出だしのシリアスシーン
「これがバランヒルト皇太子アレクサンドルというのか?」
松明の明かりが薄暗い牢内を照らし出していた。鉱山の坑道に鉄格子をはめ込んだだけの
簡素な牢獄。その中で膝を抱えるようにして一人の少年がうずくまっている。牢の外から女は
それを見下ろしていた。緑色の軍服と長靴を身につけ、厳しいまなざしで女はそこに立ちつくし
ていた。女の長い耳がほのかな明かりの中に特徴的な影として浮かび上がっている。
「間違いありません、閣下」
側にいた副官らしきカーキ色の軍服の男が姿勢を正して敬礼の姿勢を取る。女は満足そう
に数度うなずいた。松明の明かりに映し出された女の横顔は、照明のせいにしてはやけに浅
黒く見える。
「これがアレクサンドルならば、今回の我々の作戦はすべて成功だ。皇帝ミハイルが行方不明
の今、皇太子を手中にしていれば、バランヒルトなど恐るるに足りん」
つり上がった、まるで虎狼のような鋭いまなざしに迫力のある笑みを浮かべ、女は舌先で唇
をぬらした。
「さすがは、レオリア共和国随一の将軍と呼ばれる閣下」
やや媚びたような口調で飛ぶ副官の追従にも、女は静かな笑いを唇に浮かべただけであっ
た。
「僕を…どうするの…なんで僕にこんなひどいことをするの…」
その時、今まで牢の床にうずくまっていた少年が顔を上げた。その顔は涙に濡れていた。年
の頃はまだ十一、一二という程度であろうか。未分化のままの幼い、しかし整った顔立ちが真
っ赤になってゆがんでいる。
「貴方は僕の大好きなウサギさんのようにお耳が長いのに…ひどいよ…どうしてこんなことを
…」
少年は鼻をすすると、訴えかけるような目つきで牢の外の軍人達を見上げた。閣下と呼ばれ
た女の方は長い、獣のような耳をしていた。その体つきも、普通の人間よりは幾分か細い。そ
して獣のような特徴的な目つきをしている。
ハーフエルフ。それは森の妖精であるエルフと人間の間に生まれる混血種族である。動物の
目つきと特徴的な長い耳を持ち、純血の妖精には及ばないものの、非常にゆっくりとした老化
速度を保つ。世界では絶対数の少ない希少種である。その特徴が明らかに女に見て取れる。
「黙れっ!」
一声叫ぶと、女は手にしていたサーベルで牢を強かに叩いた。ガツーンと金属が鳴る音がす
る。少年は涙目を閉じ、体を震わせて顔を伏せた。哀れな少年の嗚咽が響き始めた。
「私を獣扱いにするとは…この搾取と専制政治の権化め!こんなもので我々の革命が終わっ
たと思うな!私は全人生を費やしてもバランヒルトを征服してやるぞ!」
数度、女はサーベルでもって牢獄の檻を強打し続けた。まるで狂ったかのように見える瞳の
色がそこにあった。揺れ動く明かりに照らされて、女の褐色の皮膚が悪魔のように不気味に映
えていた。
「閣下、お気持ちをお鎮めください。まだ我々の作戦は終わっておりませぬ。閣下が今までの
辛いことを思い出されたのは解ります。ですが、どうぞお気を確かに…」
側に控えていた副官は物腰こそ低いが、丁寧に、しっかりと言葉を発した。その言葉を合図
にするようにして、数度息を継ぐと女は顔を上げた。
ハーフエルフという存在は、人間世界でも妖精世界でも歓迎されない。どこまでも中途半端
な、忌むべき混血児である。その絶対数は驚くほど少ないもので、たいていは好奇と関心、そ
して自分たちとはまったく違った生物として扱われるのである。人間の数倍にも及ぶ寿命と、純
正のエルフとは似ない、獣のような目がその忌避感をさらに増長させるのであろう。ほとんどの
ハーフエルフは成長過程で迫害を受け、成人後も辛い日々を過ごすのが常である。この女軍
人であるハーフエルフにもそのような過去が存在したのであろうか。
彼女の肌の色が褐色であることからも、その迫害の度合いか想像される。一口にエルフと言
っても、その種族は単一ではない。人間に友好的でなじみ深い種族から、仇なす敵対種族まで
様々である。その中でもっとも邪悪とされるものは、浅黒い肌と銀髪を持つ、ダークエルフと呼
ばれる種族である。
所々に黒髪の混じる銀髪に褐色の肌。彼女はどこかでダークエルフの面影が多く見て取れ
た。ならば、その前半生も想像をするに難くない。
「そうだった…まだ私にはするべきことがある」
大きく深呼吸をして、女は軍服の胸元を正した。シャツの襟を整え、ボタンを再度はめ直して
威儀を正し、彼女は副官に向き直った。
「はい、【虫眼鏡作戦】の技術者は既に招集してあります」
「鋳造技師のドワーフ達は確保できているだろうな?」
「五十人、間違いなく確保してあります。代表者五人が午後にも出頭する手はずとなっておりま
す」
「ならば、ますますこんなことで取り乱してなどおれん。私は一足先に行く。お前はもう少しこの
皇子から情報を聞き出せ」
女は踵を返した。カツン、カツンと小気味いい長靴の音が坑道の内部に響き渡る。完璧に訓
練された軍人の規律正しい歩き方だ。まっすぐに伸ばした背を向けて女は牢獄から足を遠ざ
ける。
「エスナ・デ・リ・ホーゲンドープ閣下とレオリア共和国に栄光あれ!」
去っていく上官を前に、副官は腕を高らかに上げて宣誓した。朗々とした声が坑道に響く。彼
もまた、訓練を受けた軍人の姿である。
レオリア共和国。それは、全ての者の絶対的平等を旗印に掲げた恐るべき共和国であっ
た。もっぱら王政によって支配されているこの世界では特異すぎる存在である。
この国の兵士は厳しい訓練と規律を保ち、大陸最強軍との威名を轟かせていた。未だに一
騎打ちが主流の騎士戦に代わって集団戦法を取り入れ、僅か十数年でまたたくまに世界の強
国に躍り出たのである。
「バランヒルトの皇子も、こうなってはただの子どもだな」
副官はあざ笑うように鼻をならすと、側の牢屋の内部でしゃがみ込んで泣き続けている少年
を見下ろした。このアルモラード大陸の中部全域を領土とするバランヒルト帝国。世界最大の
帝国と呼ばれる国家の後継者は、今や惨めに捕縛されてそこにしゃがみ込んでいる。
「ひどいよう…おうちに帰りたいよ…僕の大好きなウサギさんに会いたいよ…」
何の力もなく少年は膝を抱えて泣き続けていた。一月前、レオリア共和国は精鋭一千を持っ
て突如南下し、バランヒルト帝国の主要都市、鉱山町のシュトルガット市を急襲した。これに対
抗して皇帝ミハイルは一万の大軍と皇子を連れて迎撃したが破れ、その生死は未だ不明であ
る。
そして帝国の後継者である皇子アレクサンドルはこうして捕虜となり、戦いのゆく末は共和国
に有利に展開していた。君主とその後継者を同時に失った帝国にはもはや抵抗の意志は薄い
ように感じられる。このまま破竹の快進撃が始まるのだと、副官は未来の思いに捕らわれなが
ら少年を見下ろしていた。
「ん?」
その時、副官は己が目を疑った。何時の間に現れたのだろうか。牢屋の内側の壁に、一つ
の黒いシルクハットがおかれていたのである。
「おい、皇子さん、その帽子は何だ?」
今までとはうってかわってぶっきらぼうな態度で副官は皇子に呼びかける。多少、威勢を付
けるための空元気があったことは否定できない。
「し、しらないよ。いつのまにか出てきたんだ」
まったくこの事態を理解できないまま、少年は鼻をすすった。二人はしばらくその帽子に見入
っていた。縁の丸い、紳士が使うタイプのシルクハットである。かと思うと、突然それはひょんと
空間に跳ねた。誰の力も受けずに飛んだのである。
「ハット・フェイド!」
ふと、帽子から女の声がした。すると、牢屋の空間の一部が徐々に歪み始めた。陽炎のよう
にねじ曲がった鉄格子の風景。やがてそれは帽子を被った人型を形作り始めた。
「な、なんだ!」
思わず副官は腰のサーベルを抜きはなった。しかしその時は既に人型は完璧な実体となっ
てそこに現存していた。
「わぁ、ウサギさんだ」
少年はうれしさに顔を上げた。今まで泣いていた顔がまぶしいばかりの笑顔に代わってい
る。それに引き替え、副官である軍人の顔色には焦りと恐怖の色が浮かんでいた。
少年はそれをウサギと言ったが、それは部分で正解し、部分で間違えていた。実体化したも
のは若い女に見えていた。その耳は先ほどの女軍人と同じように長く尖っている。服装は黒
い、まるで水着のようなスーツを着ていた。足には網で出来たタイツを履いている。いわゆる、
バニーガールスタイルと呼ばれる類のものだ。
「あら、坊や。わたしはウサギじゃなくてハーフエルフよ。でも、坊やを連れ去っていく早さはウ
サギより早いのよ」
女は艶のある、澄んだ声で周囲を睥睨した。身長はかなり高い。普通の男よりやや高い長身
だ。
「僕を助けてくれるんだ?」
少年は立ち上がると女の側に駆け寄る。
「そうよ。疾風よりも早くわたしは坊やを連れ去っていくのよ。魔王でさえわたしの疾駆を止める
ことなどできないわ」
女の言葉は端から聞けばかなり恥ずかしい類のものであった。しかし、そのような言葉をサラ
リと口にしていた。女は躊躇なく少年を抱き起こした。十二歳ともなれば、少年といえどもそれ
なりの体つきにはなっている。しかしその体格を苦ともせず、この細身で長身の女は軽々と少
年を腕に治めた。
「く、くせ者!」
ようやく、正気を取り戻し、攻撃の意志をもった副官が斬りかかる。しかし、彼はまだ完全に
冷静さを取り戻してはいなかった。副官と女の間には鉄の檻が明確に存在している。横に斬り
つけた副官のサーベルは鉄格子に当たり、金属が悲鳴を上げた。
「あらあら、何やってんのかしら。そんなに抵抗しても無駄よ。この坊やはわたしがいただくわ。
エスナに伝えて頂戴。美少年の独り占めはよくないとね」
「な、なに、貴様、閣下と何か関係が…」
「後はエスナに聞いて頂戴」
表情をこわばらせ、鉄格子にしがみつくようにして迫る副官を視界の端で一瞥すると、女は
自分の頭に乗せたシルクハットを取って軽く傾けた。
「ハット・フェイド!」
現れた時とまったく同じワードを唱えると、腕に抱えた皇子と共に、女の姿は徐々に薄くなり
始めた。黒いボディスーツに網タイツが透けはじめ、牢獄の奥の風景が見えるようになる。幽
鬼のごとくに女の姿は散り始めた。
「待て!名を…名乗れ!」
「セイネ・カジネットと言ったら解ってもらえるわ。じゃあね、バイバイ」
面倒くさそうに女は右手を振った。左手は少年の胴体を回して掴んでいる。少年がうれしそう
に女に頬刷りするのが見えた。それが最後の風景として副官の脳裏に残った。
「き…消えた?」
それはほんの一瞬の早業であった。鍵のかかった牢の内部に現れ、鍵をはずすこともなく女
は消え失せた。現れた時と同じように、幻のように消えてしまった。
「ばかな…」
恐ろしい虚脱感を覚え、副官はがっくりと膝を付いた。しかし、彼はいつまでもそうしてはいな
かった。彼もさすがに鍛えられたレオリアの軍人である。次に自身が何をすべきかは悟ってい
る。
一つ、二つ、荒い呼吸を次いで、彼は自信の心の平静を取り戻した。そしてすぐに、上官であ
るエスナにこのことを報告せんがため、坑道の階段を駆け足に上っていった。
(続く)その1 旧友相対すのこと
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