はじまり


 この場所は戦乱と荒野の大陸アルゲンツィ。その西海岸の街道を、そいつは千鳥足で歩い
ていた。金はとうの昔に使い果し、わずかの水だけで飢えを凌ぎ、彼はひたすら南を目指して
進んでいた。
「くそっ…オイラとしたことが戦力の計算を誤るとは…」
 そこにいたのは紅蓮のマントをまとい、半袖と半ズボンを着た少年だった。右腕に火の精霊
の印が書き込まれている所を見ると、どうやら精霊使いのように思われる。火の精霊サラマン
ダーの紋章の刺青は、精霊と契約を交わした魔術師にのみ与えられる特殊なものだ。
 少年はヨロヨロとよろめきながら、突っ伏そうとする体を必死でささえていた。杖となるのは両
手握りの大きなスタッフであった。魔術師が魔法をかける時に使う特殊な杖で、ヘッドの部分に
魔力を媒介する石が埋め込んである。
「ちくしょう…こんなスタッフなんか売っちまえばよかった…そうすりゃカツドンが三杯くらいは喰
えたのに…」
 おかしな計算をすると彼はふらふらと腰を降ろした。幼く可愛らしい顔に、一度に強い疲労の
色が浮かんだ。
 男のことを若いと述べたが、実際そうして見るともっと外見は若く見えていた。ひょっすればま
だ十五歳にも届いてないかもと思わせる幼さが顔にあった。しかし、その推察を見事に打ち崩
してくれるのは、男の耳が尖って上に伸びているという、人間とは明らかに違う特徴を備えてい
るからであった。パッチリと大きく開かれた猫眼も、どこか普通の人間と違う様相を見せていた
が、肩まで伸びた髪は男のくせにどこか変な涼しさを思わせるスタイルだった。別にオカマっぽ
いわけではなく、とにかく少年少年していたのである。彼はハーフ・エルフとしての特徴をほとん
ど完全に表していた。
 ハーフ・エルフは森の民エルフと人間との混血種族である。人間よりずっと長い寿命を持ち、
優れた天性の才覚を所持するこの種族は、精霊を操る魔術師に適している。
 彼、ワイド・カジネットもそうした魔術師の一人だった。火の精霊サラマンダーとの契約を交わ
し、あらゆる火の魔術を彼は身につけていた。魔術を覚えるのには長大な時間と知識の探求
時間が必要となる。平均寿命が五百歳を越えるハーフ・エルフは、そのような知識の探求にピ
ッタリである。老化の遅い種族ゆえに、実際の所、この少年の年令は外見から推し量れない。
「あーあ、エオスの街にはまだ着けないよなぁ〜」
 情けなく呟くと、彼は荒野の真ん中にヘタりこんで、手持ち無沙汰のスタッフでゴンゴンと地面
をたたいた。金は全部使い果した。金目のものはほとんど質屋に突っ込み、辛うじて魔法をか
けるためのスタッフだけ遺されている。しかし、こんなもの無くても魔法はかけられるのだから、
早めにこれを手放しておけばひょっとして飢えるというハメにはならなかったかもしれない。目
的地であるエオスの街まではまだ三日もあるというのに、もはや彼の腹具合はいかんともしが
たいものがあった。要するに腹が減ってどうにもならんのである。
 ことの始まりは四日前だった。ワイドは戦争に敗けたのである。いや、嘘ではない。
 アルゲンツィ大陸は幾多ものポリスが割拠する戦国群雄割拠の時代を迎えていた。数十も
の都市が、実力者に支配されたり、独自の独立都市として機能したりする、争いの絶えない大
陸だったのである。
 この戦乱の大陸に、ワイドは名乗りをあげた。そう、たった一人で。しかも「いちばんデカイ勢
力を潰した方が戦利品もデカイ」という何か間違った考えで、大陸最強と言われるトクス市のバ
イオス将軍に喧嘩を売ったのである。
 激戦一日。さすがは名将の名が高いバイオス将軍であった。ワイドは最強の魔法で戦った
が、結局城の半分を破壊した所で魔力が尽き、彼はほうほうのていで逃げ出したのである。そ
して、彼はあっさりとお尋ねものの身になっていた。おかげでバイオス領では食料も水もカツア
ゲもできず、こうしてヘロヘロになって南へと脱出している真っ最中なのである。
「ぐぉ〜腹へった…」
 プライドも無く彼はスタッフの先端に着いている石をガリガリとかじりはじめた。生きものとして
かなり低級な行為である。
「うお〜、丸焼き肉ぅ〜」
 スタッフの赤い石が焼肉に思えるらしく彼は必死になって石に歯を立てる。しかし、もちろん
石が噛り取れるわけがない。歯が削れる音が耳障りに響くだけである。
「硬い…なんで冷凍肉なんだろう…」
 もはやほとんど正気を無くしたワイドは、目の前の赤い石を冷凍された肉の固まりと思ってガ
ジガジとやっていた。とても親兄弟に見せられた姿ではない。
 さて、彼がそんなことをやっていると、不意に上空から近付く一つの影があった。間違いでは
ない。たしかに空からそれは近付いてきたのである。
 それは女性の人影だった。何やら一枚の絨毯のような布が空にふわりと浮いていて、その上
に立って、彼女はゆっくりと天から降下してくる。いわゆるマジックアイテムのフライング・カーペ
ットという奴だ。当然ながらワイドはそれに気が付いていない。
 三畳程度の大きさのカーペットは、ワイドの前にそっと降りた。そして彼女はワイドの前に進
み出た。長い耳に、鋭く切れ上がった大きな吊り目が印象的だった。僅かに波打つブロンドの
髪が美しい。それだけでも十分に人目を引く姿である。
 しかし、それよりもっと眼につくのは、ハーフ・エルフのワイド以上に長く伸びた、まるで獣のよ
うな大きな耳であった。百パーセントの純潔のエルフの姿である。
「相変わらず馬鹿やっているわね、ワイド」 
 彼女は不意に彼の名前を読んだ。大きな目の端が苦々しそうに震えると、まるで汚いもので
も見るように、目の前でスタッフにかじりついているワイドを一瞥する。
「ん?いま、だれかオイラの名前を呼んだか?」
 突然自分の名前を呼ばれて、ワイドは瞬時に自分を取り戻した。
「あれ、あれ?ん?ありゃ!」
 頭の悪い子供のように彼は左右をキョロキョロ見回して、ようやく最後に正面を見上げた。デ
ンと彼の前に立っていたのは、割りと美人だが、ちょっと歳がいっているように思えるエルフ属
の女性だった。長いスカートを足の甲近くまで下げさせ、女性用の薄い革の胸当てを彼女は装
備している。細くしなやかな右手の甲には、ワイドと同じサラマンダーの紋章がある。
「おや、これは美しいおねいさん。このオイラ…じゃなくて、わたしワイドに何のご用でしょう
か?」
 慌ててワイドは立ち上がった。ムリに格好をつけて斜めに構え、口元をわずかにほころばせ
た。キラリと白い歯が日光にきらめいた。スタッフをかじったせいでちょっと欠けているのがご
愛敬であったが。
「お前…ねぇ?わたしの顔を忘れたのかい?」
 ちょっとだけドスの利いた声が女の口から発せられた。決して若くはない声だった。エルフ属
の老化速度は人間の数十分の一の遅さである。外見が美しく見えても、本当は何歳かわかっ
たものではない。もちろん、それは人間でも同じなのだが。
「ん?はて〜思い出せませんなぁ。しかし、こんな美しい人がオイラに話し掛けてくるということ
は、きっとオイラに何か頼みごとがあるということですね」
 もはやキザぶりっこの三枚目も真っ青の支離滅裂さでワイドはジリと女との間を詰めた。途
端、女の手が一閃した。鋭い拳の一撃がワイドのみぞおちに突きささった。
「おうっと」
 素早くスタッフが動き、女の繰り出した拳を杖が弾いた。
「不意打ちとは、卑怯じゃねーか」
 今までのトボけた口調を投げ捨てて、ワイドがペロリと赤い舌を出した。相手の殺気は感じ取
っていた。ワイドは魔術師だけでなく、護身のための戦闘技術も多少だが身につけている。こ
こではそれが役立った。
「相変わらず飄々としているわね」
 女は攻撃が外れたことを知ると、素早く後に飛んで間合いを広げた。二人の合間は五メート
ル程度に広がり、瞬殺の間合いを辛うじて脱出する。二人は同時に息を継いでいた。勝負はも
はや一瞬では決定しない。その間合いを計りながら距離が保たれる。
「オイラが豹だろうがライオンだろうがどうでもいい。オイラがワイド・カジネットと知っての攻撃
かい?だとしたら、そいつは命取りだぜ。オイラのサラマンダーが、あんたを丸焼きにしちゃう
よ」
 ワイドは印の彫られた右手を前に突き出した。顔をわずかにしかめて気合いを入れ、召喚の
呪文を一言、二言呟く。たちまち彼の右腕は紅蓮の炎に包まれた。
 精霊魔術。それは四大元素を司る精霊を体の各部位に憑依させることで、その元素の持つ
流儀を使うことができるようになる魔術である。しかし、一人の人間は一つの精霊しか支配でき
ない。体に彫られた印が、支配する精霊の証だった。ワイドが操るのは炎のモード。火トカゲの
サラマンダーを支配下に置いている。
「お前…ねぇ…」
 女はほう、とため息をついた。そして、今度は頭の悪いものを哀れむような目付きで、精霊を
召喚したワイドを見やった。
「本当に、私が誰かわからないの?」
「エルフのねーちゃんじゃないのか?」
「何を当たり前のことを…」
 頭の悪い答えに、女は唇をわななかせると、自身の右手をワイドの前に突き出した。手の甲
には炎の紋章が刻まれている。女が手を突き出して、何やら呪文をブツブツ言うと、女の手
に、ワイドの炎よりもっと大きな炎がボッと燃え上がった。
「げっ!なんだそりゃ!」
「頭の悪い子にはお仕置きの時間よ」
 女は左手を腰に下がっている小袋の中に差し入れた。そしてしばらく中を探る。
「なんだってんだ、このワイドを焼き鳥にでもするってんのか?」
 少々怖気づきながらワイドがあとずさる。女の作り出した炎は彼の持つ炎よりも一回り大きな
ものだった。ワイドとて決して並みの実力者ではない。十分に強者になる部類である。しかし女
の炎は遥かにその域を越えていた。
「ふふっ、ワイド。お前は焼き鳥になるんじゃないの。お前には焼き鳥をあげるわ」
「ほえ?」
 あっけに取られたワイドを前に、女は腰の小袋から何やら肉の刺さった串を取り出した。
「ファイアー・ショット!」
 鋭く炎の一撃が肉串に飛ぶ。瞬間にそれはこんがりと焼き上がり、美味そうな香を放ちなが
ら、ワイドの目の前に落下する。
「おうっ、焼き鳥っ!」
 空腹の悲しさか、もしろくは単に意地汚いだけなのか。目の前に落下し、泥の上に落ちそうな
焼き鳥を、瞬時のところでワイドがダイビングキャッチで救い上げる。焼き鳥を救い上げた瞬
間精神力の持続が切れて、ふっと彼が持続されていた炎はワイドの右腕から消え去ってしま
う。ワイドのサラマンダーは支配を離れて、再度右手の印の中に姿を消す。
「ふふっ、やっぱり

お前は相変わらず焼き鳥好きね。でも、それが命取りになるって、何度も教えてあげたのに」
 女はまだ炎の燃え盛る右手を下に降ろすと、今度は左手を前に突き出した。はらりと女の袖
がめくれて、左手の甲が顕になる。そこには水の乙女ウンディーネの紋章が刻んであった。
「もげぇ?」
 ワイドは地面に腹ばいになって、焼き鳥を口一杯に頬張りながら、ことの次第を眺めていた。
そして次にはそんな馬鹿なとも思った。一つの生命に、二つ以上の精霊を憑依させることはで
きない。事実、高いレベルでの魔法を極めたワイドでも、扱える精霊は炎のモードだけである。
 女が左手を前にかかげると、その拳はたちまち青い水流に包まれた。ひんやりとした涼しさ
が拳に宿ってくる。
「ま!まさか!あんたオイラの…」
「問答無用!フリージング・キューブ!」
 女が手を強く突き出すと、その指先からキラキラした氷の破片が、水流と一緒になって、ワイ
ドの体を包み始める。
「わっ、サラマンダー、氷を溶かせ!」
 慌ててワイドが絶叫し、火の紋章を身体の前に突き出した。申し訳程度の小さな炎が手のひ
らから立ち上る。
「いまさら遅いっ!」
 女がゆっくりと左手を横にやると、彼女が羽織っている服の袖からも、キラキラと冷気が漏れ
はじめてワイドの全身を覆うように取り囲んだ。そしてその冷気は、四角い箱のような形にまと
まりはじめ、その内部で藻掻くワイドを次第に凍りづけにし始めていた。
「げ…さ…さむ…い…」
「終わりね」
 ふっ、と彼女は大きな息を継いだ。そして目の前には、何やら焼き鳥の串を頬張ったまま、も
がいて固まっているハーフエルフの男が、氷の箱に閉じこめられているのであった。

(続く)その1 やってきたアノ女へ