき路を指差した。先程王朱敏の突撃によって開かれた突破口はまだ僅かに開いていた。今なら一度の突撃で打ちやぶれそうだと張浦は判断した。
「しかし」
「なにを躊躇していらっしゃいます。ここもそう長くは持ちませんぞ。夜洛隔の首級を上げ、王朱敏の無念を晴らしてください」
「だが、お前は」
「この老骨の命などたかが知れたものです。さあ、殿、御行きください」
「爺…お前、今…」
元昊は言葉を飲んだ。張浦は彼を殿と読んだ。それは張浦が元昊に対して初めて使う言葉であった。彼は元昊の傳役ではあったが、実際の主君は夏国王たる李徳明であった。だから張浦は王のことを大殿、元昊のことは若殿と呼んだ。しかしここで張浦は元昊のことを主君として呼んだ。継遷の正統たる後継者が元昊であるとの思いがそこにこめられていた。
「そうです。我らが殿よ。我らの心をどうぞ察してください。かつて我らが殿であった継遷殿の意志を御継ぎになられたのが元昊様、あなたです。継遷様の後継者らしく華々しく、信念に従ってください。本来ならば貴方がこの天下の主人。天下の主人はそれにふさわしい行動を取ってください。そして王朱敏の敵を、この戦いで散っていった者達の願いを果たしてください」
張浦は子供に言聞かせるように懇々と語った。元昊には言葉がなかった。全てを語ると張浦は元昊に背を向け、自身の兵団全てに聞こえるように号令をかけた。
「これから最後の突撃をかける。後詰めを通す路を開けるのだ。全員討ち死にを覚悟せよ。我らが党項の勇者には恐れるものはないぞ」
張浦は自身で号令をかけながら、亡き主君継遷のことを思い出していた。勇猛果敢な英雄は常にそうやって兵士たちの心を奮わせて、果敢に敵に突っ込んでいった。その継遷の一の将として、恥ずかしい死に様だけばできないと彼は思った。
「殿、天下の主人李元昊様、さらばでございます」
その言葉を最後にした張浦の姿は敵軍の中に消えた。張浦軍が決死で切り込むと同時にに敵の亀裂はその幅を大きくしていった。じりじりと敵の戦線が後退し、元昊の後詰めが通るだけの道幅ができる。
「爺、すまぬ…」
強い呵責を感じながらも、元昊は自身の勇気を奮い起こした。微かに目尻に熱いものが滲んだのが解った。しかし張浦の言葉に逆らうわけにはいかなかった。これが最後の好機というに相応しかった。敵兵の亀裂はまだ保たれていた。その先には目指すべき夜洛隔の本陣がある。
「行くぞ!目指すは夜洛隔の首だ!」
元昊は喉の奥からあらん限りの咆哮を発すると、一際強く馬に鞭を当てた。
元昊軍は張浦の切り開いた路を突き進んだ。突破口といえども寡兵でそこを突っ切るのはあまりにも難しい作戦であった。三百の兵は次々にその数を減らしていった。しかし元昊軍の速度に衰えはみられなかった。もはや夜洛隔の本陣は目の前にと迫っていた。
ふと、元昊の網膜に黒い馬に跨がった将の姿が映った。将の回りは騎兵が数騎のみ護衛について、その周囲は開けて大きな空白となっていた。王朱敏の突撃によって造られた空白であった。さしもの夜洛隔もまだ完全に戦線の整理を終えることはできなかった。
「あれだ、あれが夜洛隔だ」
元昊の周囲は僅か歩兵百余りに減り、元昊の護衛も既にままならぬ状況であった。しかしそれでもこの状況ならばなんとか勝ち目がありそうに思えた。
「かかれ!必ず夜洛隔の首を挙げよ」
元昊軍最後の精鋭は命懸けの攻撃を開始した。円状に開かれた敵の隙間に元昊軍は散開し、攻撃を開始した。雲のように連なる敵の海原に、ぽつんと浮かんだ島のような空間。王朱敏と張浦と多くの兵の犠牲によって成り立った最後の好機であった。
「急げ、敵に立ち直る時間を与えるな」
既に円の外周の敵軍は戦線を整理し、大将である夜洛隔の危機を救うべく進軍を開始していた。時間は僅かしか残されていなかった。ほんの数呼吸の間しか元昊軍に機会はなかった。
「夜洛隔よ、死んでいった部下たちの仇を雪いでやる」
元昊は歩兵三十騎を自分の周囲によせると夜洛隔目掛けて走り始めた。しかしこの回鶻の勇将は少しも動じなかった。馬上で彼は槍を翳し、それを幾度も突き出した。まるでこれは遊びとでもうように夜洛隔は元昊軍の兵士達をついた。たちまち五、六人がその場に倒れ、元昊軍は敵将に指一本触れることさえできなかった。
「夜洛隔、俺は夏国の将李元昊だ。俺の首を取って武名をあげてみよ」
捨身とばかりに元昊は叫んだ。夜洛隔は元昊の方に一瞥をくれた。そして彼はふと意外そうな表情をした。
「なんだ、李元昊は勇猛果敢な男と聞いていたが、まさかこの程度の小男とは思わなかったわ」
夜洛隔の口調は嘲笑うがごとくであった。元昊は身長僅かに五尺と少しであり、痩せた、とても勇将とは感じさせない外見であった。元昊は憤りと共に剣を構えた。夜洛隔はどうしても討ち果たさなくてはならなかった。
「そこまで俺を笑うならば馬から降りてかかってこい」
「笑わせるな」
元昊の挑発に夜洛隔は乗った。彼はひらりと馬から飛び降りた。地上に立つと夜洛隔は太刀を抜いて構えた。馬が無くとも彼は威厳のある将であった。
「ならば行くぞ」
夜洛隔は僅かな元昊の手勢に突っ込んできた。馬を降りてもやはり夜洛隔の強さは変わらなかった。たちまちのうちに数人を切り倒し、夜洛隔は元昊の前に躍り出た。大男と小男は何も挟まずに対峙した。元昊は長剣を体の正面で構えた。夜洛隔は鼻で括ったような言葉を発した。
「おろかな。その程度の体でこの儂に立ち向かうとは」
確かに、あまりにも二人の体格には差がありすぎた。夜洛隔が筋骨逞しい武将であるに対して、元昊はどう見ても文官風情の小男に過ぎない。
「言うか」
元昊は長剣を構えて夜洛隔に切り掛かった。元昊の剣の腕前はそれなりであった。ただ非力なのでその剣筋はどうしても技にたよりがちなものとなる。
「無駄よ」
夜洛隔は太刀を返すと刃の背で元昊の剣を受けとめた。痺れにも似た感覚が元昊の手に伝わった。
「お前の部下でも随一の…そうだな。あれは王朱敏と言うのであったな。奴でもこの儂の前に倒れた。お前風情が儂にかなうと思うな」
夜洛隔は気合いと共に太刀を振った。元昊は素早く剣を繰り出した。左肩の正面の所に振り降ろされた夜洛隔の剣を辛うじて受けとめることができた。
「うっ…王朱敏を笑うな…」
全身の力を剣に集め、元昊は歯を食いしばりながら夜洛隔の刃を受ける。
「すこしはやるな。だが、それだけだ!」
夜洛隔は眼を血走らせると全身の力を太刀に込めた。太刀で元昊の剣を弾き飛ばそうとして肩を埋からせ、刃全体を捻るようにして元昊の方に突き出した。
「うをっ、わぁ」
力任せの技で元昊の剣は弾き飛ばされて後方に落ちた。すかさず夜洛隔は元昊の足元を救う。
「ぐっ」
太刀は辛うじて元昊の足先をかすめるに留まったが、元昊は避けた弾みで地面に転がり、無防備な姿を夜洛隔の前に晒した。その不様な姿を見て、夜洛隔は呵呵とばかりに大声で大笑した。
「こうなればみじめなものよの、李元昊殿。さあ、いさぎよく首を打たれい。貴殿のあがきもここまでだ。まずはよくやったと誉めてさしあげようか」
夜洛隔はじりじりと元昊との間合いを詰めた。太刀の先を元昊の首筋にゆっくりと近付けていった。まるで猫が捕らえた獲物を弄ぶがごとくに夜洛隔はこの状況を楽しんでいるようであった。地面に転がったままで元昊は己れの弾き飛ばされた剣を見た。兵士の死体数体を挟んで、遥か向こうの大地にそれは突きささっていた。辺りには何も武器に成りそうなものはなかった。唯一は腰に下げた懐剣だが、それを抜こうとすればその前に夜洛隔が太刀を振り降ろすことは明白であった。元昊は全てを覚悟した。今度こそ本当におしまいだと、彼は自分の運命を悟った。
その時元昊の懐から転がり落ちた何かがあった。彼は無我夢中でそれを掴んだ。竹の節の感触が掴んだ掌の中に伝わってきた。
元昊は思わずそれを敵に向かって投げ付けていた。かつて祖父の継遷が吹いたはずの笛は、砂塵を舞い、風に流されて宙に浮かぶ。竹の節の中を、荒野を彷徨う風が吹き抜けた。そして一瞬、笛は鳴いた。確かにその旋律は戦場に響いていた。あの、継遷、元昊の二代が吹いた悲しみが辺りに響き渡る。
「うっ、なんだ」
僅かだか夜洛隔に隙が生まれていた。風に流されて竹の節は夜洛隔の顔を襲った。笛の音に気を取られていた彼は落ちてくる笛を躱すことができずにいた。
「つっ…」
竹の節が夜洛隔の両目を直撃し、彼はうめき声と共に顔を押さえる。
「うおう」
元昊は獣のような雄叫びを挙げると腰に最後まで残っていた懐剣を抜いて夜洛隔の懐に飛び込んだ。一尺以上も身長の差があるために、元昊は易々と敵の懐に飛び込むことができる。
「たぁっ」
短い、気合いの一声と共に元昊は懐剣に力を込めた。鋭い剣先は夜洛隔王の喉笛を突いた。ごぼっと空気が漏れる呼吸音がして、夜洛隔がこちらを睨んだのが解った。
「ぐ…ぐおう…」
悲鳴、雄叫びともつかない風の音が夜洛隔の喉から漏れていた。本当にそれが夜洛隔の声であったのかさえも分からない。それはもしかしたら、風に浮かんだあの笛の旋律であったのかもしれない。
元昊は剣を構えたまま身を退いた。それと同時にゆっくりと夜洛隔の体は崩れていった。
「回鶻の王、夜洛隔を夏の王子李元昊が討ち取った!」
元昊は夜洛隔の首を落とすとそれを小脇に抱え、回鶻兵に聞こえるように全身の力を込めた大号令を発した。小男ながらも元昊の声はよく響いた。それは周囲に次々と波紋を呼び、回鶻兵の混乱を招いた。彼らは主君の仇討ちをする余裕もなく、軍を退き始めた。脇目も振らない遁走とはこのようなことであった。
恐惶に陥り、退路に着く回鶻軍を元昊はぼんやりと虚ろな目で眺めた。彼はがくりと膝をついた。戦には勝つことができた。そして彼は独り残されていた。あまりにも悲しい勝利であった。
「ふは、ふはは」
狂ったような笑いが彼の口から漏れた。両手をついて四つんばいになり、彼はひたすら笑った。勝ったという喜びではなかった。自嘲というにはあまりも下卑た笑いであった。
退却していく回鶻兵が去ると、元昊は独り死体の山にとり残されていた。共に戦った兵は全て死に絶えてしまった。こうしてこの荒野で自分だけが生きているのが不思議であった。
張り詰めていた緊張が全て解けて、彼はゆっくりとその身体を地面に横たえた。敵、味方とも折り重なって倒れた屍の間に、それとは変わらないほどに傷ついた姿で彼は倒れた。遠くで馬蹄の音が聞こえていた。砂と硬い土の交じりあった大地から響くその音を子守歌のようにして、今は疲れた身体を休めるべく、元昊は深い眠りを貪った。
長い間地面に横たわっていた元昊が意識を取り戻したのはもう夜半を過ぎていた。昼間の怒涛の戦いが嘘のように辺りは静まり返り、抜けるように広がった漆黒の空にだ煌々と月のみが照っていた。
彼は起き上がると辺りを見回した。ただ死体、死体がどこまでも続く戦いの音の光景であった。そこでは全ての者が死に絶えていた。そしてその死に絶えたものこそが、昼間の戦いの証であった。
元昊は足を引きずるようにして夜洛隔との激闘の場に足を向けた。そこには敵将死体と共に笛が残されていた。この戦を勝利に導き、自分の命を救ってくれた笛であった。
「終わったな…全ては」
激しい戦いは全て終わりを告げていた。後はまた、別の戦いが彼を待つのであろうが、今は一つの静けさがそこにあった。戦いが一つ終わっていた。元昊はよろめきながら地面に屈み、屍の傍らに残された笛を拾った。笛は少しも損なわれていなかった。それはこの連綿と続く歴史を示した形見の一つに相違なかった。
「終わったのだ…せめて今は…」
哀しげにつぶやくと彼は笛を口に当てた。美しい寂しい旋律が死体の広がる高原に響き渡った。彼は独り泣いた。曲が進むつれて彼の目からは勢い良く涙が滴り始めた。
鎮魂の意味を込めて元昊は笛を独り吹いた。そうして彼はどこまでもその場に立ち尽くしていた。月が傾き、空が白むまでその場には悲しい笛の調べが風に舞い、砂を巻き上げていた。
(続く)終章へ