その1 やってきたアノ女
「あ…あつい…」
真昼の西日が見事に照りつける一室で、ハーフ・エルフの女が、汗だくの半袖シャツを滲ま
せながら、気怠そうに呟いてゴロンと寝返りをうった。ギシリと貧乏くさい粗末なベットが揺れ
る。
「うるせぇ…オレだって暑いんだ…」
ベッドの下の床にムシロを敷いて、ほとんど死人のように仰向けになっていた若いヤサ男が
形ばかりの反論をする。しかしそれは灼熱の太陽に遮られ、まるでサウナのようになった部屋
の中で虚しく声が響いていく。
「ヤードじいさん…何か金目のものあるかい…?」
ハーフ・エルフの女はやっとのことで体をベッドの上に起こすと、ムシロの上でくたばっている
ヤサ男の方を向いてそう呼んだ。彼は若い男だったが、なぜだか彼女は男に「じいさん」という
言葉ををつけた。
「無い…全然ねぇ…とっておきの一張羅まで質屋行きだ…」
男の着ているツギハギだらけのランニングシャツが暑苦しい汗にきらめく。
「あたしらのなまくら剣じゃあ金にならないかな?」
「そりゃ、ダメだろう…」
部屋の端、テーブルの上に置かれている二振りの剣は、刃はこぼれ、刀身は曲がった、どう
しようもない代物だった。しかし、どうしようもないこの二つの剣が、彼ら冒険者と呼ばれる連中
の商売道具なのである。
ミリア・カジネットはハーフ・エルフの剣士だった。生来の馬鹿力を利用した彼女の戦士として
の腕前は抜群だった。しかし、同時に馬鹿の中身も抜群だった。
彼女の生活に、計画性というものは皆無に等しかった。加えて酒好きという頭の悪い性格
が、また生活を貧窮に追い込んでいた。毎晩馬鹿のようにツケで酒を飲みまくり、当然払える
わけもなくて、ただ借金を積み重ねる毎日を続けていた。部屋の殺風景さは、金目のものを片
端から質屋に放りこんだ結果なのである。
また、この貧乏ぶりを加速させたのが、同居人である「ヤードじいさん」の存在であった。当年
とって二十九歳の彼は、一流の魔法剣士であったが、同時にミリアの祖父でもあった。いや、
嘘ではない。さわやかな笑顔が特徴のこのヤサ男剣士は、今から百五十年前にあまりの悪業
三昧が高じて封印されてしまったのであった。
その封印がつい先だってようやく解けた彼は、いわゆる浦島太郎状態であった。封印が解け
て、自由の身になったものの、彼に行き場があるわけはなかった。さすがに百五十年も経つと
知り合いもほとんど死んでいる。金もなく、行き場もないので仕方がなく直系の孫であるミリア
のところへと転がり込んでいるのであった。こんな時、年を取らないエルフという奴は便利であ
る。
もちろんこの男、ミリアと同じくらいに酒好きで、計画性も何もなかった。その結果として、1+
1=2という公式より確かな、馬鹿の二乗の方程式ぶりを発揮した。つまり、二人でさんざん毎
日の宴会騒ぎを繰り広げたのである。馬鹿にターボが装着された乱稚気騒ぎを連日行なった
結果、もともと無い金がいっそう尽きてしまった。そして現在、金も無く仕事もなく、どうしようも
なく、夏のクソ暑い最中をミリアの下宿部屋でゴロゴロしているのである。
「うう…こんなに暑いと本当に日乾しだね…じいさん…」
「なんだ…?」
「太陽破壊して…」
無茶な注文をつけると、汗だらけのシャツの首の部分をパタパタやって、死にかけの魚のよ
うにミリアはぜいぜいと息を継いだ。部屋の気温は四十度を軽く突破している。フテ寝をしよう
にも眠れた気温ではない。
食料も何にもないので、せめてゴミ箱あさりでもと思うところだが、連日の暑さで生ゴミも完全
に腐りきっていて、とても拾い食いができる状況でもないのである。
「あーあ、こんなこったら、暑くなる前にとっとと北の方へ冒険に出ておけばよかったよ。そうす
りゃ、何か財宝でも手に入ったかもしれないのに」
「悔やんでも仕方ねぇ…とりあえず…今をなんとかしねぇと…」
建設的な意見をヤードは言ったが、それでも照りつける日光と高くなる温度のダブル・パンチ
で、いい加減に頭がぼんやりしはじめているのが判ってきた。というより、それを理解するのが
精一杯だった。ヤード・カジネットといえば、世間では名の知れた、攻守に長じた魔法剣士であ
り、知識にも通じた賢者と云われていたが、残念だが常識と金銭感覚だけは悲しいくらいに欠
落している。
「暑いんだよ…なんとかしてよ…じいさん…魔法とかで…」
「無茶いうな…オレの魔法は自然現象に関係したもんじゃねぇ…」
ミリアはただの軽戦士なので魔法には全然知識がない。しかしだからといってヤードが魔法
で涼しくしたりができるわけではない。呪文で暑くしたり涼しくしたりできるのは、地水火風の四
大元素を媒介とした精霊魔法を使うことができる魔術師のみである。
「くそっ…、こんなことだったら、涼しくするために水の精霊でも扱えるようにしておけばよかった
かなぁ」
ミリアはいまさらのように呟くと、何もぶらさがっていない貧乏臭い天井を見上げた。以前ここ
にぶらさがっていた燭台立ても売ってしまった。下宿している宿屋の備品でもおかまいなしであ
る。
「あれ、なんか涼しくなってきてないか」
ごろりとヤードが寝返りをうって、不思議そうに目をぱちくりと瞬かせた。それはたしかにおか
しな現象だった。殺風景で暑苦しいだけの部屋のドア。廊下の方から冷たい風がじわりと漏れ
出ている。
ゴンゴン。
不意に入り口のドアがノックされた。ギョッとしてミリアはベットからハネ起きると、立て付けの
悪いガタピシ云う廊下側のドアを凝視した。こいつはマズイと何か直感が背筋を走った。
「なんだい、家賃なら無いよぅ」
こんな時に来る客は大家以外の何者でもないとの予想と共にミリアは返事を返した。寒気が
するのはきっと嫌な予感がするからに違いない。嫌な予感とは家賃の請求以外の何者でもな
かった。もちろん払う金など全然ない。
「誰が家賃の取り立てなのよ」
キッと、きつい女の声が扉の向こう側からする。
「ん?大家じゃないのか?」
「とりあえず、ここを開けなさい」
「おい、そんなことを言って、開けた瞬間に大家と一緒になって入って来るんじゃないだろうね」
「何言ってるのよ」
ドアの向こうで女の声が多少気色ばんだ。
「最近、大家の奴も手口を色々やってくるからねぇ。油断は禁物なのさ」
ミリアの住む無謀と貧乏亭は、月々の家賃が僅か金貨六枚である。一月の食費が金貨二十
枚程度の世界で六枚だから、いかに格安かは知れたもんである。しかしそんな所の家賃を三
年くらいは滞納していた。こうなると大家も、追い出すよりは少しでも回収したいから、様々な手
口を使ってくるようになる。差し押えや私物没収ならまだいいほうだ。泣き落としや皿洗いの手
伝い、屋根の修繕や詰まった便所の掃除など、色々な方法で家賃を回収しようとするのであ
る。
「おい、ミリア。何言ってんだ。声は女だぜ。しかもかなりの美人と思える」
ヤードが汗でグシャグシャになったランニングシャツで起き上がり、扉の傍まで近付いてい
た。今まで暑さにヘバっていた顔に、いかにもスケベそうに口の端を上げた笑いが浮かんでい
る。
「それがどうしたのさ?」
「美人なら、開けてあげないとな。君の心をオープンハートって奴だ」
意味不明なことをぬかしてヤードはノブに手を延ばすと、その下に付けられていた掛け金式
の鍵を外した。さすがに百五十年前の世界でスケベ魔神と異名をとった男である。ミリアを押し
退けで美人の声に突進し、ノブを掴んだヤードだったが、ふと、手にビリッとした感覚が伝わっ
てきた。
「寒っ」
なんと、真夏なのに部屋のドアは凍り付いていた。流れていた汗が一瞬にして氷に変わる。
手がドアノブにくっついて離れなくなってしまう。
そして鍵を外した瞬間、物凄い勢いでドアが開いた。そして廊下からは涼しい、というよりも寒
いほどの冷気が部屋の中に流れこんできた。
「わっ、なんだ、こりゃ」
「相変わらず、ムチャクチャな場所に住んでいるわね」
ゆっくりと、どこか嘲るような口調の女の声がした。入り口を遮るように、一人の女が立ってい
た。長く尖った耳は、森の種族であるエルフの印である。冷たく釣り上がった目と、長い耳は、
彼女がミリアと違って「純潔種」であることを証明している。
「ありゃ、かーちゃんじゃないか」
緊張して損したという風にミリアは言った。全体的にエルフという種族では老化が極端に遅
く、人間よりも遥かに長い寿命を持つ。元来が少産の系統なので、若い期間が長い種族なの
である。目の前の女性はまだ若い美人だが、娘が百五十を越えているのだから、どう考えても
やっぱりババアである。しかし、ここに母親がやって来るのはちょっと予想外だったが。大家で
ない分だけマシではある。
「なんだじゃないでしょうが。たまに訪ねてみればこの生活とはね。あんた、自分からは決して
帰ってこようとしないし」
「しょうがないじゃないか。帰りたくても、ほとぼりがさめるまで帰れなかったんだからさぁ」
「ああ、もういいのよ。あなたが氏族伝来の壷、盗んで売り飛ばしたせいで、炎族のエルフは滅
亡しちゃったから。誰ももうミリアを殺したいなんて思ってないわ」
エルフ族は集落単位で生活し、森のなかに小さな村を作って生活している。彼らはそれぞれ
が氏族として分類され、その氏族には、古来から伝わる宝器が祀られている。ミリアは混血の
エルフなので父親が人間だ。母親は見たとおりのエルフである。
事件は今から百年前に起こった。普段は町に住んでいたミリア一家は、この母親について里
帰りをしたのである。そこで眼にとまったのが、炎族のエルフが宝としている炎の壷だった。
その時、すでに破綻した生活を送っていたミリアは、こともあろうに炎族エルフの宝を盗んで
売り飛ばしたのである。もちろん、その金を持ってミリアが高飛びをかましたことき言うまでもな
い。おかげで、ほとぼりがさめるまで実家には戻れなかったのである。
「ありゃ、かーちゃんの実家、滅亡しちゃったのか」
自分のせいなのにいけしゃあしゃあというこの根性。さすがである。
「ま、それはいいわ。だいたいあの部族の長老は気に入らなかったのよ。エルフなんてダサい
掟に縛られるバカが多かったし」
この母親もこの母親である。見れば水を魔法で固めた絹糸のローブを薄く羽織り、長いスカ
ートの隙間から精一杯足を露出させたスタイルは、ちょっとSM女王さまチックな印象を与えて
しまう。
「ありゃ、ひょっとして君はサリナ・ル・ラじゃないのか?」
その時、ようやくヤードが事の次第を理解したように口を挿んだ。顔には下心丸出しの笑み
が浮かんでいる。まったく、どうしようもないスケベである。
サリナ・ル・ラがミリアの母親の名前であった。純潔のエルフには名前にプラスして、一音節
二つからなる精霊名を持つ。たいていのエルフは精霊と契約している。後の短い部分の名前
が、魔術師としての別名と思えばいいだろう。
ヤードの長男がヘンリー、その嫁がサリナ・ル・ラであったことは、さすがに現代に甦ったば
かりのアホタレな脳味噌でも記憶していた。性格的に女垂らしのヤードは、美人のことなら覚え
ているのである。
「そうだけれど…何、ミリア。この抜けた顔の優男は?」
「話すと長くて面倒だから、顔見て思い出してよ」
うっとおしそうにミリアは手で顔を隠す素振りをした。当たり前だ。百五十年前に行方不明に
なったヤードが、現代に甦ったなど、面倒臭くて説明できない。いや、説明する頭が無いという
話もあるのだが。
「ふっ、何を言うんだ美しいレディー。本当にこの顔が思い出せないのか。ああ、なんたる不幸
だ。この悲しみを紛らわすのには、もはや君への愛を語りながら毒薬を飲むしかない…」
急にヤードはキリリとした顔になると、サリナの肩に手をかけながら、どこの世界の口説き文
句か分からない言葉を並べ始めた。本当に、女に対しては見境が無い男である。そして自身
が上はランニングシャツ、下がトランクスという服装さえもわきまえない男であった。
「んん…なんか、その嫌らしい口調に思い出があるわ」
綺麗な顔を歪めてサリナはヤードを見つめた。さすがにそれが自分の旦那の親父であるな
どと想像はできなかったが、かつて口説かれた時の嫌な記憶を彼女は動物的に思い出してい
た。
「思い出してくれたかい、マイレディー。君があの粗暴なヘンリーと結婚なんかしてしまった時、
この身は額を斧でカチ割られ、無意識の荒野にたたずんでいたのさ。だから君を掠えに行けな
かった…」
百五十年前、ヤードは自分の息子のヘンリーと、一人のエルフ女性を争って戦った。そして
ヤードは見事に負けて、息子に女をカッ掠われたのである。息子と女を争うあたり、この男の
性格がどうしようもないことが分かる。心ある人々によって、つい最近まで封印されていたのも
うなずける。
「……思い出せないわ…っ、ていうか、あんたみたいな男はうっとおしいの!ミリア、何こいつ
は。あんた、こんな変な奴と同棲してるの。こんなのと結婚すると言っても、お母さんは許しませ
んよ!」
「何の話だ!」
あまりの話の飛躍っぷりにミリアは大口を開けて絶叫した。まったく、どうしようもない勘違い
である。確かに、母親としては娘が見知らぬ男と同棲していたらそうは思うであろう。ただ一番
の間違いは、その男が自身の旦那の父親であることを思い出せないことにある。まあ、普通は
思い出さないだろうが。
「誰がこんな色ボケ野郎と結婚なんかするもんか!ていうか、出来ん」
その関係が祖父と孫娘なら当然である。
「じゃあ、好きにしていいかしら」
サリナは娘の方を見ると一つウインクをした。うっすらと唇に冷たい微笑が宿る。
「別に」
ヤードじいさんなんか別段どうでもいい。コンビを組んではいるが、所詮その程度の関係であ
る。
(ありゃ、やる気だね)
心中でミリアは小さく呟く。サリナは自身の左手を広げると、何やらブツブツ呪文を唱え始め
た。その手のひらには、水の精霊の呪文印が刻み込まれている。
「偉大な水の精霊に告ぐ。水よ!空気中の水よ!氷となり、四角く固まれ!フリージング・キュ
ーブ!」
キラリとサリナの左手に彫り込まれた精霊の呪文印が輝く。大水火風光闇の六つの精霊を
基本とするこの魔術は、六つのうちのどれか一つを呪文印として刻まなければならない。一人
が刻める呪文印は一つだけであり、刻んだ印の精霊を術者は自身の属性として持つ。術者は
刻んだ属性の魔法を極めることができるが、その代わりに、相反する精霊の魔法に対しては
対抗することができなくなる。たとえば風を使う魔術師は土を使う魔術師に対抗できなくなり、
その逆もまた真実なのであった。
「何を言うんだレディー。そんなに冷たくしなくても、このハートの内では熱い炎が燃えているん
だぜ」
何が起こったのかが能く分からずに、ヤードは口説き文句を並べ立てる。本当のバカであ
る。平静な時は、歴史の上でも一、二を争う頭脳を持っているのだが、残念ながらそこに女が
絡むとただのバカになってしまう。
「冷たいのはあんたの体よ」
サリナは厳しく言い捨てた。そんな事を言っている間に、ヤードの体は足首の方からバリバリ
と氷付けになってくる。
「おや?本当だ。何か足先から冷たくなってきたね。でも心配ないっ…て、ちょっと冷たいな…」
「さようなら、おバカな人」
そう言っている間に、ヤードは全身が氷付けに成ってくる。しかし相変わらずさわやかな笑み
を浮かべたままである。
「いや、まぃったねぇ、なんて冷たいレディー。あっはっはっ…はぁ…はっあ…」
そして哀れなヤードは、右手を頭の後にやり、満面の笑みを浮かべたさわやかスタイルで、
四角い氷の中に閉じこめられてしまった。笑いもさわやかに、彼は氷の中に永久保存される。
水の魔法の上位呪文フリージング・キューブ。それは四角い氷の中に、対象物を封じ込める水
の究極呪文の一つである。そして気が付けば、そこには四角い氷の中で、さわやかな笑いを
浮かべているバカ一名の氷柱が出来上がっていた。
「相変わらず、すげぇ腕だね、かーちゃん」
感心した声でミリアが言う。こいつは基本のタイプが軽戦士なので魔法は使えない。その点
は、馬鹿力の戦士であった父親に似た娘である。
「どうでもいいお世辞はいいわ。で、ミリア。肝腎の用件なんだけれど」
「なんなの」
「あんた、実家に帰りなさい」
「なっ?」
ミリアの実家は、今居るファウド大陸から海原を越えた所にあるカンドレーン王国にある。現
在住んでいる湊町ガダルから船で一週間。そしてドルチヒという湊町で小舟に乗り換えて溯る
こと三日。要するにとても遠い田舎に実家はあるのである。
「いまさらなんで?」
「あのね…ヘンリーが…お父さんが危ないのよ…それで、せめてミリアに一目会いたいって…」
「ありゃ、とーちゃんがまだ生きていたのかっ!」
さすがのミリアも絶叫した。母親がエルフということは、父親は人間である。人間とエルフの混
血だから、ハーフエルフになってしまうのだ。そして人間の寿命が短い分だけ混血エルフの寿
命は短くなる。どのつまり、人間の寿命は短い。
「とーちゃん、幾つだったっけ?」
「いい加減に百七十近いわ。まあ、人間にしたらよく生きた方よ」
「普通そんなに生きないよ」
「人間でも、根性があったら死なないってのがあの人の哲学だったから」
本当にそういうもので済むのだろうか。ミリアの父のヘンリーは、かつて世界でも屈指と言わ
れた大力無双の戦士で、頑健たる体格と絶倫で識られていた。まあ、そんな人間だからこそ、
エルフなんて種族を嫁にしようとしたわけである。そしてそれに横槍を入れたのが、ただ今氷
柱となって固まっているヤードで、アホな親子は数日に渡って凄まじい戦いを繰り広げたとい
う。
そんな父親が危ないという。さすがに父親のことなのでミリアもちょっとは聞く耳を持った。
「で何?とーちゃんの遺産でもあたしにくれるっての?それなら嬉しいんだけれど」
しかし、聞く耳があっても親孝行とはまた別である。
「馬鹿なこと言わないの。お父さん、あなたに会って頼みたいことがあるって」
さすがにサリナは母親である。一瞥しただけでミリアの馬鹿な発言を封じる。
「ふーん、そうなんだ。でも、そこに行くまでとーちゃん持つの?」
「そう、だから急がないと。あとちょっとしか持たないかもしれないから。じゃああんた、おとなしく
来るってわけね」
「まあ…とーちゃんには可愛がってもらったから」
さすがにそれ位の常識は残っているようである。さすがにこんなバカでも、親が危ないならば
見舞いにくらいは行くようだ。それにサリナに逆らったら何をされるか分からない。サリナ・ル・
ラといえば、精霊魔術を極めた数少ない魔術師の一人である。逆らって酷い目には遭いたくな
い。そして、夏なのに氷付けになっているバカも約一名…
「じゃあ、さっそく出掛けるわよ」
慌ただしい口調でサリナは畳み掛けた。しかし不思議である。自分の旦那が死にかかってい
るというのに、悲しみの気持ちが言葉に少しも感じられない。これはどういうこしとなのか。
「え?今すぐでかけるの?」
「なんか用事でもあるの」
「いや…この氷付けのバカはどうするのさ」 満面に爽やかな笑みを浮かべ、片手を頭の後に
やって、「いやぁ、まいったね」とでも言いたそうにしている下着姿のヤードが氷詰めになって部
屋の中央に鎮座している。
「ああ、こんなの、二日もあれば溶けて元に戻るから。それより、行くのね。なら、フライング・カ
ーペットを呼ぶわよ」
サリナは懐から一本の小さなロッドを取り出した。長さ三十センチ程度の木の棒の先に、小さ
な幾何学文様が彫り込まれたロッドである。
「やってこいこい、カーペット」
さっとロッドを振り降ろすと、とたんに風が辺りを舞った。気が付くと窓の外に、一枚の絨毯が
フワフワと浮かんでいた。魔法の力で空を飛ぶカーペット。大きさは三畳ほどだが、人や物を
乗せても十分飛ぶことのできる貴重な品物である。
「これならすぐに着くわ。海もひとっ飛びよ」
そう言いながら、さっとサリナは窓枠を華麗に飛び越し、絨毯の上に腰を落ち着ける。重さで
僅かに絨毯が揺れる。
「か、かーちゃん…これって…確か…」
ミリアは絶句した。もちろん、こんな品物がそうそう世間に転がっているわけではない。世間
に数える程度しか、空飛ぶ絨毯は存在しないのだ。
「そう、カンドレーン王国の至宝のカーペット。よく知っているわね」
「そりゃあ、昔こいつを盗もうとして失敗した…おっと…で、なんでこれを持っているのさ」
ファウド大陸から海を越えていくと、高原大地の魔法王国カンドレーンに辿り着く。森と魔法の
小さな王国だが、王家には代々の魔法の宝器が数多く伝えられていた。その宝の一つに、こ
の空飛ぶ絨毯があった。ミリアは若いころ、これを盗もうとして、王家が仕掛けた罠に引っ掛か
り、ほうほうのていで逃げ出した記憶がある。それでよく覚えているのだ。
「ああ、王様がわたしにくれたのよ」
「くれた?そんな馬鹿な。あのケチの中年魔法使いがこんなものくれるわけ…さてはかーちゃ
ん、何かしたな」
「あら、ご明察。まあ、それはいいから、さっさと乗って頂戴」
「何したんだ…」
かなりの疑惑を覚えながらミリアは窓枠に足をかけると空飛ぶ絨毯の上に足を置いた。僅か
に沈む感触がするが、しっかりした乗り心地である。
「なら、出発するわ」
サリナが再度ロッドを一振りすると、とたんに絨毯は矢のように駆け出した。絨毯の先端が僅
かに捲り上がり、搭乗者への風の抵抗をカットする。かなり快適な乗り心地だ。スピードを出し
ているが、風圧で苦しいということもない。
「まあ、何というのかしらね。ミリア、女には色気が大事ってことよ。あんたもわたしを見習いな
さいな」
ごろんと女王さまのように絨毯の上に横になり、肘をついて頭を支えながら、さも楽しそうに
サリナは呟いた。その横で胡坐をかいていたミリアは思わず口をあんぐり開ける。(なるほど、
色仕掛けか…自分の年を考えろって…)
しかしそんな事を口に出すわけにはいかない。言ったら言ったで酷い目に遭うことはわかって
いる。ヤードが瞬間で氷詰めにされた通りで、魔術的には恐ろしい実力を持つ女なのである。
これは口を噤んだ方が得策だと思いながら、空飛ぶ絨毯に乗って、貧乏バカの女戦士ミリア
は、父親の見舞いに行くために実家へと向かったのである。
(続く)その2 出会ったのはアノ男
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