第一章 ホワイトニクサー・オブ・リトルスノー
青年は悩んでいた。
路銀がもう残り少ない事か?
それは今に始まった事ではなく、村を旅立った次の日からずっとそうだった。
呑気に彼の前を鼻歌まじりで歩いている幼なじみの少女が、街道沿いに倒れていた男の子の身の上に号泣して気
前よく路銀の九割をあげてしまったあの日から。
では、地図をなくしてしまった事が?
そんなもの、村を出てくる時から忘れて持ってきていない。
それでは、ここがいったいどこなのかさっぱりわからない事が?
地図がない上に、頼みの方位磁石を落としてしまったのだ。理在位置なんてわかるはずがない。
はっきりと言おう。青年、ラニー・ガブスの悩みはそれら全てであった。
付け加えて言うなら、悩んでいるのが彼一人であって、旅の連れである少女、パメラ・ビブルは平気な顔をして旅を
楽しんでいる事が彼の頭痛をよりいっそうひどくしていた。
『なんでこんな時にあんなに楽しそうにしていられるんだ?こんな見渡すかぎり一面の草原、もし盗賊なんかに襲われ
ても、逃げも隠れもできないじゃないか』
ラニーとパメラの二人が歩いているのは、ちょっとした林や岩が点在するだけの、見渡すかぎりの草原であった。地
平線の彼方を見ても、青々と広がる空と悠々と流れる雲が見えるだけ。ピクニックや馬の早駆けをするには絶好の場
所である。
しかし、今のラニーには雄大な白然を楽しんでいる余裕などはなかった。
『早いことリトルスノーに入らないと日が暮れちまうよ。こんな場所で野宿なんて、僕はいいとしてもパメラはまずいよ。
ああ見えてもやっばり女の子なんだし…。もし夜中に盗賊か魔物に襲われたら、僕一人でなんかとても守れないよ。
やっぱり二人して無数の剣で串刺しにされて、魔物に頭からバリバリとかじられて、それから…』
「いやだーーー!」
「?」
後ろで頭をかかえながら一入で身悶えしているラニーを、パメラはきょとんと見つめる。
「何してんの、ラニー?」
何の悩みもなさそうな無邪気な顔で見つめてくるパメラを見て、ラニーはさらに頭をかかえた。
「何してんの?じゃないよ!今僕らがどういう状況に陥っているのか、パメラはわかってんの?!」
「迷ってるんでしょ」
ラニーの顎がカクンと落ちた。
「だって、街道の本筋と違う道に入って行ったからきっと道を間違えたんだなと思ったし、ラニーの事だから気づいてな
いなーと思ってたから、これはきっと迷うぞという結論に…」
「だったらなんで教えてくれなかったんだよ!!」
涙目になりながら詰め寄るラニーに、パメラは少し困った顔をする。
「ラニーったら真剣な顔でブツブツつぶやきながら歩いてたんだもん。考え事の邪魔しちゃ悪いかなーって思って…」
ラニーはズルズルと崩れ落ちると、地面にへたりこんでしまった。
『そうだよな。パメラは昔っからこうだったよな。変なところで親切心を出すんだよな』
ラニーは大きくため息をつくと、目の前で不思議そうに白分を見下ろしている少女を見やった。
くせのないこげ茶色の髪を背中の中程までのばし、白地に赤いラインの入った自前の旅装束を着たどこにでもいそ
うな村娘と付き合い始めたのは、もう十五年以上も昔になる。隣の家に越してきた夫婦の一人娘と偶然目が合ったあ
の日から…
『こういうのを惚れた弱みって言うのかな…』
ラニーはブルブルと頭を振ると、気を取り直して立ち上がった。
「とにかく、いそいでリトルスノーの街に向かわないと。モタモタしてたらあっという間に暗くなっちゃうわよ」
ラニーは腰のポーチに手を伸ばすと、中から懐中時計を取り出した。村を出る時にお爺さんから餞別にともらったも
のである。だいぶ年季が入ってはいるが、まだまだ現役である。
「もう二時か…日が暮れるまであと四時間か五時間ってとこかな…」
言いながらラニーは空を見つめた。幸い天気は良く雨も降りそうにない。太陽が完全に沈むまでなんとか明るさはも
つだろう。
「とにかく方向さえわかればいいんだ。あの時、街道の右側の道へ反れたような感じだったから、北側に歩いて行け
ば街道に戻れるはずなんだ…って、どうしたのパメラ?」
パメラがじっとラニーが手に持っている懐中時計を見つめている。
「方角…わかるよ」
「えっ?!」
パメラの言葉に、驚きの声を上げるラニー。
「い、今、方角がわかるって言わなかった?」
「うん、言ったよ。ちょっとその懐中時計貸してくれる」
ラニーから懐中時計を受け取ったパメラは、時計の真ん中にマッチ棒を立てると、時計を太陽の方向に向けて何か
を計り姶めた。
「うん。こっちが南だから、北はあっちの方角だね」
パメラは何の目標物もない平坦な草原を指差して言った。
「……?」
あっさりと言ってのけるパメラにラニーはしばし絶句した。
「さっ、早く行きましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよパメラ。本当にこっちが北であってるのかい?」
「何言ってるのラニー。あたしが信用できないって言うの?」
「そうじゃないけど。ただあんまり簡単に言うもんだから…それに、どうしてこっちが北だってわかったの?」
「ラニーったら、サンコンパスを知らないの?」
「さんこんぱす?」
ラニーにとって初めて聞く言葉であった。
「ほら、懐中時計の真ん中にマッチ棒が立ててあるでしょう。この棒の影を時計の短針にあわせると、この影と文字盤
の十二時の間の方向が南になるっていう法則があるのよ。南がわかったんだから、その反対は北よね。どう?簡単
でしょう」
再びあっさりと言ってのけるパメラに、ラニーはただただ感嘆の眼差しを向けるだけであった。
「ふえ〜。すごいねパメラ。よくそんな事知ってたね」
「あら、旅に出る者としてはこのくらい最低限の知識だと思うけど。ラニーもしっかり勉強しないといけないぞ」
「…はい」
真実をズビシと青われてしまい、思わず小さくなるラニー。やがて、パメラの指し示した方向に向かって歩いていた
二人の前に街道が現われた。
『シルヴィア街道』
商業都市エスペランサと神聖都市リトルスノーとを結ぶ、ゼルテニア大陸においても有数の大街道である。
「あははは、やっと戻ってこれたよ。これでリトルスノーに行ける」
やれやれといった感じでホッと一息ついている彼の肩をポンと叩くと、パメラは軽やかに駆け出した。
「ほーらラニー。モタモタしてると置いていくわよ」
「えー?!ちょっとくらい休んでいってもいいだろ?」
「だーめ。元はと言えばラニーがしっかり前見て歩いてなかったから道に迷ったのよ。遅れた分を取り戻すんだから、
しっかりあたしについてきなさい」
そう言いながら、パメラはどんどんと前に駆けていってしまう。
「はいはい、わかりましたよ。ついていけばいいんでしょ。まったく、お嬢様はわがままなんだから」
ブツブツ言いながらも、笑いながらついていくラニー。
−−−あれっ?そう言えばパメラも地図をもってなかったっけ?
ふと思いたったラニーはパメラの背負っているザックに目を向ける。ザックの結び口から丸められた羊皮紙の地図
が顔を見せている。

「パメラっ!それっ!何だよっ!地図あるじゃないかっ!」
大口を開けて驚くラニーにパメラは片目をつぶり舌を出しながら言った。
「あらっ?バレちやった」
神聖都市リトルスノーには、東から酉に向かって七木のストリートが中央にある領主の居城『ホワイトエルフ城』に向 かって伸びている。その中でも中央のメインストリートをはさんだ左右二本のストリートには、骨董品屋や古美術商、 四大魔法を取り扱った店などが所狭しと軒をつらねていた。元々、このリトルスノーの街は古代遺跡のあった上に造 られた街である。そのため、普通の武器や防具、生活用具などを扱う店よりも、こういった発掘品や埋蔵品を扱う店 のほうが圧倒的に多い。
−−−古代の英知を知りたいのなら、リトルスノーへ行け。
ゼルテニア大陸中の学識者たちや考古学者たちの格言である。
そして、このリトルスノーの英知の結集とも言える建物こそ、王立図書館
『知識の箱庭』であった。
重厚な大理石造りの建物の中には、医学、科学、歴史、魔法は元より、錬金術や古代王国の政務記録、果ては千
年前の武器屋の経理帳簿まで、およそ考えられるありとあらゆる記録が納められていた。
そして、この偉大なる建造物の門前で、今一人の男がゆっくりとだが確実にあの世への階段を昇ろうとしているの
を、今のところ誰も気づこうとはしていなかった。
「腹減った…」
遠退きそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、フォレスト・ゴルファウスは弱々しくつぶやいた。
やっかいになっていた傭兵団が解散したのがちょうど一週間前。戦に負けての解散だったので、報奨金などはもち
ろん出ていない。むしろこのリトルスノーまで逃げてこれたこと事体奇跡に近かったのだ。
負けた側の傭兵の末路なぞ、あわれを通り越して悲惨である。敗残兵狩りに追われ、身ぐるみ剥がされてそこらの
道端に裸で捨てられるのがオチだ。
死ぬ思いで一週間逃げ回り、やっとのことでこの街に辿り着いたが身なりはボロボロ、乞食同然であった。
とりあえす先立つものがなけれぱと思いほうぼうの店で仕事を探してみたが、薄汚れた見るからに怪しい男などどこ
も雇ってはくれなかった。
精も根も尽き果てたフォレストはユラユラと街中をさまよい続け、ついに『知識の箱庭』の門前で行き倒れとなってし
まったのである。
「ついてないな…わい…こんな所で死ぬんか…ユーナ…かんにんな・・」
彼の魂が天に召されようとしていたその時、ほっそりとした白い手が彼に向かって差し伸べられた。
「ああ…わいはついとる…最後に天使が迎えに来てくれた…わいは天国に行けるねんな…お
おきに…」
最後の力をふりしぽってその手を握るフォレスト。その手は幻にしては妙に暖かく存在感があった。
「はは…天使の手って、えらいあったかいねんな…」
「あの…」
フォレストの耳に、とまどった感じの女性の声が聞こえてきた。
「すみません…こんな公衆の面前で、大胆に手を握られても、わたし困るんですけど…大丈夫ですか?」
フォレストが顔を上げると、そこには髪を三つ編みにし、眼鏡をかけた女性が困った顔をしてしゃがみこんでいた。そ
の女性は少しオドオドしながら問いかけてくる。
「お腹…すいてるんですか?」
『知識の箱庭』の一階にある食堂に通されたフォレストの目の前には、ささやかな食事がすぐに運ばれてきていた。
「いやー、ほんまに助かったで。おおきにな、ねーちゃん」
お礼を言いながらも食べる事を止めないフォレストに向かって、女性はにこやかに微笑む。
「いえ、いいんですよ。あのまま図書館の門前でのたれ死にされても困りますから」
フォレストは思わず頬張っていたエビフラィを喉につまらせた。

「は・・はは・・綺麗な顔して、言うことはキツイなー」
「はい」
栗色のおさげ髪をいじりながら少しタレ目ぎみな目を閉じ、女性はニコニコと笑みを浮かべ続けている。
「あはっ、あはっ、あははははははははー!」
「クスクスクスクスクスクスクスクスツ」
二人の怪しげな笑いが部屋中にこだました。
「はあ、腹もいっぱいになったことやし…」
フォレストは女性に向き直ると持っていた食器を置いてテーブルに両手をつき、深々と頭を下げた。
「ほんまにありがとうございました。なんぞお礼をしたいとこやねんけど、見ての通りその場のメシ代にも事欠くような
無一文や。あると言ったらこの体だけです。なんぞ手伝える事があるんやったら、なんでも手伝いますさかい、遠慮の
う言うてください」
女性は胸の前で手を組み眉をひそめた。
「そんな、お礼をしてもらおうなんてつもりはなかったんですけど…そこまで言うなら、手伝ってもらいましようか」
フォレストはうれしそうにガバッと頭を上げた。
「おおきに!」
「…と、言うわけで、フォレストさんにはここにある蔵書の整理をお願いしたいんです」
「はああああ…」
目の前にそびえ立つ蔵書の山に、フォレストは思わず驚嘆の声を上げた。
「ごっついもんやなあ。語には聞いとったけど、『知識の箱庭』の未整理の蔵書がこないにあったとはなあ」
「あら?こんなの、まだまだほんの一部ですよ。奥のほうにこの十倍は積んであります」
あっけらかんとした顔で女性は答える。
地上三階建ての建物の中にある蔵書の数は約二十万冊。しかしこれは整理されている書籍の数であって、地下の
収蔵庫にはこれに匹敵する数の書籍が収められていると言われていた。
「よーもまあこんだけ資料をためこんだもんやなあ。あんたはこれを一人でずーっと整理しとったっちゆうんか?えー
と、チャリンコ?」
「チェリオです!さっきから何回間違ってるんですか」
「あっ、すんません」
この地下一階の資料倉庫に下りてくるまでに自己紹介をしあった二人だったが、フォレストは女惟の素性を聞いて仰
天した。
チェリオ・K・ラインカート
やや大振の眼鏡をかけたいかにも学生風の小柄な女性が、この王立図書館の館長であるらしい。おまけにこの図
書館にはチェリオ以外の係員が現在のところ誰もいないというのである。
「この図書館はね。正規の係員になるためにはある特殊な条件が必要なの。掃除や整理のアルバイトを雇ったりは
するんだけど、たまたま一週間前にみんなやめてしまったんです」
フォレストは警備の事についても聞いてみた。これほど大きな建物なのに入ってきた時から、警備員らしき者の影す
ら見なかったからである。
「それなら大丈夫。何か問題事が起こったら、すぐにゴーレムが動きだすから。えっ?どこにゴーレムがあるのかっ
て?そこら中にあるじゃないですか」
なんと、図書館のインテリアとして飾られている甲冑や石像すべてがゴーレムだと言うのである。
おまけに、図書館の敷地内全体にも、強力な呪術結界が施されているという。
−−−さすがは『知識の箱庭』や。ゼルテニアの頭脳の二つ名は伊達やないな。
フォレストは古めかしい資料倉庫をグルリと見渡した。
−−−アントニウス著の『星見の書』に『星霊と鉱石の関係』。スペクトラル博士の『四天精霊魔術の基礎研究』や
と?どれもこれも一冊ウン千リルはするような高級学術書やないか。
あまり書籍類に興味のないフォレストでも見たことや聞いた事のある本が無造作に置かれている。
「それじゃあ、お願いしますね。焦らずゆっくりとやってください。間違いがなければO・Kですから」
そう言い残すと、チエリオは一階へと戻って行った。
「ゆっくりと…な」
首をコキコキと鳴らすと、そばに積んである蔵書の束をグイッと一つかみ持ち上げた。
これだけで数万リルはするかもしれないが、フォレストには興味がなかった。
「ほんじゃ、ま、やろーか!」
フォレストが『知識の箱庭』で蔵書整理を始めたのとほぼ同時刻。
「やっと着いたよ…リトルスノー…」
疲れ切った顔でラニーがつぶやく。
パメラとラニーの二人はようやくリトルスノーに到着したのだ。
「すっごーい。こんな大きな街なんて初めてだわ。ねえねえ、ラニー。あの真ん中に見える白いおっきな建物いったい
なんだろうね」
「あれは領主のお城だよ。って言うか、パメラ、なんでそんなに元気なんだい?」
「ラニーったらあれくらいで疲れたなんて言うんじゃないでしょうね。そんなことじゃこれからの旅はキツいわよ」
「そんなもんかなあ。とりあえず宿を決めないとね。日ももう暮れかかってるし、文献探しは明日からにしようよ」
ラニーの言葉に、パメラは露骨に嫌そうな顔を見せる。
「えー、まだまだ明るいわよ。それにまだ露店めぐりもしてない!」
「何言ってんだよ。今の内から宿を取っておかないと、すぐにいっぱいになっちゃって泊まれなくなっちゃうよ。ただでさ
えこのリトルスノーは観光客の多い街なんだから」
「でも〜」
「ここまで来て野宿したいの?」
「ぶー、わかったわよ」
野宿と言う言葉を聞いて、パメラもしぶしぶラニーの言葉にしたがった。
「じゃあ行こうか。さしあたって安くて街の真ん中くらいにある宿を探そう」
太陽がその身を西の大地に横たえ始め、だんだんと薄暗くなってきた街のあちらこちらで都市ギルドの青い制服を
着た魔術師たちが街灯に魔術の燈を込めて廻っていた。
ポツポツと明かりを灯しだした街灯の並ぶストリートを二人は歩き始める。
「ねえ、ラニー」
「ん?」
「見つかるかな、この街で」
不安げな顔で語りかけてくるパメラの肩を、ラニーは軽く叩いた。
「大丈夫さ、ここならきっと見つかるよ」
ラニーの眼差しの向こうには、朱色の壁紙の中にうっすらと照らし出された『知織の箱庭』が浮かび止がっていた。
「パメラのお母さんの事が…きっと…」
(続く)第二章エンカウント・オブ・ガンナーへ